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white_robe_love_syndrome:scr00513

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[001]昨日、堺さんに噛まれた跡は

[002]今日になってだいぶ痛みも落ち着いてきた。

[003]昨日はもう本当に大変だったの。

[004]主任さんに見せたら

[005]大問題にされちゃいそうだったし、

[006]なぎさ先輩にだって

[007]とてもじゃないけど見せられない。

[008]だもんで、ひとり、

[009]こっそり隠れて傷の手当てをしたの。

[010]でも、左手でピンセット……じゃなかった、

[011]鑷子(せっし)を持つのって

[012]すごく難しいのよね。

[013]途中、入ってきたバイトの看護師さんが

[014]「子どもに噛まれたの?」って

[015]手当てしてくれて、ホント、助かっちゃった。

[016]その手当てのおかげか、

[017]お風呂では思ったほど染みなくて、

[018]起きたらすっかりかさぶたになってたの。

[019]あ、医療用語で言うと

[020]痂皮(かひ)形成、っていう……んだよね。

[021]うう、いまいち自信がないから

[022]後で調べておかなくちゃ……。

[023]【???】

[024]「……沢井さん。

[025] その跡は、何なの?」

[026]背後から声をかけられた。

[027]振り向くと

[028]不審そうな顔の主任さんが立っている。

[029]その視線は、堺さんがわたしの右腕につけた

[030]かさぶたになった歯型に注がれている。

[031]わたしはなるべく平静を装って

[032]ニコッと笑ってみせた。

[033]ふふん、

[034]主任さんに訊かれた時のために、

[035]考えておいた言い訳を披露できるよ。

[036]【かおり】

[037]「あ、これですか?

[038] 昨日、子どもたちのケンカを仲裁した時に

[039] 噛まれちゃったんです」

[040]【かおり】

[041]「まだちょっとヒリヒリしてるけど、

[042] もう平気です」

[043]【はつみ】

[044]「そうなの……」

[045]不審そうな顔をしながらも

[046]主任さんは納得してくれたようだ。

[047]奥のデスクへ行って、

[048]いつものように、何か伝票を書き始めてる。

[049]……ホッ。

[050]昨日はまだ傷が生々しかったから

[051]ガーゼを貼ってたけど、

[052]今日はもうあまり痛みもないし、

[053]そのままにしてるんだけど……。

[054]……やっぱり目立つ、のかなぁ、この歯型……。

[055]堺さんが何を思って

[056]わたしの腕に、こんな歯形をつけたのか

[057]わからないけど。

[058]でも、患者さんの痛みを、

[059]堺さんの痛みを理解するきっかけにはなるかもね。

[060]わたしには

[061]圧倒的に経験が足りないから、

[062]こういう怪我も経験の内、になるよね。

[063]【かおり】

[064]「あ、出ます!」

[065]【はつみ】

[066]「お願い」

[067]わたし、もっともっと経験を積まないと!!

[068]【かおり】

[069]「はーい、どうされました?」

[070]【かおり】

[071]「戻りました〜」

[072]【やすこ】

[073]「沢井、今、なんか急ぎの仕事ある?」

[074]【かおり】

[075]「えと……、

[076] コール対応から戻ってきただけなので

[077] あとは記録を書くくらいですけど……」

[078]【やすこ】

[079]「ほな、先にエッセン入ってくれる?」

[080]【かおり】

[081]「は?

[082] エセ?」

[083]『ホラを吹く』なら聞いたことあるけど、

[084]『エセに入る』は聞いたことないよ……?

[085]そういう言葉があるのかな?

[086]それとも、わたしが知らないだけで

[087]何か別の意味があるのかな……?

[088]【やすこ】

[089]「エセ、やない、エッセン!

[090] ドイツ語で食事のことな。

[091] つまり、食事行け、ってこと」

[092]うわ、専門用語、来たーー!

[093]【かおり】

[094]「……日本語で言ってください」

[095]【やすこ】

[096]「うん、沢井はたぶん知らんやろなーて思うて」

[097]【かおり】

[098]「何ですか、それ!」

[099]んもう、失礼しちゃうなぁ!

[100]わたしが知らない言葉をわざわざ選んで使うなんて、

[101]山之内さんたらイジワル!!

[102]……ひとりで食べるお昼ごはんは

[103]なんだか味気ないな……。

[104]【はつみ】

[105]「……お昼だったのね、沢井さん」

[106]【かおり】

[107]「あ、ほはきひれまふー」

[108]ちょうど、最後の一切れを口に入れたところだったので、

[109]変な言葉になっちゃった。

[110]主任さんは困ったような顔で

[111]わたしを見ている。

[112]【はつみ】

[113]「食べてからしゃべりなさい、

[114] 食べてから」

[115]それから、クスッと笑って、

[116]ポケットの中から小さな容器を取り出した。

[117]【はつみ】

[118]「……これ、効くわよ」

[119]はい、と目の前に置かれた。

[120]お弁当箱のふたを閉めて、片付けてから、

[121]その容器を手に取る。

[122]【かおり】

[123]「……なんですか、これ……?

