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white_robe_love_syndrome:scr00854

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[001]屋上でなぎさ先輩に叩かれた日の夜、

[002]なぎさ先輩はわたしの部屋に戻ってきた。

[003]喜んだのは一瞬だけ。

[004]叩いてごめんね、と悲しそうに微笑んでから、

[005]わたしの目の前で退職届を書き始めた。

[006]自分で勧めておきながら、

[007]本当になぎさ先輩が辞めちゃうんだと思うと、

[008]ひどくショックを受けている自分がいる。

[009]【かおり】

[010]「み、水沢の、どこに配属されるのか

[011] もう決まってるんですか?」

[012]【なぎさ】

[013]「そういう話までは行ってないわよ。

[014] たぶん、実際に就職してからの話に

[015] なるんじゃないかしら」

[016]【かおり】

[017]「い、いきなり救急外来とかも……ある……?」

[018]【なぎさ】

[019]「さすがに経験ないから、それはないと思うけど。

[020] でも、できる限りのことはやってみるつもり。

[021] あたしに務まるかどうかわかんないんだけど……」

[022]【かおり】

[023]「そんなことないですよ!

[024] わたしのなぎさ先輩なら大丈夫!!」

[025]【かおり】

[026]「わたしの同級生も何人か就職してるみたいだし、

[027] いいスタッフが揃ってるって聞いてます」

[028]【かおり】

[029]「あっ、たしかその同級生のお母さんが

[030] 師長さんだってことも聞きました! 卒業式の

[031] 日に見かけたけど、優しそうな人でしたよ」

[032]【なぎさ】

[033]「……外科ナースの見た目の、『優しそう』ほど

[034] アテにならない言葉はないわよ?」

[035]【かおり】

[036]「そうなんですか?」

[037]【なぎさ】

[038]「いざ仕事!ってなれば、

[039] みんな、性格変わるんだから。

[040] 白衣は戦闘服なのよっ!!」

[041]なぎさ先輩は何だかふっ切れたようで、

[042]こうしてしゃべってる分には

[043]いつものなぎさ先輩と変わらない。

[044]わたしひとりだけが、同じところで足踏みしてる……。

[045]【はつみ】

[046]「沢井さん、ちょっと……」

[047]仕事中、主任さんに呼ばれた。

[048]……何かあったのかな?

[049]【はつみ】

[050]「外科の小林主任から聞いたのだけれど……

[051] 藤沢さん、退職を考えているそうね」

[052]【かおり】

[053]「はい。

[054] 条件の良い病院からお誘いが来たそうです」

[055]主任さんが微妙な顔をしている。

[056]そりゃそうだよね、

[057]なぎさ先輩は主任さんたち内科のスタッフが

[058]業務をこなしながら育てたようなものだから。

[059]【はつみ】

[060]「……立ち入ったことを訊ねるけれど……

[061] もし知っているのなら、

[062] どこの病院か教えてもらえないかしら」

[063]……隠す必要もない……かな。

[064]【かおり】

[065]「えと……、

[066] 水沢救命救急センターだそうです」

[067]【はつみ】

[068]「…………」

[069]【かおり】

[070]「わたしは、今回の転職話が

[071] なぎさ先輩の将来に有利に働くと考えて、

[072] なぎさ先輩の背中を押しました」

[073]【はつみ】

[074]「あなた……!」

[075]【かおり】

[076]「本当は百合ヶ浜に残っていて欲しい。

[077] でも……なぎさ先輩の将来を考えると、大きな病院で

[078] 腕を磨く方がいいんじゃないかって……」

[079]【はつみ】

[080]「たしかに、水沢以上に、

[081] 腕を磨くのに適した病院はないでしょうね」

[082]複雑な表情の主任さん。

[083]【はつみ】

[084]「でも……あなたはそれでいいの?」

[085]【かおり】

[086]「……いいんです。何年か後に、

[087] やっぱりあの時、行っておくべきだったって

[088] 後悔するなぎさ先輩を見たくありませんから」

[089]本当の気持ちを隠したまま、

[090]きっぱりと、そう言う。

[091]【はつみ】

[092]「そうかしら?

