User Tools

Site Tools


white_robe_love_syndrome:scr00705

Full text: 688 lines Place translations on the >s

[001]          …………。

[002]         また、夢の中。

[003]        今日も誰もいない。

[004]        でも、誰かいる……。

[005]      見えないけど、気配は感じる。

[006]      「ねぇ、誰かいないの!?

[007]       いるんでしょう!?」

[008]      あの女の子と話がしたくて、

[009]      闇の向こうに声を張り上げる。

[010]      「ねぇ、お願い、出てきて!

[011]       聞きたいことがあるの!」

[012]      それでも女の子は出てこない。

[013]    どこかから誰かの声が聞こえてきた。

[014]    「……ごめんなさい。

[015]     こんなことになってしまったのは、

[016]     わたしのせいなの」

[017]  「かおりちゃん……!

[018]   かおりちゃんが大好き、好き、好き、大好き。

[019]   本当に、心の底から大好きなの」

[020]    「でも、わたし……わたしのせいで、

[021]     かおりちゃんは……」

[022]   「お願い、かおりちゃん、死なないで」

[023]     「わたしは何もいらないから、

[024]      この命も身体も何もいらない、

[025]      かおりちゃんさえいればいい」

[026]    「かおりちゃんが生きていて、

[027]     幸せになってくれればそれでいいの」

[028]   「お願い、わたしを使って。

[029]    わたしはかおりちゃんを支えて、守って、

[030]    それだけでいいの」

[031]   「かおりちゃんがわたしを忘れても、

[032]    わたしは、かおりちゃんのために……」

[033]【かおり】

[034]「……っ!!」

[035]思わず目を開けてしまった。

[036]……目を開けたせいで、

[037]夢の世界が終わってしまった……。

[038]ああ……、

[039]今日もあの女の子の言葉を最後まで聞けなかった。

[040]ゆっくりと起き上がる。

[041]   「かおりちゃんがわたしを忘れても、

[042]    わたしは、かおりちゃんのために……」

[043]あの子の声が、耳の奥に残ってる。

[044]記憶の扉は開きかけている気がするのに、

[045]まるで何かにブロックされてるみたいで、

[046]肝心なことが思い出せない。

[047]わたしの直感は

[048]全てはあの事故にあると告げている。

[049]十年前の、覚えてない事故。

[050]考えてみれば

[051]そもそも瀕死の重傷を負ったというのに

[052]当事者のわたしが覚えていないなんて変だよね。

[053]どうして、覚えてないのか。

[054]覚えてないということに理由があるのだとしたら、

[055]それは何なのか。

[056]そういえば、昔から

[057]事故のことを考えようとする度に

[058]酷い頭痛で思考が阻まれてたことを思い出す。

[059]でも、今は軽い頭痛しか起こらない。

[060]ふと、また直感が湧き上がってくる。

[061]もしかしたら、

[062]わたしの事故に関する記憶は封じられていた、

[063]としたら、どう?

[064]何らかの理由で封じられた記憶だけれど、

[065]今は何らかの理由で、その封印が弱まっている、とか?

[066]……でも、何のための封印?

[067]わたしの記憶を封じたとして、

[068]何のメリットがあるの?

[069]それ以前に、

[070]記憶を封じる、なんてこと

[071]できる人がいるの?

[072]そして、もしわたしが事故について

[073]全てを思い出した時、どうなってしまうの?

[074]何かが変わってしまうのかな?

[075]何も変わらないならいいんだけど、

[076]何もかもが変わってしまうのはイヤだな……。

[077]…………。

[078]わたし、事故のことを

[079]思い出した方がいいのかな。

[080]それとも、何も思い出さずに、

[081]今のままでいた方がいいのかな……。

[082]ああ、モヤモヤする。

[083]【かおり】

[084]「……はぁ〜ぁ……」

[085]気のせいじゃないよね。

[086]朝から、はつみさんの態度が

[087]素っ気ない気がする。

[088]これはやっぱり、

[089]アサイチで『はつみさん』って

[090]呼んでしまったせいかな。

[091]しかも、申し送りが始まる直前という

[092]スタッフみんなが集まってるって時に。

[093]はつみさん、真っ赤になってた……。

[094]……うう、

[095]きっとそうよね。

[096]公私の区別をつけてなかった

[097]わたしが悪いんだよね。

[098]うう、失敗しちゃった……。

[099]【なぎさ】

[100]「どうしたの、沢井?

