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sapphism_no_gensou:7503

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[Aisha] お疲れさま。はい、コーヒー。

[Narration] 差し出されたカップを、籐椅子に深めにもたれこんだまま、天京院は受け取った。

[Tenkyouin] ああ……、悪いな。

[Narration] 本来の用件と、付随するささいなおしゃべり。招かれて来たものの、それらの大半をアイーシャとイリヤに委ねて、天京院は1時間ほどを過ごした。

[Narration] クラスメイトのイリヤはすでにアイーシャの部屋を辞し、今、部屋にはアイーシャと天京院と、あまり手をつけなかった夜食だけが残っていた。

[Aisha] ほとんど、私とイリヤだけで決めてしまったわね。わざわざ天京院さんに来てもらったんだけど、悪かったみたい。

[Tenkyouin] いや、気にしてないさ。それに、話に乗ると言った以上、あたしがいなくちゃ、決めづらいこともあるだろう?

[Aisha] それはそうなんだけど。

[Tenkyouin] しかし……、彼女、イリヤ・ラマヌジャン? 結構面白い性格してたんだな。

[Narration] 天京院は、つい先ほどまでの、会話の様を思い出していた。それは、3年間をともにすごしたクラスメートの印象を、今さらながら訂正するのに十分だった。

[Aisha] 天京院さん、彼女のこと、ほとんど知らなかったんでしょう?

[Narration] 少し、笑いをこらえた表情で、アイーシャが答える。

[Aisha] 天京院さんって、ほとんど、教室で姿を見なかったもの。

[Tenkyouin] 行く必要がなかった。

[Tenkyouin] 単位はほとんどレポートで取り引きできたからね。

[Aisha] 取り引き?

[Tenkyouin] ああ。授業はつまらないから出たくないと交渉したら、たいがいの教師はレポートで手を打ってきたのさ。

[Aisha] そうだったの。

[Tenkyouin] 授業をさぼった分、内容のハードルは高かったらしいがね。

[Aisha] まるでバルトレッティさんみたいね。

[Tenkyouin] ニキ?

[Aisha] 彼女も授業に出られないでしょう?だから、単位のほとんどを音楽関係の実技やレポートに振り替えたって話よ。

[Tenkyouin] そうか……。あの娘と一緒か、あたしは。

[Aisha] 部屋にこもったまま、授業にも出てこないところは一緒ね。それから……、その割には、友達が多いところも。

[Tenkyouin] ふん……。あたしに友達が多いとは初耳だね。今だに、クラスメイトの顔も全部憶えていないのに。

[Aisha] あら、いっぱいいるじゃない。今日はびっくりしたわ。

[Tenkyouin] ……彼女達のことか。あれは、杏里との付き合いのおまけみたいなものだ。

[Aisha] あら、じゃあ、私も?

[Tenkyouin] 悪いけど、否定しないよ。びっくりというなら、君がクラスメイトの友人と一緒に、この話を持ちかけてきたことの方が、あたしには驚きだ。

[Aisha] イリヤのこと?

[Tenkyouin] そう。君、確か、クラスには友人はいなかったはずだろう?