[093] それはあなたの考えで、

[094] 藤沢さんの考えではないわよね?」

[095]【かおり】

[096]「え?」

[097]【はつみ】

[098]「まぁいいわ。

[099] この話は内科には関係のない話ですものね。

[100] 仕事を中断させてごめんなさいね」

[101]今日は朝から、なぎさ先輩は出かけている。

[102]水沢救命の最寄り駅で、

[103]担当の人と待ち合わせをしてから、

[104]施設見学をしてくるらしい。

[105]今日はわたしもお休みだし、

[106]ついていきたかったけど、

[107]ここはぐっと堪えて、笑顔でなぎさ先輩を見送った。

[108]【かおり】

[109]「…………」

[110]部屋を見回す。

[111]わたしが百合ヶ浜に引っ越してきた時のままの、

[112]ダンボールだらけの部屋。

[113]いつの間にか、なぎさ先輩が持ち込んだ

[114]わたしのものではない『私物』が増えていて……。

[115]でも、もうすぐ、この部屋から、

[116]なぎさ先輩の私物がなくなってしまう――!!

[117]【かおり】

[118]「…………っ」

[119]泣いてはいけない。

[120]そう思うのに、涙が溢れてくる。

[121]帰ってきた!!

[122]慌てて玄関に迎えに行ったところ、

[123]帰ってきたなぎさ先輩は沈んだ顔をしてる。

[124]【なぎさ】

[125]「……た、ただいま……」

[126]【かおり】

[127]「どうしたんですか?

[128] 水沢の施設見学、行ってきたんですよね」

[129]【なぎさ】

[130]「う、うん、すごかったわよ!

[131] さすがは地域の救急を担ってるだけはあるわね!」

[132]何かあったんだろうか、

[133]無理に明るい声を出しているのが伝わってくる。

[134]そんななぎさ先輩の気遣いを無用にしたくなくて、

[135]わたしも空元気を振り絞って、笑顔を作る。

[136]【かおり】

[137]「で、ですよねー!

[138] なぎさ先輩の門出に相応しいっていうかー!!」

[139]【なぎさ】

[140]「よーし!

[141] じゃあ、あたし、

[142] 水沢の人気ナンバーワンナースになっちゃうぞ!」

[143]【かおり】

[144]「さっすが、わたしのなぎさ先輩!!

[145] ステキー、カッコイイー、キャー!!」

[146]ふたり、空元気。

[147]本当は泣きたい気分なのに、

[148]涙を隠して、笑わなきゃいけない。

[149]【かおり】

[150]「はれ? 誰か来た」

[151]なぎさ先輩に背中を向けて、

[152]突然の来客に対応した。

[153]【やすこ】

[154]「よぅ、邪魔すんでー?」

[155]【かおり】

[156]「ほえっ!?」

[157]【さゆり】

[158]「お邪魔します」

[159]【かおり】

[160]「はへぇ!?」

[161]【はつみ】

[162]「わたしは一応止めたんだけど……

[163] ごめんなさいね、この子達、

[164] 人の意見を聞かなくて……お邪魔します」

[165]ドヤドヤと、見慣れた人たちが、

[166]わたしの部屋に踏み込んできた。

[167]【やすこ】

[168]「藤沢、百合ヶ浜辞めて、

[169] 水沢救命救急センターに行くねんて?」

[170]【なぎさ】

[171]「や、山之内さん、

[172] その話、一体、どこから……!?」

[173]【はつみ】

[174]「あなたの上司の小林主任は

[175] わたしの後輩だということ忘れたの?」

[176]【はつみ】

[177]「目をかけていた部下から退職届なんか渡されて、

[178] 真っ青、アンド、涙目になって、

[179] わたしのところに駆け込んできたわ」

[180]【さゆり】

[181]「藤沢さんが水沢救急……はっ、何の冗談ですか?

