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sapphism_no_gensou:7602

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[Soyeon] それは、季節はずれに蒸し暑い夜のことでした。

[Soyeon] ポーラースターは夜半から、濃い霧につつまれ、デッキに立つと、ちょっとの先も見えないほどでした。

[Soyeon] もちろん、わたし達学生は、寮の中にいたから、関係ないんだけど……。

[Soyeon] 窓の外を通る、霧だけの海。それだけで、室内がしけってくるような感覚はありました。

[Soyeon] 今、思えば、天気なんてまるで関係ないのかもしれないけど……。

[Soyeon] あの不思議な事件が起きるには、十分すぎる雰囲気だったんです……。

[Tenkyouin] すごいな……、まるで外が見えやしない……。

[Narration] 窓の外をのぞき込みながら、天京院はそうつぶやいた。

[Narration] 自分の部屋で、自分の机につき、何をするでもなく窓の外を見ていた。

[Narration] 彼女の言うとおり、霧だらけで何も見えない外を。

[Soyeon] 濃霧注意報が出てました。

[Soyeon] 今夜は、学生は甲板にあがっちゃダメってことですね。

[Tenkyouin] ふん、安全のためか……。

[Tenkyouin] そんじょそこらの船ならわかるが、このポーラースターのどこから海に落ちる危険があるというんだ?

[Tenkyouin] 外に出てから、甲板の端にいくまでに、この霧じゃ迷子になる。

[Soyeon] 迷子になったら困るってことじゃないですか?

[Tenkyouin] ふん……。

[Narration] ソヨンの言葉が、意外に彼女の論の隙をついたのか、天京院はつまらなそうに鼻をならすと、コーヒーを口元に運んだ。

[Soyeon] それにしても、杏里さん、遅いなぁ……。

[Narration] ソヨンは、彼女が、正確には彼女と杏里が、拾ってきた猫、ヤーンを抱きながら、そうつぶやく。

[Tenkyouin] なんだ、杏里も来るのか。

[Soyeon] ええ、あとでこちらに来るって言っていました。

[Tenkyouin] やれやれ、コーヒーを用意しておいてやらなきゃな。

[Narration] 天京院が腰を上げる。ミキサーの立ち並ぶ部屋の一角へと歩み寄ると、棚の一つをあけてコーヒー豆の袋を取り出し、そのひとすくいを、ミキサーの中へ放り込む。

[Narration] やがて、部屋中に響き出す破砕音、そして、充満するコーヒーの香り。

[Soyeon] ヤーンもすっかり大きくなりましたね。

[Narration] ソヨンの手の中でおとなしく抱かれているマーブル模様のマンクス猫は、すっかり四肢もがっしりと伸び、ソヨンが船の下層部で助け出した時の名残はほとんどない。

[Tenkyouin] 拾ったのは、おそらく、生まれてからひと月もたっていない時だ。

[Tenkyouin] あれから、何ヶ月もたっている。成長もするだろう。

[Narration] 猫にとって、生後1年は、人間にとって成人するまでの期間に当たる。まだ赤ん坊だったヤーンも、この数ヶ月で少年といえるまで成長していた。

[Soyeon] 大事にされているね、お前。よかったね。

[Tenkyouin] ふん、手間がかかってしょうがない。研究の邪魔さ。預かるんじゃなかったと、まだ、後悔する時がある。

[Soyeon] あんなこと言ってるよ? 本当かな?

[Narration] ソヨンの問いかけに、ヤーンは一声鳴いて答える。肯定とも否定とも判別はできなくても……、ソヨンには虐待された飼い猫のだす声ではないと確信した。

[Soyeon] ふふふ……。

[Tenkyouin] ふん……。

[Tenkyouin] しかし、遅いな……、杏里は。ソヨンをここで寝かせる気か?

[Soyeon] ご心配なく、あたし、まだ、起きていられますよ。

[Narration] ソヨンが噛み殺せなくなった笑いを浮かべて答えた時、部屋にノックの音が響いた。

[Soyeon] ……誰でしょう?

