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white_robe_love_syndrome:scr00753

Full text: 702 lines Place translations on the >s

[001]お昼、休憩室でお弁当を食べて

[002]詰所に出てきたら、

[003]堺さんがいつもよりむすっとした顔をしていた。

[004]【かおり】

[005]「ど、どうかしたの……?」

[006]堺さんには先にお昼に入ってもらったんだけど、

[007]もしかして、それが気に入らなかった……とか?

[008]プリセプターシップなんだから、

[009]昼食の時間も一緒に入るべきだったかも……。

[010]【さゆり】

[011]「都知さんからコールがあって対応したら、

[012] 『おまえじゃ話にならん!』と怒鳴られました。

[013] 理不尽です!!」

[014]あ、わたしに怒ってたわけじゃないのか、

[015]不謹慎だけど、ちょっとだけ、ホッ。

[016]【かおり】

[017]「あー、都知さん、

[018] 今はまた大日本帝国の軍人さんなんだねー」

[019]ということは、

[020]また疼痛発作が起きたってことなのかも。

[021]痛みを堪えるために、

[022]軍人さんの頃の性格を思い出してるふしがあるもんね。

[023]【かおり】

[024]「じゃ、堺さん。一緒に謝りに行こう?

[025] 堺さんが悪くなくても、

[026] 怒らせちゃったことは謝らなきゃいけないから」

[027]【さゆり】

[028]「…………」

[029]堺さんは口をへの字に曲げていたけれど。

[030]【さゆり】

[031]「……すみません」

[032]聞き取れる寸前の、ものすごく小さな声で

[033]謝ってくれた。

[034]堺さんと一緒に

[035]都知さんのベッドサイドに行ったものの、

[036]ちょうど薬が効いているのか、

[037]ほえほえ状態で話にならなかった。

[038]何か判断材料はないかと思って、

[039]山之内さんに堺さんとの点滴チェックをお願いして、

[040]既に彼女が書いた都知さんの看護記録を

[041]遡って読んでゆく。

[042]どうやら、堺さんは都知さんに

[043]『目上の人間に対する態度じゃない』と

[044]叱られたようだ。

[045]堺さんの字には、

[046]理不尽な物言いに対する怒りが滲んでいる。

[047]更に遡って読んでいくと、疼痛発作の際には

[048]「わしは大日本帝国の軍人だ!」と叫んでるけど、

[049]ある日の夜中、「許してくれぇ!」と

[050]叫んでいたと書かれてあった。

[051]記録者は――山之内さん。

[052]……変だな、

[053]申し送りでは、そんなこと何も聞いてないのに……。

[054]【かおり】

[055]「あの、山之内さん。

[056] 以前、都知さんが『許してくれ』って

[057] 言った時の状況、教えてくれますか?」

[058]山之内さんは

[059]ちょっと言いにくそうな顔をしてから、

[060]いつものように飄々とした表情になった。

[061]【やすこ】

[062]「……そら、

[063] 多分、本人に直接訊いた方が早いで」

[064]【かおり】

[065]「……それはそうなんですけど……」

[066]【さゆり】

[067]「山之内さん、点滴チェック済みの分、

[068] 点滴詰め終わりました。

[069] これにルートつけていけばいいんですよね」

[070]【やすこ】

[071]「おお、さっすがお嬢!

[072] 仕事覚えるんが早いわ〜!

