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[001]【かおり】
[002]「使用済みおむつは
[003] トイレの中のおむつバケツに入れて……」
[004]【かおり】
[005]「使用済みゴム手は
[006] おむつバケツの隣の不燃物バケツに……」
[007]【かおり】
[008]「さーて、
[009] 記録、記録っと!」
[010]【かおり】
[011]「戻りました〜」
[012]【はつみ】
[013]「…………」
[014]あれ?
[015]主任さん、渋い顔してるけど
[016]何かあったのかな?
[017]そんなことはさておき、
[018]記録記録!
[019]【はつみ】
[020]「……沢井さん、手洗い」
[021]【かおり】
[022]「え」
[023]【はつみ】
[024]「何をしたのか知らないけれど、
[025] 手にゴム手のパウダーがついているわよ」
[026]あ……、そういえばわたし、
[027]手を洗ってない……。
[028]【はつみ】
[029]「処置をしたり、患者さんに触れたりした後は、
[030] 必ず感染予防の手洗いをするのは看護師の常識よ。
[031] 院内感染を起こしたら、どう責任を取るつもり?」
[032]【かおり】
[033]「す、すみません」
[034]慌てて流しで手を洗う。
[035]コールで呼ばれたついでに
[036]患者さんのおむつ交換も手伝ったんだけど、
[037]ほとんど自分で動ける人だったし、
[038]わたしがやったのは使用済みおむつを運んだだけ。
[039]だから、
[040]手は汚れてないし、
[041]いちいち洗わなくてもいいかな〜って
[042]無意識に思ったのかもしれないけれど……。
[043]でも、
[044]やっぱ、ちゃんと手を洗わないといけないよね。
[045]まだ経験はないけど、
[046]院内感染って、一度起こると
[047]とても大変らしいの。
[048]それなのに、
[049]看護師がその感染源になっちゃうなんて
[050]絶対にあってはいけないことだもんね!
[051]あ!
[052]ナースコールだ!
[053]手を拭くからちょっと待っててね……って、
[054]あれ?
[055]【はつみ】
[056]「はい、
[057] ……はい、伺います」
[058]ナースコール、
[059]主任さんが出ちゃった……。
[060]わたしは新人で
[061]あんまり仕事ができないんだから、
[062]せめてコールくらいは
[063]全部拾うつもりだったのにな。
[064]【はつみ】
[065]「沢井さん、
[066] 今のコール、堺さんからだったんだけど……」
[067]【かおり】
[068]「はい!
[069] じゃあ、点滴の交換の時間も近いので
[070] ついでにやってきますね!」
[071]【はつみ】
[072]「いえ……、
[073] あなたはいいわ。
[074] わたしが行ってくるから」
[075]【かおり】
[076]「はい?」
[077]【はつみ】
[078]「記録、あるんでしょう?
[079] あなたは記録を書いていなさい」
[080]【かおり】
[081]「……え、
[082] あ、はい」
[083]なんかよくわかんないけれど、
[084]主任さんが行ってくれるのはありがたい。
[085]これって、
[086]任せちゃっても、いいんだよね?
[087]相手は主任さんだから、
[088]わたしが行くよりも
[089]トラブルは起きないだろうしね。
[090]って、わたしが行くと
[091]トラブルだらけってわけじゃないけどっ!
[092]……うう、
[093]自分で考えてへこんじゃう……。
[094]【はつみ】
[095]「……はぁ」
[096]あ、主任さん、戻ってきた……。
[097]戻ってきた、けど、
[098]やっぱり渋い顔、してるなぁ。
[099]どうかしたのかな?
[100]【やすこ】
[101]「へい、戻りましたー!
[102] って、あれま、主任ったら眉間にシワが!
