User Tools

Site Tools


sapphism_no_gensou:7254

Place translations on the >s

[Anri] 乾杯!

[Narration] そう言って、紅い液体をなみなみと満たしたグラスを高々と掲げた。

[Anne Shirley] 乾杯!

[Narration] それに、アンシャーリーも同じようにグラスを掲げて唱和する。

[Narration] 二人の唇に、傾けられたグラスの縁と注がれている紅い液体が触れる。

[Anri] ────!

[Anne Shirley] ────!

[Narration] 口の中に流れ込んできた液体の最初の感触に、二人して一度、目を閉じる。

[Narration] しかしすぐに、二人とも、グラスの尻を高く持ち上げ、我先に、喉へと流し込んでいく。

[Narration] 無言のまま、喉だけをならす。

[Narration] やがて。

[Narration] 二人のグラスの中身が同時に無くなる。空になったグラスが、タン、と音を立てて、テーブルの上に置かれる。

[Anri] おいしいっ!

[Narration] まず、杏里が大声でその味わいをうたった。

[Anne Shirley] そうね、とても今年は上出来だわ。

[Anri] ボクは、こんな素晴らしい飲み物を今まで飲んだことがないよ!

[Anne Shirley] あら、もったいない人生ね。あたしは毎年、この季節にいただいているわ。

[Anri] 本当だよ! なんてもったいないことをしてたんだ! これは、キミに出会っていなかったボクに罪がある!

[Anne Shirley] これはね、ラズベリー水っていうの。

[Anne Shirley] 作り方はいたって簡単。さっき見せた通りよ。

[Narration] そう言って、アンシャーリーはテーブルの脇に置かれた、簡単な野外調理器を指し示す。

[Narration] そのガスコンロの上には、小さな柄付き鍋がのせられていた。

[Narration] 杏里達は、摘みとったラズベリーを、砂糖とレモン汁と一緒にその鍋に入れて火にかけた。

[Narration] やがて、砂糖がとけだしてきたら、それを冷まし、広口の瓶に移し替えて、そこに炭酸水を注いだ。

[Narration] 今、杏里が絶賛した紅い飲み物はたったそれだけで完成していた。

[Anri] 作り方は簡単だからって……、いや、これはとっても奥深い飲み物だよ!

[Anri] ああ、ぜひおかわりをいただきたい!

[Anne Shirley] ……あまり、飲み過ぎない方がいいと思うわ。

[Anri] え?

[Narration] まだたっぷりと残っている瓶にのびかけていた杏里の手が止まる。

[Anri] えーと、もしかして、なにか副作用でもあるのかい……? ラズベリーにそんな効用があるなんて聞いたことがないけど。

[Anne Shirley] ああ、そうね。杏里にはきっとなんの害もないわ。

[Anri] すると……?

[Narration] 杏里は心に浮かんだ疑問を視線にして、アンシャーリーへと向けた。

[Anne Shirley] ………………。

[Narration] アンシャーリーは、それに答えず、わずかの間、押し黙る。そして。

[Anne Shirley] 杏里。

[Narration] 名前を呼ばれて、杏里は視線をアンシャーリーに向ける。

[Anne Shirley] ボゲードンがいなくなったわ。

[Narration] アンシャーリーとの、こんな唐突な会話は慣れているはずだった。ただその時は、杏里は彼女に答えるのに、わずかな時間が必要だった。

[Anri] ……へぇ、彼は相変わらず忙しいんだね。今日はどこの宇宙におでかけなんだい?

[Anne Shirley] わからない……、いいえ、杏里、今、ボゲードンは私の宇宙にいないのよ。

[Anri] ……アン?

[Narration] 正体のわからない違和感に気づいて、杏里はアンシャーリーの顔を見つめ直す。

[Narration] いつもと同じ、どこかこちらとずれた視線。それは変わらない、でも……。

[Anne Shirley] ほらね、このラズベリー水を飲むと、あたしの時間が帰ってくる。

[Anri] ………………。

[Anne Shirley] 彼に出会う前の、あたしの時間が。

[Anri] それじゃあ、ボクと会うのも初めてかな、キミは。

[Narration] ほぼ、直感だけに従って、杏里はアンシャーリーに問いかける。

[Anne Shirley] いいえ。

[Anne Shirley] あなたのことは何だって知ってるわ。

[Anri] じゃあ、キミはアンシャーリーなんだ。

[Anne Shirley] もちろんよ。

[Narration] アンシャーリーの前のグラスに、小さな音をたてて、ラズベリー水が注がれていく。

[Narration] やがてそれが八部目ほどまで満たされると、アンシャーリーはグラスの縁に口をつけて、わずかにあおった。

[Anne Shirley] 杏里、あなたってさすがよね。

[Anri] え? ボクが?