[Tenkyouin] さぁ?

[Soyeon] あ、あたし出ます。

[Narration] ソヨンが、ヤーンを専用のベッドに戻し、立ち上がる。軽快な足取りで、障害物だらけの部屋を横切って、ドアへと向かった。

[Soyeon] はい……。……え?

[Narration] 内側から施錠を解いて、訪問者を迎え入れたソヨンが、疑問の声をあげる。

[Tenkyouin] 誰だ? ………………。

[Narration] ミキサー付きコーヒーメーカーの前から、視線をドアへと向けた天京院が、ソヨンが中に入れた人物を見て、押し黙る。

[Narration] 招き入れられた人物は部屋の主を見て、言った。

[Anri] 遅くなってごめんなさい。

[Tenkyouin] ………………。

[Soyeon] ………………。

[Anri] どうしたの?

[Tenkyouin] いや、どうも。別に、待ち合わせをしていたわけじゃない、少なくともあたしは。部屋におしかけられただけだからね。

[Anri] ……ああ。

[Tenkyouin] ところで……。

[Narration] 天京院は持っていたコーヒーカップを手近な棚の上に置き、訪問者をねめつける。

[Narration] それは、そっとその背後に回り、ドアへの退路を断った形のソヨンも同じだった。慎重に視線を向けている。

[Narration] そして、二人は同時に口を開いた。

[Narration] 「君は、誰だ?」

「あなた、誰ですか?」

[Anri] ……ばれていたんだ。

[Tenkyouin] ばれていないと思っていたのなら、浅はかだな。狐や狸の類が杏里に化けたのか?

[Anri] ……どうしてわかったの? 少なくとも、おかしな態度はとっていないと思うけど。

[Tenkyouin] 姿も声も、そのままか。お見事だけどね。

[Soyeon] でも、どうして、なんて簡単なことです。

[Soyeon] 杏里さんが、天京院先輩の部屋に入るのに、ノックするわけがありません。

[Tenkyouin] そう。そして、あたしが杏里の来訪に気づかずに、鍵をかけたままにするわけがないってことさ。

[Anri] ……そんな理由なんだ……。驚いたな……。

[Tenkyouin] 驚くのは好きにしろ。何者だ、君は。

[Anri] 想像以上に、変な人なんだね、この人は。

[Soyeon] ……杏里さん!?

[Tenkyouin] なるほど……、察するに、幽霊かなにかの類が、杏里にとりついたか。

[Soyeon] え……、じゃあ、天京院先輩、この人は杏里さんの体を……?

[Tenkyouin] 乗っ取っているとみていいだろうな。

[Narration] ゆっくりと天京院のそばまで寄ってきたソヨンの問いに、天京院は杏里から視線を動かさずに答えた。

[Anri] 意外に、冷静なんだね。この人は、興味を持っていたよ。あなたが、幽霊を見て、どんな態度をとるのかって。

[Tenkyouin] ふん、取り乱して、そんなものはありえないと言うとでも思ったか?

[Soyeon] あ、あたしもそんな想像してみました。

[Tenkyouin] あいにく、この天京院鼎は学究の徒だ。およそ、この世に、科学で証明できないものなどないと信じている。

[Anri] じゃあ、私の存在は証明できるんだ。

[Tenkyouin] いいや。

[Soyeon] ……矛盾してませんか、先輩。

[Tenkyouin] していない。単に、目の前にいる君に対して、あたしはあまりにも判断にもちうべき情報が不足しているだけだ。

[Tenkyouin] 科学はけして、敗北はしない。だが、科学者の敗北は、情報の不足か、理論の未到達か、実践の不可能であり得ることだ。さて。

[Tenkyouin] 何者だ、君は。さして用がないなら、そこから出ていってもらおう。

[Tenkyouin] 別に、君を科学で証明できないことに、あたしはさして痛痒を感じないのでね。

[Anri] ……私は……。

[Anri] この学園の学生。でも、それはずっと昔のことだけど……。

sapphism_no_gensou/7602.txt · Last modified: 2018/05/22 17:15 (external edit)