[073] 誰かさん時とはエラい違いやねー」

[074]【さゆり】

[075]「お嬢……って……」

[076]【やすこ】

[077]「デキる新人に『新人』言うたかて、

[078] おもろないやろ。

[079] なぁ、元・新人?」

[080]ぽんと、わたしの頭を叩いて、

[081]山之内さんが詰所から出て行った。

[082]あの様子じゃ、

[083]山之内さんは都知さんについて、

[084]間違いなく何か知ってるはず。

[085]でも、ああいう状態の山之内さんは

[086]絶対に何も教えてくれないんだよね。

[087]本来なら、患者さんの情報は

[088]スタッフ間で共有するべきなんだけど、

[089]山之内さんには山之内さんの看護観があって、

[090]それに基づいて動いてる。

[091]きっと、看護にはあまり関係のない、

[092]都知さんのプライベートなことなのかもしれない。

[093]……だとしたら、

[094]自分で直接、都知さんに訊くしかない、

[095]というわけか……。

[096]【かおり】

[097]「……じゃ、堺さん、

[098] 点滴回りに行こう」

[099]【さゆり】

[100]「は、はい……」

[101]堺さんは不思議そうな顔をしたけど、

[102]すぐにいつもの無表情に戻って、

[103]仕事の顔になった。

[104]いつものように、

[105]点滴回りはまず301号室から。

[106]さっきはほえほえしてた都知さんの

[107]ベッドサイドに立つと、

[108]ぱちっと都知さんが目を開けた。

[109]視線が鋭い。

[110]今は軍人さんなのかな。

[111]【都知】

[112]「オマエさんの名前は何だ?」

[113]【かおり】

[114]「沢井ですよー」

[115]もう何度となく自己紹介したけど、

[116]認知症があるから覚えていられないんだろうね。

[117]【都知】

[118]「サアリか……」

[119]【かおり】

[120]「あ……はは……」

[121]訂正しようか迷ったけど、

[122]訂正したところで、きっと覚えてはいないはずだから

[123]黙っていよう。

[124]【都知】

[125]「そっちの嬢ちゃんは?」

[126]【さゆり】

[127]「……堺です」

[128]【都知】

[129]「おまえさんもサアリか……」

[130]【さゆり】

[131]「え……?」

[132]都知さんの言葉に戸惑いを覚えて、

[133]思わず、堺さんと顔を見合わせてしまった。

[134]今の都知さんは、

[135]軍人さんに戻った都知さんなの?

[136]それとも、別の都知さんなの?

[137]【都知】

[138]「こんなところまで追っかけてきおったか、

[139] サアリ……」

[140]【かおり】

[141]「はい?」

[142]【都知】

[143]「そんな不思議そうな顔をせんでええ。

[144] おまえさんがわしを恨むのは当然じゃ」

[145]【さゆり】

[146]「恨む……って?」

[147]【都知】

[148]「おまえさんは瀕死のわしを助けてくれた。

[149] わしは、その恩に報いることなく、

[150] 上官命令でおまえさんを殺した」

[151]【都知】

[152]「この痛みは罰なんじゃろう?

