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[001]堺さんが入職して、3日経った。

[002]今日も一通りおむつ交換や点滴、

[003]各患者さんのケアも終わって、

[004]昼食前に記録を書いている。

[005]堺さんは想像以上に手際が良くて、

[006]こんな時間に記録を書くことができてるなんて、

[007]わたしが入職以来、初めてかも!

[008]【さゆり】

[009]「……そういえば、

[010] 沢井さんの元プリセプターの人ですが」

[011]誰もいないのに、ちょっと小声になっているのは、

[012]誰にも聞かれたくない話だからかな?

[013]だから、こんな遠回しな言い方をしてるのかも。

[014]【かおり】

[015]「ほえ?

[016] なぎさ先輩のこと?」

[017]堺さんが頷く。

[018]【さゆり】

[019]「昨日なんですが、あの人、

[020] 神庫駅前のケーキ屋さんで、

[021] この病院の人じゃない人といるのを見ました」

[022]【かおり】

[023]「……えっと……」

[024]不穏な話だなぁ。

[025]……わたしとなぎさ先輩との仲を裂きたいの?

[026]なーんて思っちゃうけど、考えすぎだよね。

[027]堺さんの本意はわからないけど、

[028]昨日、なぎさ先輩は「一緒に食べよう」って

[029]神庫で評判のケーキ屋さんのお土産を

[030]持って帰ってきてくれたし。

[031]もしなぎさ先輩が浮気したんだとしても、

[032]そんな証拠になるようなものを

[033]買ってくるようなタイプには思えないし……。

[034]コソコソする時は、

[035]思いっきり『証拠を残さず、痕跡すら消して』って

[036]タイプなんじゃないかな。

[037]【かおり】

[038]「そりゃ、なぎさ先輩にだって

[039] 付き合いってものがあるでしょう?」

[040]【かおり】

[041]「そもそも、地元じゃない看護学校出てるから、

[042] 観光がてらに神庫に来た同級生に

[043] 会ってたんじゃないのかな」

[044]【さゆり】

[045]「何だか顔を寄せて、すごく仲が良さげで……。

[046] 喩えて言うなら『密談』?

[047] ……怪しいです」

[048]【かおり】

[049]「密談するような仲、ねぇ。

[050] たしかに傍から見れば怪しいけど……」

[051]【さゆり】

[052]「……あ、あなたには世話になっているし、

[053] こ、こんなこと言いたくないけど……

[054] ……う、浮気……かも……」

[055]【かおり】

[056]「もし浮気なら、もうちょっと離れた場所でやらない?

[057] それに、傍から見て怪しいなんて思われるような

[058] 目立つ真似はしないかなぁ」

[059]【さゆり】

[060]「しないですか……」

[061]【かおり】

[062]「うん、しないよ。

[063] 少なくとも、わたしはしないし、

[064] きっとなぎさ先輩もしないよ」

[065]【さゆり】

[066]「そうですか。

[067] ……なら、安心です」

[068]安心したんだ……。

[069]それにしても、昨日のなぎさ先輩、

[070]ちょっと上機嫌だったなー。

[071]そういえば、

[072]この間も酔っ払って帰ってきたっけ……。

[073]何だろう、

[074]特に秘密にされてるような感じじゃないけど、

[075]こういうちょっとしたことでも何でも話して欲しいって

[076]思うのはワガママなのかな……。

[077]【さゆり】

[078]「あの……わたし、

[079] 余計なこと言いましたか?」

[080]はっと顔を上げると、

[081]心配そうな顔の堺さんがわたしをじっと見ている。

[082]【かおり】

[083]「あ、ううん、そうじゃないよ。

[084] わたしとなぎさ先輩はラブラブで、

[085] 堺さんの一言で揺らぐような仲じゃないから」

[086]【さゆり】

[087]「……そう言われると、

[088] 仲を引っ掻き回してやりたくなるのは

[089] どうしてだろう……」

[090]ふ、不穏な……!!

