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sapphism_no_gensou:7513

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[Narration] ホールのそのいちばん上で、少女はすでに、その階の下で待つ人物に気がついていた。

[Narration] 自分と、その人物以外、人気のないホールの階段をゆっくりと降りていく。

[Narration] 名残を惜しむように、そして、できるだけ、その人物を待たせるように。

[Narration] やがて、階段のいちばん下までたどり着いた時、少女はやっと、その人物の名を呼んだ。

[Aisha] 杏里……。

[Anri] やぁ、アイーシャ。見送りに来たよ。

[Narration] 桟橋のいちばん海よりに立っていた杏里が、アイーシャを迎えるために、階段の方へと歩み寄る。

[Aisha] よかった……、来てくれたのね。

[Anri] うん……。もちろんだよ。

[Narration] この船から港へと人を運ぶ小型船の船員は、慣例に従って、船内にさがり、姿を見せない。

[Narration] 今、オペラハウスさながらのこの巨大なエントランスホールに、姿を見せているのは杏里とアイーシャの二人だけだった。

[Anri] ボクの他に、見送りはいないの?

[Aisha] ええ。他のみんなには、部屋をまわって、お別れをしてきたわ。そして、お願いしてきたの。最後に、杏里を独り占めさせてって。

[Anri] ……光栄だな。この船で最後にキミを見送れるのだから。

[Aisha] そうね、最後ね。

[Narration] アイーシャの脇に立った杏里は、そっとアイーシャの手を取る。手のひらの熱がゆっくりと入り交じるくらいの強さで、アイーシャはその手を握り返す。

[Aisha] あっという間の1年だったわ……。

[Aisha] ううん……、杏里とあってからの季節があっという間だった。

[Anri] 少し、残念にも思うね。キミがもし、サードクラスにスキップしていなければ、もう一回り、同じ季節を過ごすことができたのに。

[Aisha] そうね。でも……。

[Aisha] もし、スキップしていなければ、杏里に会えなかったかもしれないわ。

[Anri] そうだろうか?ボクはきっと、キミを探し当ててみせるよ。

[Aisha] そうかもしれない。でも、私は、今の私が、杏里に会えたのがうれしいわ。

[Narration] そっと、アイーシャは杏里の肩に頭を寄せる。

[Narration] すぐ横に立つ杏里に、自分の体をわずかに預ける。

[Aisha] 私、杏里に会えて、うれしかった。

[Aisha] 杏里に、好きと言われて、うれしかった。

[Aisha] 杏里に愛してもらえて、うれしかった。

[Aisha] あなたを、愛してるわ、杏里。それが、とても、とても、うれしいの……。

[Narration] そのまま、はら、はらとアイーシャはゆっくりと涙をこぼす。

[Aisha] お別れはとてもつらいけど、あなたに会えたから、あなたと過ごした日々があるから、こんなにも、涙が、止まらないのよ。

[Narration] わずかに、かしぐアイーシャの体を、杏里はそっと受け止めている。

[Aisha] あなたに会えなかった自分なんて、想像ができない。いいえ、そんな自分など、存在しないわ。

[Aisha] だって、あなたは、砕けてしまっていた私を、取り戻してくれたんだもの……。

[Aisha] 明日から……、日常の中にあなたがいなくなるの。それはきっと、とてもさびしいことだけど……。

[Aisha] でも、耐えられるわ。今の気持ちは決して消えない。もう、最後なのに、あなたがいちばん愛おしい。それが私を支えてくれるの。

[Anri] ボクもだよ、アイーシャ。

[Anri] 別れはつらいね。キミがこの船を降りて、ボクらは離ればなれになる。それはとても、つらいよ。でも……。

[Anri] いつまでも、ボクの心はキミのそばにあるよ。どれほどの天と地が、空と海が、ボクとキミを隔てていようとも、その距離はキミが望めばゼロになる。

[Anri] 信じて、アイーシャ。キミを想うボクの気持ち、ボクを想ってくれるキミの気持ちが、いつだってボク達を結びつけているんだ。

[Anri] いつか、キミに誓った言葉は、生涯かけて、キミのそばにあるよ、アイーシャ。その誓いで杏里・アンリエットはいつだってキミのそばにいるんだ。

[Narration] 涙に濡れるアイーシャの頬に、杏里は手を添える。お互いに、わずかに体を寄せ、首をかしげ、唇を重ねた。

[Narration] ゆっくりと。

[Narration] 静かに。

[Narration] やがて、穏やかに唇を離して、アイーシャは杏里に向き直った。

[Aisha] 杏里、贈り物があるの。

[Anri] 贈り物……?

