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sapphism_no_gensou:7514

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[Anri] ……?

[Narration] かすかな物音に気づいて、杏里は暗闇の中、体を起こした。

[Narration] すでに深夜。時計の針は暗がりの中、定かではないものの、2時をまわっているようだった。

[Narration] 天京院の部屋に立て籠もった面々は、それぞれ、思い思いの場所で、ブランケットにくるまって寝息を立てている。

[Narration] 眠り落ちる直前の記憶をたぐって、杏里は全員の位置を確認する。どうやら、誰かが起き出してたてた物音ではないらしい。

[Narration] ならば、自分はなんの音で目が覚めたのだろう?

[Narration] その疑問に対して、答えはすぐに現れた。

[Anri] ドアの方……?

[Narration] 再び耳に届いた音に、杏里はそれが響いてきた方向に顔を向ける。

[Anri] なんだろう……?

[Narration] 側に脱ぎ捨てていた上着に袖を通し、杏里はそっと立ち上がる。そして、できる限り物音をたてないように、扉へと向かった。

[Anri] 誰だい……?

[Narration] 物音の正体は、扉を外から叩く、小さな音だった。

[Narration] 杏里の誰何の声に、答えはすぐ、返ってきた。

[Tenkyouin] あたしだ。

[Anri] かなえさん!?

[Narration] 思わず、杏里はひたりと扉に張り付く。

[Tenkyouin] そのままで聞いてくれ。

[Anri] う、うん……。

[Narration] 扉越しにかすかな声を響かせあう、会話。

[Tenkyouin] 今日、船を降りるよ。

[Anri] ……そうなんだ。

[Tenkyouin] そんなに驚かないね。アイーシャから聞いていたかい?

[Anri] うん……。

[Anri] でも、荷物は……? 卒業証書だって、研究所への紹介状だってここにあるんでしょう?

[Tenkyouin] そんなものは、あとで送ってもらえばいいからね。

[Tenkyouin] だから、杏里、君達のやっていたことは、実は無意味だ。

[Anri] 無意味……。

[Narration] 杏里は上着の胸をつかむ。

[Anri] また、そう言うんだね、かなえさん……。

[Tenkyouin] ……ああ、そうだね。

[Tenkyouin] 杏里……。

[Tenkyouin] このあいだ、曾祖母が亡くなった。

[Anri] え?

[Tenkyouin] 実家に帰っていただろう?

[Anri] う、うん。知ってた。

[Tenkyouin] あたしは、曾祖母があまり好きじゃなかった。母方の家系なんだけどね。大きな病院をやっているんだ。

[Tenkyouin] 祖母も、伯母も、母方の一族は皆、医者なんだ。

[Anri] あれ、でも……。

[Tenkyouin] そう。あたしの母は研究者さ。だからかな、母と曾祖母は折り合いが悪いというわけじゃないけど、あたしはよく、曾祖母から母の悪口を聞かされていた。

[Tenkyouin] あたしは長女でね。ずっと、月に一度は、曾祖母の元に出向かなくてはいけなかった。それは、けっこう苦痛でね。

[Tenkyouin] 知ってるかい、杏里。あたしは、ここに来てからこないだまで、一度だって実家に帰ってなかったんだ。

[Anri] そう、だったんだ。そうだね、ボクも帰省はしてないから……、ずっと一緒だったものね。

[Tenkyouin] ああ。あたしは、ここから出たらまた、あの家に戻らなきゃいけないと考えると、それがいやでたまらなかった。父と母のいる家じゃない。曾祖母のいる、家だ。

[Tenkyouin] だから、最初は、ここの研究室に残ろうと考えていたんだ。

[Anri] そうだったんだ……。

[Tenkyouin] ただ、こないだ、曾祖母の臨終と葬儀で帰省していた時……。

[Tenkyouin] 気づいた。あの曾祖母の巨大な屋敷の中が、このポーラースターに似ているんじゃないかということにね。

[Tenkyouin] もちろん、環境は全然違う。でも、あの家に戻るのと、このポーラースターに居続けるのと、変わりはないんじゃないか、そう思ってしまった。

[Tenkyouin] 居心地のよさと、悪さの違いしかない、そう思ってしまった。

[Tenkyouin] 杏里、あたしは学問の徒だ。科学者たらんと欲し、研究者を志している。

[Tenkyouin] お世辞にも、社会的にはまともな人間じゃないが、研究に打ち込んでいれば、あたしはあたしでいられる。

[Tenkyouin] そのあたしが、未知への扉を開くことを恐れていたんだ。それに気づいてしまった。

[Tenkyouin] あたしは、この恐れを見過ごすことはできないんだ。

[Anri] あ……。

[Anri] かなえさん、ボクは……。

[Anri] ただ、かなえさんの言葉だけが悔しくて……。けして、かなえさんをここに、その、閉じこめたかったわけじゃ……。

[Tenkyouin] わかってるよ、杏里。あたしは、最低の別れ方をしようとしている。

[Tenkyouin] でも、すまないね、杏里。

[Anri] かなえさん!?

[Tenkyouin] 杏里、君に見送ってほしくはないんだ。

[Anri] なんで!

[Tenkyouin] 正直に言うとね、見知らぬ場所へ行くのは恐くてね。それでも、進まなきゃいけない。進んでいきたいんだ。

[Tenkyouin] でも、杏里、あたしの弱さが、君を頼ってしまう。立ちすくんでしまった時、君のことを思い出して、引き返してしまうかもしれない。

[Tenkyouin] 勝手だろう?そんな理由で、君を切り離したいんだ。

[Tenkyouin] じゃあね、杏里。

[Tenkyouin] こんなことを告げずに別れたかったよ。そうすればお互いに……。

[Anri] かなえさん!