[091]【はつみ】

[092]「ああ、ふたりとも、ちょうど良かったわ。

[093] 加藤さんのシャント増設手術の日程が

[094] 外科と相談した結果、明日に決まりました」

[095]【はつみ】

[096]「明日は……沢井さんは夜勤なのね。

[097] 言わなくてもわかっていると思うけれど、

[098] オペ後の管理について、勉強しておいてください」

[099]【かおり】

[100]「え……?

[101] 術後だけ外科で管理、とかじゃないんですか?」

[102]【さゆり】

[103]「…………」

[104]堺さんが呆れた目で私を見ている。

[105]【はつみ】

[106]「片腕だけの、骨も弄らない表面だけのオペで、

[107] わざわざ外科にベッドを移動させるの?」

[108]はうっ!?

[109]ふたりからバカにされた視線を感じる!!

[110]【はつみ】

[111]「加藤さんのオペは、

[112] 外科の最後のオペ患の後になるから、

[113] もしかしたら夜勤帯にかかるかもしれません」

[114]【かおり】

[115]「…………」

[116]術後管理なんてやったことない……。

[117]どどど、どうしよう。

[118]クスッと主任さんが笑った。

[119]【はつみ】

[120]「何事もなければ、車椅子で戻ってくるし、

[121] そんなに怖がることはないわ」

[122]怖がることはないって言ったってぇえ!

[123]手術後の患者さんに関わるのなんて

[124]学生以来なんだもん、ビビリまくりだよぅ、

[125]なぎさ先輩、助けてー!!

[126]……と、なぎさ先輩に助けを求めても

[127]自分の成長にならないので、

[128]帰宅早々、シャント増設術の勉強をすることにした。

[129]【かおり】

[130]「加藤さんは右利きだから、

[131] 左手にシャントを作るのね……」

[132]【かおり】

[133]「シャントを作ったら、

[134] 絶対に左手を圧迫するようなことを

[135] しちゃいけない……」

[136]手術のことがピンとこない。

[137]要はシャント音に注意していればいいのかな。

[138]なぎさ先輩が帰ってきたら、

[139]術後ケアについて聞きたいのに、

[140]今日もなかなか帰ってこないし。

[141] 「何だか顔を寄せて、すごく仲が良さげで……。

[142]  喩えて言うなら『密談』?

[143]  ……怪しいです」

[144]【かおり】

[145]「…………」

[146]う……、

[147]何だか気持ちがモヤモヤしてきた……。

[148]あ、なぎさ先輩が帰ってきた!

[149]【かおり】

[150]「お帰りなさい!

[151] 実は明日、内科の患者さんが……」

[152]言いかけて、口を噤む。

[153]なぎさ先輩の表情が暗い……。

[154]【なぎさ】

[155]「あ、うん、ごめん。

[156] 今日はちょっといろいろあって、自分の部屋で

[157] 休むってこと言いに来ただけだから……」

[158]【かおり】

[159]「そうなんですか……。

[160] そうですよね、なぎさ先輩も忙しいですものね」

[161]【なぎさ】

[162]「ごめんね、

[163] そういうわけだから……」

[164]【かおり】

[165]「…………」

[166]患者さんの術後管理を聞けなかったことは残念だけど、

[167]……大丈夫かなぁ、なぎさ先輩……。

[168]ちょっと顔色も悪かったし……。

[169]【かおり】

[170]「お疲れ様でーす」

[171]【やすこ】

[172]「おう、お疲れ!

[173] いつもより、ちょい早い出勤やない?

[174] 気合、入りまくりやなぁ!」

[175]【かおり】

[176]「加藤さんのことが気になって……」

[177]今夜の夜勤の相方は山之内さん。

[178]夜勤の独り立ちをして軽く二年経ったけど、

[179]夜勤専従さんやバイトさんの誰よりも

[180]安心できる相方だと思う。

[181]わたしも、同じ夜勤に入る人に

[182]そう思ってもらえる看護師にならないと!!

