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sapphism_no_gensou:7505

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[Narration] 部屋に満たされた穏やかな旋律の中に、わずかなパーカッションにも似た響きを耳にとらえて、ニコルはそっと、音を立てないように気をつけて立ち上がった。

[Narration] 何事かと頭を持ち上げるコローネの背を軽く叩いて、一心不乱にピアノに向かうニキをまかせ、ドアの方へと向かう。

[Nicolle] イライザ?

[Eliza] あら、ニコル様。

[Nicolle] やぁ、イライザ。

[Narration] 顔なじみのメイドの姿を認め、ニコルは廊下へと滑り出すと、音が外に漏れないように、素早くドアを閉じる。

[Eliza] こんばんわ。今日は、こちらにいらしたんですね。

[Niki] ま、いつもの通りさ、コロの散歩の途中でね。ニキならまだ起きてるよ。今日はご機嫌でずっとピアノを続けてる。

[Eliza] まぁ、そうでしたか。いつお休みになられてもいいように、簡単なお支度だけさせていただいてもいいですか?

[Nicolle] いいんじゃないの? って、あたしに断られてもな。まぁ、今は夢中になってるみたいだし、あんま、物音たてなければ大丈夫じゃない?

[Eliza] うるさくはしませんよ。ベッドの方を、少し、整えさせていただくだけですから。

[Nicolle] なるほどね。

[Narration] 了解を示して、ニコルは部屋の扉を開く。

[Nicolle] あれ?

[Narration] 予想に反して、開けたドアの隙間から、旋律は漏れだしてこなかった。

[Nicolle] 寝ちゃったかな?

[Eliza] いえ、ちがうようですよ?

[Narration] 二人が部屋の中に入ると、ニキはピアノのスコア立てと、ピアノの脇に寄せたテーブルの両方に広げた楽譜に、ペンを走らせていた。

[Nicolle] ニキ、何やって……。

[Eliza] お静かに、ニコル様。

[Narration] 声をかけようとしたニコルの口の前に、そっと手を差し出して、イライザが止める。

[Eliza] ニキ様は、期末考査の課題にとりかかっているようですから。

[Nicolle] 課題? 期末考査の?

[Eliza] ええ。

[Narration] できる限り、声を大きくしないように、二人して、ドアの側の壁にへばりついて、顔を寄せて話す。

[Eliza] ニキ様、ご事情もあって、今年はほとんど、授業には出られませんでしたから。

[Nicolle] まぁね。

[Eliza] このままじゃ、進級は難しいということで、今期の単位のほとんどを、音楽の実習に振り替えてしまったんです。

[Nicolle] なんじゃそりゃ。

[Eliza] 自由課題というんでしょうか? 前に私達の前で披露していただいた曲が、音楽課の教授達の耳に届きまして……。

[Eliza] 皆様、大変、感銘を受けられたとかで、もし、ちゃんとした形に仕上げられれば、今年の選択科目の単位のほとんどを音楽科から出すということになりまして。

[Nicolle] 選択科目の単位のほとんど!?

[Eliza] ええ、それだけではなく、他の必修科目の試験も、在室の形に切り替えたんです。レポートなどへの振り替えとかも。

[Eliza] あまり、そちらの方の成績はよくなかったようですけど、この作曲の課題さえ、きちんと仕上げることができれば、ニキ様、進級はできるようですよ。

[Nicolle] なんじゃそりゃ。あたしが、おんなじように進級するのに、どれだけ苦労したかと思ってるんだよ……。

[Eliza] まぁまぁ、ニコル様も試験の方は終わったのでしょう?

