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white_robe_love_syndrome:scr00903

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[001]堺さんの具合は一進一退。

[002]良くなったなぁと思ったら

[003]微熱が出たり、

[004]具合が悪そうだと思ったら

[005]本人はそうでもないと言ったり。

[006]教科書通りにいかないのはわかってるけど、

[007]症状ひとつとっても

[008]いろいろ難しいなぁ……。

[009]あれ?

[010]返事がない。

[011]聞こえなかったのかな?

[012]【かおり】

[013]「堺さーん?

[014] 入りますよー?」

[015]堺さんの部屋に足を踏み入れると、

[016]真っ先に白いシーツを染める赤いものが目に入った。

[017]【かおり】

[018]「さ、堺さん!?」

[019]ベッドの上、堺さんは鼻を押さえている。

[020]【かおり】

[021]「鼻出血!!」

[022]駆け寄って、ベッドサイドの

[023]ティッシュペーパーを五枚くらい引き出して

[024]堺さんに持たせた。

[025]【かおり】

[026]「これで強く鼻を押さえてて!

[027] あと、タオル借りるね!」

[028]床頭台の上においてあったタオルを取って

[029]備え付けの洗面所で濡らした。

[030]【かおり】

[031]「これで鼻の付け根を冷やしてて」

[032]慌てて詰所に戻り、

[033]冷凍庫の中の保冷剤と、替えのシーツと

[034]回診車の上のオキシドールを持って

[035]堺さんの部屋に戻る。

[036]保冷剤で鼻根(びこん)を冷やしながら、

[037]さっきの濡れタオルで

[038]堺さんの汚れた手や顔を拭いて、

[039]血で汚れたシーツを取り替える。

[040]もちろん、オキシドールで

[041]堺さんのパジャマについた血痕を

[042]拭き取るのも忘れない。

[043]仕上げに、バイタル測定!

[044]【さゆり】

[045]「……前よりは

[046] マシになったんじゃないですか、手際」

[047]血圧をはかっていると、

[048]堺さんにそう言われた。

[049]【かおり】

[050]「え、そう……」

[051]【さゆり】

[052]「以前に比べれば、ですけど」

[053]うう、

[054]ダメ出しされちゃったよ。

[055]……ぬか喜びになっちゃった。

[056]無事にバイタル測定も終わって、

[057]主任さんへの報告も、看護記録も書き終えて、

[058]点滴も交換して。

[059]……少し時間があったので、

[060]食事量について話してみることにした。

[061]だって、堺さんの食事量は

[062]相変わらず少ないままだし。

[063]このままじゃ、点滴の量が増えるか、

[064]流動食になっちゃうよ……。

[065]でも、堺さんは

[066]不貞腐れたような顔で

[067]そっぽを向いている。

[068]【かおり】

[069]「だからね、

[070] 食事って大切だから……」

[071]【さゆり】

[072]「そんなこと

[073] あなたなんかに言われなくてもわかってる!」

[074]突然、堺さんが

[075]手元にあったプラスチックのコップを

[076]床に投げつけた。

[077]【さゆり】

[078]「食べたくないから食べないだけ!

[079] それ以上でもそれ以下でもないわ!」

[080]【かおり】

[081]「堺さん、落ち着いて……!」

[082]【さゆり】

[083]「何を食べても

[084] 美味しくないんだもん、

[085] 食べられるわけないじゃない!」

[086]【かおり】

[087]「でも、食べなきゃ

[088] 元気になれないよ?」

[089]【さゆり】

[090]「元気になんかならなくてもいい!」

[091]堺さんの言葉に、

[092]わたしはハッとした。

[093]それって、

[094]元気になりたくない、ってこと?

[095]【さゆり】

[096]「どうせわたしを待ってる人なんかいない!

[097] 帰る家だってない!

[098] 親はわたしがここを退院するのを望んでいない!」

[099]【さゆり】

[100]「これでわたしが元気になる意味が

[101] どこにあるっていうのよ!!」

[102]わたしは……何も言えなかった。

[103]堺さんの抱えている闇の――絶望の深さに、

[104]ただ、打ちのめされて、

[105]すごすごと病室から出るしかなくて……。

[106]わたし、やっぱり

[107]まだまだだなぁ。

[108]【なぎさ】

[109]「堺さんの言うこと、

[110] 気にしなくてもいいよ?

[111] 沢井はちゃんとやってるから……ね?」

[112]なぎさ先輩が慰めてくれる。

[113]でも……。

[114]【かおり】

[115]「…………」

[116]わたしが、もっとデキる看護師だったら、

[117]あんな風に堺さんを

[118]興奮させたりしなかったかもしれない。

[119]……元気になる意味がないなんて

[120]あんなかなしい言葉、

[121]堺さん自身に言わせずに済んだかもしれないのに。

[122]【はつみ】

[123]「……早くドナーが

[124] 見つかればいいんだけど……」

[125]主任さんが大きくため息をつくのが聞こえた。

[126]お風呂に入ろうとして、

[127]ふと携帯電話を見た。

[128]着信があったみたいで、

[129]ピコピコとランプが点滅している。

[130]見知らぬ番号。

[131]コールバックしようかどうしようか悩む。

[132]いたずら電話じゃないよね。

[133]あの件は……もう解決したんだよね?

[134]【かおり】

[135]「ほぎゃっ!?」

[136]思わず電話を取り落としてしまった……。

[137]だ、大丈夫だよね、

[138]出ても、無言電話だったりしないよね?