[183]【はつみ】

[184]「加藤さんはさっき、オペ室に行ったところよ。

[185] ドクターの腕と加藤さんの血管次第だけど、

[186] もう少しかかるでしょうね」

[187]【かおり】

[188]「そうですか……」

[189]ふと、堺さんがぼんやりした様子で

[190]記録を読んでいるのに気がついた。

[191]【はつみ】

[192]「堺さん、申し送りの準備が済んでいるのなら、

[193] 夜勤さんも揃ったことだし、

[194] 申し送りを始めるけれど……」

[195]【さゆり】

[196]「それは大丈夫なんですが……。

[197] ……あの、加藤さんが帰ってくるまで、

[198] いさせて欲しいんですが……」

[199]【はつみ】

[200]「……沢井さんはどう?

[201] 堺さんがいたら邪魔かしら?」

[202]【かおり】

[203]「え……、

[204] 別に邪魔というわけでは……」

[205]泣きそうな堺さんの顔を見たら、

[206]邪魔だなんて言えない。

[207]わたしだって、新人の頃は

[208]いっぱい居残りしたんだもんね、

[209]そういう意味でも、堺さんにダメだなんて言えないよ。

[210]【かおり】

[211]「でも、あんまり帰るのが遅くなると、

[212] 明日の勤務に支障が出るんじゃ……?」

[213]【さゆり】

[214]「明日は休みですから」

[215]【かおり】

[216]「そっかぁ、じゃあ、わたしはいいけど、

[217] 山之内さんは……」

[218]【やすこ】

[219]「うちの方は問題ない。

[220] 邪魔やったら蹴っ飛ばすだけや」

[221]【かおり】

[222]「せっかく入った新人なんですから、

[223] 蹴っ飛ばすなんて可哀相だからダメです!」

[224]【やすこ】

[225]「おお、沢井が先輩らしいこと言うてる!!

[226] 成長したんやねぇ……ホロリ」

[227]山之内さんの茶々を無視して、

[228]堺さんに微笑みかける。

[229]【かおり】

[230]「納得できるまで残ってたらいいと思うよ。

[231] ただ、白衣だと、他の患者さんに

[232] 用事を言いつけられるかもしれないけど」

[233]無茶をできるのも新人の内だけだしね。

[234]わたしだって、堺さんの担当の間、

[235]寝ても覚めても堺さんのこと、

[236]どうすればいいかって考えたっけなぁ。

[237]【はつみ】

[238]「そうね。

[239] 申し送りの後、一旦、更衣室で私服に着替えてから

[240] 好きなだけ、居残りをすればいいわ」

[241]【さゆり】

[242]「はい、ありがとうございます」

[243]夕食の配膳が終わる頃、

[244]加藤さんが戻ってきた。

[245]少し時間がかかったようだけど、

[246]手術自体は成功したらしい。

[247]後は、術後の管理……!

[248]責任重大、頑張らないと!

[249]バイタル測定をして、

[250]シャント音を確認して、

[251]食事介助に走り回って、やっと下膳。

[252]ちらりと301を覗いたら、

[253]堺さんが加藤さんの手を握っていた。

[254]【さゆり】

[255]「このシャント、本当に大事にしてくださいね。

[256] 加藤さんにとっての命綱なんですから」

[257]堺さんは泣いていた。

[258]【加藤】

[259]「男か女かわからんけど、

[260] 孫が成人する時までは頑張ろうと思ってるんだよ、

[261] 今度こそね」

[262]【さゆり】

[263]「ダメです。

[264] お孫さんが結婚して、子どもが生まれても……」

[265]泣いてしまって言葉になってない。

[266]【加藤】

[267]「いや、普通の人でも

[268] ひ孫を抱くのは難しいんじゃないかな」

[269]【さゆり】

[270]「弱気はダメってことです!

