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sapphism_no_gensou:7501

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[Narration] この夜から、ポーラースターは低気圧の中に進路を定めたようだった。

[Narration] 普段、夜空を埋め尽くしている満天の星空は雨雲に覆い隠され、窓ガラスをわりと大きな雨粒が叩いている。

[Narration] 波もきっと高いのだろう。この船の巨体なら、小揺るぎもしないのだが。

[Tenkyouin] 季節感を出して、梅雨ってわけでもないだろうに……。

[Narration] この船の舵を握る人物は妙に律儀で、夏は赤道直下を、冬は極地方を航行することを頑としてやめない。

[Tenkyouin] 梅雨なんてものがある地域がどれだけ世界にあるんだか……。

[Narration] 気象学は専門じゃない、5月のこの時期、日本列島に梅雨前線はできるのだろうか。そんなことを考えながら、理事長のもう一つの側面を思いやる。

[Narration] 妙に律儀、でなければ、気まぐれ。

[Tenkyouin] まぁ、どっちでもいいさ……。

[Narration] 砕けた水の飛沫が一面につたうガラスを一度見やってから、この部屋の主は、雑多に物が散らばり、そして時ならぬ来客達に埋め尽くされた室内に視線を戻した。

[Tenkyouin] しかし……。

[Narration] 口につけたカップから流れ込んでくるコーヒーは、つぶやいた言葉にあわせて、微妙に苦い。

[Tenkyouin] こんな夜中に大勢で押し寄せてきて、何事だ、君達は。

[Narration] 性質としては文句と言うより独り言に近いものだったが、その場にいた全員の頭があがり、発言者へと視線を向けた。

[Nicolle] おいおい、カナエ。まだ9時もまわっちゃいないぜ。お子様でなし、おねむになる時間じゃないだろ。

[Alma] すみません……。ニコルが、どうせ勉強しなきゃならないなら、天京院様の部屋がいいって言うものですから……。つい、お邪魔してしまって。

[Soyeon] でも、わからないとこがあったら、すぐ聞けるから、便利ですよね。

[Tenkyouin] 便利! このあたしの存在を便利と言うか……。

[Narration] 来客達の悪びれない態度に、思わず絶句する。

[Tenkyouin] そんなことをいうやつなんて、船内に一人だけだと思ったんだが……。

[Narration] 声に出さないように、コーヒーとともに、その言葉を飲み込み、壁際に置いてあった机付きの椅子に沈み込む。

[Narration] 所用で、夕方からずっと部屋を空けていた。

[Narration] 早めに夕食をすませて7時前に戻ってみれば、すでにソヨンがヤーンを膝に抱いて、参考書やらノートやら、テーブルの上に店を広げていた。

[Narration] 鍵はイライザに開けてもらったらしい。腹は立たないが、セキュリティもなにもあったもんじゃない。

[Narration] 8時過ぎに、アルマとニコルが訪れ、天京院はカウチをも占領され、こうして壁際に追いやられこととなった。

[Narration] 折しも今、学園は期末考査の真っ最中だった。

[Narration] この時期ばかりは、普段はのんびりとしたこの船の学生達も、勉強に追われることになる。

[Narration] 仲のよい友人同士が集まって、おざなりな消灯時間までのお茶とおしゃべりの時間も、こうして勉強会に様変わりしたりもする。

[Tenkyouin] それがなんであたしのところなんだ……。

[Nicolle] なんか言ったー?

[Tenkyouin] いや。

[Narration] こう人が多くては愚痴も言えやしない。

[Alma] ニコル、ちゃんと集中してくださいな。カルマル同盟の変遷と意義の変化は……。

[Nicolle] ……勘弁してくれ、ちんぷんかんぷんだ。

[Tenkyouin] 何をしてるんだ?