[153] わしは甘んじて受けるつもりだったのに、

[154] 日本の医者はわかっとらんのう」

[155]【都知】

[156]「わしはもう長くない。

[157] 恨み言はあの世で聞いてやる。

[158] 死んだ後の時間なら、たっぷりとある」

[159]【都知】

[160]「上官に逆らえなかった腰抜けのわしを

[161] 思う存分、責めるがええ。

[162] 詰られる覚悟はできとる」

[163]都知さんはあの後、

[164]小さく溜め息をついて目を閉じた。

[165]わたしたちは、ふたりで

[166]十五時の点滴回りをしたけど……。

[167]何も知らない他の患者さんを相手に、

[168]わたしはちゃんと笑顔を作れていただろうか。

[169]隣にいる堺さんの顔が強張っていたことだけ

[170]記憶に残ってる……。

[171]【やすこ】

[172]「どや、都知のじーさんの話は聞けたか?」

[173]詰所に入ってすぐ、

[174]山之内さんが声をかけてきた。

[175]【さゆり】

[176]「…………」

[177]想像もしていなかった告白のショックから

[178]まだ完全に抜け切れてないらしい堺さんは、

[179]見てるこっちの胸が痛くなりそうな表情で

[180]ただ俯いている。

[181]【やすこ】

[182]「聞けたんやったら、隠さんでエエな。

[183] あのじーさん、戦争中、上官命令で、

[184] 助けてくれた現地の人を銃殺したらしいで」

[185]【やすこ】

[186]「じーさんの友達はその現地の人を

[187] 逃がそうとして、上官命令に背いた罪で射殺。

[188] それも、じーさんが手ェ下したらしいわ」

[189]【さゆり】

[190]「そんなことって……!」

[191]【やすこ】

[192]「……ああ。

[193] そんな地獄のような時代を

[194] 生き抜いた人やってんね……」

[195]【やすこ】

[196]「認知症になって、何もかもを忘れたんは、

[197] あの人にとっては、救いやったんかもしれへんな。

[198] それやのに、がんの痛みが昔を思い出させた……」

[199]【さゆり】

[200]「……っ!!」

[201]堺さんが詰所を飛び出して行った。

[202]慌てて追いかけようとして、

[203]山之内さんに腕を捕まれる。

[204]【やすこ】

[205]「あのお嬢でもああやって泣くんか、

[206] ちょっと安心したわ……」

[207]【やすこ】

[208]「初っ端がコレっちゅーのはキッツイやろうけど、

[209] ま、こればっかりは

[210] 慣れてもらうしかないわなぁ」

[211]ひとりにさせて、泣かせてあげろ、と

[212]そういう意味なんだろう。

[213]わたしだって、

[214]堺さんみたいに、感情を抑えられなくて、

[215]ひとりでこっそり階段で泣いてたことは何度もある。

[216]わたしがいないことに気づいて当然のなぎさ先輩が

[217]一度もわたしが泣いてるところに慰めに来なかったのは、

[218]ひとり気の済むまで泣かせてやろうという気遣いだって

[219]今にして、初めて知った。

[220]【かおり】

[221]「堺さんは……自分が死の淵まで行って、

[222] 戻ってきた子だから、都知さんのことが

[223] 他人事には思えないのかもしれません……」

[224]【やすこ】

[225]「お嬢は戻ってこられたけど……

[226] じーさんは数日中にサアリってヤツんとこに

[227] 行ってまうからなぁ」

[228]山之内さんに掴まれたままの

[229]わたしの腕が痛い。

[230]その腕を振りほどけないまま、

[231]ふと、ドクターデスクで伝票を書いている

[232]はつみさんを見た。

[233]はつみさんはこちらを見ることなく、

[234]ただ黙々と何かを書いている。

[235]はつみさんは

[236]都知さんの事情を知ってたんだろうか。

[237]知ってて黙ってたんだろうか。

[238]何か声をかけてほしい、と思うのは

[239]わたしの甘えなのかな。

[240]……こんな時だからこそ、

[241]誰かの心との触れ合いが欲しいと思うのは、

[242]わたしが弱いからかな……。

[243]お風呂上がり、

[244]はつみさんの部屋に行ったけど、

[245]やっぱり今日も不在。

[246]さみしくて、切なくて、

[247]どうしようもない気持ちを持て余して、

[248]ついなぎさ先輩に電話してしまった。

[249]【なぎさ】

[250]『……そっかぁ、

[251] 都知さんも、もうすぐなのね……』

[252]色々な意味で、感慨深そうな声。

[253]【なぎさ】

[254]『あたしが入職した時は、既にいた人だったけど、

[255] とうとう、本当にいなくなるのか……』

[256]【かおり】

[257]「…………」

[258]【なぎさ】

[259]『……堺さんがいるとなると、

[260] 沢井も今までみたいにはいかなくなるね』

[261]【かおり】

[262]「今まで……って?」

[263]【なぎさ】

[264]『あんた、今までステルベンの度に

[265] わぁわぁ泣いてたでしょ。

[266] でも……もうきっとあんな風には泣けなくなるよ』

[267]まるで予言のような

[268]なぎさ先輩の言葉の意味がわからず、

[269]ただ首を傾げる。

[270]【かおり】

[271]「え……、どういう意味ですか?」

[272]電話の向こう、

[273]なぎさ先輩が小さく笑う。

[274]【なぎさ】

[275]『ま、その時になったらわかるわよ。

[276] 明日、あたし、初のオペ出しのリーダーだから、

[277] もう寝るわね』

[278]返事をする前に、

[279]電話は切られてしまった。

[280]【かおり】

[281]「……どういう意味だったんだろう……?」

[282]なぎさ先輩の言葉がよくわからない。

[283]……今までのようにはいかなくなるって

[284]泣けなくなるって、どういう意味……?

