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sapphism_no_gensou:7510

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[Tenkyouin] 杏里!

[Narration] 駆け込んできた勢いのままの声で、天京院はその名前を呼んだ。

[Anri] わわっ、今の声、かなえさん!?

[Narration] 扉越しに、どたばたとした足音と声が聞こえてくる。

[Tenkyouin] やっぱり、君か……。

[Narration] 的中した予想に喜ぶ素振りも見せず、天京院は白衣のポケットから、自分の部屋のカードキーを取り出す。

[Tenkyouin] どうやって入ったかはしらないが……。

[Narration] 見当はつく。おそらくはメイドのイライザの手引きだろう。杏里がその気になれば、この学園の大半はフリーパスだ。それは、あの事件の時に照明されている。

[Narration] カードキーをリーダーに差し込む。そして、手早く暗証番号を打ち込む。しかし……。

[Tenkyouin] 開かない!?

[Narration] 錠がはずれる音もしなければ、ドアノブもガッチリと固定されたまま、びくとも動かない。

[Anri] あれ? やっぱり開かない?

[Tenkyouin] 杏里! 何をした!?

[Anri] え? なに!?

[Tenkyouin] 何をしたと聞いてるんだ!

[Anri] そうなんだ、開かないんだよ。

[Tenkyouin] ……っ!

[Narration] 扉の厚さと防音加工の前に舌打ちして、天京院はインターホンの受話器をあげる。

[Tenkyouin] 杏里! 聞こえているか!?

[Anri] わわっ!?

[Nicolle] 杏里、こっちこっち!

[Alma] ああ、天京院様、今、杏里様にかわりますね。

[Anri] ああ、かなえさん?

[Tenkyouin] 杏里! 何をした!?

[Narration] 天京院は先ほどと同じ問いを投げつける。

[Anri] ああ、かなえさん、困ったことになってるんだよ。

[Tenkyouin] 扉が開かない!

[Anri] そうなんだ!

[Tenkyouin] だから、何をしたと聞いてるんだ!

[Anri] 何をしたと言われても……。ちょっとここにあるパネルをいじってたら、急にドアが開かなくなってしまって……。

[Tenkyouin] 最上位の強制ロックをかけたな……。

[Anri] ねぇ、これどうやって開けるの?

[Tenkyouin] 知るか。あたしが聞きたいくらいだ。

[Anri] ええ!? だってこの鍵、かなえさんが作ったんじゃないの!?

[Tenkyouin] ああそうだ! ただ、シャレでどんな鍵も受け付けない、強制ロックの機能をつけておいたんだ。

[Anri] なんでそんなものを!

[Tenkyouin] ……つけられたからだ。

[Anri] ああ、そう……。で、開ける方法はないの?

[Tenkyouin] 解除コードを設定しておいたはずなんだが……。

[Anri] 教えてよ!

[Tenkyouin] ……忘れた。

[Anri] ………………。

[Tenkyouin] 君にあきれる資格はないぞ、杏里!

[Anri] で、どうするの、この鍵。

[Tenkyouin] 制御はコンピューターでやっているが、錠前自体は、特別すぎるものじゃない。

[Tenkyouin] ツールさえ作ってしまえば……。

[Anri] ん? どうしたの? かなえさん。

[Tenkyouin] 道具もミキサーも部屋の中か……。

[Anri] そうだねぇ……。

[Tenkyouin] そんなことより!

[Narration] 一度、鍵のことは頭から振り払って、天京院は受話器へと、その先の杏里へと向き直った。

[Tenkyouin] どういうつもりだ、杏里。勝手に人の部屋に入るなんて。

[Anri] ………………。

[Narration] すぐに、杏里の答えは返ってこなかった。

[Narration] 杏里の方も気づいていた。天京院が、つい昨日、話をした彼女に戻ったことを。

[Anri] ごめんよ、かなえさん。

[Tenkyouin] なんについて謝っている?

[Anri] まずは、勝手に部屋に入ったこと。

[Tenkyouin] イライザ・ランカスターだな。

[Anri] イライザは悪くないよ。えっと、その、ボクが脅したんだ。かなえさんの部屋に入れてくれなきゃ、キミの恥ずかしい秘密をばらすぞって。

[Tenkyouin] そんな言い訳が通用するか。

[Anri] ……ごめん。でも、こうでもしないと、かなえさん、会ってくれないと思ったんだ。

[Tenkyouin] 何を、馬鹿な……。

[Anri] そう思ったんだ。

[Narration] 見抜かれている。いや、杏里の直感だろう。それは正しいと、天京院は思った。

[Anri] だから、話をするためには、かなえさんの部屋で待っているのがいちばんいいと考えたんだ。

[Tenkyouin] 誰の入れ知恵だ?

[Anri] アンシャーリー。

[Tenkyouin] ……意外だな。

[Anri] とにかく、ちゃんと話ができてよかったよ。

[Tenkyouin] ちゃんとか? この状況が? キミはあたしの部屋の中で、あたしは部屋にすら入れないのに?

[Anri] あ、そっか、ごめん、鍵を壊したのも謝らなきゃ。

[Tenkyouin] もういい、そんなことは。

[Narration] しごく、時間を無駄に使っている気がする。早く、この時間をすませてしまいたい。鍵のことはどうにでもなる。

[Tenkyouin] それで? 話ってのはなんだ?