[Narration] 遠い記憶の彼方に葬り去った単語を耳にして、天京院はアルマに尋ねる。

[Alma] 欧州中近世史です。イエルマ先生もこのたびはずいぶん、気合が入っているようで……。

[Nicolle] こっちにゃいい迷惑だよ。

[Tenkyouin] ……ソヨンはなにをやってるんだ?

[Soyeon] あたしですか? あたしは、中央アジア文化論です。チベット語学ももれなくついてくるんで大変で……。

[Tenkyouin] そのラインナップでどうしてあたしの部屋に来るんだ……?

[Narration] 両方とも、とったこともなければ、担当教官の名前すら知らない。

[Narration] わからないことがあれば、すぐに質問できるから便利? 持ち合わせのない知識でどう答えろと?

[Alma] ほら、ニコル! ここは重要ですよ。先生も三十年戦争は絶対に出すとおっしゃってましたし。

[Nicolle] 絶対出るっつったのはそこだけじゃないだろ。範囲が広すぎるんだ。もう、降参、降参。ドイツ野郎の内輪のいざこざなんか、知ったこっちゃない。

[Alma] あら、三十年戦争といえば、北方の獅子、グスタフ・アドルフの輝かしい栄光とその最期ですわ。

[Nicolle] 誰だ、それ。

[Alma] スウェーデンの英雄です!

[Tenkyouin] 知らん知らん。

[Narration] ネイチャーに視線を落としながら、天京院はこっそりニコルに同意する。

[Alma] もう、ニコル? ちゃんとまじめに勉強しないと、この科目、落第してしまいますよ?

[Alma] 他の科目だってあぶないっておっしゃってましたのに……。

[Nicolle] あー……。

[Nicolle] まぁ、なんとかなるさ。ならないかもしれないけど……。

[Tenkyouin] 開いてるよ。

[Eliza] 失礼いたします。

[Eliza] お夜食などいかがかと思いまして、うかがったのですが……。

[Nicolle] 待ってました!

[Alma] サンドイッチなど、簡単に食べられるものをいただけますか、イライザさん。

[Eliza] かしこまりました。ギャレーの方にオーダーを出しておきますね。

[Tenkyouin] ……おい。

[Narration] 来訪者達の我が物顔加減に、天京院は言葉もない。

[Eliza] 今夜はずいぶんとお客様が多いようで。

[Tenkyouin] 呼んだ憶えはないけどね。知っていたんだろう?でなきゃ、夜食の注文を取りにくるはずがない。

[Eliza] ええ、実は。ニコル様とアルマ様に夕方、声をかけられまして。こちらに遊びにいらしていると。

[Alma] 遊びにじゃありません、勉強です。

[Nicolle] はいはい、カリカリしなさんな。

[Nicolle] どうせこんなガッコ、テストの点やレポートの出来が悪かったところで、学費さえきちんと納めてれば進級させてくれるだろ?

[Soyeon] ニコル!

[Alma] ニコル!

[Nicolle] な、なんだよ?

[Narration] 二人の剣幕に驚いたニコルに、天京院が黙ったまま、首をわずかに振って、隣に控えていたイライザを指し示す。

[Nicolle] あ……、悪い……。

[Eliza] いいえ、お気づかいなく。

[Narration] 苦笑を浮かべて、イライザはほんの少しだけ肩をすくめた。

[Eliza] それに、ニコル様。少々、思い違いをされているようです。

[Nicolle] え?

[Eliza] 学費の納入と進級は無関係なんですよ。

[Nicolle] へ?

