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sapphism_no_gensou:7504

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[Anri] そう言って、かなえさんがこの船をさってから、早くも一週間がたったのであった。

[Helena] 杏里? 変なことつぶやいてないで、しっかり手と頭を動かしなさい!

[Anri] は〜い。

[Narration] 穏やかな天候に恵まれたインド洋の海面と同じように、ゆるやかな時を刻みながらも、学園船H・B・ポーラースターは期末考査の時期を迎えていた。

[Narration] すでに考査を終わらせているサードクラスを除いたファーストとセカンドの二つのクラスの学生は、一年間の総まとめともいえる広大な試験範囲の大洋を航海していた。

[Anri] だってもう、一週間もかなえさん特製のコーヒーを飲んでいないんだよ?

[Chloe] なにか怪しいと思ったら、あれって中毒性があったの? あんなにまずいのに、どうしてあなた達が飲みたがるのか、不思議に思っていたのよ。

[Narration] 今日も二つ三つの考査を終えながら、いまだ戦い終わらぬ船上の乙女達は明日の準備に余念がなかった。

[Anri] 一度知ってしまうと病みつきだよ、あの味は。かなえさんのミキサーでなければ出せない極上のテイスト、ああ……。

[Chloe] よかったわ、天京院さんだけがいれられるもので。あれはコーヒーに対して冒涜とまでは言わないけど、あんまりだとは思っていたのよね。

[Anri] わかってないね、クローエ。

[Chloe] わからなくてけっこうよ。

[Helena] 杏里! むだなおしゃべりはやめなさい!

[Helena] ほら、杏里、日本大衆文学論とインド古代史とっていたでしょう? テキストのココとココ、重要だからおさえておきなさい!

[Anri] ちんぷんかんぷんだよ〜。

[Helena] わからなくてもいいから、全部暗記しておくの!

[Chloe] ねぇ、ヘレナ、あなた……。

[Narration] 頭を抱えてうめく杏里を叱咤するヘレナに、クローエは手元の文庫本に落としていた視線を向ける。

[Helena] なぁに?

[Chloe] あなたもそんな授業とっていたの?その二つ、必修ではなかったわよね?

[Helena] ええ。私もとってないわ。

[Chloe] じゃあ、なんで重要箇所なんてわかるの?

[Helena] まぁ、クローエ、あなた、去年の苦労を忘れたの?

[Narration] あきれたように、ヘレナが答える。

[Chloe] 忘れたわね。騒がしいことはすべて。思い出したくもない。

[Helena] 杏里ったら、選択授業、全部落としたのよ!

[Anri] マーイガッ!

[Chloe] みだりに神を嘆きで煩わせないで。

[Helena] 必修の授業こそ、つきっきりで見てあげたからなんとかなったんだけど……。

[Chloe] やれやれ、だんだん思い出してきたわ。

[Chloe] 大騒ぎだったわね。杏里は脱走するは、あなたはそれを追いかけてわめくは……。

[Helena] ……あなただって、一緒にわめいてたじゃない。

[Chloe] ……そうよ。人生の汚点だわ。だから、最期はあなたに協力したんじゃない。

[Anri] 地獄の日々だったよ。毎日毎日、キミ達二人と一緒に過ごせるというのに、この身は机に縛り付けられ、人生の潤いにもならない散文を頭に詰め込むばかりだったんだからね!

[Helena] 自業自得です!

[Chloe] 人類の叡智のなんたるかもわからぬ無学者と一緒にいたくはないわ。

[Chloe] ああ、その時も思ったわ。今もそう思う。いっそのこと、留年してしまうべきかしらね、杏里は。

[Helena] そういうわけにもいかないでしょう?杏里の親御さんだってご心配なさるでしょうし。

[Anri] あの人、そういうことを気にしたりはしないと思うけどなぁ。

[Chloe] なら、留年してみるかしら?

[Anri] うーん、どうしよう?

[Helena] 真剣に考えてる人がありますか!

[Helena] 何より、本人のためにならないわ! さ、必修科目はだいたい乗り切ったんだから、あとは選択だけでしょう? がんばりなさい!