[182] あの、ところで、ここって

[183] 来客にお茶も出さないんですか?」

[184]【かおり】

[185]「あ、ごめん」

[186]いつもの堺さん節に我に返って、

[187]慌ててお茶を準備する。

[188]【やすこ】

[189]「あっはっはー、

[190] お嬢は相変わらずやねー」

[191]【はつみ】

[192]「ああ、いいのよ、沢井さん、

[193] 気を遣わないで」

[194]【かおり】

[195]「いえ、そういうわけに……はぎょ!?」

[196]振り向いたわたしの目には、

[197]三人が持ち込んだであろうアルコール類と

[198]ジュースの山!!

[199]【やすこ】

[200]「ままま、ウシ沢!

[201] 今日はうちらのおごりや、飲め飲め飲め」

[202]【なぎさ】

[203]「えへへー!

[204] ただ酒ほど美味いものってないですよねー、

[205] あっはっはー」

[206]【さゆり】

[207]「みなさん楽しそうに飲んでるのに、

[208] わたしだけ禁酒だなんてやってられないわ……。

[209] ちょっとくらいいいじゃないですか」

[210]グチグチ言う堺さんの手には、

[211]チューハイの缶が……!!

[212]【かおり】

[213]「ちょっ!?

[214] 堺さん、まだ寛解して一年半ほどなのに……!!

[215] 油断しちゃダメだよぅ!」

[216]【さゆり】

[217]「ちょっとくらいいいじゃないですかーぁ!

[218] ハタチも過ぎて……、あ! 日頃の恨みですか!?

[219] わたしだけ仲間外れにしようって魂胆ですか!?」

[220]うわ、絡み酒……!!

[221]【さゆり】

[222]「ううっ、ひどい……ひどいです、沢井さん!!

[223] わたしだって、少しは歩み寄ろうって頑張ってるのに、

[224] 日頃の憂さ晴らしに仲間外れにするなんて!!」

[225]【かおり】

[226]「してない!

[227] してないよ、仲間外れになんて……!」

[228]【さゆり】

[229]「ひっく、う、ううっ!!

[230] こんなに美味しいのに、

[231] 沢井さんは飲んじゃダメだって……酷いッ!」

[232]……誰か助けて……。

[233]【はつみ】

[234]「うふふ、いいわよいいわよ、

[235] 何かあったらわたしが病院に連絡してあげるわ!!

[236] 点滴に利尿剤もちゃんと入れてあげるわよ〜!!」

[237]【さゆり】

[238]「ううう〜、

[239] わたしの気持ちをわかってくれるのは

[240] 主任さんだけですぅ〜」

[241]【はつみ】

[242]「うふふ、いいのよいいのよ、

[243] 今日は無礼講よ、遠慮せずに飲みなさい〜!

[244] 吐いても飲みなさい〜!」

[245]【なぎさ】

[246]「じゃあ、みんなでピヨピヨしましょう!

[247] レッツ・ピヨピヨ〜!」

[248]【やすこ】

[249]「あっちの巨乳熟女と貧乳ツンデレも目の保養やけど、

[250] ヘベレケ藤沢もおもろいわぁ!

[251] アカンて、こんなんひとりに絞られへん!!」

[252]【なぎさ】

[253]「ピヨピヨー!!

[254] ほら、みんなで一緒に!

[255] ピヨピヨ〜! ほら、かおりー!」

[256]【かおり】

[257]「……はうぅう……、カオスッ!!」

[258]結局、堺さんはあまり飲まない内に即行で酔い潰れ、

[259]なぎさ先輩も寝不足だったらしく、

[260]普段の半分も飲まない内に夢の中。

[261]目の前には、

[262]手酌でちまちまと日本酒を嗜んでいる山之内さんと、

[263]わたしが最初に用意した、冷めた紅茶を飲んでいる

[264]主任さんがいる。

[265]【はつみ】

[266]「やっぱり藤沢さんは迷っているようね?」

[267]【かおり】

[268]「…………」

[269]さすがに、そうですね、なんて

[270]肯定するわけにはいかない……よね。

[271]【はつみ】

[272]「彼女が本気で腕を磨きたいなら、

[273] 水沢救命救急センターに行くのもいいと思うわ。

[274] あちらの師長さんに手紙を書いてもいいくらい」

[275]【はつみ】

[276]「……でも、今の状態で行ったところで、

[277] 足手纏いにしかならないのではないかしら。

[278] 先方にも迷惑でしょうし」

[279]【やすこ】

[280]「あー、無駄や、無駄無駄無駄ァ!」

[281]【やすこ】

[282]「そもそも本人が明確な将来のビジョン描けとらんのに、

[283] 救命救急行ったかて、モノになるかい!