[271] それくらいわかってください!」

[272]【加藤】

[273]「……堺さんは相変わらずだなぁ、

[274] ひとりの患者にそんなに入れ込んでちゃ、

[275] 身体が保たないよ?」

[276]【さゆり】

[277]「わたしはそんなヤワじゃありません」

[278]足音を立てないように気をつけて、

[279]そっと部屋を出た。

[280]堺さんの気持ちもわかるし、

[281]加藤さんの言うこともわかる。

[282]仕事内容と自分の思いとに折り合いをつけながら、

[283]自分の看護のスタンスを見つけるようになるのだろう、

[284]わたしのように。

[285]頑張れ。

[286]堺さん、頑張れ。

[287]心の中で、こっそりエールを送って、

[288]その場を後にした。

[289]結局、堺さんは、

[290]加藤さんの奥さんがお店を上がって、

[291]病室にやってくる夜中まで、

[292]ずっとついていた。

[293]小料理屋をやってる奥さんとちょっとだけ話して、

[294]泣き出した奥さんを慰めている間に、

[295]気がついたら、堺さんはいなくなっていた。

[296]そして、

[297]夜勤は特にイベントもなく、無事に朝を迎えた。

[298]夜勤明け、ひとりの部屋に戻る。

[299]温もりのない部屋。

[300]なぎさ先輩から貰った外科のシフト表を見ると、

[301]なぎさ先輩は今日は日勤らしい。

[302]【かおり】

[303]「今日は帰ってきてくれるかな……」

[304]そんなことを考えながら、

[305]なぎさ先輩が帰ってきたら

[306]一緒に買い物にでも行こうと考えて、

[307]私服のままベッドに入る。

[308]いつの間にか眠っていたらしい。

[309]部屋に人の気配を感じる。

[310]というか、寝ている顔に

[311]誰かの視線を感じる。

[312]なぎさ先輩……?

[313]ふわりと、部屋の空気が動いた。

[314]【かおり】

[315]「なぎさ先輩っ!?」

[316]間違いない、

[317]今、たしかにここにいて、

[318]なぎさ先輩はわたしを見つめていた!!

[319]慌てて後を追う。

[320]エレベーター前に着くと、

[321]エレベーターがゆっくりと下へと

[322]降りてゆくところだった。

[323]そのまま、階段を駆け下りる。

[324]降りてきて、自分がドすっぴんだと気付いた。

[325]けど、今更、引き返すわけにはいかない。

[326]元気のなかった一昨日の夜、

[327]なぎさ先輩はきっと何か悩んでいたんだろう。

[328]さっきも、ずっとわたしの寝顔を見ていた。

[329]何かあった……何があったの!?

[330]すっと向こうを、見慣れた背中が歩いている。

[331]声をかけようとして、

[332]ふと、躊躇いの気持ちが生まれた。

[333]つかず離れずで、その背中を尾行する。

[334]――そして、やってきたのは――。

[335]駅前にある、少し寂れた喫茶店。

[336]こっそり隠れて、なぎさ先輩を伺う。

[337]なぎさ先輩は、

[338]普段は滅多に飲まないコーヒーを頼んでおきながら、

[339]口もつけずにじっとその黒い水面を見つめている。

[340]誰かが入ってきて、

[341]わたしの背後を通って、

[342]なぎさ先輩の前の席に座った。

[343]顔を上げたなぎさ先輩が

[344]にこっと笑顔を浮かべて何やら挨拶をしている。

[345]ううっ、

[346]あの笑顔はわたしだけのものなのに……!!