[101] 元気ないよ?」

[102]【かおり】

[103]「あ、あははは……」

[104]笑って誤魔化す。

[105]なぎさ先輩にまで心配かけて、

[106]わたしって……ううう。

[107]【なぎさ】

[108]「沢井……。

[109] 朝のことは気にしなくてもいいと思うよ?」

[110]【かおり】

[111]「……そうかもしれませんけど、

[112] はつ……主任さんに恥をかかせてしまったのは

[113] 事実なんだし……」

[114]【なぎさ】

[115]「…………」

[116]あ、なぎさ先輩がムッとしてる。

[117]どうしよう、

[118]何て言えばいいんだろう?

[119]【かおり】

[120]「主任さんはきっちりした人だから、

[121] 職場でのこういう公私混同が

[122] 許せないのかもしれないし……」

[123]【なぎさ】

[124]「そんなのってないわ!!

[125] ありえないよ、

[126] 恋人同士になったんでしょう!?」

[127]わたしのために

[128]なぎさ先輩が怒ってくれてる。

[129]ありがたいんだけど……

[130]詰所では、ちょっと困っちゃうかも。

[131]【はつみ】

[132]「……あなたたち、

[133] おしゃべりをするのもいいけれど、

[134] 他にやることがあるんじゃないの?」

[135]【なぎさ】

[136]「…………!」

[137]詰所内の空気がピィィンと張り詰め、

[138]室温が一気に下がった……ような気がした。

[139]ああ、もう、はつみさんったら

[140]どうしてこのタイミングで戻ってきちゃうかな!!

[141]【かおり】

[142]「あわわわわ……」

[143]ふたりがにらみ合ってる。

[144]……こ、怖い……。

[145]【なぎさ】

[146]「あの!

[147] ちょっと、主任!

[148] 一言、言わせてもらってもいいですか!!」

[149]張り詰めた空気をものともせずに、

[150]なぎさ先輩がはつみさんに対して、一歩踏み出す。

[151]【はつみ】

[152]「仕事に関係があることなら

[153] 一言でも二言でも、好きなだけどうぞ」

[154]もちろん、はつみさんも負けてはいない。

[155]なぎさ先輩の強い視線を

[156]真っ向から受けて、平然としている。

[157]【なぎさ】

[158]「仕事には関係ないけど、

[159] あたしにとっては大事なことなんです!」

[160]【かおり】

[161]「ああああ、

[162] なぎさ先輩……やめてくださいぃ……」

[163]【はつみ】

[164]「あなたにとって大事なことであっても、

[165] 仕事に関係がないことなら、

[166] 今、ここで話すことではないわね」

[167]【なぎさ】

[168]「んもー! 何なんですか、その言い草!

[169] あたしがどんな気持ちで

[170] 身を引いたのか知ってるくせに!」

[171]【はつみ】

[172]「それこそ、あなたには関係のないことだわ。

[173] それに、職場で個人的な感情論を持ち出すのは

[174] 職業人として、プロとして、どうなのかしら?」

[175]【なぎさ】

[176]「ムキーッ!

[177] 看護師だって、ひとりの人間です!

[178] 人として許せないことだってありますよ!」

[179]あ!

[180]ナースコール!!