[139]【かおり】

[140]「も、もしもし……」

[141]【かおり】

[142]「……はい、はい。

[143] では、失礼します……」

[144]【かおり】

[145]「……すごい」

[146]思わず、感想が口に出た。

[147]電話の相手は、移植コーディネーターさん。

[148]とある患者さんのHLAと

[149]わたしのHLAが一致したんだって。

[150]それはつまり、わたしが

[151]骨髄ドナーに選ばれたっていうこと。

[152]この電話はその連絡の電話だった。

[153]電話がかかってくるまで、

[154]骨髄バンクに登録してたことも忘れてたの。

[155]相手は誰なんですか、って

[156]軽い気持ちで訊いてみたら、

[157]それは教えられないって言われちゃった。

[158]そう言われるのはわかってたことだけど、

[159]ちょっとガッカリ。

[160]あ、そういえば、骨髄提供時は、

[161]勤務を休まなきゃいけないんだっけ。

[162]主任さんに連絡しなきゃ!

[163]【はつみ】

[164]「はい、大塚です」

[165]【かおり】

[166]「あ、主任さんですか?

[167] わたし、沢井です!

[168] 実はですね……」

[169]一夜明けて、勤務先。

[170]見ず知らずの誰かさんのHLAの型と

[171]わたしのHLAの型が一致しても、

[172]世界は何も変わらない。

[173]【かおり】

[174]「おはようございまーす」

[175]【やすこ】

[176]「おお、来たか、沢井!

[177] ビッグニュースやで!」

[178]出勤した途端、

[179]山之内さんが駆け寄ってきた。

[180]【かおり】

[181]「それは……良いニュースですか?」

[182]【やすこ】

[183]「なんやの、沢井!

[184] 人がこんなに喜んどる顔見て

[185] わからんか!?」

[186]【かおり】

[187]「いっ、たー……ぁ!!」

[188]バシッと背中を叩かれた。

[189]んもう!

[190]バシバシ人を叩くのはやめてほしいんですけど!!

[191]……でも、それを面と向かって言えたら

[192]苦労はしないよね……うううっ。

[193]【なぎさ】

[194]「堺さんの骨髄提供者が見つかったんですって」

[195]【かおり】

[196]「へっ?」

[197]堺さんの……?

[198]【やすこ】

[199]「話の進み具合によっては、ドナーが辞退したり、

[200] お互いの体調次第でアカンくなる可能性もあるけど、

[201] このまますんなり進んでくれればええな!」

[202]【かおり】

[203]「そうですね!」

[204]みんな喜んでる。

[205]もちろん、わたしも嬉しい!

[206]これって偶然かな、

[207]うん、きっと偶然だよね!

[208]【かおり】

[209]「これで堺さん、移植へ一歩

[210] 近づいたんですよね!

[211] 堺さん、きっと治るんですよね!」

[212]【はつみ】

[213]「移植が最終的にどうなるにしても、堺さんには

[214] 少しでも体力をつけてもらわないと。 沢井さん、

[215] 具体的なケアプランは作成しているの?」

[216]ケアプラン?

[217]【かおり】

[218]「え……っと……、その……」

[219]う……、そんなの作ってない。

[220]今は堺さんの心を開いてもらうことに精一杯で、

[221]食事量アップのケアプランなんて

[222]頭の片隅にもなかったよ。

[223]【かおり】

[224]「すみません。

[225] まだ作ってません」

[226]【やすこ】

[227]「うわ、この新人、

[228] 言い訳ナシで開き直りよったわ」

[229]【はつみ】

[230]「……ま、そんなところでしょうね」

[231]うう……、反省……。

[232]【はつみ】

[233]「栄養摂取に関して言えば、点滴は最後の手段よ。

[234] 一番良いのは、口から食べ物を入れること。

[235] 沢井さん、覚えておきなさい」

[236]【かおり】

[237]「は、はい!」

[238]【はつみ】

[239]「咀嚼することで食べ物を細かく砕き、

[240] 消化酵素入りの唾液を混ぜ、胃腸に送る……たった

[241] それだけなのに、栄養吸収の効果は絶大なの」

[242]【はつみ】

[243]「カテーテルだ何だと医療技術は進歩したけれど、

[244] やっぱり人体が本来持っている機能を利用するのが

[245] 一番効率的なのよね」

[246]なるほど……人体の神秘というわけね。

[247]【はつみ】

[248]「それでも、どうしても食べないようなら、

[249] 極太のカテーテルを鼻から入れて、

[250] 流動食を流し込む、とでも脅しておいて」

[251]【かおり】

[252]「え!?」

[253]言葉の内容に驚いていると、

[254]主任さんがニッと笑った。

[255]……今の、冗談だったんだ。

[256]ホッとしつつも、

[257]主任さんでも冗談を言うんだなぁって

[258]ちょっと驚いた。

[259]というわけで、

[260]もう一度、食事指導にチャレンジ!

[261]【かおり】

[262]「せっかくドナーが決まったんだから、

[263] 体力つけないと! ね?」

[264]【さゆり】

[265]「……そのドナーの気が変わって、

[266] 途中で中止になる可能性だって

[267] なきにしもあらずじゃないですか」

[268]堺さんは何故か拗ねモード。

[269]ドナーが現れて嬉しいはずなのに、

[270]素直じゃないことを言うのは相変わらずだよね。

[271]【かおり】

[272]「万が一、途中で中止になったとしても、

[273] 体力さえついていれば、次のドナーが

[274] 現れるまで頑張れるでしょ?」

[275]【さゆり】

[276]「……前向きなんですね」

[277]うわ、これ、嫌味だよね?