[284] 同僚の足引っ張って終わりや!」

[285]【かおり】

[286]「…………」

[287]主任さんや山之内さんの言うことにも

[288]一理あるかもしれない。

[289]でも、なぎさ先輩のためには、

[290]わたしはここで身を引いた方がいいんだと思う……。

[291]なぎさ先輩の退職の日がどんどん近づいてくる。

[292]もう来週だという時になっても、

[293]情けないわたしは、まだ少しも覚悟ができてない。

[294]外科病棟の雰囲気はわからないけど、

[295]何故か、内科病棟全体がピリピリしている。

[296]【はつみ】

[297]「加藤さんの転院サマリーは進んでいるの?

[298] もう来週なのよ?」

[299]【さゆり】

[300]「はい。沢井さんがなかなかチェックしてくれないので

[301] 止まってしまっていますが、

[302] サマリー自体は出来上がっています」

[303]【かおり】

[304]「ごごご、ごめん……」

[305]【さゆり】

[306]「ごめんで済んだらケーサツはいらないと、

[307] 何度言えば理解してくださるんでしょうね?

[308] はー、全然成長してないんですね、あなた」

[309]【かおり】

[310]「すすす、すみません……」

[311]【やすこ】

[312]「お嬢の毒舌も相変わらずやねんけど、個人的には、

[313] 口では謝っておきながら、全然堪えてへん

[314] 沢井のメンタルが強化されたことに拍手したいわ」

[315]……言いたいことはいろいろあったけど、

[316]ここは敢えてノーコメントを貫くことにした。

[317]部屋に帰ると、夜勤明けのなぎさ先輩がいた。

[318]沈んだ横顔。

[319]わたしを見ると、明るい笑顔を作ってくれるけど、

[320]その無理に作った笑顔を見る度に辛くなる。

[321]でも、辛いなんて言えない……。

[322]【かおり】

[323]「今日はどこにも行かなかったんですか?」

[324]【なぎさ】

[325]「う、うん……

[326] あたしの部屋の引越しの準備はしたけど……」

[327]【かおり】

[328]「…………」

[329]【なぎさ】

[330]「…………」

[331]こうして顔を見て、目と目を見交わして、

[332]言葉を交わすことができるのも、

[333]あともう少し……。

[334]帰宅すると、

[335]必ずなぎさ先輩がいるようになった。

[336]なぎさ先輩は残った有給を消化中。

[337]そして、いよいよ明日、

[338]なぎさ先輩が百合ヶ浜を去ることに――。

[339]【なぎさ】

[340]「今日で百合ヶ浜ともお別れか……」

[341]呟いたなぎさ先輩の背中に無言で抱きつく。

[342]【かおり】

[343]「…………」

[344]行かないで。

[345]そう言いたい、

[346]でも、言ってはいけない。

[347]【なぎさ】

[348]「……っく」

[349]なぎさ先輩が泣いている。

[350]回した腕に、そっと手が重ねられた。

[351]重なった手の上に、

[352]わたしの涙がぽたりと落ちる。

[353]【かおり】

[354]「……本当に、行っちゃうんですね……。

[355] ここから、いなくなっちゃうんですね」

[356]【なぎさ】

[357]「どうしよう……どうしたらいいのか、

[358] わかんなくなっちゃったよぅ……!」

[359]【かおり】

[360]「なぎさ先輩は行くべきです。

[361] もっと勉強して、腕を磨いて……」

[362]【なぎさ】

[363]「違うの……。

[364] 『ウチを逃げの理由にしないで』って、

[365] 水沢の人に断られちゃったのよぅ……!!」

[366]うわーん、とばかりに泣き出したなぎさ先輩の言葉に、

[367]一瞬、わたしの頭は真っ白になる。

[368]【かおり】

[369]「は?」

[370]予想外の言葉に、涙も引っ込んだ。

[371]【かおり】

[372]「断られた……ん、ですか……?」

[373]【なぎさ】

[374]「覚悟のない人間は要らないってバッサリよっ!!