[124] 軟膏……?」

[125]【はつみ】

[126]「わたしが昔から使っていたレシピで

[127] 処方してもらった薬よ。

[128] たぶん、あなたにも効くわ」

[129]【かおり】

[130]「?」

[131]主任さんの言葉の意味はよくわからなかったけれど、

[132]つまり、良く効く軟膏をあげる、ってことよね。

[133]ふたを開けてみた。

[134]周囲にふわっと香る、優しい花の香り。

[135]【かおり】

[136]「うわぁ、いい匂い……」

[137]どうしてだろう、

[138]この香り、どこか懐かしささえ感じるような……。

[139]クスッと主任さんが笑った。

[140]【はつみ】

[141]「貸しなさい。

[142] 塗ってあげるわ、

[143] 左手では塗りにくいでしょう?」

[144]【かおり】

[145]「えと、……はい。

[146] お願いします」

[147]おとなしく、右手を差し出した。

[148]主任さんが、わたしの手を支えてくれる。

[149]あたたかくて、優しい手。

[150]休憩室に

[151]不思議な花の香りが広がる。

[152]軟膏はやわらかくて

[153]傷口にもスルスルと伸びてゆく。

[154]そして、傷口の痛みや不快感は

[155]まるでウソのように治まってしまった。

[156]【かおり】

[157]「うわ……ぁ、

[158] この軟膏、本当に良く効くんですねぇ……」

[159]主任さんがまたクスッと笑う。

[160]それから、ふたを閉めながら

[161]何気ない口調で話した。

[162]【はつみ】

[163]「大きな子どもの担当が辛いなら、

[164] 担当を替えてもいいわよ?」

[165]【かおり】

[166]「はい?」

[167]大きな子ども……って?

[168]目の前に、こつんと音を立てて

[169]軟膏が置かれる。

[170]【かおり】

[171]「あ、あの……」

[172]……つまり、

[173]この歯型の主が誰なのか、

[174]主任さんはわかってる、ってこと?

[175]【はつみ】

[176]「これから、彼女はどんどん辛くなるわ。

[177] 新人の手には負えないほどにね」

[178]【かおり】

[179]「……!!」

[180]ドキッとした。

[181]間違いなく、バレてる。

[182]そもそも、この歯型の主が堺さんだって

[183]主任さんに隠し通せるわけがなかったんだよね。

[184]でも、

[185]……今の言葉、どういう意味なのかな。

[186]辛くなる、って言ってたよね。

[187]主任さんが堺さんのことを言っているなら、

[188]新人であるわたしの手に負えないほど

[189]辛い看護になるということ?

[190]それって、堺さんの病状は、

[191]今後、悪化していく、ってことなの?

[192]【はつみ】

[193]「……担当、替わる?」

[194]主任さんに

[195]目を覗き込まれた。

[196]不意に、目の前に

[197]高熱にうなされる堺さんのイメージが浮かんだ。

[198]悔しそうな顔はやつれていて、

[199]弱々しい眼差しは、死を見据えて……。

[200]【かおり】

[201]「っ!!」

[202]【はつみ】

[203]「……替わるなら、

[204] そのように手配するわよ」

[205]担当を替わりたい気もある。

[206]そうすれば

[207]あの嫌味攻撃からは逃れられるから。

[208]同時に、

[209]あんな風に苦しそうにしている

[210]堺さんを看ずに済むから。

[211]でも、替わりたくない。

[212]せっかく、堺さんと

[213]心が通いかけたかもしれないのに、

[214]こんなところでドロップアウトしたくない。

[215]それに、堺さんは

[216]わたしの初めての担当患者さんなんだから、

[217]どんなに辛くても最後まで看護したい。

[218]【かおり】

[219]「…………」

[220]……結論が出ない。

[221]けれど、主任さんの目から視線を逸らせない。

[222]だって、主任さんのその目は、

[223]今ここで決めろと言っている……!

[224]わたしはどうするべきなんだろう?

[225]ううん、

[226]わたしはどうしたいんだろう?

[227]替わりたい

[228]替わりたくない

[229]【かおり】

[230]「そう、ですね……。

[231] わたしには荷が重いかもしれません……」

[232]これから病状が悪化するというのなら

[233]きっと堺さんの嫌味攻撃も

[234]これからは更に鋭く、酷いものになるだろう。

[235]それらの『口撃』に

[236]わたしが耐えられるのかと考えれば、

[237]正直、全く自信がない。

[238]そもそも、最初から

[239]わたしには荷が重い患者さんだったんだから。

[240]チラッと主任さんを見ると、

[241]主任さんは何故か落胆した顔をしてる。

[242]【はつみ】

[243]「……あなたは似ていないのね」

[244]【かおり】

[245]「え?」

[246]誰にですか、と聞こうとしたけれど、

[247]訊けるような雰囲気じゃない。

[248]主任さんから言い出したことなのに、

[249]その主任さんががっかりしてるなんて……。

[250]……ということは、

[251]主任さんはわたしを試したということ!?

