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sapphism_no_gensou:7507

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[Tenkyouin] いいところに来た。

[Narration] 思っていたよりもあっけなく、ノックに答えて、その部屋の主は姿を現した。

[Tenkyouin] ああ、食事もありがたい。サンドイッチだけもらおうか。あと、それと。

[Tenkyouin] 部屋の片づけと荷物の整理を手伝ってほしいんだ。

[Tenkyouin] ……船から降りるんでね。

[Anri] かなえさん!

[Soyeon] あ……、杏里さん!

[Narration] ノックも無しに、やや乱暴に押し開いた扉の向こう、天京院の部屋の中には、その部屋の主と、先客が一人いた。

[Narration] 足音と訪ねる声も高らかに現れた杏里を、ソヨンは、かけていた寝椅子から腰を浮かせ、不安げな表情で迎える。

[Narration] もう一方の天京院は、杏里に一瞥をくれると、むしろ悠然と、手にしたコーヒーをすすった。

[Tenkyouin] ……さすがに速いな。

[Narration] つぶやいたその一言で、天京院は、杏里が訪ねてくるのを予測していたことがうかがえる。

[Anri] 聞いたよ、かなえさん! どういうこと!? 船を降りるだなんて!

[Tenkyouin] どういうもなにも。

[Tenkyouin] 言葉の通りだよ。船を降りるんで、とりあえず、手近なところから、荷物を片づけているところだ。おかげで散らかっていて悪いね。

[Narration] 天京院の言う通り、部屋の中は乱雑に散らかっていた。しかし、それは普段のこの部屋も同じと言える。

[Narration] ただ一つ、違いをあげるなら、散らかったものの中に、ひもでくくられた本や、雑多な物を詰め込まれた段ボールがあることだった。

[Anri] どうして!

[Narration] 天京院の揶揄めいた答えにかまいもせずに、杏里は問いを続ける。

[Anri] ボクは確かに聞いたよ! この船に残るって! 研究室に入るって!

[Tenkyouin] 直接言った憶えはないな。君も聞いてこなかったしね。

[Anri] ボクはソヨンから確かに聞いた!

[Soyeon] 杏里さん、あたし……!

[Narration] ソヨンは完全に立ち上がり、言葉を一度詰まらせ、胸の前でぎゅっと手を握る。

[Soyeon] 天京院先輩から、確かに聞いたんです。あの時、確かに……。

[Soyeon] でも、今日になって、このことを聞いて、信じられなくて、かなえさんにほんとのことを聞きたくて……。

[Soyeon] あたし、ほんとに……。

[Narration] 言葉をもう一度、詰まらせてうつむく。その細い肩が小刻みに震えている。

[Anri] もちろん、ソヨンがボクに嘘をついたなんて、微塵も思っちゃいないさ!

[Anri] ソヨン、キミは確かに、かなえさんの言葉をボクに伝えてくれたはずだよ。だから今、ボクはこうしてかなえさんのところに来たんだから。

[Tenkyouin] ……悪かった。

[Narration] コーヒーカップを置いて、天京院は短く詫びる。

[Tenkyouin] ソヨン、君に伝えた言葉は、嘘じゃない。

[Anri] じゃあ! どうして!?

[Tenkyouin] あの時は、確かに船に残るつもりだった。それは本当だ。結果的に、君に伝えた言葉を違えたことは謝るよ。

[Soyeon] ……それじゃあ……。

[Narration] 顔を上げるソヨンの目の端からは、涙がつたい落ちている。

[Tenkyouin] 予定を変えたのは、あたしだ。声をかけてくれた教授達には、昨日のうちに、断りを入れておいた。

[Anri] ……!

[Tenkyouin] 結果的に、君達を振り回すことになったかもしれないが、それは勘弁してくれ。もう決めたんだ、船を降りる。

[Tenkyouin] 不思議なことじゃないだろう? あたしはここの修学課程をすべて終了しているんだ。ここに残ってやることもない。

[Tenkyouin] これ以上、どうしてと聞かれても、答えられないぞ?

[Anri] かなえさん!

[Narration] 声に苛立ちを隠しきれずに杏里が叫ぶ。

[Anri] ボクが聞きたいのは、どうしてポーラースターにいられないかじゃないよ。

[Anri] どうして、船を降りるのか、だよ。なぜ、ソヨンに、そしてボク達に伝えた言葉を変えることになったか、だよ。

[Anri] どうして……。

[Anri] この船にいてくれない……。

[Tenkyouin] 杏里。

[Narration] 杏里の問いを半ばで遮って、天京院がその名を呼ぶ。

[Tenkyouin] 事実はさっき言った通り、変わらない。あたしは船を降りる。

[Anri] だから、なぜ……!