[375] あたし、明日から無職よ、ニートなのよ!

[376] 住む所もなくて、どうしたらいいのよーっ!!」

[377]【かおり】

[378]「…………」

[379]なぎさ先輩の話によると、

[380]水沢の担当者の人と知り合ったのは、

[381]帝都で行われているセミナー。

[382]年が近いこともあって、意気投合して、

[383]うちにおいでよーという話になって、

[384]水沢に行けば色々な症例も見れるし、

[385]第一線だから腕も磨けると思ったのは本当らしい。

[386]だけど、

[387]水沢に行くなら、わたしと離れなきゃいけない。

[388]外科の小林主任さんだって、

[389]不慣れな職場で忙しい中、

[390]本当に良くしてくれている。

[391]恥を忍んで過去の暴力事件も話したけれど、

[392]そういうこともあるって受け入れてもらえた。

[393]でも、百合ヶ浜は小さな病院、

[394]看護師としての腕を磨くのは、

[395]正直、限界があるのは嫌というほどわかっている。

[396]そんな中、わたしに背中を押された……。

[397]【なぎさ】

[398]「それが突き放されたみたいで、

[399] かおりにはもうあたしの手なんか必要ないんだって、

[400] そう思うと辛かった……」

[401]わたしが淹れてあげたお茶を飲みながら、

[402]落ち着いた表情でなぎさ先輩が微笑んでいる。

[403]【なぎさ】

[404]「……で、担当者にそれを正直に話したわけよ。

[405] そしたら『それは逃げっていうんじゃないですか』。

[406] もう、一刀両断よ」

[407]水沢としては、

[408]「腕を磨くこと」が目的で、

[409]そのために「水沢に来る」というのなら大歓迎。

[410]でも、なぎさ先輩の場合は……。

[411]【なぎさ】

[412]「あたし『好きな人から逃げること』が目的で、

[413] 水沢に行くのが逃げるための手段になってたんだって

[414] 遅まきながらに気づいたの……」

[415]【なぎさ】

[416]「失礼な話よね、

[417] 先方さんが怒って当然だと思う」

[418]【なぎさ】

[419]「『痴話喧嘩に人の勤務先を巻き込まないで!』。

[420] ……そう叱られちゃった上に、

[421] 本当に好きなら向き合わないとって諭されたの」

[422]【なぎさ】

[423]「辛そうな顔でね、『好きな人から逃げちゃダメ。

[424] でないと、あたしのように後悔しますよ』なんて

[425] あたし、どんな顔したらいいのかわかんなかった」

[426]【なぎさ】

[427]「言われる言葉全てが、あんまりにも正論過ぎて、

[428] 就職の件も白紙撤回されて、

[429] すごすごと引き下がるしかなかったの」

[430]【なぎさ】

[431]「でも……でももう主任さんに退職届も出しちゃったし、

[432] 直前になって、今更、あれはナシになりましたー

[433] なんて言えないよぅ!!」

[434]うわーん、と、泣き出したなぎさ先輩が

[435]わたしに抱きついてきた。

[436]【かおり】

[437]「あ、謝りに行けばいいじゃないですか!

[438] 小林主任さんに、もう一度、働かせてください、

[439] 見捨てないでくださいって、お願いしましょう!」

[440]【なぎさ】

[441]「でもぉ……」

[442]【かおり】

[443]「わたしも一緒に頭を下げますから!!