[278]でも、へこまないもん!

[279]堺さんに何か食べてもらうことが

[280]第一なんだから、

[281]ここでわたしがへこんでいるヒマなんてない!

[282]【かおり】

[283]「そういうわけで、お食事、

[284] 全量摂取とまではいかなくても、

[285] 半分くらいは食べよう? ね?」

[286]【さゆり】

[287]「……食べたくない。

[288] だって美味しくないもん」

[289]幼い口調に、ちょっと胸がきゅっとする。

[290]きっと、これが本来の堺さんの口調。

[291]いつものツンツンギスギスした丁寧な口調は、

[292]きっと堺さんの強がりなのかも……。

[293]【かおり】

[294]「そっかぁ……、

[295] 美味しくないのかぁ……」

[296]美味しくないなら、

[297]食べられなくても仕方がないよね。

[298]ん?

[299]あれ、待てよ?

[300]そういえば、堺さんは以前、

[301]何を食べても美味しくないって言ってたよね。

[302]味覚障害なのか、

[303]メンタル的なものかはわからないけど、

[304]『美味しくないから食べられない』って。

[305]だったら、堺さんが美味しいと思う

[306]『好きな食べ物』なら、

[307]食べてくれるかもしれないよね?

[308]これって、ケアとしては

[309]アリなんじゃないかな!

[310]【かおり】

[311]「……じゃあ、

[312] 何なら食べられる?

[313] 何か食べたいもの、ある!?」

[314]そうだよね、

[315]まずは堺さんに食べたいって

[316]思ってもらうことが先決だよね!

[317]【かおり】

[318]「何でもいいから言ってみて!

[319] わたし、主任さんを説得して、

[320] 先生の許可をもらってくるから!」

[321]【さゆり】

[322]「…………」

[323]堺さんは何か考えるような様子で、

[324]少しうつむいた。

[325]【さゆり】

[326]「……ふわっふわのオムレット」

[327]【かおり】

[328]「オムレット?」

[329]耳慣れない単語を聞き返すと、

[330]こくりとうなずく堺さん。

[331]【さゆり】

[332]「小学生の時……

[333] 担任の先生が作ってくれた……」

[334]ぽつりぽつりと堺さんは話す。

[335]わたしは堺さんの話の邪魔をしないように

[336]黙って静かに耳を傾ける。

[337]【さゆり】

[338]「ホットケーキみたいなスポンジの生地に、

[339] 泡立てた生クリームと果物を挟んで……。

[340] ……美味しかったな、あれ……」

[341]夢を見るような表情。

[342]【さゆり】

[343]「……わたしはただ

[344] 先生が作ってくれるのを

[345] 見ていただけだったけれど……」

[346]きっと、小学校の先生との思い出は

[347]堺さんにとって大事な思い出なんだろうな。

[348]【さゆり】

[349]「ふわふわして、甘くて、美味しくて……」

[350]【さゆり】

[351]「先生ったら、自分の分まで

[352] 『冷蔵庫で冷やして、後で食べなさい』って

[353] 渡してくれたの」

[354]ふいに

[355]胸の奥がぎゅっと痛くなる。

[356]【さゆり】

[357]「わたしの母親は

[358] そういうことする人じゃなかったから、

[359] ああいうのを家で食べたのは初めてだった」

[360]【さゆり】

[361]「先生は『簡単なものでゴメンね』って言ってたけど、

[362] わたしにとっては

[363] 初めての手作りおやつだった……」

[364]フッと堺さんが

[365]泣きそうな顔をした。

[366]【さゆり】

[367]「その先生も、えこひいきだって言われて

[368] 他の保護者から叩かれた挙句、

[369] ある日、学校からいなくなってた……」

[370]言葉の端々から

[371]堺さんの孤独が伝わってくる気がした。

[372]以前、廊下で会っただけの、

[373]堺さんのお母さんを思い出す。

[374]病床の娘に

[375]絶縁状とも言える書類を突きつけて

[376]さっさと帰ってしまった、お母さん。

[377]堺さんの心はどれだけ傷ついたのだろう。

[378]堺さん本人は平気なフリをしていたけれど、

[379]平気なはず、ないよね……。

[380]本当は、泣いてしまいたかったに違いないのに……。

[381]【さゆり】

[382]「やめてください、苦しいです……」

[383]ハッと我に返ると、

[384]わたしは堺さんを抱きしめていた。

[385]【かおり】

[386]「ご、ごめん!

[387] いきなり抱きしめちゃって、ゴメンね!」

[388]慌てて身体を離す。

[389]【さゆり】

[390]「別に……いいです……」

[391]少し頬を染めて、

[392]わたしから視線を逸らす。

[393]いつもなら

[394]思いつく限りの罵詈雑言を浴びせられるのに、

[395]今日の堺さんは静かだよね。

[396]少しは心を開いてもらえたって思ってもいいのかな。

[397]【かおり】

[398]「えっと、オムレット、ね!

[399] 早速、主任さんにかけあってみる!」

[400]堺さんの細い手の上に

[401]自分の手を重ねた。

[402]わたしの手の甲には

[403]ボールペンで書かれたオムレットって文字。

[404]堺さんにも見えてるはず。

[405]【かおり】

[406]「すぐには無理かもだけど、

[407] 絶対、絶対、いつか絶対、近い内に

[408] わたしが作って持ってくるから!」

[409]【さゆり】

[410]「……はい……。

[411] 期待せずに、待ってます……」

[412]ふわりと、堺さんが微笑んでくれた。

[413]よーし!