[181]【はつみ】

[182]「そうね、その意見には同意するわ。

[183] けれど、仕事に関係のないことは

[184] 時間外にするべきだと言っているのよ」

[185]はつみさんがチラッとわたしを見た。

[186]わたしは慌ててナースコールを取る。

[187]【かおり】

[188]「は、はーい、

[189] どうされました〜?」

[190]【さゆり】

[191]「……点滴、終わりそうです」

[192]【かおり】

[193]「はい、すぐ行きますねー」

[194]【さゆり】

[195]「滴下絞って待ってます」

[196]なぎさ先輩とはつみさんは

[197]まだにらみ合ってる。

[198]……困ったな。

[199]なぎさ先輩はわたしのために

[200]はつみさんに意見を言ってくれたのに、

[201]そのわたしがこの場を離れるのは……。

[202]【はつみ】

[203]「何をしているの、沢井さん。

[204] やるべきことを後回しにしないの」

[205]【かおり】

[206]「え、でも……」

[207]【はつみ】

[208]「大丈夫よ、あなたが大切に思っている先輩さんは

[209] 後輩に心配されるほど、お馬鹿さんではないの。

[210] あなたより先に看護の道に入っているのよ?」

[211]【かおり】

[212]「え?」

[213]【なぎさ】

[214]「悔しいけど、主任の言う通りよ。

[215] 沢井、あたしのことはいいから、

[216] 患者さんのところに行ってきなさい」

[217]なぎさ先輩がフッと笑う。

[218]向こうで、はつみさんがうなずいている。

[219]わたしはペコリと頭を下げると、

[220]堺さんの点滴ボトルを持って、詰所を出た。

[221]堺さんはギャッジアップしたベッドの上、

[222]全開にした窓をから外を見ていた。

[223]そよそよと、太陽の熱気をはらんだ風が

[224]堺さんの長い髪を揺らしている。

[225]手早くボトルの交換を済ませてから、

[226]ふと、堺さんの見ている先が気になって

[227]視線を向けた。

[228]堺さんは海を見ている。

[229]太陽の光を反射して

[230]キラキラまぶしい水平線が広がっていて……。

[231]【さゆり】

[232]「つくしちゃん、退院なんですって?」

[233]【かおり】

[234]「あ、……うん。

[235] 日曜日に、お昼ごはんを食べてから、ね」

[236]耳を澄ましても波の音は聞こえないけれど、

[237]風に乗って、潮の香りが漂ってくる。

[238]【さゆり】

[239]「……わたしより後から入ってきた人が、

[240] 先に退院していくのを見送るのは

[241] さみしいものね」

[242]【かおり】

[243]「そっか……、堺さん、

[244] つくしちゃんと仲が良かったから」

[245]クスリと堺さんが笑う。

[246]少しだけ自嘲っぽい感じがするのは

[247]わたしの気のせいなのかな?

[248]【さゆり】

[249]「……わたしたち、仲が良かったのかしら?