[Narration] 天京院の気配が、扉の前から離れていく。杏里は立ち上がって、ノブに手をかけた。しかし、ノブは、わずかに回り、そして、止まる。

[Anri] 鍵が!?

[Narration] 慌てて、パネルに飛びつく。しかし、どうキーを叩いても、錠のはずれる音は、いっこうに響いてこなかった……。

[Narration] 開かれた船幅の扉の向こうに、陽光を跳ね返す海原が見える。

[Narration] 洋上、快晴。その輝く太陽の光は、光ファイバーを通じて、このエントランスホールの天井からも降り注いでいた。

[Narration] 遙かに見下ろす桟橋の先に、小さな船が泊まっている。あれが、自分を新しい世界へと連れていってくれる。

[Narration] そんなことを考えて、おかしさに笑う。あの曾祖母の家に帰った時も、あの船に乗ったではないか。

[Narration] こんなことを考えるのも、出発の心細さからだろう。適当に結論をとってつけて、天京院鼎は、一段づつ、ゆっくりと階段をおり始めた。

[Narration] おりながら、少しは、この船での思い出でも甦ってくるかとも考える。が、一向にそんなものは浮かんでこなかった。

[Narration] 自分という人間の浅さかもしれない。それでも、女神像の待つ踊り場までの中程で、一度だけ、自分のおりてきた階段を見上げる。

[Narration] その瞬間、わずかに、天井からの光がかげった。

[Tenkyouin] ────!?

[Narration] 見上げる天井一面から、花が淡い影をつくり、ゆっくりと降ってくる。

[Tenkyouin] ああ……。

[Narration] 思い出した。一度だけ、同じ光景を見たことがある。あれは……。

[Tenkyouin] ……っ。

[Narration] 落ちてくる花を呆然と見上げていたのもつかの間、天京院は再び、進み行く先、階段の続く下へと視線を戻す。そこには。

[Anri] ……かなえさん!

[Tenkyouin] 君か……。

[Narration] 一つの決意が崩れていく諦めの中、胸の奥にわき起こる感情がある。

[Tenkyouin] どうして……。あの鍵は、夕方になるまで開かないはずなのに……。

[Anri] 苦労したよ。でも、みんなに助けてもらってね。

[Tenkyouin] なるほどね。

[Narration] 自分でもわかっていたはずだ。この杏里・アンリエットがその気になれば、船内に行けない場所などない。

[Narration] ならば、脱出することもわけないとも言えないか?

[Tenkyouin] この花も、君達か?

[Narration] 一歩づつ、また、階段をおりる。杏里の待つ、踊り場へと。

[Anri] うん、ボク達から、かなえさんへ。

[Tenkyouin] 言ったはずだ。あたしは、あのまま別れたかったって……。

[Anri] でもね、かなえさん。

[Narration] そして、君は言う。何をも恐れず、何にも怯まず。彼女が求めても触れることのできなかった答えを、いとも容易くあっさりと。

[Anri] 旅人は何も持たずに、旅に出るわけじゃないと思うんだ。

[Anri] お願いだよ、かなえさん。かなえさんの進む未来に、ボクとの思い出も連れていっておくれ。

[Anri] もし、立ちすくむことがあったら、ボクのことを思い出して。きっとボクは、かなえさんに勇気を与えることができるよ!

[Anri] なぜなら、ボクもそうだから。迷うことがあったらきっと、かなえさんのことを思い出す。

[Anri] きっとかなえさんはボクを助けてくれる。だって、いつだってそうだったろう?

[Anri] ボクらは、進む道はちがうかもしれないけど、きっと、一緒に歩いているよ。

[Anri] それが……、ボクにとっての、かなえさんだったから……。

[Narration] まっすぐに天京院を見つめる杏里の顔がかすかにゆがむ。なにかをこらえながら、杏里は天京院に言葉を贈っていた。

[Tenkyouin] 杏里……。

[Narration] ゆっくりと、天京院は杏里への距離を詰めていく。言葉を投げかけながら、ゆっくりと。

[Tenkyouin] あたしにとって、この学園は、学問と研究のための場所だった。

[Tenkyouin] すべては、そのために。誰かと出会っても、それは、すべてあたしの目的のための出会いなのだと、思っていた。

[Narration] 幾度目かの繰り返された言葉。それでも怯まずに、杏里は、階段をおりてくる天京院を迎える。

[Tenkyouin] それでも。

[Tenkyouin] 杏里、君と出会ったこの2年間は、あたしにとって、確かに黄金だった。

[Tenkyouin] 振り返り、懐かしんだ時、間違いなく輝きを放つ、確かな黄金だろう。

[Tenkyouin] それは、いつかまた、君と、君達と会うたび、話すたび、何度でも幾度でも、きっと輝きを放つ。

[Tenkyouin] その確かさがあるから、あたしは、この船を旅立っていける。柄にもなく、そんなものを抱いて、新しい海原へとこぎ出していける。

[Tenkyouin] 杏里……。

[Narration] 君に、この、し尽くせぬ感謝と、万感をこめて。

[Narration] 「じゃあね、杏里、元気で。定めずとも、 いつか、あっけないほどの再会を期して」

[Narration] そう言って、天京院は小船へと乗り込んだ。

[Narration] やがて、彼女を乗せた船はゆっくりと桟橋を離れ、そして、ゲートをくぐり、ポーラースターから遠ざかっていく。

[Narration] それは、もう、春と呼ぶには遅いながらも、陽光うららかな日の、別れだった。

sapphism_no_gensou/7514.txt · Last modified: 2018/05/22 17:15 (external edit)