[252]【はつみ】

[253]「では、今週中に

[254] あなたを担当から外すよう手配しておきます」

[255]耳元で鼓動が

[256]ドキンドキンとうるさく鳴っている。

[257]本当にいいの、これで?

[258]誰かが胸の奥でささやく。

[259]堺さんの担当を外れちゃっても、

[260]本当に後悔しない?

[261]【かおり】

[262]「……や、やっぱり」

[263]ぎゅっと両手を握り合わせて

[264]その手を胸元に持っていく。

[265]ちっぽけなわたしの勇気、

[266]今だけでいいから出てきて!

[267]【かおり】

[268]「た、担当替えの話、

[269] もう少し待ってください!」

[270]【はつみ】

[271]「…………」

[272]無表情の主任さんが

[273]わたしを黙って見ている。

[274]【かおり】

[275]「堺さんはわたしの初めての担当患者さんですし……、

[276] もう少し、わたしが耐えられなくなるまで

[277] 待ってください」

[278]【はつみ】

[279]「耐えられなくなるまで、か。

[280] 舐められたものね、

[281] そんな中途半端な覚悟しかできないなんて」

[282]グサッと来る言葉。

[283]【かおり】

[284]「舐めたつもりはありません。

[285] その証拠に、耐えてみせます!」

[286]【はつみ】

[287]「……口では何とでも言えるわ」

[288]ぐっと言葉に詰まる。

[289]仕事を舐めてるって思われるような

[290]発言をしたのはわたし。

[291]だから、……何も言い返せない。

[292]きゅっと唇を噛んだ時、主任さんが小さく笑った。

[293]【はつみ】

[294]「その言葉、

[295] 自分の行動で証明なさい」

[296]【かおり】

[297]「は、はい!」

[298]【かおり】

[299]「いやです……!

[300] わたし、逃げたくない!

[301] 逃げるのは、いやです!」

[302]【かおり】

[303]「堺さんは、わたしの

[304] 初めての担当患者さんなんです!」

[305]【かおり】

[306]「何もできないかもしれないけど、

[307] 堺さんの辛い思いを

[308] わたしがちゃんと受け止めてあげたいんです」

[309]【かおり】

[310]「辛いかもしれないけど、

[311] 泣いちゃうかもしれないけど、

[312] 最後まで、わたしが担当したいです!」

[313]主任さんはクールな瞳でわたしを見つめている。

[314]【はつみ】

[315]「……覚悟はできているのね?」

[316]覚悟なんて……、

[317]そんなもの、正直、これっぽっちもない。

[318]それでも、

[319]ここで主任さんを相手に逃げないと言った以上、

[320]覚悟を決めるしかない。

[321]【かおり】

[322]「……はい、

[323] 覚悟を、決めました」

[324]ふっと

[325]主任さんが泣きそうな表情になった。

[326]【はつみ】

[327]「……あなたの進む道は辛く険しい道よ。

[328] 今後もきっと辛いことがたくさんある」

[329]【はつみ】

[330]「でも、あなたはひとりではないの。

[331] それだけは忘れないで」

[332]よくわからないけれど……。

[333]わからないけれど、

[334]主任さんは何か大事なことを

[335]伝えようとしてくれているのが伝わるから。

[336]だから、わたしは

[337]こくりとうなずいてみせる。

[338]【はつみ】

[339]「……わたしから、ひとつ、

[340] アドバイスをあげるわ」

[341]主任さんは

[342]しばらく迷う素振りをした後、

[343]ポツリと言った。

[344]【はつみ】

[345]「あなたの中に、あなたの進むべき道がある」

[346]【かおり】

[347]「え?」

[348]【はつみ】

[349]「迷った時は

[350] あなたの中に答えを探しなさい」

[351]【かおり】

[352]「わたしの中に……?」

[353]謎かけのような言葉。

[354]【はつみ】

[355]「……わたしが言えることは、これだけよ」

[356]けれど、内容を聞いたところで、

[357]主任さんはこれ以上は

[358]何も言ってはくれないだろう。

[359]知りたいことは、自分の頭で考えて、

[360]調べ尽くして、悩み抜いた末でなければ、

[361]主任さんはきっと助けてはくれない。

[362]自分にも他人にも厳しい人だと、

[363]わたしはもう知っているから。

[364]【かおり】

[365]「……わたしは

[366] 主任さんの期待を裏切るつもりはありません」

[367]まっすぐに見据えて、言い切った。

[368]主任さんは、満足そうに

[369]にっこりと笑ってくれた。

[370]【はつみ】

[371]「期待しているわよ」

[372]【かおり】

[373]「はい!」

[374]パンと主任さんが手を叩いて、

[375]勢いをつけるように立ち上がった。

[376]【はつみ】

[377]「さ、休憩は終わりよ、

[378] 仕事に戻ってください」

[379]主任さんの言葉で、わたしも立ち上がる。

[380]【かおり】

[381]「はい!」

[382]わたしのお昼の休憩は終わり!

[383]さ、仕事しなきゃね、

[384]患者さんが待ってるんだから!

white_robe_love_syndrome/scr00513.txt · Last modified: 2018/05/22 17:15 (external edit)