[250] 一方的に懐かれただけだったけれど、

[251] あなたにはそう見えたんですね」

[252]【さゆり】

[253]「でも、仲が良くても悪くても、

[254] 患者の立場で、他の患者さんの退院を見送るのは

[255] さみしいものだわ」

[256]【さゆり】

[257]「退院おめでとう、という気持ちはあるけれど。

[258] ……本心は複雑」

[259]【かおり】

[260]「…………」

[261]うん、そうかもしれない。

[262]元気に退院していくつくしちゃんを

[263]病院で見送る堺さんの心境を考えると、

[264]わたしは切なくなってしまう。

[265]【さゆり】

[266]「でも、たとえそれが死亡退院だったとしても、

[267] わたしは『おめでとう』って言うわ」

[268]【かおり】

[269]「え……」

[270]【さゆり】

[271]「やっと楽になれたのね、

[272] おめでとう、って」

[273]死亡退院って……。

[274]絶句してしまったわたしに、

[275]堺さんがまたフッと笑った。

[276]【さゆり】

[277]「……免疫抑制療法を受けようと思う」

[278]【かおり】

[279]「!!」

[280]決意をにじませた堺さんの言葉。

[281]わたしは絶句したまま、

[282]堺さんの青白い顔をじっと見つめる。

[283]免疫抑制療法は、一度、

[284]自分の造血機能をゼロにするという、

[285]とてもハイリスクな治療なの。

[286]ゼロになった造血機能が戻らない可能性だってある。

[287]それでも、免疫療法を受けるということは、

[288]堺さんは……。

[289]【さゆり】

[290]「いるのかいないのか

[291] わからないドナーを待っていても、

[292] 埒が明かないでしょ」

[293]【さゆり】

[294]「だから、賭けに出る。

[295] 文字通り、わたしの命をかけた『賭け』よ」

[296]わたしが堺さんだったら……と思うと

[297]ゾクリと恐怖が背筋を駆け上がってきた。

[298]わたしにはこんな決心、きっとできないよ。

[299]【かおり】

[300]「……怖くないの?」

[301]【さゆり】

[302]「怖くないわけがないでしょう?」

[303]鼻で笑われた。

[304]【さゆり】

[305]「言ったでしょう、これはただの『賭け』。

[306] 賭けに負けたところで死ぬだけよ。

[307] または、死ぬのが早まるだけ」

[308]【かおり】

[309]「……そんな……」

[310]【さゆり】

[311]「人はいずれ死ぬ。

[312] だったら、自分の思うように生きたい」

[313]【さゆり】

[314]「わたしは、こんな風に病院に閉じ込められて、

[315] 無為な時間を費やしただけで終わる、

[316] そんな一生はイヤ」

[317]【さゆり】

[318]「たとえ辛い治療でも、先がないのが

[319] わかっていても、死を待つだけの時間を

[320] 過ごすよりはよっぽどいいわ」

[321]水平線を見据えて、

[322]堺さんが言葉をつむぐ。

[323]どうして、こんなに強いんだろう?

[324]どうやったら、

[325]こんなに強くいられるんだろう?

[326]【かおり】

[327]「強いのね……」

[328]堺さんが振り向いた。

[329]【さゆり】

[330]「あなたは、どうなんですか?」

[331]ぎくりとする。

[332]【さゆり】

[333]「そんな暗い顔を患者に晒して、

[334] 今のままでいい、と思っているわけ?」

[335]【さゆり】

[336]「現状を打破するために、

[337] 今、できることを

[338] 片っ端からやってみようと思わないんですか?」

[339]堺さんの言葉に、

[340]全身の細胞がざわめいた。

[341]そうだ……。

[342]自分ができる精一杯のことをやらなきゃ……!

[343]【かおり】

[344]「戻りました」

[345]詰所に戻って、

[346]はつみさんとなぎさ先輩を目で探す。

[347]【やすこ】

[348]「おう、沢井。

[349] 愛しの主任さんは会議、

[350] 大好きな先輩は301やで?」

[351]訳知り顔でニヤニヤした山之内さんが

[352]そっと教えてくれた。

[353]【やすこ】

[354]「ちょっとケンカしてたっぽいけど、

[355] 最後には仲直りしたみたい。

[356] 良かったなぁ?」

[357]ポンとわたしの肩をたたいて、

[358]出て行ってしまう。

[359]……そっか、

[360]ふたりとも、仲直りしてくれたんだ……。

[361]でも、ダメだな、わたし。

[362]大好きなはつみさんのサポートどころか

[363]足を引っ張ってる。

[364]大切な先輩にだって迷惑かけてる。

[365]こんなんじゃダメ、

[366]もっともっと努力しないと!

[367]仕事が終わって、先に寮に戻る。

[368]今のわたしにできることは

[369]もっともっと勉強すること。

[370]わたしが成長すれば、成長しただけ、

[371]はつみさんの手助けができるようになるよね!

[372]早く部屋に戻って、勉強したくて

[373]自然と足がはやくなる。

[374]ん?

[375]寮の入り口に、誰か、いる……。

[376]【かおり】

[377]「あ……」

[378]男の人……、

[379]どこかで見たことのある人だ。

[380]怖い顔の……。

[381]【???】

[382]「…………失礼」

[383]あの人……!!

[384]【かおり】

[385]「…………っ!!」

[386]慌てて、その場に身を隠す。

[387]どうして?

[388]どうしてあの人がここにいるの?

[389]はつみさんは

[390]あの件は終わったって言ってたのに。

[391]どうして今頃、

[392]またわたしの前に姿をあらわすの!?

[393]早く……早くどこかへ行って……!!

[394]【かおり】

[395]「…………」

[396]やめて。

[397]お願い、こっちへ来ないで……!!