[444] ね? そうしましょうよ!!」

[445]【なぎさ】

[446]「かおり……」

[447]【かおり】

[448]「それに、なぎさ先輩と離れちゃったら、

[449] きっとデートするだけでも苦労すると思うんです!」

[450]【かおり】

[451]「わたし、どんくさいから、忙しさにかまけて、

[452] 連絡取る間隔もだんだん伸びちゃいそうだし……」

[453]【なぎさ】

[454]「あたし自身、四年目って言っても、

[455] 外科の経験は二年ほどしかないし、他に行ったら、

[456] 新人扱いで、絶対、忙しくなるよね……」

[457]他の病院!?

[458]そんなの、絶対行かせないんだから!!

[459]【かおり】

[460]「そうですよ!

[461] ね、百合ヶ浜に残りましょう!?」

[462]なぎさ先輩が潤んだ目でわたしを見てる。

[463]よし、もう一押し!!

[464]【かおり】

[465]「あ、水沢の話で思い出したんですけど、

[466] 以前、水沢に同級生が何人か行ったこと、

[467] 話したじゃないですか」

[468]【かおり】

[469]「その中に、親友がいました。

[470] あの子の就職先も水沢でした。

[471] お母さんもお姉さんも水沢だし」

[472]【かおり】

[473]「卒業する時、その彼女と

[474] 一人前になったら再会しようって約束したのに、

[475] わたし、まだ会ってないんです」

[476]【かおり】

[477]「会いたい気持ちはあるし、今のわたしを見せて、

[478] 『どう、成長したでしょ!』って

[479] 言ってあげたい気持ちはあるんですけど」

[480]って、あれ、わたし、

[481]何言ってるんだろ……?

[482]そう思った途端、

[483]むぎゅっと鼻をつままれた。

[484]【なぎさ】

[485]「……ねぇ。

[486] それはあたしに嫉妬しろって言ってるの?」

[487]【かおり】

[488]「へみみみ……。

[489] 嫉妬してくれたら、

[490] 百合ヶ浜に残ってくれるかなーって」

[491]ぱっと、なぎさ先輩が

[492]わたしの鼻から手を離してくれた。

[493]【なぎさ】

[494]「もう……おバカなんだから……」

[495]ジンジンする鼻の先に、

[496]それから、唇に、

[497]優しいキスが下りてくる。

[498]【なぎさ】

[499]「そんなこと言われたら、

[500] プライドも何もかも捨てて、

[501] 百合ヶ浜に残りたいって思うじゃない」

[502]甘いキスの余韻に浸る暇もなく、

[503]わたしは勢いをつけて立ち上がった。

[504]【かおり】

[505]「じゃ、そうと決まれば、謝りに行きましょう?」

[506]【なぎさ】

[507]「え、でも、こんな時間、

[508] 病棟には夜勤さんしかいないはず……」

[509]【かおり】

[510]「病院に行くんじゃないです。

[511] 主任さんの部屋にいくんですよ」

[512]【なぎさ】

[513]「え、でも、あたし、

[514] 主任さんがどこに住んでるかなんて……」

[515]【かおり】

[516]「んもー、違いますってば!

[517] 内科の大塚はつみ主任の部屋ですよ!

[518] 大塚主任さんと外科主任さんってお友達でしょ?」

[519]【なぎさ】

[520]「あ、そっか」

[521]【はつみ】

[522]「……なるほど、話はわかりました。

[523] ちょっと待っていてくれるかしら?」

[524]主任さんがケータイを取り出して、

[525]ボタンを操作している。

[526]不安そうな顔で、

[527]なぎさ先輩が主任さんの部屋を見回している。

[528]そうだよね……、

[529]わたしも初めてこの部屋の惨状を見た時は、

[530]本当に色々と不安になったからなぁ。

[531]【はつみ】

[532]「……ああ、大塚です。こんな時間にごめんなさい。

[533] 藤沢さんが、来ているのよ、今……

[534] ええ、例の件で」

[535]【なぎさ】

[536]「…………」

[537]今にも泣きそうななぎさ先輩の顔を見て、

[538]主任さんは何故かニヤリと笑った。

[539]【はつみ】

[540]「ふふ、

[541] 賭けはわたしの勝ちね」

[542]【かおり】

[543]「ひゃいっ!?」

[544]【なぎさ】

[545]「賭け!?」

[546]【はつみ】

[547]「だから言ったでしょう、彼女は辞めないって。

[548] だったらいいじゃないの、それで」

[549]なぎさ先輩と顔を見合わせる。

[550]主任さんたちは、なぎさ先輩が辞めるかどうかで

[551]賭けをしてたってこと?