[414]わたし、頑張らなくちゃ!!

[415]詰所に戻って

[416]すぐ主任さんを掴まえて、

[417]早速、相談した。

[418]主任さんは静かにわたしの話を聞いた後、

[419]大きく何度もうなずいてくれた。

[420]【はつみ】

[421]「……いいわね、それ。

[422] 堺さんには食事制限の指示は出ていないし、

[423] きっとOKが出るわよ」

[424]そう言いながら、右手は電話の受話器を取り上げ、

[425]外来のドクターに繋いでもらって、

[426]ちょっとしゃべっただけで、

[427]主任さんは電話を切った。

[428]【はつみ】

[429]「ドクターの了解は取れたわよ」

[430]【かおり】

[431]「ほへい?」

[432]は、早い!!

[433]【はつみ】

[434]「あなたが思うようにやりなさい。

[435] 責任はわたしが取ります」

[436]【かおり】

[437]「…………」

[438]唖然として、主任さんを見る。

[439]これって、OKってこと?

[440]…………。

[441]なんだか拍子抜けしちゃった……。

[442]……と、いうことは、

[443]今日の帰りにでも、

[444]早速、道具と材料を……と考えて、

[445]ハッと気づいた。

[446]わたし、お菓子なんて作ったこと、ないっ!

[447]【かおり】

[448]「……えと……」

[449]主任さんをチラッと見る。

[450]……うーん、ダメっぽい。

[451]汚部屋住人で、

[452]紅茶も飲めればいいと思っている主任さんが

[453]お菓子作りなんてするはずもないよね。

[454]はぁ……、

[455]誰か適任者、いないかなぁ……?

[456]【やすこ】

[457]「戻りましたー!

[458] さて、記録記録ー」

[459]山之内さんが戻ってきた。

[460]山之内さんなら、堺さんの元・担当だし、

[461]お部屋も片付いてるし、料理とか掃除とか、

[462]細々とした家事はちゃんとやってそうだし。

[463]うん、適任かも。

[464]……けれど。

[465]【やすこ】

[466]「あ?

[467] オムレット?」

[468]【やすこ】

[469]「知らんなぁ。

[470] そんなん、買うた方が早いし確実やん」

[471]ばっさり。

[472]ごもっともな意見です、山之内さん。

[473]でも、買ったものじゃなくて、

[474]手作りのオムレットを食べてもらいたいんです。

[475]【なぎさ】

[476]「戻りました、って

[477] ……どうかしたの?」

[478]【かおり】

[479]「なぎさ先輩〜!!」

[480]主任さんはお話にならない、

[481]山之内さんもダメ、

[482]最後の頼みの綱とばかりに

[483]なぎさ先輩に相談してみた。

[484]【なぎさ】

[485]「つまり、沢井は

[486] オムレットの作り方がわからないから、

[487] 手伝ってくれる人を探してるってわけね?」

[488]【かおり】

[489]「はい……」

[490]キラーン、と

[491]なぎさ先輩の目が光った。ような気がする。

[492]【なぎさ】

[493]「んっふっふ」

[494]なぎさ先輩が

[495]勝ち誇ったような表情で

[496]逸らした胸を叩いた。

[497]【なぎさ】

[498]「そういうことなら、このなぎさ先輩に任せなさい!

[499] あたし、料理も裁縫も、

[500] 家事全般は意外と得意なんだから!」

[501]【やすこ】

[502]「うわー、

[503] 自分で『意外』とか言うてるわ、この子!」

[504]【なぎさ】

[505]「ついでに、完成したオムレット、

[506] 綺麗にラッピングしてあげるわね!

[507] きっと喜んでもらえるわよ〜?」

[508]【やすこ】

[509]「よっ、この少女趣味!」

[510]【かおり】

[511]「ステキです、なぎさ先輩!!」

[512]山之内さんが茶々入れてるけど、無視。

[513]わたしは感激しながら

[514]なぎさ先輩の手をぎゅうっと強く握り締めた。

[515]善は急げ。

[516]昔の人は良いこと言った!

[517]帰りにコンビニで食材を購入して、

[518]わたしの部屋で調理開始!

[519]オムレット作りには

[520]トクベツな道具は何もいらないから、

[521]今あるものを使えばいいんだって。

[522]なぎさ先輩、頼りになるー!

[523]【かおり】

[524]「わたし、煮物とかカレーとか、

[525] そういうのしか作ったことないんですよね……」

[526]【なぎさ】

[527]「……煮物もカレーも、

[528] 同じカテゴリーだわね」

[529]作りながら、なぎさ先輩といろいろ話した。

[530]部屋で飲む時のような話じゃなくて、

[531]真面目な仕事の話。

[532]【なぎさ】

[533]「最近、沢井ってすごく頑張ってるでしょう?