[Anri] はーい……。

[Chloe] だから、なんでヘレナがそこまで杏里の選択科目に詳しいのかを聞いてたのよね?

[Helena] あ、ああ、そうね。

[Helena] 学習したのよ。必修はできるだけ、これまで見てきたもの。

[Helena] そして選択授業は、杏里に去年、落第した科目を取り直してもらって、テキストをちょっと借りて読ませてもらったのよ。

[Chloe] あなたってすごいわね……。

[Anri] まさしく、知恵の女神だね! 麗しきボクのアテナよ! 賢きミネルヴァよ! ああ、エルダ、ダーキニー……。

[Helena] や、やめなさい、調子のいいことばっかり……。そんなこと言ってないで、ちゃんと、教えたところを憶えてちょうだい。

[Chloe] ちなみに杏里、ミネルバはギリシャ神話のアテナのローマ神話での呼び名よ。

[Anri] へぇ、そうだったんだ!

[Helena] なにを今さら感心してるのよ!

[Chloe] それにしても……。

[Narration] クローエは部屋一面に散乱するノートやレジュメの中から、杏里の試験日程が書かれた紙を拾い上げる。

[Chloe] 杏里って変な科目ばかりとっているのね。

[Chloe] 何これ、理系なのか文系なのか、わかりゃしない。

[Narration] もともと、選択科目というのは、変わり者も多いポーラースターの教授陣が趣味で講座を開いているものも多く、バラエティに富んでいる。

[Narration] その中を、杏里の選択科目はまるででたらめに、散らばっていた。

[Anri] そう言われてもな。面白そうだなって思ったものを、選んでいったつもりなんだけど。

[Chloe] なるほどね。

[Helena] 面白そうなものって……。杏里! そんな理由で授業を選ぶ人がありますか!

[Anri] わわっ!

[Chloe] ……いいじゃない、とても杏里らしくて。

[Helena] そんなこと言って! もうセカンドの選択科目なのよ? 自分の進路と将来を真剣に考え、ふさわしい、役に立つ授業を選ぶべきじゃないの?

[Anri] そ、そんなこと言ったって、今年の選択科目は、去年と同じものを選んだから、余地はなかったよ!

[Helena] あ……、そうだったわね……。

[Anri] そ、そういうヘレナはどうなのさ!

[Helena] わ、私? 私は……。

[Anri] これ? これがヘレナの試験時間割?

[Helena] きゃあ! あ、ちょ、ちょっと杏里!

[Anri] えーと、うわ、なんかすごい……。

[Narration] 慣れた手つきでヘレナを押し倒し、制服の内ポケットから抜き取った紙片を広げた杏里の動きが止まる。

[Anri] ロシアの歴史と文学の授業以外は、見慣れない単語ばっかりだ……。

[Helena] それは、経済と法律関係の学科名です!そういう単語くらい、憶えておきなさい!

[Anri] へー、そうなんだー。

[Helena] ちょっと杏里! いい加減、体の上からおりてちょうだい!

[Anri] えーと、この科目がヘレナの進路と将来に関係あるの?

[Helena] いいからおりてってば!

[Helena] 前に杏里にはちょっと話したでしょう?私の母が、経済学者だって。

[Anri] そう言えば、聞いたことがあるな。

[Helena] その影響なのでしょうね。いつのまにか、興味を持っていたのよ。だから、将来的にはもっと専門的に勉強してみようと思っているの。

[Helena] そのために、今からできるだけ、知識を身につけておこうと思って。

[Anri] ふーん……。

[Chloe] 向いてない気がするわ。

[Helena] クローエ……!

[Chloe] そう思うのよね、あなたの性格じゃ。

[Anri] えー、どうして?

[Chloe] だって、ヘレナって、考え方がどうも堅苦しいでしょう? 融通がきかないと言うか……。

[Helena] う……。

[Chloe] 試しに聞いてみるけど、あなたのお母さんって、あなたに似ているって言われる?

