User Tools

Site Tools


sapphism_no_gensou:7253

Place translations on the >s

[Narration] さんさんと陽光がふりそそぐ、ポーラースターの温室。

[Narration] 小さな植物園なら丸ごと入りそうな規模の鉄骨組の建物の天井と壁には、無数のガラスがはめ込められ、それは窓となって開閉する。

[Narration] 船の緯度、気温、湿度によって、コンピューターで制御され、壁、天井のガラス窓は開閉し、室内を一定の環境に保っている。

[Narration] 温室内もいくつかのブロックに区切られていて、熱帯の植物が集められている区域は気温も湿度も高く設定されているし、寒帯や高山植物の区域まである。

[Anri] これって温室って言っていいのかな……。

[Narration] 標高2千メートルの環境を再現した区域を歩きながら、杏里はつぶやいてみたりもする。

[Narration] アンシャーリーからの手紙を受け取ってから、最初の休日。

[Narration] 杏里は、呼び出されたとおりに、温室の中を、手紙の裏側に水色のペンで書かれた地図を頼りに、アンシャーリーの招待の場を目指して歩いていた。

[Narration] いくつかのドアをくぐり、そのたびに上下する室温に上着のボタンをとめたり外したりするうちに、周囲は見慣れた木々ばかりになってきていた。

[Anri] このへんだな。

[Narration] 手紙の裏側をながめやりながら、杏里は周囲を見渡す。

[Narration] ほんの少しだけ、室内を流れる風が涼しく感じられる、よく慣れた気温と湿度。

[Narration] 周囲の木々も、名前こそ知らないものの、見慣れているものばかりに思える。

[Anri] さて、この辺のどこにアンシャーリーがいるんだろう?

[Anne Shirley] 杏里。

[Narration] きょろきょろと周囲を見渡す杏里に、聞き慣れた声がかけられる。

[Anri] やぁ、アン……。

[Narration] 振り返って、杏里の動きと言葉はピタリと止まる。目を見開いて、そこにいるアンシャーリーの姿を見つめる。

[Anne Shirley] どうしたの? 杏里。

[Narration] そこには、普段の制服とはシルエットも色合いもちがうワンピースのスカートを着てエプロンをつけたアンシャーリーがいた。

[Anri] ワォ! その服でボクとの時間を過ごしてくれるのは初めてだね、アンシャーリー! とってもよく似合ってるよ!

[Anne Shirley] ありがとう、杏里。

[Narration] その服は、デザインだけみればひどく平凡で、センスや着こなしという事柄ともあまり関係がなく……、言ってみれば、この学園の学生の持ち物としては、異質だった。

[Narration] しかし、杏里にはまちがいなく、その服がアンシャーリーにとてもよく似合い、まさに彼女のための服に見えた。

[Narration] 普段、杏里が目にすることのできた私服のどれとも違いながら、とても新鮮で、これから過ごす彼女との時間がとても楽しいものであると期待させるものだった。

[Anne Shirley] さぁ、ご案内するわ、杏里。ここが、アンシャーリー・(中略)・バンクロフトの秘密の花園よ。今日は待ちに待った収穫祭なの!

[Anne Shirley] はい、お口をあーんして、杏里。

[Anri] あーん。

[Narration] めずらしく、そう、アンシャーリーにそう言われて杏里が素直に口を開けるのは、本当に久しぶりのことだった。

[Narration] なにしろ、今日は雰囲気こそちがっているものの、目の前にいるのは学園屈指の問題児、アンシャーリー。

[Narration] 杏里の子猫ちゃんの多くは、同じような呼ばれ方をされていたりするものの、危険度という点では、このアンシャーリーは並ぶ者がいないかもしれない。

[Narration] どこからともなく取り出す、不思議なおクスリの被害にあった者は、自覚症状のあるなしにかかわらず、かなりの数にのぼる。

[Narration] 杏里にしても、アンシャーリーと出会った直後に二、三度、おクスリの洗礼を受けてからは、いかに彼女の頼みでも、うかつに口を開けたりはしなかった。

[Narration] しかし、今日、この時ばかりは別だった。

[Anri] んーっ!

[Narration] 口の中に放り込まれた、小指の先ほどの丸い果実をかみつぶす。口の中にたちまち広がる鼻に抜ける香気ととびきりの酸味。

[Narration] 新鮮さゆえにはじけるような刺激をともなう味覚に、杏里はたまらず、めをつぶり、大きくうなる。

[Anne Shirley] お味はいかが、杏里?

[Anri] ブラボーッ!

[Narration] まだ、口の中に残る酸味に、目をしばたたかせながら、杏里は賞賛の言葉をためらいもなく口にする。

[Anri] ボクはいまだかつて、ここまでおいしいラズベリーを食べたことがないよ!

[Anne Shirley] まぁ、お上手ね、杏里。

[Narration] そう言いながら、アンシャーリーも、自分の左手に提げている籠から、赤い実を一粒つまみあげ、自分の口の中へと放り込んだ。

[Anne Shirley] んーっ! ああ、おいしい。

[Anne Shirley] やっぱり、天然物じゃないと、この酸っぱさは出ないわね。

[Anri] 同感だよ! んーっ!

[Narration] 杏里も、自分の籠の中に山とつみ取った果実に手を伸ばす。

[Anne Shirley] あら、杏里、手酌はだめよ? あたしの籠からお食べなさい。

[Narration] 杏里の指先が、彼女の口に届くより先に、アンシャーリーが実をつまみ上げて、杏里の口元に差し出す。

[Anri] これは失敬。いただくよ。

[Narration] ぱくり、と杏里がアンシャーリーの指先に食らいつく。

[Anne Shirley] まぁ、指までなめて、お行儀の悪い。

[Narration] そこは、まさに、アンシャーリーの秘密の花園だった。

[Narration] 1メートルほどの高さの樹が並んで植えられ、今はその枝という枝に、赤い実をつけている。

[Narration] それは、ラズベリーの木だった。温室の中のひと区画、およそ20平方メートル程度の敷地の中に、ラズベリーの木が植えられ、今、収穫の時を迎えていた。

[Anri] ほんとにとっておきだね! ボク、温室にこんな場所があるなんて知らなかった!

[Anne Shirley] まぁ、あんまりほいほいと入ってこられると、それはそれで困るのだけど。

[Narration] アンシャーリーはわずかに目をそらす。とっさにその視線の先を追う杏里。

[Narration] そこは、ラズベリーの木の植えてある向こう側。そこには、人の背の高さほどの緑色の小さな葉をつけた、細い枝をたくさん茂らせた木が植わっていた。

[Anri] ……なるほど。

[Narration] 正しくはないものの、おぼろげにアンシャーリーの不安を理解し、杏里はそこで割と強引に思考をとめた。

[Narration] 確かに、秘密の花園らしい。

[Anri] でも、これは普通のラズベリー、だよね?

[Anne Shirley] ええ、正真正銘、混じりっけなし。

[Anri] アンシャーリー、ラズベリーが好物だったの?

[Anne Shirley] ラズベリーの実というより……。

[Narration] アンシャーリーは籠の中で山となっている摘みたての果実を見下ろす。

[Anne Shirley] この実を使って、作るものが好きなの。

[Anri] この実を使って? ジャムかなにか?

[Anne Shirley] いいえ。とっておきなのよ。今日はそれを、杏里にもふるまってあげるわ。

[Anri] ワォ、そいつは楽しみだ。

[Narration] ほんの少しの不安を、口の中のラズベリーの酸味で押しつぶして、杏里は笑顔で答えた。

sapphism_no_gensou/7253.txt · Last modified: 2013/06/01 22:49 (external edit)