[398]【???】

[399]「わっ!」

[400]【かおり】

[401]「きゃあああああああっ!!」

[402]【???】

[403]「うわわわわっ!?」

[404]慌てて逃げようとしたけれど、

[405]腰が抜けて立ち上がれない。

[406]ど、どどどど、どうしようっ!?

[407]【???】

[408]「もー、何やの、この子は!

[409] 驚かしたコッチが驚いたやんか!」

[410]バシッと背中を叩かれた。

[411]【かおり】

[412]「……ふぇ?」

[413]振り向くと、

[414]わたしと同じくへたりこんだ山之内さんがいる。

[415]傍にはコンビニ袋が落ちている。

[416]【やすこ】

[417]「もー! あんたのせいで、

[418] 卵、割れてもたやんか、もーもーもー!

[419] あ、これ、藤沢の真似な、んもーもーもーぅ!」

[420]持ち上げたコンビニ袋の底に、

[421]生々しい黄色い部分がある。

[422]うん、一個は確実に割れてるよね……。

[423]【かおり】

[424]「す、すみません!

[425] わたし、すごくびっくりして……」

[426]【やすこ】

[427]「うん、まぁ、何や知らんが深刻なかくれんぼ中に

[428] 背後からおどろかしたうちも

[429] 悪いっちゃ悪いんやけどなー」

[430]【やすこ】

[431]「あーあ、

[432] 卵、割れてもたなぁ……あーあー」

[433]【かおり】

[434]「ホント、すみません!

[435] お詫びしますから……!」

[436]【やすこ】

[437]「ホンマか?」

[438]ニヤリと山之内さんが笑う。

[439]う……っ、

[440]嫌な予感……!!

[441]【やすこ】

[442]「そーいや、あんたに

[443] 手伝ってもらいたいことあったんやけどなー」

[444]【かおり】

[445]「え……」

[446]【やすこ】

[447]「かくれんぼする暇あるんやから

[448] 来てくれるやんなー?」

[449]【かおり】

[450]「…………」

[451]うう、行きたくない……。

[452]だって、わたし、

[453]いろいろ勉強しなくちゃいけないんだもん。

[454]【やすこ】

[455]「勉強もええけど、気分転換も必要やで?

[456] あんた、どん詰まりになってんのやろ?

[457] 作業しながらやったら、話聞いたるから」

[458]にっこり笑う山之内さんに、

[459]少しだけ心が動いて……。

[460]【かおり】

[461]「仕方がないなぁ。

[462] ちゃんと話、聞いてくださいよ?」

[463]エレベーターに乗る前、ふと後ろを振り返ると、

[464]あの男の人はいなくなっていた。

[465]気のせい……だったんだろうか?

[466]【やすこ】

[467]「悪いなー、

[468] いつもの指定席にでも座って

[469] ゆっくりしといてー」

[470]【かおり】

[471]「……はぁ」

[472]手伝わせることがあると言いながら

[473]山之内さんは何か探してゴソゴソしている。

[474]わたしは手持ち無沙汰で、

[475]周囲をキョロキョロしてみた。

[476]少し離れたところに置かれているダンボールの箱の上、

[477]薄い本が置かれてあった。

[478]見慣れた絵柄……、

[479]これ、山之内さんの絵だよね。

[480]うわ、本当に本になってる!

[481]【かおり】

[482]「へぇ……」

[483]パラパラとめくってみた。

[484]あ、ここ、わたしが塗った部分だ。

[485]ベタって言うんだっけ、

[486]ここ、ちょっとはみ出しちゃったんだよね。

[487]最初はパラ見だったけれど、

[488]ついそのまま読んでしまった。

[489]……ん?

[490]この本の話、どこかでデジャヴ……。

[491]ツンケンした委員長タイプの女の子が、

[492]年下の天然ふわふわタイプにほだされて、

[493]少しずつ心を開いて……って、ええ!?

[494]この子たちの行動パターン、

[495]すっごく見覚えがある!!