[534] あたしも頑張らなきゃって思うのよ」

[535]前向きななぎさ先輩の発言。

[536]【なぎさ】

[537]「もう話したかもしれないけど、

[538] 実はね、あたし、外科に行きたかったの」

[539]しゃべりながら、

[540]なぎさ先輩は粉をふるい、卵を割り入れてる。

[541]【なぎさ】

[542]「だって、外科の方が

[543] てきぱきアレコレできて、

[544] カッコイイって思ってて……」

[545]【なぎさ】

[546]「ほら、内科って

[547] おじいちゃんおばあちゃんの茶飲み話のついでに、

[548] なーんてイメージがあるでしょう?」

[549]【なぎさ】

[550]「でも、沢井の頑張りを見てると、

[551] そういうのって違うかもって

[552] 思うようになってきたのよ」

[553]なぎさ先輩は粉と卵の入ったボウルに牛乳を入れて、

[554]手にした泡だて器で、一気に掻き混ぜ始めた。

[555]【なぎさ】

[556]「なんていうかね、

[557] がむしゃらに仕事に没頭することとか、

[558] 本気で仕事に向き合うこととか……」

[559]【なぎさ】

[560]「ここに来た当時は、東京から落ちてきたし、

[561] 配属されたのは希望の外科じゃないし、もうなんだか

[562] あたしの一生終わったかなって思ってたんだけど」

[563]すごい……なぎさ先輩、

[564]お菓子作りながらしゃべってる……。

[565]【なぎさ】

[566]「でも、そうじゃないのよね。

[567] あたし、仕事に本気出してなかっただけ……。

[568] ううん、理由つけて、仕事から逃げてただけなの」

[569]【なぎさ】

[570]「仕事にカッコイイも悪いもないのね。

[571] 本気にならないとわからないことがあるって

[572] 沢井見てて、わかったの」

[573]【なぎさ】

[574]「あたしね、沢井が羨ましかったの。

[575] 何でこの子は新人のくせして

[576] こんなにキラキラしてるんだろうって」

[577]【なぎさ】

[578]「あたしが去年、新人で入った時には、

[579] こんなにキラキラできてなかったよね、って」

[580]あ、どうやら混ぜ終わったみたい。

[581]【なぎさ】

[582]「それで、あたしもキラキラしたいって思ったの。

[583] 今更だってわかってたけど、沢井みたいになりたくて、

[584] どうしたらキラキラできるのかなって考えたの」

[585]今度はオイルを

[586]薄くフライパンに引いている。

[587]【なぎさ】

[588]「……それで初めて気がついたんだよね。

[589] あたし、沢井みたいに

[590] 真面目に仕事に向かい合ってない、って」

[591]フライパンを軽く熱して、

[592]タネを流し入れて……。

[593]あれ、全部流し入れるんじゃ

[594]ないんですね?

[595]【なぎさ】

[596]「汗水たらして、悩んで、考えて、時には泣いて、

[597] そんな風に仕事に向き合ってないから、

[598] あたしは沢井に追い抜かれるんだって」

[599]あ、ちょっとだけ火を弱くした。

[600]【なぎさ】

[601]「だからね、あたし、

[602] 沢井には感謝してもしきれないの」

[603]あ……、

[604]美味しそうないいにおいがする……。

[605]【かおり】

[606]「……感謝だなんて……」

[607]控えめに微笑んだなぎさ先輩が、

[608]フライパンから手を離して、

[609]わたしの手をぎゅっと握ってくれた。

[610]【なぎさ】

[611]「ありがとう、沢井。

[612] あたしに大事なことを気づかせてくれて」

[613]【かおり】

[614]「……そんなこと……」

[615]【なぎさ】

[616]「あたし、沢井のことが好きよ。

[617] 沢井は?

[618] 沢井はあたしのこと、好き?」

[619]【かおり】

[620]「なぎさ先輩……」

[621]【なぎさ】

[622]「仕事に向き合ってなくて、情けない先輩だけど、

[623] これから心を入れ替えて頑張るから、

[624] あたしのこと、変わらずに好きでいてくれる?」

[625]ふと、なぎさ先輩と夢の中の女の子が重なる。

[626]夢の中の女の子も、

[627]愛してほしいと訴えてたよね。

[628]けれど、あの子ほどの孤独は、

[629]目の前のなぎさ先輩からは感じない。

[630]なぎさ先輩の顔が近づいてくる。

[631]……あ、あれ……?

[632]キス……しちゃうの?

[633]わたし、キスしてもいいのかな?

[634]キスする

[635]キスしない

[636]唇にやわらかい感触。

[637]わ、わたし……なぎさ先輩と

[638]キスしちゃった……!!

[639]【なぎさ】

[640]「えへへ……」

[641]目の前には、頬を染めて、

[642]照れたような笑みを浮かべている

[643]なぎさ先輩がいる。

[644]【なぎさ】

[645]「沢井……。

[646] 一緒に、あたしと頑張ってくれる?」

[647]断る理由はない、よね。

[648]【かおり】

[649]「はい……」

[650]【なぎさ】

[651]「それにしても、

[652] いい香りがするわね……って、あれ!?

[653] もう生地部分ができてる!!」

[654]ほんの少しの勇気。

[655]少し背伸びして、

[656]なぎさ先輩の額にくちづけた。

[657]【なぎさ】

[658]「え……?」

[659]呆然とした顔のなぎさ先輩。

[660]わたしは後輩として

[661]精一杯の微笑みを浮かべてみせる。

[662]【かおり】

[663]「わたしも頑張ります。

[664] だから……、なぎさ先輩も頑張ってください」

[665]クスッとなぎさ先輩が笑った。

[666]一瞬、その顔が泣きそうにゆがんで、

[667]すぐに明るい笑顔になる。

[668]【なぎさ】

[669]「そう……そうね!

[670] ごめん、今の、忘れて?」

[671]【なぎさ】

[672]「それにしても、

[673] いい香りがするわね……って、あれ!?

[674] もうできてる!!」

[675]【かおり】

[676]「できてる、って、

[677] なぎさ先輩が作ってたんじゃないですか、

[678] 深い話をしながら」

[679]【なぎさ】

[680]「え!? ウソッ!?