[Anri] うん……。

[Narration] 杏里の言葉が途切れる。低く、息を吸う音が聞こえる。そのかすかな音が、天京院の胸にさざ波をたてる。

[Anri] 仲直りをしたいんだ。

[Tenkyouin] ………………。

[Anri] ごめんよ、かなえさん。本当に謝りたかったことは、かなえさんに向かって、馬鹿って言ってしまったことなんだ。

[Anri] いくらなんでも、ボクがかなえさんに馬鹿と言うのはあんまりだよね。心から反省し、誠心誠意をもって、お詫びするよ。

[Anri] そして……。

[Anri] ぼくのこの過ちを、暴言を、かなえさんが許してくれたのなら、もう一度、かなえさんと話をしたいんだ。

[Anri] この船を降りる理由、気持ち? その後の連絡先も聞いてない。ううん、それだけじゃない。もっといろんなことを話したい。

[Anri] かなえさんが、この船の学生でいられる、あとわずかの時間の中に、できる限りたくさん、思い出、記憶、記念になるものを残しておきたいんだ。

[Anri] この学園で、ボクの最高の友人である、かなえさんのために。

[Tenkyouin] 杏里!

[Narration] 途中から、受話器を持つ手が震えていた。そのため、思わず出てしまった声は、さほど大きくは、杏里には伝わらなかったようだ。

[Anri] なんだい?

[Narration] 素直な声が返ってくる。だめだ、どうしても、心の中に立つ波が消えない、ひかない。

[Tenkyouin] 君が……。

[Tenkyouin] あたしに向かって馬鹿と言ったことなら……、それは、気にしなくていい。

[Anri] 許してくれるの!?

[Tenkyouin] 許すもなにも……、あたしは気にしていない。

[Anri] ……ああ、よかった。ほっとしたよ。

[Tenkyouin] 杏里が、何を言ったところで、気にしたりはしない。

[Anri] ……え? ……かなえさん?

[Tenkyouin] そして、もう、杏里と話すことも特にないよ。

[Anri] かな……。

[Tenkyouin] 君と話すことも、たぶん、これで最後だろう。

[Anri] ちょ、ちょっと! 何を言ってるの?かなえさん!

[Tenkyouin] あたしはもう、この学園を卒業したんだ。正規の課程を修了している。

[Tenkyouin] 杏里。

[Tenkyouin] あたしは、この学園に、カリキュラムの履修と、自分の研究のための理論構築とその実践、及び、それに必要な知識と技術を習得するために入学した。

[Tenkyouin] 3年という期間において、あたしは、自分の中で決めた学習と研究の目標を十分に達成できた。だから、新しい研究の場を求めて、この船を降りる。

[Tenkyouin] 杏里。君は、あたしのその3年のうちの2年の間だけ……。

[Tenkyouin] 同じ場所にいた人間にすぎない。

[Tenkyouin] あたしは、学生として自分で許容できる最低限の社交性の中で、君やそれ以外の人間と交友関係を持ったと思う。

[Tenkyouin] でもね……。

[Tenkyouin] それは、あたしがこの学園にいる理由には含まれていないものだ。

[Tenkyouin] もう、この船を離れることを決めたあたしには……。

[Tenkyouin] 必要ない、ものなんだ。

[Tenkyouin] 杏里、あたしには、この学園での研究と学習以外のものはすべて。

[Tenkyouin] 意味のない、ものだった。君を、含めて。

[Narration] 言葉をそう区切った天京院は、耳に当てたスピーカーにおそるおそる、神経を集中させる。しかし、数秒ほど待った後も、受話器は沈黙をたもったままだった。

[Tenkyouin] ………………。

[Narration] 無言のまま、天京院が受話器を戻そうとした、その時。

[Anri] かなえさん。

[Tenkyouin] ……!

[Narration] 思わず、息をのんだ。受話器を動かそうとした手が、止まる。耳に飛び込んできたそれは、天京院が初めて聞く杏里の声だった。

[Narration] 硬質で、透き通った、まるで、水晶のような声。

[Anri] しばらく、この部屋にいさせてもらうね。

[Narration] それは、たぶん、いつも通りの杏里の口調だったにちがいない。ただ、声だけが違う。

[Tenkyouin] ……出られないのだろう? なんとかするよ。すぐに鍵をはずして……。

[Anri] いいよ、そんなことをしなくても。こう言ったんだ。ボクは、ここから出ていかない。

[Tenkyouin] なに!?

[Anri] うん、他のみんなも同じ意見だ。

[Tenkyouin] ……め、迷惑だ。あたしには、荷物の整理だってあるんだ。大勢で部屋の中にいられたら……。

[Anri] そして、かなえさんも入れてあげない。

[Tenkyouin] なんだって!?

[Tenkyouin] 勝手なことを言うな! あたしの荷物は全部、その部屋の中にあるんだぞ!?

[Anri] かなえさん、もし、ボク達にこの部屋から出てきてほしかったら……。

[Narration] インターホン越しに、杏里が一度、息をのむ気配が、天京院にも伝わってくる。それは、扉越しに伝わってきたのかもしれない。それほど、間近に感じられた。

[Anri] 船から降りるのを取りやめてほしい。この船に残ること、それが、ボクからの条件だよ。

[Tenkyouin] なっ────。

[Narration] 絶句がしばらくのあいだ、続いた後、天京院の声が廊下中に響いた。

[Tenkyouin] 何を馬鹿なことを言ってるんだっ!!

sapphism_no_gensou/7510.txt · Last modified: 2018/05/22 17:15 (external edit)