[Aisha] ええ。私達から、杏里達へ。

[Narration] そう言って、アイーシャはわずかに視線を下へと向けた。

[Aisha] このホールの絨毯、新しくなったのよ。これが、私達からの贈り物。

[Anri] この絨毯が?

[Narration] 杏里は、自分の足下を、そして、まるで天井へと続いていくような階段を見上げる。その道筋にまっすぐに敷かれた緋毛氈。

[Aisha] どうしても痛むものだから、永遠には残らないけれど……、杏里がこの学園にいるあいだは大丈夫ね。

[Anri] そうか、ここに来るたび、キミを思い出せるね。

[Aisha] そうしてくれるとうれしいわ。季節がかわって、新しいファーストが入ってきた時も、思い出してもらえる?

[Anri] えっと、それは……。

[Aisha] ふふ……。

[Narration] 複雑な逡巡を顔に浮かべた杏里を見て笑い、アイーシャは船に続くタラップを一段、のぼった。

[Aisha] 私と、イリヤという友人と、そして……。

[Aisha] 天京院さんからの贈り物よ。

[Anri] かなえさんの……?

[Aisha] ええ。ねぇ、杏里……。

[Aisha] 天京院さんは、明日、この船を降りるわ。

[Anri] 明日……!?

[Aisha] ええ。ここからよ。私と同じように、自分の残したものを、踏みしめて。

[Aisha] 杏里……、あなたは幸せな人ね。

[Aisha] あなたは人を幸せにさせる人ね。

[Aisha] じゃあね、杏里。

[Narration] タラップの上から、アイーシャはそっと杏里の頭に手を添え、その頬にくちづけを送る。

[Narration] そして、アイーシャ・スカーレット・ヤンは、この船を離れていく小さな船とともに、開け放たれた門をくぐり、海上へと消えていった。

[Nicolle] アイーシャは行ったかい?

[Anri] ニコル……。

[Anri] うん、見送ってきたよ。

[Nicolle] ちぇ、やっぱり予想通りだ。情けない顔してるよ、杏里。

[Anri] ……そうかい?

[Anri] ……うん、やっぱり、寂しいよ。明日からアイーシャの姿が見られないなんて……。

[Nicolle] そう思うなら……。

[Nicolle] あたしのことも、考えてくれよ。

[Anri] ……ニコル?

[Narration] その声が、後ろから聞こえてきたのに気づいて、杏里は振り返る。立ち止まっていたニコルが、その3歩ほど後ろから、じっと杏里を見つめていた。

[Nicolle] あたしは……。

[Nicolle] あたしや、アルマ、ソヨン、アンやニキは、来年、ヘレナとクローエと一緒に出ていっちまう杏里を見送らなきゃならないんだぜ……。

[Anri] ニコル……。

[Narration] 立ちつくしたままのニコルに歩み寄って、杏里はその震える肩を優しく抱いた。

[Nicolle] 杏里……。

[Nicolle] 馬鹿なことを祈ってるんだ、あたしは……。

[Nicolle] もしこのまま、杏里と一緒に、あの部屋でずっと籠城を続けていれば……。

[Nicolle] もしかしたら、カナエは、この船からいなくならないかもしれない……。

[Nicolle] もしかしたら、杏里も、この船からいなくならないかもしれないって……。

[Nicolle] 馬鹿だよねぇ……。

[Narration] そう、つぶやきながら、ニコルは杏里の腕の中で、小さく、鼻をすすりあげていた。

sapphism_no_gensou/7513.txt · Last modified: 2013/06/01 22:49 (external edit)