[Tenkyouin] ただ、船の外に、あたしを受け入れてくれる場所があった。

[Tenkyouin] その場所が、この学園に残ることより、あたしにとってメリットがあった。それも確かだ。

[Tenkyouin] 後は、あたしがどっちを選ぶかだろう?

[Anri] かなえさん!はぐらかすのはいい加減にしてよ!

[Tenkyouin] これ以上、どう説明しろって言うんだい?

[Anri] だって、かなえさんは……!

[Tenkyouin] 大声を出さないでくれ。そのうち、クローエ・ウィザースプーンが怒鳴り込んできそうだ。

[Tenkyouin] 杏里、もう一度だけ、ちゃんと言う。

[Tenkyouin] あたしは、自分の意志で、より自分のためになる進路選択をした結果、学園の外の研究施設に入ることを決めた。

[Tenkyouin] 決めたのは、ついこのあいだだ。その結果、一度、ソヨンに伝えた進路は変更することになった。未確定だった進路を教えて、君達を混乱させたことは謝る。

[Tenkyouin] このような次第で、あたしは船を降りる。急な話でまたまた申し訳ないが、片づけと準備がすみ次第、すぐに発ちたいんだ。

[Tenkyouin] これで全部だよ、杏里。さぁ、急いでいるのは今、伝えた。

[Narration] そして、天京院は杏里の顔をしっかりと見据え、告げた。

[Tenkyouin] さぁ、いつまでもあたしの邪魔をしないでくれ、杏里。

[Anri] ……!

[Narration] それは、温かくも冷たくも優しくも厳しくも、なかった。意味以上には何も添加物のない言葉で、声だった。

[Anri] ……かなえさんの馬鹿!!

[Narration] ありったけの声でそう叫ぶと、杏里は一顧だにせずに、天京院の部屋を後にした。

[Tenkyouin] ……子供か、あいつは……。

[Narration] 部屋を出ていきざまに、杏里が叩きつけて閉ざした扉がたてた音の残響が十分に部屋の中に散りきった後、天京院は苦々しげにつぶやいた。

[Soyeon] かなえさん……。

[Narration] 杏里にも、そしておそらく、天京院にも取り残されていたソヨンが、口を開く。

[Narration] ひどく落ち着いた視線で、天京院を見つめながら。

[Soyeon] かなえさん、変ですよ……。

[Tenkyouin] ああ、すまないね、ソヨン。君に、この船に残ると言った後、心変わりをしてしまって。結果的に嘘を伝えたことに……。

[Soyeon] 違いますよ、かなえさん。

[Tenkyouin] ………………。

[Narration] 見つめてくるソヨンから、天京院は視線をそらす。

[Soyeon] あたし、かなえさんが嘘を言ったとは思いませんし、あたしに教えてくれた時は、本当にこの船に残るつもりだったと信じてます。

[Soyeon] そして、今、実際に進路を変えられたことも、わかります。なにか、理由があって、そうされたってことも。

[Tenkyouin] 理由はさっき言った通り……。

[Soyeon] ちゃんと言わないなら、それでもいいです。

[Tenkyouin] ………………。

[Soyeon] でも、なんで……。

[Narration] ソヨンはゆっくりと出口へと歩いていく。

[Narration] そして、扉を半ばまで開けてから、振り返る。

[Soyeon] かなえさん、どうして、杏里さんにあんな言い方しかできなかったんですか?

[Soyeon] あれじゃ、杏里さんがかわいそうです。

[Narration] ソヨンの体がドアの向こうに隠れる。戸が閉まる瞬間に、声だけが部屋に投げ込まれる。

[Soyeon] それに、かなえさんも……。

[Narration] 閉まったドアを十分に見つめてから、天京院は寝椅子に音を立てるほどの勢いで腰を下ろした。

[Narration] 額に右手を当て、瞼もおおう。そして、つかえていたものを吐き出すように、つぶやいた。

[Tenkyouin] 言えるわけがない、あれ以上、何も……!

sapphism_no_gensou/7507.txt · Last modified: 2013/06/01 22:49 (external edit)