[681] あたし、無意識に作っちゃった!?」

[682]無意識だったんですか、なぎさ先輩……。

[683]なぎさ先輩って、

[684]自分がデキない看護師って思ってるみたいだけど、

[685]実はものすごーくデキる人なんじゃないのかな。

[686]【なぎさ】

[687]「ま、まぁ、作り方は見てたからわかるよね、

[688] パンケーキ部分は、粉と卵と牛乳を混ぜて焼く、

[689] ただそれだけ!」

[690]【なぎさ】

[691]「フライパンに生地を入れすぎると

[692] パンケーキが分厚くなっちゃうし、

[693] 分厚い生地には火が通りにくいから要注意ね?」

[694]【なぎさ】

[695]「人それぞれの好みによるけど、

[696] パンケーキ部分を薄くすると

[697] クレープみたいになるのよ?」

[698]【なぎさ】

[699]「あとは生クリームを泡立てて……」

[700]なぎさ先輩はお菓子を作り慣れてるらしく、

[701]動作にまったく無駄がない。

[702]すごい。

[703]【なぎさ】

[704]「パンケーキの内側に

[705] 生クリームとフルーツを乗せて、

[706] 二つ折りにすればできあがり」

[707]は、はやい……。

[708]あっという間に、

[709]生クリームが泡立っちゃった……。

[710]【なぎさ】

[711]「できたものは、

[712] ラップで可愛く包んで、

[713] 食べるまで冷やしておけばいいの」

[714]【かおり】

[715]「なるほど……」

[716]でも、今回はほとんどなぎさ先輩が作ったから、

[717]なぎさ先輩が帰るまでに、

[718]もう一度しっかり、おさらいしておかなきゃ!

[719]【なぎさ】

[720]「取り敢えず、一枚だけ焼けた生地があるから、

[721] 一個だけ作って、味見してみない?」

[722]【かおり】

[723]「はい!」

[724]【かおり】

[725]「おはようございますっ!」

[726]元気いっぱい、詰所に入る。

[727]朝食後の病棟は

[728]いつもより少しざわめいていた。

[729]こんな病棟、

[730]夜勤明けでないと経験できないけど、

[731]今日はオムレットを堺さんに渡さなきゃいけないから、

[732]いつもより一時間半も早く出勤したの。

[733]【はつみ】

[734]「おはようございます、沢井さん。

[735] 今日はやけに早いのね」

[736]【かおり】

[737]「お、おはようございます!!

[738] って、主任さん、

[739] いつもこんな時間に来てるんですか!?」

[740]口元で笑っただけにとどめた主任さんは、

[741]わたしが提げている紙袋を見た。

[742]【はつみ】

[743]「早速、作って持ってきたのね。

[744] 有言実行、いいことだわ」

[745]【かおり】

[746]「えへ……」

[747]主任さんに褒められちゃった。

[748]【はつみ】

[749]「後で堺さんの感想を聞かせてちょうだい」

[750]【かおり】

[751]「はいっ!」

[752]病室に入ると、

[753]堺さんは怪訝そうな顔でわたしを見た。

[754]わたしを見て、

[755]盤面にヒビの入った時計を見て、

[756]そしてまた、わたしを見る。

[757]【さゆり】

[758]「今日はやけにお早い出勤なんですね。

[759] 残業だけじゃ足りなくて、

[760] 早めに来て仕事を始めるんですか?」

[761]嫌味を言われても、気にしないもんね!

[762]だって、きっと

[763]堺さんの表情、変わるだろうから!

[764]【かおり】

[765]「約束、守りに来たの!」

[766]堺さんに紙袋を渡す。

[767]不審そうに紙袋を受け取った堺さんは、

[768]中を覗くなり目を丸くして、

[769]泣きそうな顔になって……。

[770]次いで、

[771]怒っているような表情になった。

[772]泣きそうになったのを我慢してるから、

[773]こんな表情になったのかもね。

[774]【かおり】

[775]「さ、食べてみて?