[347]後ろ姿からじゃよくわからないけど、

[348]男の子みたいなベリーショートの髪型の割には、

[349]すらりとした腰が女性らしくくびれていて、

[350]大人っぽさが感じられる。

[351]堺さんが言っていたように、

[352]ふたりは何やら顔を寄せて『密談』を始めた。

[353]【かおり】

[354]「……ここからじゃ何も聞こえない……」

[355]どうやら、やってきた人は

[356]なぎさ先輩とかなり親密な仲らしい。

[357]なぎさ先輩が、ふと切なそうな顔で俯いた。

[358]【かおり】

[359]「…………」

[360]その顔を見て、わたしは後悔した。

[361]……わたし、これじゃストーカーみたい。

[362]なぎさ先輩が何に悩んで

[363]あんなかなしい顔をしてるのかわからないけど、

[364]きっといつか話してくれるはず。

[365]それまで……待とう。

[366]ぬるくなった紅茶を飲み干して、

[367]わたしはそっと席を立った。

[368]昨日、衝撃の光景を目撃したせいで、

[369]朝から溜め息が止まらない……。

[370]【さゆり】

[371]「沢井さん、

[372] 詰所で溜め息を連発するの、やめてもらえませんか?

[373] 不幸が感染しそうです」

[374]【やすこ】

[375]「うは、相変わらずキッツイなぁ。

[376] つか、不幸って感染するもんなん?

[377] ウイルスか何か?」

[378]【さゆり】

[379]「ストレートに受け取らないでください。

[380] ものの喩えです。

[381] 言葉の綾ともいいます」

[382]【やすこ】

[383]「さすがお嬢、おれたちにできないクールな発言を

[384] 平然とやってのけるッ、

[385] そこにしびれる憧れるゥ!」

[386]【かおり】

[387]「…………」

[388]【さゆり】

[389]「ほら、また!」

[390]【かおり】

[391]「あへ、いや、

[392] 今のは山之内さんに対しての溜め息で……」

[393]【さゆり】

[394]「溜め息つくくらいなら、

[395] 気分転換に部屋回りでもしてきたらどうですか?」

[396]【かおり】

[397]「んー、そうするね……」

[398]あのキッツイ言い方が

[399]堺さんなりの気遣いだとわかるようになってきたから、

[400]その気持ちに甘えて、ゆっくりと立ち上がる。

[401]【はつみ】

[402]「これでは、

[403] どっちが先輩でどっちが後輩なんだか

[404] わからないわね」

[405]【やすこ】

[406]「普段はベテラン風を吹かせるいじめっ子な後輩も、

[407] 先輩に元気がない時には、気遣いを見せる。

[408] ……くぅ〜、そんな関係、めっさ萌えやわぁ!」

[409]……やっぱり

[410]山之内さんの言うことはほっとこう。

[411]あれから、しばらく、

[412]なぎさ先輩は部屋に帰ってこなかった。

[413]いや、たしかにここはわたしの部屋で、

[414]なぎさ先輩にもちゃんと部屋があるんだから、

[415]『帰ってくる』っていうのはちょっと変だけど。

[416]【かおり】

[417]「……なぎさ先輩……」

[418]何だかメールもしづらい。

[419]いくら送っても、なぎさ先輩から返信が来ないし、

[420]来ても当たり障りのない言葉だけだし。

[421]ふと、喫茶店で見かけた

[422]あの後ろ姿の人を思い出す。

[423]あの人、

[424]なぎさ先輩の学校の同級生の人なのかなぁ。

[425]なぎさ先輩と同じ外科の人なのかなぁ。

[426]三年目と四年目じゃ、差が出ちゃうよね、

[427]外科と内科とじゃ、どうしても話は合わないし。

[428]わたし、捨てられちゃうのかなぁ。

[429]考えれば考えるほど、

[430]マイナス思考にはまってゆく。

[431]こんな風に考えちゃダメだとわかってるのに、

[432]不安が止まらない……。

[433]【なぎさ】

[434]「かおり……?

[435] ……いないの?」

[436]【かおり】

[437]「な、なぎさ先輩?」

[438]廊下の明かりが一筋、入ってくる。

[439]【なぎさ】

[440]「やだー、電気くらいつけなさいよー!!