[Nicolle] ああ、出来に自信なんてさらさらないけどね。ま、あたしにしちゃ、あれだけ誠意をもって試験を受けたんだ。お目こぼししてもらいたいもんだね。

[Nicolle] ……と言うよりも、これで進級できなかったら、それこそ、アルマに申し訳がたたないよ。

[Nicolle] あーいやいや、あれだ。あたしとしちゃ、これで追試とか補講とかいう羽目になって、これ以上アルマにお小言をくらいたくないってことさ。

[Eliza] きっと、大丈夫ですよ。

[Narration] イライザがかけた言葉に、ニコルの言葉は途絶える。少しバツの悪そうな表情でイライザの顔を見た後、ニコルは頭をかいた。

[Nicolle] ちぇ、あたしもそう思ってるよ。誰のためだかよくわかってないけど、あれだけがんばったんだしさ。すんなり進級できればいいなって。

[Narration] そう言って、背負っていたドアを開ける。

[Narration] その隙間からこぼれだしてくる、ピアノの旋律。軽快な旋律が、時折、吹き出したくなるような転調をして、聞いている方を引き込んでくる。

[Nicolle] ちぇ、これっていったい、誰のつもりだよ。

[Eliza] 誰? と言いますと?

[Nicolle] なんの曲を書いてるのか、ちょっとだけ聞いたんだ。

[Nicolle] そしたら、自分の知ってる人達だってさ。

[Eliza] ははぁ……。

[Narration] ピアノに向い、一心不乱に鍵盤に指を踊らせるニキを見つめながら、イライザは流れてくる旋律に神経を集中させる。

[Narration] 確かに、印象は軽快だ。明るく、そして、人を食ったように予想をはずして展開していく主題。しかし、その影で流れている左手側は、どこか落ち着かなげで……。

[Eliza] ……トリッキーなところを聞くと、アンシャーリー様でしょうか?

[Nicolle] アンのなら聞いた。あれはなんていうか滅茶苦茶。あとちょっとで音楽じゃなくなる感じだったね。

[Eliza] テンポのいい明るさは、杏里様を思わせますね。

[Nicolle] はずれ。ニキにとっての杏里は、すべてだからね。こんな単純な音だけじゃ表せないって感じだった。

[Eliza] では、ソヨン様ですか? スタッカートが効いているところなど……。

[Nicolle] いや……。

[Narration] そこでニコルは気づく。イライザのいつものすました表情の隅に、いらずらっぽく噛み殺された笑みがあることに。

[Nicolle] ちぇ、なんでい。わかってるんじゃないか。

[Eliza] あら。

[Nicolle] そうだよ、これ、あたしのテーマなんだってさ。

[Narration] そう言って、ニコルはその場に座り込み、ぐしゃぐしゃと頭を両手でかきまわす。

[Nicolle] ひゃーっ! 勘弁してくれって! こっぱずかしくてたまったもんじゃない!

[Nicolle] しかもそれを提出するだって!? 冗談じゃない、あたしの恥をさらすようなもんじゃないか!

[Eliza] あら。

[Narration] 同じように、イライザもニコルの横に腰を下ろす。

[Eliza] ニキ様の作る曲は恥ずかしいものですか?私には、とても素敵な曲に聞こえますが。

[Nicolle] う〜〜〜〜〜!! そんなことはわかってるさ!ただ、自分があいつの中で、こんな風になってるってのを表だってこうされちまうとさぁ!ああもう!

[Narration] うめきぼやきながらも、ニコルはあくまで、没頭する部屋の主を気遣って、小声でまくしたてる。

[Nicolle] 頼むから、あたしのいないとこでやってくれよぉ……。

[Eliza] ……ニキ様の後の面倒は私が責任もってみさせていただきますよ。コローネも朝にはニコル様のお部屋にお連れしますから、今日は帰られても大丈夫ですよ?

[Nicolle] そうしたいんだけどさぁ……。

[Nicolle] さっき約束しちまったんだ、今日は泊まってくってさ。……なんでも、あたしがいると、落ち着いてピアノが弾けるんだとさ。

[Nicolle] 気分よくやりたいなら、杏里でも連れてこようかって言ったら……。

[Eliza] なんと?