[285]もう長くないから、と

[286]とうとう都知さんに

[287]心電図モニターがつけられてしまった。

[288]他の仕事をしながらも、

[289]モニター音が気になって仕方がない。

[290]【やすこ】

[291]「昔の人は心臓強いから、なかなか楽になれんのよな。

[292] 平成の子なんか、粗細動起こったら

[293] 心肺停止までスグやのに」

[294]【はつみ】

[295]「山之内さん!!」

[296]さすがに不謹慎すぎる山之内さんの言葉に、

[297]はつみさんが怒鳴り声を上げた。

[298]そのはつみさんが

[299]ちらりとわたしを見る。

[300]【はつみ】

[301]「沢井さん。

[302] エンゼルケアの準備はできているの?」

[303]【かおり】

[304]「……はい」

[305]一応、準備はしているものの、

[306]まだ都知さんの心臓は頑張って動いているのに、

[307]早いんじゃないかと思ってしまう。

[308]隣では、堺さんが青い顔で座って、

[309]不規則になりつつある心電図のモニターを見ている。

[310]【はつみ】

[311]「確認するけれど、

[312] DNRは取っているのよね?」

[313]【かおり】

[314]「はい、書類もここに」

[315]【はつみ】

[316]「……堺さん、辛いのはわかるけれど、

[317] エンゼルケアはわたしたち看護師が

[318] 患者さんにできる最後のケアよ」

[319]【さゆり】

[320]「わかって……います」

[321]脈の不整がどんどん多くなってゆく。

[322]ドクターに電話をした後、

[323]はつみさんが詰所から出て行った。

[324]堺さんは今にも泣きそうな顔をしてる……。

[325]そりゃそうだよね、

[326]患者さんの死に向かい合うのって、

[327]すごく怖いよね。

[328]わたしは入職後半年以上経ってから、

[329]初めてのステルベンに立ち会ったからまだいいけど、

[330]堺さんは入職直後だもんね……。

[331]激しくアラームが鳴り響く。

[332]不規則な山形の連続だったモニター上の心電図の

[333]波形は、しばらくの間だけ、細かな波形を描いた後、

[334]緩やかに、平坦な波を描くようになった。

[335]【やすこ】

[336]「アシストーレ……。

[337] 今頃、ドクターが家族に死亡宣告しとる。

[338] あんたらの出番やで」

[339]山之内さんの言葉に頷いて、

[340]わたしは堺さんを連れて詰所を出る。

[341]廊下の外に、

[342]都知さんのご家族が立っていた。

[343]死亡宣告をしたドクターが足早に立ち去り、

[344]はつみさんがご家族に、

[345]これからのことを説明しているのを横目にしつつ、

[346]部屋に入る。

[347]介護士さんが用意したばかりの、ぬるいお湯に

[348]都知さんが使ってたタオルを浸して、

[349]堺さんとふたり、静かに眠る都知さんの身体を拭く。

[350]天井を睨むようなあの形相は面影もなく、

[351]今はすごく穏やかな寝顔のような顔をしている。

[352]【かおり】

[353]「……やっと楽になれたんですね、

[354] 都知さん」

[355]【さゆり】

[356]「…………」

[357]既に堺さんは泣いていた。

[358]わたしは……というと、

[359]悲しいことは悲しいんだけど、

[360]それよりも「良かったね」という気持ちが大きくて

[361]あんまり涙が出てこないの。

[362]【かおり】

[363]「堺さん、

[364] 都知さんの身体、こっち向けるから、

[365] 背中拭いてくれる?」

[366]【さゆり】

[367]「……っく」

[368]けれど、堺さんは動こうとはしない。

[369]次から次へと溢れる涙を拭くだけで

[370]精一杯のようだ。

[371]堺さんが泣いているのを見ていたら、

[372]わたしも涙が出てきた。

[373]【かおり】

[374]「堺さん!

[375] 都知さんをキレイにしてあげなきゃ、

[376] おうちに帰してあげられないんだよ?」

[377]【さゆり】

[378]「…………」

[379]【かおり】

[380]「堺さん、仕事中だよ?

[381] 泣きながらでもいいから、仕事、しよう?」

[382]【さゆり】

[383]「……っ、はい……。

[384] す……みません……」

[385]自分も泣きながらだからカッコ悪いけど、

[386]それでも堺さんはわたしの手から

[387]タオルを受け取ってくれた。

[388]――そうして、

[389]堺さんの初めてのエンゼルケアは何とか終わり、

[390]都知さんは、業者の車で裏口から退院していった。

[391]【やすこ】

[392]「お疲れ。

[393] 初めてのエンゼルケアはどうやった?」

[394]【さゆり】

[395]「……山之内さん、意地が悪いです」

[396]【やすこ】

[397]「そおか?」

[398]……ああ、山之内さんのこの性格、

[399]ホント、見習いたいよ……。

[400]【やすこ】

[401]「あのじーさんにとっては、

[402] 長かった戦争がやっと終わったんや。

[403] 死に顔は穏やかやったやろ?」

[404]【さゆり】

[405]「ふ……ひ、ぐ……ぅ」

[406]堺さんは泣くのを堪えているせいか、

[407]変顔になっている。

[408]【はつみ】

[409]「山之内さん、その辺にしてあげて」

[410]【やすこ】

[411]「何がやのん?