[103] 老け顔になってしまいますよ〜?」
[104]【はつみ】
[105]「…………」
[106]【やすこ】
[107]「おお、コワ」
[108]【やすこ】
[109]「はいはい、みなさーん、
[110] 主任さんがイラついてるから、
[111] 日勤さんはさっさと集まってくださーい」
[112]【かおり】
[113]「…………?」
[114]何だろう、
[115]日勤を集めるなんて。
[116]それに、このふたりの
[117]気の置けないやり取りも
[118]ちょっとだけ気になるな……。
[119]というか、山之内さん、
[120]主任さんの不機嫌そうな顔を見ただけで
[121]主任さんの思惑を理解して、
[122]日勤スタッフを集めたんだよね。
[123]【はつみ】
[124]「……みなさんに集まっていただいたのは
[125] 堺さんの情報を速やかに共有するためです」
[126]【はつみ】
[127]「データを見ればわかると思いますが、
[128] 堺さんの病状があまり思わしくありません」
[129]堺さんの病状……、
[130]再生不良性貧血の治療が
[131]思ったほど進んでないってこと?
[132]【はつみ】
[133]「現在、蛋白同化ステロイド療法を施行中ですが、
[134] 赤血球値は少し改善したものの、
[135] 期待していたほどの改善はしていません」
[136]そもそも、再生不良性貧血は
[137]骨髄の造血機能がダウンした病気。
[138]蛋白同化ステロイド療法というのは、
[139]ステロイドを用いることで、
[140]その骨髄に赤血球を作るように促す治療法のこと。
[141]【はつみ】
[142]「この治療法が奏効しなかった場合、
[143] 次の選択肢は免疫抑制療法や骨髄移植。
[144] けれど、この病院では設備がありません」
[145]【はつみ】
[146]「次のステージに進むまで、
[147] まだ時間はあるけれど、
[148] さっき、本人に話をしてきました」
[149]…………!!
[150]そうか!
[151]だから、主任さん、
[152]さっきわたしの代わりに点滴交換に行ったのね、
[153]堺さんに話を聞くために!
[154]【はつみ】
[155]「病状については正直に全て本人に話すことが
[156] 堺さんの入院時からの希望だったけれど……、
[157] さすがにショックだったようです」
[158]【はつみ】
[159]「ナーバスになっていることが予想されるので、
[160] みなさんのフォローをお願いします」
[161]【やすこ】
[162]「……そりゃナーバスにもなるやろ、
[163] なに考えてんねん、主任……」
[164]【はつみ】
[165]「特に沢井さん。
[166] 売り言葉に買い言葉で
[167] 堺さんを刺激しないように注意してください」
[168]【かおり】
[169]「は、はい、
[170] 注意します!」
[171]名指しで注意されちゃった……。
[172]気をつけなきゃね、
[173]わたしの迂闊な一言が
[174]大変なことを引き起こさないように。
[175]そろそろ堺さんの
[176]点滴交換の時間。
[177]処置台に置いてある
[178]準備済みの点滴ボトルを手にする。
[179]堺さん……、
[180]今、ひとりぼっちの部屋で
[181]何を考えているんだろう?
[182]わたしは何て
[183]声をかけるべきなんだろう……?
[184]…………。
[185]そんなの、
[186]考えてもわからないよ。
[187]ただ、堺さんが心配だと思う気持ちには
[188]間違いはないの。
[189]【かおり】
[190]「…………」
[191]……わたしが心配してることが
[192]堺さんに伝わればいいのに……。
[193]【さゆり】
[194]「……どうぞ」
[195]【かおり】
[196]「……失礼します」
[197]【さゆり】
[198]「…………」
[199]堺さんはベッドの上で静かに本を読んでいた。
[200]【かおり】
[201]「……て、点滴の交換、しますね」
[202]【さゆり】
[203]「どうぞ」
[204]【かおり】
[205]「…………」
[206]どうしよう、
[207]何か話しかけるべきか、
[208]それとも黙って、ボトル交換だけして
[209]さっさと帰るべきか……。
[210]……うう、迷う。
[211]【さゆり】
[212]「……ふっ」
[213]え?
[214]【さゆり】
[215]「緊張しすぎ。
[216] ガチガチじゃないですか」
[217]【かおり】
[218]「え……、だって……」
[219]堺さんを見ると、
[220]本を開いたまま、わたしを見ていた。
[221]――苦笑混じりの表情で。
[222]こんな表情、初めて見たよ……。
[223]【さゆり】
[224]「次の選択肢は
[225] 免疫抑制療法か骨髄移植、ですって。
[226] 面倒よね」
[227]面倒……?