[441] もー!!」

[442]いつもの口調と共に、

[443]パッと照明を灯けられた。

[444]眩しい。

[445]眩しさに目を眇めながら見上げると、

[446]真剣な表情のなぎさ先輩が

[447]じっとわたしを見ていた。

[448]【なぎさ】

[449]「……あのね、かおり。

[450] 話があるの……いい?」

[451]向けられる真面目な表情に、

[452]逃げ出したくなる。

[453]……けど、逃げない。

[454]ここで逃げたって、

[455]どうにもならないっていうのがわかってるから。

[456]人生の分岐は、どこも同じようなもの。

[457]答えを先送りにして、悪化して、

[458]手の施しようのなくなった患者さんをたくさん見てきた。

[459]だから、

[460]わたしは逃げない。

[461]決心して頷いたわたしに、

[462]元気のない微笑みを浮かべて、

[463]なぎさ先輩はわたしの正面に座った。

[464]【なぎさ】

[465]「あのね……。

[466] ……あたしね……、

[467] 今、ヘッドハンティングされてるの」

[468]【かおり】

[469]「…………!!」

[470]【なぎさ】

[471]「先方はあたしがまだまだ未熟だってわかってて、

[472] でも、伸びしろがあるって認めてくれてるの」

[473]【なぎさ】

[474]「一緒に勉強しようって言ってくれて……

[475] それはすごく嬉しいし、

[476] ありがたいことだって思ってる」

[477]【なぎさ】

[478]「百合ヶ浜に不満はないの。

[479] 内科の大塚主任にはすごくお世話になったし、

[480] 外科の小林主任さんはすごくいい人だし」

[481]【なぎさ】

[482]「スタッフのみなさんもキツい人が多いけど、

[483] 悪気がないのもわかってるし、外科系ナースが

[484] 気も言葉も強くなるのはわかってるし」

[485]【なぎさ】

[486]「先方の病院はかなり大きくて、救命救急もやってて、

[487] 症例もたくさん見られるし、腕も磨けるし、

[488] もっともっと勉強できるの」

[489]【かおり】

[490]「救命救急もやってて、大きな病院って……」

[491]【なぎさ】

[492]「み、水沢……よ」

[493]なぎさ先輩の口が

[494]わたしでも知っている病院の名前を告げる。

[495]水沢救急救命センターといえば、

[496]地域の救急を担う、第一線病院。

[497]そんな病院からスカウトされるなんて、

[498]やっぱりなぎさ先輩はすごいんだなぁ……!