[412] 患者さんが死んで、看護師がこっそり泣く。

[413] 別に何も悪いことはあらへんやろ」

[414]【やすこ】

[415]「……沢井も、覚えとるか?

[416] あのじーさん、嫁がイジワルや言うて、

[417] ナースコール齧っとったこともあったよなぁ」

[418]……ああ、そんなこともあったっけ。

[419]【かおり】

[420]「そうですね……。

[421] 詰所にあったお煎餅の『ややうけ』を食べて、

[422] 『すぱいしーじゃのう』って笑って……」

[423]ポロッと涙が出てきて、

[424]慌てて堺さんに背を向ける。

[425]視界の隅で、こっそりと

[426]はつみさんが眼鏡の位置を直すフリで

[427]目元を拭くのが見えた。

[428]バイトさんが

[429]机の上のティッシュの箱を取り上げた。

[430]誰も何も感じてないわけじゃない。

[431]誰もが、元・大日本帝国陸軍の軍人さんで

[432]愛嬌のあったおじいちゃんの死を悼んでる。

[433]【やすこ】

[434]「……じーさん、

[435] やっと楽になれたんやなぁ……」

[436]天井を向いた山之内さんが、

[437]組んだ両腕を、そっと目の上に乗せていた。

[438]都知さんを送り出してから、

[439]病棟はいつもよりも静かで、

[440]業務もスムーズに流れて行った。

[441]例によって例のごとく、

[442]山之内さんは用事があるとかで

[443]申し送りが終わると同時に詰所から消えて、

[444]堺さんは居残りで記録を読んでいた。

[445]ひとりになると、

[446]見送った都知さんのことで

[447]心が一杯になってくる。

[448]ぽろりと涙が零れた。

[449]【かおり】

[450]「……やっと、楽になれた、んだよね……」

[451]山之内さんが呟いた言葉を口にした途端、

[452]まるで涙腺が壊れたかのように、

[453]どんどん涙が溢れてくる。

[454]誰かが更衣室に入ってきたけど、

[455]顔を上げられない。

[456]【???】

[457]「……頑張ったわね、かおり。

[458] もう思い切り泣いてもいいのよ」

[459]顔を上げると、はつみさんがいた。

[460]そう、堺さんがいたから、

[461]以前のように、わんわん泣けなかった。

[462]わたしが泣くことで、

[463]初めてのステルベンで戸惑っている堺さんを

[464]もっと戸惑わせてしまうことがわかったから。

[465]でも、もう以前のように

[466]わんわん泣かないって決めたの。

[467]だって、わたしは看護師だから。

[468]旅立った患者さんのために、

[469]ちょっとだけ弔いの涙を流して、

[470]そうしたら、前を向いて、

[471]いつものように仕事をしていくの。

[472]【かおり】

[473]「大丈夫……大丈夫、です……」

[474]【はつみ】

[475]「でも……」

[476]【かおり】

[477]「……なぎさ先輩に言われました。

[478] もう、以前のように泣けなくなるよ、って。

[479] こういうことだったんですね」

[480]【はつみ】

[481]「……そうよ。

[482] わたしたちは仕事であの場にいるのだから、

[483] 仕事に支障が出るほど泣いていてはいけないの」

[484]【かおり】

[485]「わたし、涙を止められなかったけど、

[486] 堺さんに『仕事をしなさい』って注意しました。

[487] ……自分でも泣いてた癖に」

[488]【はつみ】

[489]「それでいいのよ、

[490] 人が亡くなって悲しいという気持ちは

[491] 人間として当然なのだから」

[492]はつみさんが

[493]そっと抱き締めてくれる。

[494]【はつみ】

[495]「あなたはどんどん看護師らしくなっていくわね。

[496] ……わたしの誇りよ」

[497]【かおり】

[498]「はつみさん……!」

[499]白衣のままで、

[500]はつみさんの胸に顔を埋めるようにして

[501]わたしはしばらくの間、泣かせてもらった。

[502]【かおり】

[503]「そんなわけで、都知さんが亡くなりました。