[228]……うん、
[229]たしかに、そうかもしれない。
[230]わたしが堺さんだったら……。
[231]わたしが堺さんだったら
[232]次から次へと起こるトラブルに、
[233]自分の身体のことなのに
[234]面倒だなって思っちゃうかもしれない……。
[235]【さゆり】
[236]「……治療の難しさはわかってるつもりだったし、
[237] こうなることは覚悟していたけれど……」
[238]【さゆり】
[239]「実際、こんな風に
[240] 現実を目の前に突きつけられると
[241] ……ショックなものね」
[242]【かおり】
[243]「堺さん……」
[244]何を言えばいいんだろう?
[245]なんて言えば
[246]堺さんの気分は浮上するんだろう?
[247]わたしが堺さんにしてあげられることは、何?
[248]【さゆり】
[249]「……いい気味だ、って思うでしょ」
[250]【かおり】
[251]「え?」
[252]【さゆり】
[253]「良かったわね。
[254] あなたに嫌味を言う人間がもうすぐ消えるのよ、
[255] せいせいするって思わない?」
[256]…………。
[257]何を言われたのか、
[258]一瞬、理解できなかった。
[259]けれど、理解できた途端、
[260]堺さんの言葉が、胸に深く突き刺さる。
[261]【かおり】
[262]「なんで!?
[263] どうしてよ!!」
[264]気づいたらわたしは
[265]交換の終わった点滴の空ボトルを
[266]堺さんのベッドに叩き付けていた。
[267]【かおり】
[268]「どうして……!
[269] どうしてあなたはっ!!」
[270]胸が痛い。
[271]胸が、心が、
[272]痛くて、切なくて……苦しいよ。
[273]【かおり】
[274]「どうしてそんなこと言うの!?
[275] どうしてもっと自分を大事にしないの!?」
[276]心が苦しくて、痛くて、
[277]強がっている目の前の堺さんを
[278]ぎゅっと抱きしめた。
[279]【さゆり】
[280]「っ!?」
[281]【かおり】
[282]「わたし、一言でも
[283] あなたのことが嫌いだなんて言った!?
[284] 言ってないよね!」
[285]【かおり】
[286]「だって、わたし、
[287] 堺さんのこと、嫌いじゃないもの!!
[288] 堺さんはどう思ってるのか知らないけど!!」
[289]涙が出てきた。
[290]【さゆり】
[291]「ちょ……、離して……」
[292]堺さんが身じろぐ。
[293]けれど、ダメ、
[294]離してなんかやらないんだから!!
[295]【かおり】
[296]「わたしは嫌だよ、
[297] 堺さんがいなくなるなんて!」
[298]【かおり】
[299]「元気になって退院するならいいけど、
[300] 病気が悪くなっていなくなるなんて
[301] そんなの嫌だよ!」
[302]【さゆり】
[303]「嫌だ、なんて……ここは病院でしょ!
[304] 死ぬ人は死ぬのよ!」
[305]【かおり】
[306]「そんなのわかってる!
[307] でも、嫌なものは嫌なんだもん!」
[308]【かおり】
[309]「ねぇ、わたしに何かできることはない?