[Nicolle] 杏里はダメだってさ。杏里がいると、他に何もできなくなってしまうから、ダメだって。やらなきゃいけないことも全部できなくなって、杏里に抱きつきたくなるからって。

[Eliza] まぁ……。

[Narration] 一瞬、仕事を忘れて、イライザは目を丸くする。

[Narration] ニキにとっての杏里は、イライザがこれまで知る限り、存在そのものを依存しかねない相手だった。

[Narration] それをこうも切り離して考えることができて、しかも、それを人に伝えるとは……。

[Narration] そのニキの変化を伝えられた相手の、居心地悪げに憮然とする姿を見ながら、イライザはおかしさと、どこか納得のいかない小さな虚脱を感じていた。

[Nicolle] あーもう、なんだそりゃ。そんなこと言われて、あたしゃいったい、どうすりゃいいってのさ。

[Narration] それでも、ニコルのほほえましい苦悶に、たちまち、イライザの胸の内はおかしさの方で埋め尽くされる。

[Eliza] 寝具をもう一つ、用意しておきますね。

[Nicolle] ……頼むわ。

[Eliza] お二人とも、風邪などひかないように、毛布をしっかりかけてお休みになってくださいね。まだ、時折、冷える夜もありますから。

[Nicolle] ああ。

[Narration] ニコルがうなずいたのを確認して、イライザは寝具をしまってあるクローゼットへ向かうために立ち上がる。

[Nicolle] じゃあ、ニキもこれをやっつけちまえば、無事進級なんだ。

[Eliza] ええ。きっと完成させますよ。

[Nicolle] 杏里は?

[Eliza] ヘレナ様が、責任もって進級させるとがんばってらっしゃいますから。

[Nicolle] そっか。アンは心配してもしょうがないし、アルマもソヨンも心配いらないよな。

[Eliza] ええ、そうですね。

[Nicolle] カナエは結局、残るって言うし……。そうなるとアイーシャがいなくなるのが、寂しいな。

[Nicolle] そのまんま、夏になって、バカンスが終わった後、秋になって、新しいファースト達が入ってきて、またぞろ、杏里がさかって大騒ぎになって……。

[Nicolle] でも、それからさらに一年たっちまったら……。

[Narration] そこで、ニコルの言葉が途切れる。

[Narration] 立ち上がったまま、それを聞いていたイライザは、できる限り自然を装って、ニコルのそばを離れ、クローゼットへと向かった。

[Narration] 残されたニコルは、ニキのピアノをあぐらをかきながら聞いたまま……、一度だけ、鼻をすすった。

[Nicolle] いけね、なにを考えてるんだ、あたしは……。

[Narration] それからさらに一週間後、旅立つ前に聞いていた予定よりも大幅に遅れて、天京院鼎がH・B・ポーラースターへと帰還した。

[Anri] 心配したよ、かなえさん。そりゃ、電話には出てくれたから、連絡はついていたけどさ。何を聞いても、もう少し遅くなるってばっかりだったんだもの。

[Narration] 勢揃いで出迎え、また心配もしていた杏里達面々に、天京院は一見、船を離れる前と変わりのない、表情と声で答える。

[Tenkyouin] ああ、すまないね。こっちもいろいろとゴタゴタしていて、なかなか離れられなかったんだ。

[Anri] うん、それはまぁ、わかるんだけど……。その、ひいおばあ様のことは……。

[Tenkyouin] ああ、そんな気にすることはないよ。彼女も、百はとおに越えていたんだ。大往生ってやつさ。あたし達一族の人間だって、そのうちだって思っていたよ。

[Tenkyouin] 葬儀の時に、花を贈ってくれたろう? ありがとう。そのうち、きちんとした礼を家から送ってくると思う。日本人の風習なんで、遠慮せず受け取ってくれ。

[Anri] そのへんは、知ってるけどさ。

[Tenkyouin] ……じゃあ、悪いけど、ちょっと部屋にこもらせてくれ。

[Anri] ……かなえさん。

[Tenkyouin] ん?

[Anri] ……何かあったの?

[Tenkyouin] ……はは。

[Narration] じっと顔を見つめて、そう聞いてくる杏里を見て、天京院は思わず笑った。まるで、ペットを前に、真剣に人生を語った後のように。

[Tenkyouin] また、何の根拠も無しに聞くんだな、杏里は。ちょっと疲れてるだけさ。……いろいろあったんでね。それじゃ。

[Narration] 荷物をひいたまま、天京院は片手を軽くあげて、自分の部屋へと向かっていく。

[Narration] その背中を、どこか釈然としない表情で、杏里は見送った。

sapphism_no_gensou/7505.txt · Last modified: 2013/06/01 22:49 (external edit)