[504] 穏やかなお顔でした……」

[505]【なぎさ】

[506]『……患者さんが亡くなった報告の割に、

[507] あっけらかんとしてる気がするのは

[508] 気のせいかしら?』

[509]【かおり】

[510]「え……、

[511] そうでしょうか……」

[512]だとしたら、

[513]わたしはなんて冷血漢で不謹慎なんだろう。

[514]そう思うと、

[515]やっぱりまだまだ未熟者なんだなって思って、

[516]しょぼんとしてしまった。

[517]【なぎさ】

[518]『……でもさ、それが生きてるってことよね。

[519] 亡くなった部屋の隣の部屋では、子供たちが笑ってる。

[520] ――そういうところだもんね、病院って』

[521]【かおり】

[522]「……そうですね」

[523]【なぎさ】

[524]『で、沢井の大好きな、はつみ主任さん、は?

[525] わたしたちの中で一番、都知さんとの付き合いが

[526] 長かった人だから、辛かったんじゃないかしら』

[527]【かおり】

[528]「!!」

[529]そうだった!

[530]自分の悲しみに気を取られて、

[531]わたしったら、

[532]はつみさんの悲しみに気付いてあげられなかった!!

[533]【かおり】

[534]「すみません、なぎさ先輩、

[535] 急用ができたので!」

[536]【なぎさ】

[537]『え、ちょ……!?』

[538]慌てて電話を切って、部屋を飛び出す。

[539]早くはつみさんに会いたい!!

[540]エレベーターを見ると

[541]丁度、下に降り始めたところで、使えそうにない。

[542]急いで階段を駆け下りる。

[543]はつみさんのいる二階に着いた。

[544]【かおり】

[545]「はつみさんっ!!」

[546]けど、部屋はもぬけのからで、

[547]さっきまで使っていたらしいコップが

[548]書きかけの書類の上に、ぽつんと置いてある。

[549]【かおり】

[550]「……不在、かぁ……」

[551]仕方なく、茶渋だらけのコップを洗って、

[552]部屋を出た。

[553]エレベーターは四階にあって、

[554]二階まで呼ぶのも面倒だし、

[555]再び階段を駆け上る。

[556]【かおり】

[557]「はひー……」

[558]【???】

[559]「ごめんなさい、主任さん……」

[560]四階についたところで、

[561]聞き覚えのある声がした。

[562]今の声って、堺さんだよね?

[563]新人の堺さんに

[564]外科の小林主任さんと繋がりがあるとは思えないから、

[565]主任さんって……はつみさんのこと、だよね!?

[566]こそっと顔を出す。

[567]――すると、そこには!!

[568]これって、

[569]堺さんとはつみさんの密会!?

[570]しかも抱き合ってて……、

[571]堺さんが顔をあげて、

[572]はつみさんが顔を近づけて……。

[573]も、もしかしてキス、しちゃうの!?

[574]はつみさんはそのまま、堺さんに導かれるように、

[575]わたしの隣の部屋に入ってしまった。

[576]【かおり】

[577]「…………」

[578]へなへなとその場に崩れ落ちる。

[579]な、何かの見間違い……だよね、今の……。

[580]でも、堺さんは主任さんって言ってたし、

[581]あの後ろ姿ははつみさんだったし……。

[582]呆然と廊下に座り込んでいると、

[583]別の部屋のドアが開いた。

[584]【やすこ】

[585]「およ?

[586] なーんや、沢井やないの〜、

[587] こんなとこで何してんねん?」

[588]見知った顔が出てきて、

[589]とめどなく、いろいろな感情が溢れ出してきた。

[590]【かおり】

[591]「……や……」

[592]【やすこ】

[593]「あん?」

[594]【かおり】

[595]「や、山之内さぁん〜!」

[596]【やすこ】

[597]「さ、沢井!?」

[598]へたりこんだまま泣き出したわたしに驚き、

[599]慌てて、山之内さんが立たせてくれた。

[600]【やすこ】

[601]「ほら、泣いてんと!