[310] 堺さんのために、何か
[311] してあげられることはない?」
[312]【さゆり】
[313]「…………」
[314]頬を染める、堺さん。
[315]【さゆり】
[316]「……取り敢えず、離してください。
[317] 苦しいです」
[318]【かおり】
[319]「!!」
[320]言われて初めて
[321]わたしは堺さんを思いきり強く
[322]抱き締めていたことに気づいた。
[323]慌てて腕の力を緩める。
[324]【さゆり】
[325]「それから……泣くのをやめてください」
[326]【さゆり】
[327]「わたしが意地悪なことを言って泣かせた涙なら
[328] 別にいいんですけど、そうやって
[329] いい子ぶられた涙は……苦手です」
[330]堺さんの腕が
[331]わたしをやんわりと押しのけた。
[332]【かおり】
[333]「……いい子ぶってなんか、ないよ……」
[334]細い腕に押しやられるままに、
[335]身体を離して、ぼそっと呟く。
[336]堺さんは相変わらずだ。
[337]でも、精一杯の強がりの下に
[338]ちらりと素直な心が覗いているような気がする。
[339]そっぽを向いたまま、
[340]堺さんはうつむいた。
[341]【さゆり】
[342]「……あなたは残酷な人ですね」
[343]【かおり】
[344]「え?」
[345]堺さんの言葉が聞こえなかった。
[346]問うように、じっと見つめると、
[347]堺さんは居心地が悪そうに身じろぎをしてから、
[348]ため息をついて、わたしを見た。
[349]……いつもの、少し意地悪そうな表情で。
[350]【さゆり】
[351]「わたしの病気を知っていてなお
[352] 生きろと言うなんて」
[353]【さゆり】
[354]「死ぬ方が……死んだ方が楽な病気もあるのに、
[355] それでもあなたは生きろと言うんですね、
[356] 残酷にも」
[357]【かおり】
[358]「…………」
[359]ゴクリと息を呑む。
[360]残酷?
[361]残酷、なのかな?
[362]きゅっと唇を噛んで、堺さんを見つめる。
[363]…………。
[364]うん、そうかもしれない。
[365]でも……、
[366]それでも……。
[367]【かおり】
[368]「……堺さんに生きて欲しい。
[369] わたしはそう思うよ」
[370]【かおり】
[371]「治療がどんなに辛くても、治る可能性があるのなら、
[372] 生きるために、生き延びるために
[373] その治療を受けて欲しいって思う」
[374]【さゆり】
[375]「…………」
[376]堺さんは膝の上の本を閉じて、
[377]わたしに背を向けるように
[378]ベッドに横になった。
[379]【さゆり】
[380]「偽善者」
[381]【かおり】
[382]「…………」
[383]堺さんの言葉が胸に重くのしかかる。
[384]それ以上
[385]堺さんは口を開いてくれそうになかったので、
[386]わたしは軽く頭を下げて、病室の外へ出た。
[387]偽善者……か。
[388]記録を書かなきゃいけないんだけど……。
[389]【かおり】
[390]「…………」
[391]ボールペンがまったく進まない。
[392] 「……あなたは残酷な人ですね」
[393]堺さんの言葉が何度もリフレインする。
[394] 「わたしの病気を知っていてなお
[395] 生きろと言うなんて」
[396] 「死ぬ方が……死んだ方が楽な病気もあるのに、
[397] それでもあなたは生きろと言うんですね、
[398] 残酷にも」
[399] 「偽善者」
[400]堺さんの言う通り、
[401]わたしは偽善者、なのかもしれない。
[402]堺さんに何をしてあげればいいのかわからない。
[403]わたしに何ができるのか、わからない。
[404]それでも……、
[405]堺さんがいなくなるなんて
[406]考えるのもいやだし、
[407]それが仕事だとしても、考えたくもない。
[408]【かおり】
[409]「…………」
[410]ため息をつく。
[411]コツン、と目の前に紙コップが置かれた。
[412]検尿カップ。
[413]中の淡い黄色とも茶色ともつかない液体が
[414]ほかほかと湯気を立てている。
[415]【はつみ】
[416]「少し気分転換をすれば
[417] 記録も書けるようになるかもしれないわね」
[418]検尿カップに入っているのは、……緑茶?