[496]【やすこ】

[497]「……どないや?」

[498]気がつくと、

[499]山之内さんがわたしの手元を覗き込んで

[500]ニヤニヤしていた。

[501]【かおり】

[502]「あ、あの!!

[503] この子たちって、

[504] 堺さんとあみちゃん、ですよね!?」

[505]山之内さんは答えず、ニヤニヤしたまま、

[506]別の本を差し出した。

[507]【やすこ】

[508]「こんなんもあるで?」

[509]思わず受け取って、パラパラして……!!

[510]【かおり】

[511]「これっ!

[512] なぎさ先輩と、わたし!?」

[513]白衣姿のポニーテールの女の子と、

[514]同じく白衣姿の、口癖が「もー!」の先輩と。

[515]【やすこ】

[516]「いや〜、やっぱナースモノは鉄板やねー」

[517]言いながら、

[518]山之内さんはノートパソコンを

[519]わたしの目の前に置いた。

[520]【やすこ】

[521]「ちゅーことで、

[522] こんな風になるよう、写植よろしく」

[523]【かおり】

[524]「しゃしょ……? は?」

[525]【やすこ】

[526]「セリフの打ち出し。

[527] この通りに文字打ってくれる?」

[528]メモ書きにびっしりと

[529]文字が書かれてある。

[530]けれど……。

[531]【かおり】

[532]「すみません、

[533] わたし、パソコンとか触ったことなくて……」

[534]【やすこ】

[535]「マジで!?」

[536]目を丸くした山之内さん。

[537]……ということは、今日のところは

[538]わたしはお手伝いができないから、

[539]これで帰れるってことだよね。

[540]【やすこ】

[541]「しゃーない。

[542] セリフの中、手書きでよろしく」

[543]バサッと絵の描かれている

[544]マンガの原稿用紙を目の前に積み上げられた。

[545]【やすこ】

[546]「鉛筆書きの上からペンで清書。

[547] 乾いたら、ゴムかけ、な。

[548] 五十六枚、全部よろしく」

[549]【かおり】

[550]「はへ?」

[551]【やすこ】

[552]「書き文字は書き文字で味があってええかもな〜。

[553] 昔の同人誌みたいでレトロちっく〜」

[554]ひええええ……!