[602] 尻が冷えるやろ、

[603] はよ部屋に入り!!」

[604]ぐずぐずと泣きながら、

[605]今は山之内さんの優しさに甘えることにした。

[606]ベソベソ泣いてるところを見られて、

[607]どうにも気まずい。

[608]【やすこ】

[609]「なんや、

[610] 大塚主任にフラレたんか?」

[611]お茶を出してくれながら、

[612]胸の傷を抉るようなドストレートな言葉を

[613]投げかけられた。

[614]【かおり】

[615]「…………っ!」

[616]ぶわっと、涙が溢れてくる。

[617]熱いカップを口元に運んで、

[618]何とか顔を隠した。

[619]【やすこ】

[620]「まぁなぁ……、あんたも

[621] プリセプとして頑張ってはいるんやけどなー。

[622] あのお嬢と比べて見劣りするんも事実やもんなぁ」

[623]ぐさっ!

[624]【やすこ】

[625]「いや、あんたが頑張っとるのはみんな認めとるよ?

[626] でも、仕事のデキる人には、デキひん奴の気持ちは

[627] イマイチわからへんのかもしれんしねー」

[628]ぐさぐさっ!!

[629]それって、仕事がデキる人同士の方が

[630]気持ちが通じ合うってこと……?

[631]堺さんって、新人なのに

[632]すごく仕事がデキる子だもんね。

[633]う……ぅっ

[634]わたし、もう立ち直れないかもしれない……!

[635]【かおり】

[636]「……しゅ、主任さんは、わたしより

[637] 堺さんの方を好きになってしまったって

[638] ことなんでしょうか……?」

[639]【やすこ】

[640]「アホ。

[641] 誰もそこまで言うとらん」

[642]コツンと頭を叩かれた。

[643]【やすこ】

[644]「仕事がデキる者同士は、基礎理論すっとばして

[645] 話ができるから、そんだけ高度な話で

[646] 盛り上がれるっちゅーだけや」

[647]【かおり】

[648]「だったら、山之内さんと

[649] 盛り上がったらいいじゃないですか」

[650]【やすこ】

[651]「うーん……、

[652] うちと主任は看護観が違うから、

[653] 盛り上がるような話にはならんのよ」

[654]【やすこ】

[655]「むしろ、自分の看護観を認めさせようとして、

[656] ついつい白熱した議論になってまうねん。

[657] それはそれで盛り上がっとるように見えるけどな」

[658]【やすこ】

[659]「あんたや藤沢を相手に仕事の話しても、

[660] あの主任には物足りんやろうし……」

[661]わたしじゃ物足りない……。

[662]【やすこ】

[663]「けど、相手があのお嬢やったら

[664] 話はだいぶ変わってくるやろなぁ。

[665] あの子、知識だけはベテラン並みやから」

[666]【かおり】

[667]「…………」

[668]ぐうの音も出ない。

[669]【やすこ】

[670]「ま、まぁ、気にすんな、沢井!」

[671]【やすこ】

[672]「うちが言うたんは、

[673] あくまでも仕事が話題の時、限定の話や。

[674] ホレたハレたの話やないから心配すんな」

[675]【かおり】

[676]「……でも……」

[677]【やすこ】

[678]「傍から見ても、

[679] あの主任はあんたにベタ惚れや。

[680] 安心し」

[681]バシッと、背中を叩かれた。

[682]【かおり】

[683]「……わたしには、

[684] はつみさんに主張できるような

[685] 看護観なんてないかも……」

[686]【やすこ】

[687]「いや、せやから、問題はそこやなくて……。

[688] うわん、どないしよう、

[689] ちょっとからかっただけのつもりやったのに……」

[690]【やすこ】

[691]「あーあ、もう、

[692] しゃーないなぁ」

[693]物音に顔を上げると、

[694]目の前に、一升瓶が乗っていた。

[695]【やすこ】

[696]「うちのとっときの酒、『美少女』や!

[697] 今夜は付き合うたろ、

[698] トコトン、飲むで〜!!」

[699]その夜は、山之内さんを相手に飲みまくって、

[700]グダグダと愚痴を言いまくった。

[701]次から次へと注がれるせいで、

[702]せっかくのお酒の味なんかわからなかったけど。

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