[419]【かおり】
[420]「…………」
[421]主任さんの気遣いが嬉しい。
[422]けれど……。
[423]【かおり】
[424]「検尿カップにお茶、は
[425] ちょっとヤな感じですね」
[426]お茶だと頭ではわかっているのに、
[427]手を出すのをためらってしまう、この見た目……。
[428]【はつみ】
[429]「……看護師という職業を続けていると
[430] そんなことは気にならなくなるわ」
[431]笑う、主任さん。
[432]釣られてわたしも小さく笑う。
[433]【かおり】
[434]「…………」
[435]そう、
[436]きっと主任さんなら知っている。
[437]わたしが悩んでいる、その答えを。
[438]【かおり】
[439]「あの、主任さん……」
[440]【はつみ】
[441]「なにかしら?」
[442]【かおり】
[443]「わたし……、偽善者、なんでしょうか?」
[444]主任さんは少し驚いたような顔で
[445]わたしを見た。
[446]【はつみ】
[447]「……堺さんにそう言われたの?」
[448]ボールペンを持ったまま、
[449]お茶には手を伸ばさずに、コクリとうなずく。
[450]【はつみ】
[451]「……そう。
[452] 堺さんには、あなたが偽善者に
[453] 見えるのかもしれないわね」
[454]【かおり】
[455]「…………」
[456]【はつみ】
[457]「けれど、堺さんは
[458] あなたを偽善者だと言いたかっただけ、
[459] それだけなのかもしれないわよ?」
[460]【かおり】
[461]「……え?」
[462]微妙にニュアンスの違う言い方に、
[463]心の奥で何かがひらめいた。
[464]そのひらめきが、
[465]どんどんと形になってくる。
[466]……もしかしたら。
[467]もしかしたら堺さんは、
[468]わたしのこと、本心では偽善者だとは
[469]思っていないかもしれない。
[470]けれど、わたしを偽善者と言うことで、
[471]わたしを悪者にすることで、
[472]堺さんの心は楽になるのかもしれない。
[473]堺さんの本心はどうであれ
[474]彼女がわたしに偽善者って言ったことは事実。
[475]けれど、わたしには
[476]堺さんが本当はどう思っているのか
[477]わからないし、わかっていないのも事実。
[478]堺さんは一筋縄ではいかない人だから。
[479]堺さんをもっと理解したいという
[480]思いが足りないのかなぁ?
[481]【かおり】
[482]「主任さん……、わたしは堺さんに
[483] 何をしてあげられるんでしょうか」
[484]【はつみ】
[485]「…………」
[486]主任さんが小さく笑った。
[487]そして――。
[488]【かおり】
[489]「あいたっ!」
[490]デ、デコピンされちゃった!?
[491]【はつみ】
[492]「藤沢さんを見習ってやってみたの。
[493] 意外と新人指導に使えるのね、デコピンって」
[494]【かおり】
[495]「しゅ、主任さん……?」
[496]……うう、
[497]おでこ、いたい。
[498]【はつみ】
[499]「そうやって
[500] ズルをしようとしてはいけないわ」
[501]【かおり】
[502]「え?」
[503]【はつみ】
[504]「悩んで悩んで、悩み抜いて、
[505] 自分の頭で考えてから
[506] 答えを出しなさい」
[507]【はつみ】
[508]「誰かに聞くことで得た答えは
[509] あなたの出した答えではないのよ」
[510]【かおり】
[511]「…………」
[512]会話はそこでもう終わったらしく、
[513]主任さんは自分のデスクについた。
[514]伝票を取り出して、
[515]いつものようにもう何か書き始めている。
[516]【かおり】
[517]「…………」
[518]誰かに聞くことで得た答えは
[519]わたしの答えじゃない……。
[520]…………。
[521]うん、主任さんの言いたいこと
[522]何となくだけど、わかる。
[523]わたしはまた記録に向き直った。
[524]まだ真っ白な記録。
[525]【はつみ】
[526]「……患者さんに何をしてあげられるか、ではなく、
[527] どうしたいのか、どうなりたいのか、を
[528] しっかり考えなさい」
[529]【かおり】
[530]「え?」
[531]主任さんの言葉に顔を上げた。
[532]主任さんは相変わらず、伝票を書いている。
[533]今の言葉は
[534]まるでわたしの空耳だったと言わんばかりの
[535]その背中……。
[536]【かおり】
[537]「…………」
[538]わたしが、どうしたいのか。
[539]わたしは、どうなりたいのか。
[540]……わたしは
[541]どうなりたいんだろう……?