[555]み、右手が痛い……。

[556]【やすこ】

[557]「ほーれ、鍋焼きうどん、できたで〜。

[558] さぁ、召し上がれっ!」

[559]【かおり】

[560]「……こんな暑い中、鍋焼きうどん、ですか……。

[561] もう夏ですよ?」

[562]【やすこ】

[563]「暑い中に熱いモンを食うからエエんやんか。

[564] それに、誰かさんのせいで

[565] 卵を使う必要ができたからなぁ?」

[566]【かおり】

[567]「…………」

[568]【やすこ】

[569]「んー、やっぱ日本人はうどんやねぇ」

[570]しばらく、

[571]うどんをすするズルズルという音が続く。

[572]なんか変なの。

[573]わたしは山之内さんにこき使われてるけど、

[574]でも、この部屋のこの空気は嫌いじゃない。

[575]看護とは全然関係ないお手伝いだけど、

[576]無心になって手を動かすことは

[577]意外とリフレッシュになるんじゃないかって思う。

[578]その証拠に、

[579]今、ちょっとだけ気分が楽になってるもの。

[580]山之内さんの作戦に

[581]まんまと引っかかっているって思うと

[582]ちょっと微妙な気分だけど、ね。

[583]【やすこ】

[584]「沢井、疲れたか?」

[585]【かおり】

[586]「……まぁ、ちょっとだけ。

[587] 右手が痛い……かな」

[588]【やすこ】

[589]「でも、気分転換にはなったやろ」

[590]ちょっと意地悪さを感じる言い方に、

[591]素直にうなずくのは、ちょっと、ヤだな。

[592]でも、素直になれないわたしに、

[593]山之内さんは嫌な顔もせず、

[594]腕を伸ばして、くしゃりと髪を撫でてくれた。

[595]【やすこ】

[596]「悩んだり落ち込んだりした時は、

[597] アタマ空っぽにして作業するとエエねん」

[598]【やすこ】

[599]「考えてもわからんモンは、

[600] どんだけ悩んだかてわからん。

[601] 時間と労力の無駄、や」

[602]……そういうものなのかな。

[603]【やすこ】

[604]「その内、ぽこっと妙案が浮かぶまで、

[605] カミサマが休んどけって言うてるようなもんやね。

[606] 下手の考え、休むに似たり、ってな」

[607]山之内さんが向けてくれる笑顔に、

[608]わたしもクスッと笑ってしまう。

[609]【かおり】

[610]「それもたしかにありますね」

[611]【やすこ】

[612]「だいたい、恋なんざ難儀なもんや。

[613] 初恋やったらなおさらや」

[614]あれ?

[615]……恋?

[616]目を丸くしたわたしに、

[617]山之内さんはニヤリと笑った。

[618]チカッと脳裏をよぎる笑顔。

[619]……そうか、はつみさんのこと……!

[620]【やすこ】

[621]「若い内の恋やったらパワーで乗り切れる。

[622] けど、年いけばいくほど、

[623] 理性が邪魔するようになるねんな」

[624]【やすこ】

[625]「ま、向こうもいっぱいいっぱいやし、

[626] ここは、より経験豊富な方が足踏みして、

[627] 向こうが追いつくのを待つしかない」

[628]【かおり】

[629]「経験豊富、って言ったって、

[630] わたし……」

[631]【やすこ】

[632]「経験豊富っちゅーても、目くそ鼻くそやけど、

[633] 若い分、怖いもん知らずになれるやろ?」

[634]【かおり】

[635]「……怖いもの知らず……?」

[636]ニヤリと笑って

[637]山之内さんはうなずいた。

[638]心当たりがあるだろう、と言われているみたいで

[639]ちょっと恥ずかしくなる。

[640]【やすこ】

[641]「押してもダメなら、引いてみな。

[642] 引いてもダメなら、押してみな」

[643]【かおり】

[644]「それでもダメなら……?」

[645]【やすこ】

[646]「恋愛の仕方には個人差があります。

[647] 用法容量と節度を守って、理性と欲望のバランスを

[648] 見ながら、正しく歩んでください」

[649]わたしはプッと吹き出した。

[650]【かおり】

[651]「何ですか、それ」

[652]山之内さんの部屋から戻って、

[653]お風呂で念入りに右手のマッサージをして……。

[654]寝る前に、はつみさんにメールを打ってみた。

[655]【かおり】

[656]「はい、送信……っと」

[657]たぶん、このメールにレスは来ない。

[658]でも、いいの。

[659]わたしがはつみさんを好きだから。

[660]はつみさんはきっとわたしのことを

[661]わたしが言う『好き』と同じ意味で

[662]ちゃんと好きになってくれている。はず。

[663]でも、はつみさんは内科病棟の主任で、

[664]だから、わたしにはわからないような立場とか

[665]しがらみとか、理性のタガとか、

[666]いろいろあって迷ってる。

[667]このメールにも

[668]返事をしようかどうか、散々迷った挙句、

[669]答えを先延ばしにして、

[670]そのままになっちゃうんだろうなってわかってる。

[671]そりゃ、わたしだって

[672]レスしてもらえるのが一番嬉しいけど、

[673]でも、今はしっかり、はつみさんに悩んでほしい。

[674]以前、はつみさんから、

[675]「好きよ」って言葉はもらってたけど、

[676]あの時と今は、違うもんね。

[677]悩んだ末に、

[678]今の、現実と感情の間で揺れ動いたはつみさんとして

[679]答えを出してほしいと思う。

[680]わたしはまだまだ新人で、

[681]主任であるはつみさんの仕事を

[682]フォローできるようになるのはまだ先のこと。

[683]だったら、プライベートで、

[684]はつみさんのフォローをしたい。

[685]……だから、今は待とうと思うの。

[686]はつみさんが

[687]ちゃんとわたしに好きだと

[688]胸を張って言ってくれるようになるまで。

white_robe_love_syndrome/scr00705.txt · Last modified: 2013/06/01 22:49 (external edit)