[552]だとしたら……

[553]主任さんたちって……不謹慎……!

[554]……でも、

[555]なぎさ先輩のことわかってるんだなぁ、

[556]さすが我が内科の大塚主任さん。

[557]【はつみ】

[558]「あなたの口から直接、話しなさい」

[559]ぬっと、なぎさ先輩の前に

[560]携帯電話が差し出された。

[561]【なぎさ】

[562]「は、はい……」

[563]震える手が電話を受け取る。

[564]【なぎさ】

[565]「あの……藤沢です……。

[566] 退職の件……本当に申し訳ありませんが、

[567] 撤回させてくださいませんか」

[568]【なぎさ】

[569]「……、……は?

[570] え……、そうだった……んですね……。

[571] えと……、はい、じゃあそれで!!」

[572]声が、表情が、

[573]だんだん元気になってゆく。

[574]【なぎさ】

[575]「はい!

[576] じゃあ、そういうわけで失礼します!!

[577] また明日!!」

[578]【かおり】

[579]「なぎさ先輩……?」

[580]振り向いたなぎさ先輩は、

[581]満面の笑顔に涙を浮かべて、

[582]わたしに抱きついてきた。

[583]【かおり】

[584]「ほわっ!?」

[585]【なぎさ】

[586]「あたし、辞めなくてもいいみたい!」

[587]抱きつかれた勢いで、どすんと壁にぶつかる。

[588]あああ、

[589]足元に積んであった本のタワーが……。

[590]【なぎさ】

[591]「大塚主任からの情報もあって、

[592] 退職の事務手続きは保留にしてあったんだって!!」

[593]どうでもいいけど、

[594]崩れた本の硬い角が当たって足が痛い……んだけど、

[595]言えるような雰囲気じゃない、よね。

[596]【なぎさ】

[597]「他の外科メンバーにも言ってないから、

[598] あたしが退職するって話、

[599] 内科のメンバーしか知らないんだって!!」

[600]【はつみ】

[601]「看護師は『今日で辞めます』とか、朝、電話で

[602] 『もう出勤しません』って言う子もいるから、

[603] 藤沢さんは律儀なのねって笑ってたわよ」

[604]【かおり】

[605]「……ほえー……」

[606]【なぎさ】

[607]「それでね、『勤務表作成の都合があるから、

[608] 明日中に公休希望を出さないと、いつものように

[609] 勝手にこっちで決めてしまいますよ』って……」

[610]【かおり】

[611]「じゃ、じゃあ、なぎさ先輩、

[612] 本当に百合ヶ浜から出て行かなくても

[613] いいんですね……!」

[614]【なぎさ】

[615]「うん、うん!

[616] かおりのお陰よ、ありがとう!!」

[617]じわじわと嬉しさが込み上げてくる。

[618]【かおり】

[619]「なぎさ先輩……、

[620] う、うわーん!」

[621]なぎさ先輩に抱きつかれたまま、

[622]ひしっとなぎさ先輩に抱きつき返す。

[623]【なぎさ】

[624]「や、やぁねぇ、

[625] 何で泣くのよ、このおバカぁ!!」

[626]【かおり】

[627]「なぎさ先輩だって泣いてるじゃないですかぁ!」

[628]主任さんの散らかった部屋で、

[629]わたしとなぎさ先輩は抱き合ったまま、

[630]しばらく泣いていた。

[631]【はつみ】

[632]「大団円で解決して、おめでたくて良いことだけれど、

[633] ここから先は場所を替えてもらっていいかしら?

[634] わたし、そろそろ休みたいのだけれど……」

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