[Anne Shirley] たぶん、きちんと理解してないでしょうけど、直感で、あたしと、ボゲードンを知ってるあたしのことをわかってるわ。

[Anri] ……どういうことだろう? よくわからないよ。だけど、アンシャーリーはアンシャーリーだよね。

[Anne Shirley] まったくもってその通りなのよ。

[Anne Shirley] そうね、ただ、過ごしてきた時間がちがうのかしら。

[Anne Shirley] 昔は、あたしにも、すごいたくさんの時間があったのよ。

[Anne Shirley] 真っ白なスケッチブックを見ると、いくらでも絵が浮かんできて、描き出しても描き出しても終わらないくらいの時間が。

[Anri] ………………。

[Anne Shirley] そのうちだんだん、描いた絵は、あたしの中に残らなくなった。誰かが持っていってしまうの。それはあたしの時間を持っていくのと一緒だった。

[Anne Shirley] あたしの時間は、どんどん、持っていかれてしまったの。とても、とても、小さくなるくらい。

[Anri] ……悲しかった? それは。

[Anne Shirley] ううん、そういう気持ちはなかったわ。ただ、あたしの知らない人が、あたしの時間を持っていってしまう。悲しい? 寂しい?

[Anne Shirley] もう、あまり時間が残っていない時に、彼に出会ったの。

[Anri] それが、ボゲードン?

[Anne Shirley] ええ。

[Anne Shirley] 久しぶりだったの。一人で、冒険していた時だったわ。

[Anne Shirley] 屋敷をこっそりと抜け出して、裏の工場に潜り込んで、それから農園の方まで、ひたすらに歩いていったわ。

[Narration] アンシャーリーはゆっくりと言葉をつないでいく。手にしたグラスの中のラズベリー水を揺らしながら。

[Anne Shirley] そしたら、彼が現れた。

[Anne Shirley] 真っ白な闇の中に、ぼんやりと光を放つ黒いなにか。

[Anne Shirley] そこまでよ。そこから先は、ボゲードンと一緒にいるあたしの時間。それは、あなたと出会う数年前の物語。

[Anne Shirley] そして、ボゲードンを見つけたあたしから、もう誰も、時間を持っていったりはしなくなったの。

[Narration] アンシャーリーが言葉を句切ると、そこには、温室の中をまわる風の音だけが聞こえる空間になった。

[Anri] アンシャーリー、キミは……。

[Anne Shirley] なぁに?

[Narration] 杏里の言葉に、アンシャーリーは小首を傾げて続きを待つ。

[Anri] やっぱり不思議な子なんだね。

[Anne Shirley] あら、やっぱり?

[Anri] うん、ボクはそのミステリアスな部分にとてもひかれている。

[Anne Shirley] ボゲードンのおかげかしら?

[Anri] 残念ながら、ボクには彼が見えない。見えるのはアンシャーリー、キミだけだよ。

[Anri] キミがボクにくれる、刺激とスリル、ビックリ箱、ああ、なんて言えばいいんだろう?

[Anri] 今、キミが持つ、すべてが、ボクにとっては愛おしいアンシャーリー・バンクロフトなんだ。

[Anri] もちろん、キミもだよ、アン。

[Anne Shirley] まぁ……。

[Narration] まっすぐに杏里はアンシャーリーを見つめる。いつもより、心持ち強い視線で。

[Anri] 少し、さびしく感じるのは、キミがもうすぐ、別れを決めていることだね。でも、ボクはキミのことを憶えていよう。いつも、アンシャーリーの中に、キミがいると信じてる。

[Anri] ねぇ、憶えておいてほしいな。ボクは、アンシャーリーが大好きなんだ。

[Anne Shirley] ……憶えておくわ。いちばん、うれしい言葉は、あなたがあたしを大好きだということよ。

[Anri] うん、それだけは信じて。

[Anne Shirley] ええ。

[Narration] そう、うなずいて笑うと、アンシャーリーはゆっくりと、ラズベリー水の入ったグラスから手を離す。

[Narration] 杏里がその姿を見守る中、ゆっくり三つも数え終わったころ。

[Anne Shirley] あら、ボゲードン

[Narration] 何気なく、アンシャーリーはどこか空の一点を見つめて、そうつぶやいた。

[Anri] え……?

[Narration] その瞬間、杏里の意識は真っ暗な闇の中に吸い込まれていった。その最中、杏里はその闇がニヤリと笑ったような気がした。

sapphism_no_gensou/7254.txt · Last modified: 2018/05/22 17:15 (external edit)