User Tools

Site Tools


sapphism_no_gensou:7353

Place translations on the >s

[Narration] 9:30。

[Narration] ノックの2秒後、部屋の中からの返事を聞いて、わりと重い木の扉を開ける。

[Narration] メイド長室。学生から見れば、教員室に当たるのかもしれない。イライザは、この部屋に入った呼び出された過去の記憶を思い起こした。

[Narration] 学生の身分を失い、メイドとしてこの学園に残ることを決心した時、仕事に慣れず失敗を繰り返した最初の数日、杏里の監視を仰せつかったあの三週間の最初の日……。

[Narration] あっさりと数えきれるほどの回数、なるほど、あまりいい話を聞きにきたことはない。同僚達の心配も合点がいく。

[Eliza] 遅くなりました。

[—–] いえ、あなた達が手が空く時間は、だいたいわっていますから。おかけなさい。

[Eliza] はい。

[Narration] すすめられた椅子に腰掛ける。

[Narration] なんだかんだ言って、こんな時間になってしまった。

[Narration] 決して、ここに来るのをいやがって、この時間になってしまったのではない。それはメイド長もわかっていると言ってるし。

[Narration] 学生達の、慎ましくも戦争のような、朝が終わり、授業が始まると、メイドの仕事は担当する学生の個室での仕事が中心になる。

[Narration] 主が授業へと向かった部屋を訪れ、部屋の掃除を行い、出過ぎない程度の片づけをし、洗濯の必要な衣類を運び出し、逆に洗濯のすんだものをしまう。

[Narration] そんな一日の仕事の流れがあるから、最初に手が空く時間というのは、自然に決まってくる。

[—–] わざわざ来てもらったのは、他でもありません。

[Narration] ほら来た。なんだろう。

[Narration] いろいろ考えてみたが、最近は呼び出される不始末はしていないはずだ。担当する学生との関係もおおむねうまくいっている。

[Narration] 今日は朝から、やや体調が悪かったので、少しぼーっとしたところがあったかもしれない。

[Narration] しかし、それをこのメイド長に見抜かれて注意を受けるということがあるだろうか? 今日、私は、シーツに残ったしわや、窓枠の隅の埃ほど、目立っていただろうか?

[—–] イライザさん、あなたにお話があります。

[Narration] ……だから呼んだのでしょう? いや、いいのだけど。

[—–] あなたを、右舷後部地区のチーフメイドに昇進させたいと考えています。

[Eliza] ……は?

[Narration] なるほど、朝からこんな調子だったのは、この予兆だったのかしら。

[Narration] そんなわけはないと思いながら、不意をつかれつつ、メイド長の言葉の続きをただ、待っていた。

[—–] 急なことではありますが、現在のチーフメイドの一人、キャズ・ブライアンから、退職願が出ています。

[—–] 理由は結婚のためです。次の寄港地、ボストンで船を降りるそうです。

[Eliza] はぁ……。おめでとうございます。

[—–] 伝えておきましょう。しかし、このため、チーフメイドに欠員がでることになりました。現在のメイドの中から一人、チーフになってもらわなければなりません。

[—–] それを、あなたにお願いしたいのです。

[Eliza] ……あの、なぜ、私なのでしょうか? 他にもふさわしい方はいるはずです。特に、右舷後部地区の担当には、確か……。

[—–] ええ、勤続10年のベテラン、アデレード・ボースンがいました。

[—–] しかし、残念なことですが、彼女も退職願を出しています。

[Eliza] はぁ?

[—–] 理由は結婚のためです。次の寄港地、ボストンで船を降りるそうです。

[Eliza] ………………。

[—–] 喜ばしいことではありますが、我々ポーラースターが、実績があり信頼のおける二人のメイドを失ったことにはかわりありません。

[—–] 職務経験の長い者は、すでに他の地区のチーフについています。確かに、あなたは勤務期間こそまだ短いものの、仕事の内容は十分だと私は判断しています。

[—–] ゆえに、あなたをチーフメイドに推したいと考えているのです。

[Eliza] はぁ……。

[Eliza] (おなかだけじゃなくて、頭も痛くなってきた みたい……)

[Bess] チーフメイドに!? すごいじゃない!

[Eliza] すごいことよね、確かに。

[Narration] メイド長の部屋を出たところで、ベスに会った。

[Eliza] 私、まだ、勤めはじめて一年もたっていないのに……。

[Bess] んー、でも、あたしがメイド長でも、イライザを選ぶなぁ。だって、今、あたし達の担当を実際に仕切ってるのって、イライザだしねぇ。

[Eliza] う……。やっぱり、目立ってたかしら。

[Narration] 気質なのだとしたら、どうにもならない。

[Narration] メイドになってから1ヶ月くらいは、仕事に不慣れなのもあって、おとなしくしていた。

[Narration] しかし、仕事もわかってきたころに、どうにも我慢できず、今朝のような急な欠勤者の仕事の割り当てに口を出した。というより、強引にリーダーシップをとった。

[Narration] それは拍子抜けなほどあっさりと受け入れられ……、わずかな反発は、自分に隙を作らないことで封殺した。

[Narration] それ以来、主にセカンドクラスが集まる右舷後部地区は、イライザが中心となって、シフトなどを決めるようになってしまった。

[Bess] まぁ、ブライアンさんもボースンさんも、あまり張り切ってあたし達若手を教育するタイプでもなかったしね。

[Bess] イライザのおかげで、効率的になったしよかったんじゃない?