[Helena] う……。その、私は、どちらかというと、父に似てるってよく言われるわ……。

[Chloe] やっぱり。

[Helena] このあいだ、実家に帰った時も、母に言われたわ。今のクローエと同じこと……。向いてないかもって……。

[Chloe] あらあら……。

[Anri] そんなことないよ! だってヘレナはとっても賢いもの! 経済の問題だってきっとすらすらとけると思うな!

[Helena] う……。

[Chloe] そうじゃないと思うのよね……。

[Anri] え? どういうこと?

[Chloe] もちろん、馬鹿じゃつとまらないわよ。でも、なんていうのかしら、柔軟な考え方も重要だって聞いたわ。

[Helena] うう……。

[Chloe] まぁ、でも。

[Chloe] ずいぶんとましなったわよ、ヘレナ、あなたは。昔のあの、金切り声ばかりはりあげていたころに比べれば。

[Helena] ……そういう比べ方はちょっと……。

[Helena] クローエ、あなたの方はどうなの?お勉強は進んでいるの?

[Chloe] あら。

[Anri] そう言えば……。

[Narration] 杏里がはっとした表情でクローエを見る。今さらながら、クローエが苦闘する自分を横目に、本ばかり読んでいたことに気づく。

[Anri] ずるいよ、クローエ。人がこんなに苦しんでいるのに、キミはボクのことはおろか、自分のことだってほったらかしだなんて!

[Chloe] 杏里、あなたの苦しみは自業自得だって言ったでしょう?

[Chloe] わたしの心配なら無用よ。誰かさんとちがって、必修科目の補習の心配はないし、選択科目の試験も全部すんでいるから。

[Anri] ええ!? もう?

[Chloe] ええ。

[Anri] そんな! だって、選択科目の試験はまだ、始まったばかりじゃないか!

[Chloe] スケジュールに恵まれたのよ。一日に4つも試験が入ったりしてちょっと大変だったけど。

[Chloe] それに、今年はあまり、たくさん選択科目をとらなかったから。

[Anri] 授業をとらない! そうか! その手があったのか!

[Helena] 杏里? 去年、単位を落としまくった人にその手はないわよ?

[Anri] ちぇ。

[Chloe] そうよ。わたしだって、去年、たくさん単位をとっておいたから、今年、授業数を減らせたのよ。

[Chloe] でも、おかげで自分の勉強の時間がとれてよかったわ。

[Anri] 何の勉強?

[Narration] 杏里は立ち上がって、クローエの読む本をのぞき込んでくる。

[Narration] 侵さざる神聖な空間を踏みにじられたクローエが抗議の視線を、話をふったヘレナに向ける。

[Narration] しかし、先ほどの会話でいじめられたのが尾を引いているのか、ヘレナは、杏里の行為とクローエの視線をを黙殺した。

[Anri] わ、船の絵がいっぱい!しかもバラバラ死体ばかりだ!

[Chloe] 下品な表現をしないで!

[Chloe] 船の設計に関する本よ、これは。

[Anri] 船の設計! わお、さすがはウィザースプーン家のお姫様だ。

[Chloe] からかっているの?

[Anri] とんでもない! クローエもいつか、ポーラースターみたいな船を造るんだね?

[Chloe] 冗談でしょう?

[Narration] 杏里の言葉に、珍しくクローエが失笑する。

[Chloe] こんな馬鹿げた船みたいなものを作る気はないわ。

[Chloe] それにまだ、将来としてきめたわけじゃないし。ただ……、三つ子の魂百まで、ね。気がついたら、こういう知識を求めているのよ。

[Chloe] それに……、これまで理工系はあまり熱心に勉強してこなかったから……、正直、簡単な本でもちんぷんかんぷんだわ。

[Chloe] でも、楽しいわね

[Chloe] まるで、幼いころの憧れを、埋め直しているみたいだわ。

[Narration] そう言って、クローエは開いたままの本をテーブルの上に伏せ、ブックカバーに覆われた表紙を指でなぞる。

[Chloe] 胸を弾ませながら、子供だましの船の知識に触れていたのよ。その時の気持ちを今、こうやって味わえるのなら……。

[Chloe] もう少し、この本を読み進めていくのも、悪くないわ。

sapphism_no_gensou/7504.txt · Last modified: 2013/06/01 22:49 (external edit)