[776] 口に合うかどうかわからないけど、

[777] 味見はしたから、不味くはないと思うの」

[778]【さゆり】

[779]「…………」

[780]震える手が、

[781]紙袋の中へと差し入れられる。

[782]取り出されたのは、

[783]なぎさ先輩にキレイにラッピングされたものじゃなくて、

[784]わたしがラッピングした、不格好すぎるオムレット。

[785]誤魔化すために張ったゾウさんのシールを剥がして、

[786]ラップフィルムを剥いて、

[787]堺さんがオムレットにそっと歯を立てた。

[788]その瞬間。

[789]スーッと、堺さんの頬を涙が伝う。

[790]【かおり】

[791]「お、美味しくなかった!?」

[792]慌てて堺さんの顔を覗き込む。

[793]【さゆり】

[794]「美味しくない……

[795] 美味しくなんかない……」

[796]ポロポロ泣く堺さん。

[797]【さゆり】

[798]「こんなの、美味しくなんか……」

[799]言いながら、

[800]大切なものに触れるような優しい手つきで、

[801]そっとオムレットを手のひらで包み込んでいる。

[802]素直じゃない、堺さん。

[803]でも、強がる言葉を、

[804]態度が、表情が、指先の動きや

[805]流れる涙が、堺さんの言葉を裏切っている。

[806]【かおり】

[807]「そっかぁ……ごめんね。

[808] でも、食べてくれて嬉しいよ」

[809]【さゆり】

[810]「…………」

[811]言葉にしてくれない本音。

[812]言えないのか、言わないのかはわからない。

[813]でも、無言の言葉から、

[814]堺さんの本心が伝わってくる。

[815]本音なんか口にしなくてもいいよ。

[816]わたしが堺さんの本当の気持ち、

[817]ちゃんと感じてあげるように努力するから。

[818]わたしは、丸椅子に腰掛けて、

[819]堺さんが涙ながらに食べている様子を

[820]ただ見守っていた。

[821]ひとつ食べ終わるのに、

[822]たっぷりと時間をかけて

[823]味わってくれていたのが嬉しい。

[824]【さゆり】

[825]「……ごちそうさまでした。

[826] 残りは冷凍庫に入れます」

[827]涙を拭きながら、

[828]恥ずかしそうに堺さんが頭を下げる。

[829]【かおり】

[830]「冷蔵庫じゃなくていいの?」

[831]【さゆり】

[832]「うん……。

[833] 冷凍庫に入れといた方が美味しいし……

[834] それに、保存がきくから」

[835]【かおり】

[836]「一度に全部食べちゃっても大丈夫だよ?

[837] なくなったらまた作ってあげる」

[838]キッと堺さんがわたしを睨んだ。

[839]【さゆり】

[840]「……それは

[841] わたしを太らせようって魂胆ですか?」

[842]涙で潤んだ目で睨まれても

[843]全然こわくないもんね!

[844]【かおり】

[845]「そうね。オムレットだけでなく、

[846] いろんなものをもりもり食べてくれるなら、

[847] わたし、何でもするよ」

[848]ニコッと笑うと、

[849]堺さんがプイッと顔を背けた。

[850]堺さんったら、首筋まで真っ赤になっている。

[851]【かおり】

[852]「じゃあ、わたし、申し送りがあるから行くね。

[853] と言っても、担当だから

[854] またすぐに来るんだけどね」

[855]立ち上がると、途端に

[856]すがるような眼差しを向けてきてくれる。

[857]餌付けじゃないけど、

[858]このオムレットが、わたしに心を開く

[859]きっかけになってくれていたらいいのにな。

[860]【さゆり】

[861]「…………」

[862]【かおり】

[863]「また、あとでね」

[864]部屋を出る間際に、小さな声が聞こえた。

[865]【さゆり】

[866]「……本当は美味しかったよ」

[867]【かおり】

[868]「…………」

[869]ドアを閉めて、

[870]何事もなかったかのように

[871]廊下を歩き出す。

[872]周囲に誰もいないのを確認して、

[873]その場に屈み込んだ。

[874]【かおり】

[875]「う……っ、っく……」

[876]申し送り開始まで、まだ時間がある。

[877]わたしは階段の踊り場で、

[878]気持ちが落ち着くまで、ちょっと泣いた。

[879]【はつみ】

[880]「……そう。

[881] 記録に書かれてないところで、

[882] そんなやりとりがあったの……」

[883]【かおり】

[884]「はい……、うぅ」

[885]勤務中、主任さんは忙しそうで

[886]報告できなかったので、

[887]仕事が終わってから、主任さんのお部屋で報告。

[888]堺さんに美味しかったって言われたのが

[889]本当に泣くほど嬉しくて、

[890]主任さんに報告しながら

[891]また涙がこみ上げてきちゃった。

[892]【はつみ】

[893]「美味しい、って言ってもらえて

[894] 良かったわね」

[895]ああ、主任さん。

[896]そんな優しいこと言われちゃうと……。

[897]【かおり】

[898]「はい……、ひっく、はい……」

[899]【はつみ】

[900]「あらあら、泣き虫さんね。

[901] ハニーミルクでも飲んで落ち着きなさい?」

[902]苦笑しながら、

[903]主任さんがレンジでチンした

[904]ハニーミルクを出してくれる。

[905]ふわりと漂う、はちみつの優しい香り。

[906]一口すすって、

[907]わたしは泣き笑いの顔になった。

[908]【かおり】

[909]「主任さん、これ、甘すぎです〜。

[910] はちみつ、入れすぎたんじゃないですか〜?」

[911]【はつみ】

[912]「泣いている子には

[913] これくらい甘い方がいいのよ」

[914]クスクスと笑い合う。

[915]【はつみ】

[916]「ほら、携帯電話が鳴っているわよ」

[917]【かおり】

[918]「あ……はい」

[919]【かおり】

[920]「はい……、

[921] あ、沢井はわたしです」

[922]声を聞いて思い出した!

[923]この人、移植コーディネーターさんだ!

[924]【かおり】

[925]「はい!

[926] ドナーになる意思は変わりません。

[927] 上司の許可も得ていますから、大丈夫です」

[928]いくつかの質問に答えて、

[929]電話を切った。

[930]【はつみ】

[931]「……いよいよなのね」

[932]【かおり】

[933]「はい、いよいよです」

[934]【かおり】

[935]「移植時期については、

[936] レシピエントの健康状態などを考慮して、

[937] 追って連絡が入るそうです」

[938]【はつみ】

[939]「そう。病棟に関しては

[940] わたしが責任を持ってバックアップするから、

[941] 時期が来たら、あなたは移植に専念しなさい」

[942]【かおり】

[943]「はいっ!」

[944]堺さんの転院が決まった。

[945]移植はうちの病院ではできないから、

[946]提携している大きな病院

[947]――帝都大学医学部付属病院に転院になる。

[948]それはわかってたことだけど……。

[949]さみしい。

[950]わたしのお菓子を食べてから

[951]堺さんには生に対する執着が出てきたみたいで、

[952]平均2だった食事量が

[953]平均6くらいにまでUPしていたの。

[954]わたしもオムレットなら作り慣れてきて、

[955]前の日の夜に軽く下ごしらえをして、

[956]こんな風に、朝早く起きて

[957]手早く作れるようになってきたのに。

[958]移植ドナーが見つかったことと、

[959]移植にまでこぎつけたことを喜ばなきゃいけないのに、

[960]……さみしいだなんて、わたし、ワガママだよね。

[961]【???】

[962]「おはようございます、

[963] かおりんさん!」

[964]ビクッとした。

[965]振り向くと、

[966]あみちゃんがニコッと笑った。

[967]ああ、こんなんじゃダメだ、

[968]勤務中なのに、わたし、注意力散漫!