[Aisha] ……はっきり言うのね。

[Tenkyouin] すまないね。

[Narration] アイーシャの顔も見ずに短い言葉だけで謝る天京院。アイーシャの方も、わずかに肩をすくめて、苦笑ともつかない顔をする。

[Aisha] 私も、よく話をするようになったのは最近なの。天京院さんの言うとおり、あまり、クラスに親しい人もいなかったから。彼女が最初のクラスメイトの友達よ。

[Aisha] 記念になにか、この学校に贈ろうって言い出したのもイリヤよ。私、そういう慣習があること自体知らなかったから。

[Tenkyouin] そういうことがあるとは知っていた。……自分がやるとは思わなかったけどね。

[Aisha] そうね、あまりイメージには合わないかしら。

[Tenkyouin] ……ふん。

[Narration] そんなことはわかってるといいたげに鼻をならす。

[Aisha] でも、思いきって声をかけてよかったわ。私とイリヤの二人だけでもよかったんだけど……。

[Tenkyouin] あたしも、それで、よかったと思うね。

[Aisha] そう? 私は、天京院さんを誘えたことが、とてもよかったと思ってるわ。

[Tenkyouin] ……まぁ、迷惑ではなかったよ。ただ、実感がまるでわかないだけさ。

[Aisha] そうね、天京院さんは、ね……。

[Tenkyouin] まぁ、あとのことはそっちで適当にやっておいてくれ。

[Narration] 言い置いて、天京院は立ち上がる。カップをテーブルの上のソーサーに戻し、まっすぐにドアへと向かう。

[Tenkyouin] それじゃ。コーヒー、ごちそうさま。たまにはロブスタも悪くない。

[Aisha] おやすみなさい。

[Tenkyouin] ん。

[Narration] 愛想のように、背中越しに軽く手を振って、天京院は部屋を辞す。ドアを閉じきる瞬間まで、背中に感じる視線をいとわしく、思いながら。

[Narration] どうしてだろう。最近、そう、感じるようになっていた。

[Tenkyouin] ……なんだ、まだ残っていたのか。

[Soyeon] ええ。

[Narration] 膝にヤーンを抱えたまま、ソヨンは特に勉強をしているでもなく、天京院が部屋を出た時と同じ場所に座っていた。

[Narration] 時計の針は11時をわずかに回っていた。そろそろ、この娘にとっては起きているのがつらい時間にもなっているだろう。

[Tenkyouin] 他の二人は?

[Soyeon] もう帰りました。天京院先輩が出ていった後、しばらくはおしゃべりをしていたんですけど……。

[Tenkyouin] ……君は?

[Soyeon] 帰った時に、誰もいなかったら、かなえさん、寂しいかな、と思って。

[Tenkyouin] ……はん。

[Narration] 何をしているのかを聞いたつもりだった。なぜ残っているのかを聞いたのではない。

[Narration] どういうことだろう、最近のこの娘は。なぜか、ひどくこちらが落ち着かない態度をとる。

[Narration] まるで……。

[Soyeon] アイーシャさんと……。

[Narration] 膝の上で丸くなっているヤーンの背をやさしくなでながら、ソヨンは切り出してきた。

[Soyeon] どんなお話をしていたのか、聞いてもいいですか?

[Tenkyouin] なぜ、聞く?

[Soyeon] 嫉妬です。

[Narration] ヤーンを見つめながら、それでもはっきりとした言葉で、ソヨンは答えた。

[Soyeon] 悔しくて。かなえさんが、アイーシャさんと二人きりでお話をしていたことが。

[Tenkyouin] 二人きりじゃない。もう一人、友人が一緒だった。

[Soyeon] お友達、ですか?

[Tenkyouin] ……クラスメイトだ。アイーシャの友人さ。

[Narration] いや、なぜ、そんなことを断らなくてはならないんだ?

[Soyeon] そうですか……。

[Narration] だから、その、安堵した表情はなんだ?ソヨンの今の仕草ひとつひとつが、妙に天京院をいらだたせる。

[Soyeon] かなえさん。

[Tenkyouin] ん?

[Narration] また、まっすぐな視線にひたされる。

[Soyeon] 卒業なさるんですよね……?

[Tenkyouin] ああ。

[Soyeon] 進路、聞いてもいいですか……?

[Tenkyouin] 別に、秘密になんかしていない。かまわないよ。

[Soyeon] でも、アルマもニコルも知らなかったんです。もちろん、わたしも聞いてなかった。……どうしてかな……?

[Tenkyouin] 興味がなかったんだろう?

[Soyeon] そんなわけないじゃないですか。

[Narration] ソヨンの声に咎める色はない。しかし、天京院の軽口を受け入れるものでもなかった。

[Soyeon] ただ、聞くのが少し、怖かったのかもしれません。聞かないことで、安心していたのかも。

[Soyeon] 聞かなければ、かなえさんがどこにもいかないんじゃないかもしれないって……。

[Tenkyouin] どこにもいかない、か……。

[Soyeon] かなえさん。

[Narration] 言葉とともに向けられた視線を、今度は横顔で受け止める。

[Soyeon] 卒業後はどうされるんですか?