[Bess] そういうところもあるから、チーフメイドに昇進できるんだし。

[Eliza] 昇進はまだ、確定事項じゃないわ。

[Bess] え? そうなの? なにか試験でもあるの?

[Eliza] ううん、そうじゃないけど。ちょっと、考えさせてくださいって答えたのよ。

[Bess] えー、なんで?

[Narration] 人の姿もほとんどない大廊下に、ちょっと大きくなったベスの声が響く。

[Narration] この時間、学生は授業、教員も授業。なので、学園中央部に人の姿は極端に少ない。

[Narration] メイドの方も、午前の仕事が一区切りつき、昼食の忙しさまでの貴重な休憩時間になる。

[Narration] だから、多少、おしゃべりしていても、それを咎める者などいないのだけど……、さすがに、声がよく響いたからか、ベスは口に手を当てて、あたりを見回す。

[Eliza] 大丈夫、誰も聞いてないわ。

[Bess] それより、もったいないじゃない。せっかくの昇進話なのに。

[Eliza] もったいないと言われても……。

[Narration] そう答えて、ちょっと考えさせてほしいと、メイド長に伝えた時の気持ちを思い返す。

[Eliza] やっぱり、まだまだキャリアが足りないと思うわ。元はここの学生だったくらい、世間知らずなのよ、私。

[Narration] へりくだるつもりはさらさらないけど、微妙に本心とちがう言葉が出てくる。

[Bess] あら、そんなこと、全然気にしなくていいじゃない。

[Bess] イライザがここの学生だったことなんて、もう誰も気にしてないもの、メイド仲間は。

[Eliza] 学生の方はどうかしら。

[Bess] あの子達だって、3年もすれば入れ替わるもの。今だって、もう、気にしている人、少ないんじゃない?

[Narration] そうね、さすがにものめずらしげな視線はなくなったかしら。

[Bess] そう言えば、ちょっと前まで、やたらかまってくる子が二人、いたっけ。

[Eliza] ああ、あの子達ね。

[Narration] シルビィとクリミア、確かに、メイドになってからしばらくは、やたらと私に「ちょっかい」をかけてきていた。

[Bess] でも、あれもなんか、接し方に困ってただけみたいだったし。

[Eliza] ……わかってたの、あなた。

[Narration] そういうところが、この友人が侮れない。

[Bess] イライザって、自分で仕事がよくできているのはわかってるでしょう? あたし達のまとめ役になってるのも、お互いで認めてることだし。

[Bess] ここまでやってるんだから、お給料あがるぶんだけ、ちゃんとした役職についた方がいいと思うんだけど。

[Narration] なんと答えていいか、すぐに結論がでなかった。……ベス相手にへりくだるつもりはないけど、さすがに少しは謙遜したいとも思う。

[Narration] 仕事は、まぁ、今より2、3割、忙しくなるくらいだろうし、その程度ならこなせると思う。

[Narration] 同じブロックで働く同僚に対して、責任がついてくるのも……、別に今だって無責任にリーダーを気取ってるわけじゃないから、その覚悟はあるし。

[Eliza] お給料こそ、どうだっていいしねぇ……。

[Bess] そう?

[Eliza] あ、気を悪くしないでね? ほら、私の借金って、チーフになって給料があがったくらいでどうにかなる額じゃないらしいから。

[Narration] 自分についてまわる負債額くらい把握してる。メイド長になったって、一生くらいじゃ返せない。この瞬間だって、利子がついて完済予定年数が増えているくらいだし。

[Eliza] そういうこともあるから、船からも降りられないし。住み込みだから衣食住に心配ないし、使い途もあまりないわよね。

[Bess] あら、通販に使える分が増えるわ。それって魅力的じゃない?

[Eliza] ああ、それがあったわね。

[Narration] そう言ってお互いに笑った。

[Narration] ベスは私の事情を知ってくれている。だからこんな冗談でお金の話を終わらせてくれるのはとても助かる。

[Narration] 私は船から降りられない。その事情はちょっとやそっとじゃ変わらない。真剣に考えれば……、ううん、考えるのさえ馬鹿らしいことだ。

[Eliza] まぁ、もう少し考えてみるわ。

[Narration] そう答えた。ベスにも言えない理由をいくつか、胸に秘めたまま。

[Narration] ひとつは、メイドチーフになったところで、この学園の学費なんて当然、払えっこないってわかってはいること。

[Narration] もう一つは……。

[Bess] ああ、そう言えば。

[Bess] あの子は、まだ、イライザがメイドになったことを気にしてるわよね。

[Bess] 気にしてるっていうより、いまだに大喜びじゃない? 杏里・アンリエット。

[Eliza] ………………。

[Narration] ねぇ、ベス、そのさりげなさとタイミングは、天性のものなのかしら? それとも、単に、私のことなんてお見通しってことなの?

sapphism_no_gensou/7353.txt · Last modified: 2018/05/22 17:15 (external edit)