[Eliza] きちんと学費を納めている方でも、去年のちょうど今頃、進級のために必死になっていた方がいらっしゃいます。

[Soyeon] あ……。

[Alma] ま……。

[Tenkyouin] ああ、いたな、確かに。

[Nicolle] まさか……。

[Eliza] ええ、杏里様なんですけどね。

[Nicolle] やっぱり……。

[Eliza] ええ、それはもう、たいへんな苦労をされていましたわ。

[Tenkyouin] おもに、ヘレナがね。

[Eliza] ええ、まぁ。

[Alma] 目に浮かぶようですわ……。

[Soyeon] ヘレナ先輩もさぞかしご苦労を……。

[Eliza] それはもう。つきっきりで杏里様の勉強を見ていられましたから。

[Alma] それは……。

[Soyeon] うらやましいかも……。

[Eliza] そうでしょうか? 1時間に一度は、もう留年でもいいと叫ぶのを叱りつけ、3時間に一度は脱走を試みるのを阻止し、6時間に一度は襲いかかってくるのを……。

[Nicolle] あーもういい、みなまで言わんでくれ……。

[Narration] しばし、杏里の健闘を称えるというより、ヘレナの苦闘に同情する空気が部屋に漂う。

[Alma] ニコル、わかりました?

[Alma] いい加減な気持ちでいると……。

[Nicolle] わーかった、わかった!やるよ、やりますってば!

[Nicolle] 大丈夫だって。ま、なんとかなるよ。

[Eliza] 杏里様も……。

[Eliza] 直前まではそうとう楽観的にかまえていらしたんですけど、指導室に呼ばれ、ジョアンナ教諭からひとしきりお説教を受けた後……。

[Eliza] 学園長にこう言われて、考えを改めたそうです。

[Eliza] 「あたしはかまわないんだけどね。学費さえ 納めてくれれば、何年だっていてくれたっ てさ」、と。

[Nicolle] ………………。

[Alma] ニコル! このあいだ、ジョアンナ先生に呼ばれてましたよね! いったいなんと!?

[Nicolle] わわ! 落ち着けっての!あん時ゃ、ちょっと声かけられただけだって! しっかりがんばりなさいって!

[Alma] 学園長は!?

[Nicolle] いなかったって!

[Tenkyouin] ふん……。

[Narration] それなりに危機感を認識したアルマとニコルを横目に、天京院はなんとなく溜飲をさげた面もちでコーヒーをすする。

[Soyeon] それで、イライザさん。

[Eliza] はい? なんでしょう。

[Soyeon] 杏里さん、今年はどうなんですか?

[Eliza] ああ……。

[Eliza] ……やっぱり、苦戦していらっしゃるようですね。

[Soyeon] あぁ……。

[Eliza] ほら、いろいろありましたから。謹慎されていた時期もありましたし。

[Tenkyouin] あまり関係ないだろ、杏里の場合は。

[Nicolle] だろね。

[Eliza] それでも、ヘレナ様やクローエ様が、去年の二の轍は踏ませまいと、日頃から気を配っておられましたし。

[Tenkyouin] ご苦労なことだ。

[Alma] 聞きました? ニコル。日頃からの努力が大切なんですよ?

[Nicolle] あーもう、こいつをなんとかしてくれ。

[Nicolle] いーじゃないのさ。もし杏里が落第したら、あたしらと同級生だ。そん時ゃ、笑って迎えてやろうぜ。

[Soyeon] 杏里さんが……。

[Alma] 同級生……。

[Anri] 君と同じ制服に身を包める幸せを感じるよ、ソヨン。ねぇ、これは無上の喜びというものだね!

[Anri] これから一年間、同じ教室で同じ時を過ごせるんだね、アルマ。至福という言葉がこれほど似合うこともないだろう!

[Soyeon] うわぁ……。

[Alma] まぁ……。

[Nicolle] おーい、どっか行ってるぞ、この二人は。

[Eliza] まぁ、今年は大丈夫なのではないですか?

[Soyeon] あ……。

[Alma] そうですか……。

[Nicolle] はいはい、無駄な夢見なさんなって。

[Alma] ちょっと想像してしまっただけです!

[Soyeon] もし、杏里さんがもういっかいセカンドクラスになったとしても、ニコルも一緒に留年しちゃってるかもね!

[Nicolle] うぐ。

[Alma] そうならないためにも!

[Nicolle] あーもー!

sapphism_no_gensou/7501.txt · Last modified: 2018/05/22 17:15 (external edit)