[542]部屋に戻ってもスッキリしない。
[543]再生不良性貧血について
[544]自分でまとめたノートを取り出して
[545]もう一度、読む。
[546]堺さんにとって、
[547]ステロイド療法はあまり効果がなかった。
[548]次の選択肢は、
[549]免疫抑制療法か、骨髄移植。
[550]免疫抑制療法は
[551]生存率が上がったのはいいんだけど、
[552]骨髄にダメージが残る。
[553]長く生きられるようになるのはいいんだけど、
[554]長期生存では逆に、この治療ゆえの副作用……
[555]つまり、骨髄の病気や白血病が
[556]出てきてしまうようになる。
[557]ということはつまり、
[558]若い患者さんに免疫抑制療法をおこなうことは
[559]大人になってからの別の病気の発症率を高くする、と
[560]いうこと。
[561]だから、若い再生不良貧血の患者さんには
[562]ステロイド療法の次の第一選択は
[563]免疫抑制療法ではなく、
[564]骨髄移植になっているけれど……。
[565]【かおり】
[566]「骨髄移植は難しいのよね……」
[567]ボソッと呟いて
[568]わたしはハッとした。
[569]骨髄移植の最大の困難は、
[570]骨髄提供者(ドナー)が少ないこと。
[571]ということは、つまり……!
[572]【かおり】
[573]「わ、わたし!!」
[574]骨髄提供……!
[575]あわててノートを見る。
[576]骨髄移植についても
[577]わたし、主任さんと勉強した!!
[578]【かおり】
[579]「あった、ここだ!!」
[580]やっぱりそうだ!
[581]白血球の血液型であるHLAが一致すれば
[582]その相手に骨髄提供ができる!
[583]【かおり】
[584]「……でも……」
[585]ドナー登録したとしても、
[586]堺さんのHLAと、わたしのHLAが
[587]一致しなければ、提供はできない。
[588]そして、堺さんでなくても
[589]他の誰かのHLAが一致すれば、
[590]わたしはその困っている他の誰かに
[591]骨髄を提供できる。
[592]提供を拒否することもできるけれど、
[593]拒否されたその人は、ぬか喜びの上、
[594]次にHLAが一致する誰かを待つことになる。
[595]相手が堺さんであってもなくても、
[596]骨髄を提供することになれば、
[597]一週間ほど仕事を休まなければいけない。
[598]【かおり】
[599]「…………」
[600]どうしよう……。
[601]ドナー登録、する?
[602]ドナー登録しない
[603]ドナー登録する
[604]【かおり】
[605]「…………」
[606]うん、やめておこう。
[607]ドナー登録したところで
[608]わたしは堺さんの血縁者じゃないんだし、
[609]HLAが適合する可能性は少ない。
[610]それに、
[611]もし、見知らぬ人と適合しちゃったら……。
[612]今のこの状況で一週間も仕事を休むのは
[613]わたしみたいな新人にとってハイリスクだもんね。
[614]……やめておこう。
[615]ドナー登録じゃなくて
[616]他にできることを探そう。
[617]【かおり】
[618]「…………」
[619]ドキドキする。
[620]お、落ち着かなくちゃ、わたし!
[621]まだ堺さんに骨髄を提供できるなんて
[622]決まったわけじゃないんだし。
[623]わたしみたいな新人看護師には、
[624]できることが少ないもんね!
[625]なら、できることはやろうと思う。
[626]結果として
[627]わたしの骨髄が誰かの役に立てるなら
[628]それだけでいい。
[629]ううん、
[630]誰の役に立たなくても、それでいいと思う。
[631]堺さんには
[632]また自己満足って言われるかもだけど、
[633]わたしがドナー登録したいんだもん、
[634]それでいいじゃない。
[635]【かおり】
[636]「あれ……?
[637] ドナー登録なんてどうやればいいのかな?」
[638]何枚かノートをめくってみたけれど、
[639]そんなことはどこにも書かれてない。
[640]そりゃそうよね、
[641]そんなこと書いた覚えなんてないんだもの。
[642]【かおり】
[643]「よし!
[644] 主任さんに訊いてみよう!」
[645]困ったときの主任さん頼み。
[646]ちょっと迷惑そうな顔をされちゃうかもだけど、
[647]主任さんならきっとわかってくれるよね!