[969]【あみ】

[970]「さゆりんから聞きましたよー!

[971] かおりんさん、さゆりんに手作りお菓子

[972] 作ってあげてるんですよね!」

[973]うわ、あみちゃんたら、耳が早いな。

[974]あみちゃんと堺さんは仲がいいから

[975]伝わるのは当たり前といえば当たり前なんだけど。

[976]【あみ】

[977]「いいなーいいなー!

[978] わたしもかおりんさんの手作りお菓子、

[979] 食べてみたいなー! なー!!」

[980]【かおり】

[981]「えっと……」

[982]ちょっと困っちゃう。

[983]ここは廊下で、

[984]他の患者さんが聞いたら、

[985]わたしが特定の患者さんをひいきしてるって

[986]思われちゃうかも……。

[987]それに、ここ、

[988]堺さんの部屋の前だし……。

[989]【さゆり】

[990]「…………」

[991]ドアから顔を出したのは、

[992]不機嫌そうな堺さん。

[993]【あみ】

[994]「あー、えっとー……。

[995] わたし、部屋に戻ってますねー」

[996]そそくさと退散する、あみちゃん。

[997]そりゃ、こんな不機嫌全開の顔で睨まれちゃったら、

[998]あみちゃんだって怖いよね。

[999]……わたしはだいぶ慣れてきたけど。

[1000]【かおり】

[1001]「おはよう、堺さん。

[1002] あと、転院も決まったんだよね、おめでとう!」

[1003]今日の分のオムレットを差し出しながら

[1004]ニコッと笑ってみた。

[1005]堺さんはむすっと機嫌悪そうなまま、

[1006]オムレットを受け取ってくれる。

[1007]この不機嫌な顔は、

[1008]もしかして、堺さんも転院するのが

[1009]さみしいって思ってくれてる……とか?

[1010]【さゆり】

[1011]「……これで、もう

[1012] 早起きする必要はなくなりますね、

[1013] 良かったですね」

[1014]【かおり】

[1015]「うーん、そうでもないよ」

[1016]【さゆり】

[1017]「は?」

[1018]【かおり】

[1019]「堺さんの移植が成功して、

[1020] いつここに戻ってきてもいいように、

[1021] レパートリーを増やさなきゃだもん!」

[1022]【さゆり】

[1023]「…………」

[1024]あっけに取られた表情で

[1025]堺さんはわたしを見た。

[1026]あれ?

[1027]わたし、何か変なこと言った?

[1028]【かおり】

[1029]「あれ? 移植後は、免疫が回復するまで

[1030] 大学病院にいて、そこから完全寛解までは

[1031] ウチに戻って、療養するんだよね?」

[1032]【かおり】

[1033]「ずっと大学病院にいるわけじゃないんだよね?

[1034] ちゃんと戻ってくる、よね?」

[1035]堺さんは

[1036]一瞬、泣きそうな顔をして、

[1037]それから、ため息をついた。

[1038]【さゆり】

[1039]「……そうですね。

[1040] いつまでもバカの一つ覚えみたいに

[1041] オムレットばかりじゃ、わたしも飽きます」

[1042]【かおり】

[1043]「えー、飽きさせないように、

[1044] 中に入れるフルーツは

[1045] 毎回違うものにしてるのにー!」

[1046]ちょっと拗ねてみる。

[1047]途端に、気まずそうにするのが可愛い。

[1048]【さゆり】

[1049]「……こ、言葉のアヤです!

[1050] 真に受けないで、この単細胞!」

[1051]【かおり】

[1052]「へ?」

[1053]聞き返す前に、ドアが閉じられた。

[1054]要するに、

[1055]まだオムレットに飽きてない、って

[1056]受け取っていいのかな?

[1057]いいんだよね。

[1058]単細胞、って悪口は、

[1059]ただの照れ隠しなんだよね。

[1060]【かおり】

[1061]「うふ……、うふふ……っ」

[1062]笑いがこみ上げてくる。

[1063]うふふふふ!

[1064]詰所に行くのにも、

[1065]スキップなんかしちゃうもんね!

[1066]           あ……。

[1067]        また、あの夢……。

[1068]    目の前に現れた、

[1069]    子どもの頃のわたしによく似た女の子。

[1070]       不安そうな顔をして、

[1071]       わたしをじっと見ている。

[1072]         どうしたの?

[1073]      訊ねようとして、

[1074]      声が出ないことに気づいた。

[1075]      女の子は泣きそうな顔をした。

[1076]     涙をこらえた、さみしそうな顔で

[1077]     女の子が去っていく。

[1078]          待って!

[1079]          行かないで!

[1080]     遠くから近づいてくる音は……

[1081]     救急車のサイレンの音……?

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