[499]【なぎさ】

[500]「でも……でも、

[501] その話を正式に受けてしまったら、

[502] あたし、この寮にいられなくなる……!」

[503]【かおり】

[504]「もしかして

[505] なぎさ先輩が元気なかったのって……」

[506]【なぎさ】

[507]「でも……もしあたしがここからいなくなったら、

[508] かおりも成長できるかもしれないよね。

[509] それに、あのこともあるし……」

[510]【かおり】

[511]「あのことって?」

[512]訊きながら、なぎさ先輩の表情を見て、

[513]不意に思い出す。

[514]昔、なぎさ先輩は、

[515]わたしに悪戯メールをして、

[516]怯えさせたことがあったっけ……。

[517]あれはわたしの中では昔話になったことだけど、

[518]もしかしたら、なぎさ先輩の中では

[519]痛みを伴った傷として、未だに治らずに

[520]ずっと残ってたのかもしれない。

[521]【なぎさ】

[522]「……うん、

[523] メールや電話の件も……ある」

[524]わたしの表情から心情を読んだのか、

[525]なぎさ先輩は何かを堪えるような、

[526]辛そうな顔をした。

[527]【なぎさ】

[528]「けど、それ以上に、情緒不安定になった挙句に

[529] 患者さんを殴っちゃったことがある、なんて、

[530] 恥ずかしくて先方に言えない」

[531]【かおり】

[532]「……あの事件は、後で主任さんから聞きました。

[533] わたしを階段から突き落とした患者さんの態度が

[534] 許せなくて、代わりに怒ってくれたんですよね」

[535]……あの日、主任さんに言われて

[536]一階の検査室から地下のレントゲン室へ行こうとして、

[537]誰かに背中を押されて、階段を落ちた。

[538]私の背中を押したのは、

[539]外科に入院していた患者さんで、

[540]まさか転げ落ちることはないだろうという

[541]ちょっとした悪戯心からだったという。

[542]あの時はわたしもナーバスになってたし、

[543]男性恐怖症も酷くなるし、

[544]頼ろうとしたなぎさ先輩にも冷たくされて、

[545]もうどうしたらいいのかわからなかった。

[546]けど、なぎさ先輩はわたしを見捨ててたわけじゃなくて、

[547]患者さんがわたしが階段を転がり落ちる様子を

[548]面白半分に見舞い客に話すのを聞いて、

[549]口論になった挙句、殴ってしまったのだという。

[550]人手が足りない、夜勤中の出来事。

[551]我に返ったなぎさ先輩は、

[552]「もう自分は看護師失格だ!」とばかりに

[553]屋上へ行った……。

[554]【なぎさ】

[555]「あたし、かおりと離れて、

[556] また不安定になるかもしれない!!

[557] どんな迷惑をかけちゃうか自分でもわかんない!」

[558]【かおり】

[559]「…………」

[560]【なぎさ】

[561]「高校の時、かおりが懐いてくれているのがわかってた。

[562] でも、あたしに甘えるだけじゃいけないと思って

[563] 無理に離れたの」

[564]【なぎさ】

[565]「でも、再会して、実際に依存してたのはあたしだった。

[566] かおりに頼って欲しくて、イタ電にイタメの挙句、

[567] 情緒不安定になって、患者さんを殴ったの……!」

[568]泣き出すなぎさ先輩。

[569]【かおり】

[570]「……単刀直入に訊きます。

[571] なぎさ先輩は……水沢救急救命センターに

[572] 行きたいんですか?」

[573]【なぎさ】

[574]「……わからない……。

[575] 行って、腕を磨きたい。

[576] けど、かおりと離れるのはヤだ」

[577]【かおり】

[578]「わたしだって……離れたくないです。

[579] でも……」

[580]深呼吸をする。

[581]昔はこんな時、おまじないをしていた。

[582]けれど、最近はおまじないをする暇もなくなったからか、

[583]効果もすっかり薄れてしまったような気がする。

[584]今だって……わたしはわたしのまま。

[585]現実との間に

[586]薄い膜が張ったような感覚は全然起こらない。

[587]だけど……

[588]これだけは言わなきゃ……わたし自身として。

[589]【かおり】

[590]「なぎさ先輩は行くべきだと思います」

[591]静かにそう言ったと同時に、

[592]なぎさ先輩がわたしに枕を投げつけてきた。

[593]【なぎさ】

[594]「……っ!!

[595] あたしの気持ちも知らないで!!

[596] かおりのバカァッ!!」

[597]【かおり】

[598]「……なぎさ先輩……」

[599]わたしだって、離れたくないです……。

[600]でも、そう言ってしまうと、

[601]なぎさ先輩は百合ヶ浜に

[602]この小さい病院に縛られてしまうじゃないですか。

[603]なぎさ先輩にはのびのびと働いて欲しい……、

[604]いつも笑って、思う通りに生きて、

[605]本当にやりたいと思ったことをやって欲しい……。

[606]――そう、

[607]わたしが憧れていたなぎさ先輩らしく。

[608]そう思うのは、間違いなんですか?

[609]わたしの気持ちは、

[610]間違っているんですか?

white_robe_love_syndrome/scr00852.txt · Last modified: 2013/06/01 22:49 (external edit)