[Soyeon] どこかに進学されるんですか? それとも……。

[Tenkyouin] この船に残るよ。

[Narration] もうこれ以上、引きのばす気はなかった。できる限り、短い言葉で答える。

[Soyeon] あ……。

[Tenkyouin] この船の研究室で、助手をさせてもらう。まだ、どこの研究室に入るか決めていないが……。

[Tenkyouin] まぁ、クレメント教授か、プライアー教授か、ウッド教授の研究室に入ることになる。掛け持ちでもいいと言われているし……。

[Tenkyouin] しばらくは教授の研究の手伝いをして……、適当な時期に、論文でも書くことになるだろう。

[Tenkyouin] まぁ、そのまま、資格をとるなりして、この船の教師に名を連ねるかどうかはわからないけどね。そんな柄でもないし。

[Narration] ようやく絞り出されてきたエスプレッソを、救いを求めるように、口元へと運ぶ。

[Narration] 鼻腔をくすぐる香気。舌をひたす苦み。やっと少しだけ、落ち着けた気がする。

[Tenkyouin] と、いうことさ。

[Tenkyouin] 別に、隠していたわけじゃない。どの研究室に行くか、決めかねていたものだからね。決まってから伝えればいいと思っていただけさ。

[Tenkyouin] あとは……、誰にも聞かれなかったから、というのもあるな。

[Tenkyouin] まぁ、そういうことだ。

[Soyeon] そうだったんですか……。

[Tenkyouin] お、おい。ソヨン……?

[Soyeon] あはは、なんか、安心したら、涙が出てきちゃいました。

[Soyeon] よかった……。かなえさん、この船に残るんですね。

[Tenkyouin] ……ああ。なにか……、他ですることもないんでね。ここで研究が続けられるなら、出ていく必要がないのさ。

[Soyeon] ……ここから出ていけないんですね……。

[Tenkyouin] ……なんだと?

[Soyeon] いいえ。なんでもないです。……今のこと、杏里さんには、もう伝えてあるんですか?

[Tenkyouin] 言っただろう? 誰にも聞かれなかったって。

[Tenkyouin] それに……、杏里は、あたしがこの船から出ていくなんて、みじんも思っちゃいないさ、きっと。

[Soyeon] そうかもしれませんね。あたしが……、みんなに教えちゃ、ダメですか?

[Tenkyouin] ……いや、かまわないよ。あたしが伝えて回るより、効率がよさそうだ。不必要に言いふらしたりしなければ……。

[Soyeon] しませんよ。

[Tenkyouin] じゃあ、頼む。適当に触れて回っておいてくれ。それから、特に無駄なことをする必要もないってこともね。

[Soyeon] わかりました。……ふふっ。

[Tenkyouin] ……どうした?

[Soyeon] あたし、杏里さんよりも先に、かなえさんの秘密を知ってしまったんですね。

[Tenkyouin] 秘密でもなんでもない、こんなこと。……さあ、もう帰りな。

[Narration] つとめてそっけなく、天京院はソヨンをうながす。

[Soyeon] はーい。

[Narration] すでにくったりと膝の上で熟睡していたヤーンを抱え上げて寝床に戻し、ソヨンはドアへと向かう。

[Soyeon] また、明日もここに来ていいですか?

[Tenkyouin] ……勉強しにくるのならね。

[Soyeon] わかりました。また、みんなとお邪魔しますね。

[Narration] その答えを残して、ドアはパタンと閉じられる。

[Tenkyouin] ……ふぅ。

[Narration] 深く大きく息を吐き、天京院は寝椅子へと沈み込んだ。

[Narration] 翌日────。

[Narration] 一本の急な連絡を受けて、ポーラースターを離れなければならない者がいた。

[Tenkyouin] 実家からさ。

[Tenkyouin] 曾祖母が倒れてね。まぁ、年も年だから、そろそろ危ないらしいんだ。

[Tenkyouin] どうにしろ、向こうが落ち着くまでは戻ってこれないから、少し長くかかるかもしれないな。

[Tenkyouin] 別に、そんな心配そうな顔をしなくてもいいよ。変な言い方だけど……、縁の薄かった人だからね。それほど、ショックだったりしてるわけじゃない。

[Tenkyouin] ヤーンの面倒はイライザに頼んであるけど、もしよかったら、時々、見に行ってやってくれ。

[Tenkyouin] それじゃ。

sapphism_no_gensou/7503.txt · Last modified: 2013/06/01 22:49 (external edit)