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sapphism_no_gensou:7202

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[Narration] その夜、ポーラースターは非常にゆったりと、海原を進んでいた。

[Narration] 今は、学期もちょうど半ばにさしかかったところで、とりたてて、先を急がなければならない寄港地もない、そんな理由なのだろう。

[Narration] 舵を握る、あの、学園長の性格では、こんな退屈な時にわざわざスケジュールをたてて船を運航しているわけがない。

[Narration] きっと今だって、もしかすると、舵すら放り出して、船長室専用デッキに出て、酒を飲んでいるかもしれないのだ。

[Narration] その日、杏里はいつも通り、平穏で退屈な授業と、ちょっとしたアクシデントを織り交ぜた朝と昼を過ごし……。

[Narration] 今、こうして夜、ニキ・バルトレッティの部屋のソファにのんびりと体を横たえていた。

[Anri] ひょっとして、学園長も聴いているのかもしれないな……。

[Narration] なにを? 一つは、この波の音を。

[Narration] 窓際にわざわざおしやったソファに寝ころぶ杏里の頭上からは、巨大な船幅に寄せてはかえす、大洋の波の音が降り注いでくる。

[Narration] けっして、ポーラースターを揺るがすことはできなくても、こうして、天然のオルゴールを奏でることができるのだ、波というものは。

[Anri] そして、もう一つは……。

[Narration] 杏里は目を閉じて、耳を澄ませる。

[Narration] 真っ暗になった杏里の世界の中に、ピアノの旋律が流れ込んでくる。

[Narration] それは、バックグラウンドに流れる波の音にあわせて、寄せてはかえし、また戯れ、補い合って、心地よい楽曲を演じていた。

[Anri] キミの曲だよ、ニキ……。

[Narration] 杏里の声はつぶやく程度の大きさだったので、たぶん、ニキには届いていないだろう。

[Narration] もうかれこれ、1時間もピアノに向かい、鍵盤の上で指を踊らせているあの少女には。

[Narration] 別に、杏里も、ニキに話しかけているわけではなかった。ピアノの前に座っているニキの邪魔をするなんて、とんでもない行為だ。

[Narration] だから、誰に聞かせるわけでもなかったその言葉は、杏里の隣に寝そべっていたニコル・ジラルドの愛犬、コローネだけが聞いていた。

[Narration] だが彼は、特に杏里に答えを返すわけでもなく、今宵のささやかな音楽会の模範的聴衆で有り続けた。

[Narration] ……寝そべってはいたものの。

[Anri] ん……?

[Narration] 目を閉じて旋律に身を預けていた杏里は、それが途切れたことに、まるで体を揺り起こされたような感覚を覚えて、目を開けた。

[Niki] あ、杏里……。

[Narration] いつの間にか、ニキがピアノの前を離れ、杏里のそばにまで寄ってきている。

[Narration] そして、空中に浮いた手は、目を閉じていた杏里の肩におそるおそるのばそうとしていたところだった。

[Anri] 起きていたよ、ニキ。

[Narration] どこか不安げな顔をしていたニキに、笑いかける。

[Anri] そして、ちゃんと聴いていたよ、キミのピアノを。

[Anri] 眠っていたように見えたかい? ごめんよ。でも、キミの演奏会の途中で居眠りをするなんて罪を犯すことなんて、ボクにはできないよ。

[Niki] あ……。

[Narration] ニキの頬がさっと赤くなる。

[Anri] どうしたんだい、ニキ。そろそろお寝むの時間かな?

[Anri] だったら、着替えてベッドに行こう? 今日はたくさん、抱っこしてあげるからね。ボクからの音楽会へのささやかなお礼だよ。

[Niki] う、ううん……。

[Narration] 首を横に振ってはいるものの、半分は正解なのだろう。

[Narration] 伏せがちの目のまぶたが、やけに重たそうだ。

[Niki] ち、ちがうの……。

[Anri] じゃあ、なんだろう。

[Niki] あ、あの、杏里……。

[Anri] うん?

[Niki] 今の……、曲を、聴いていて、くれてた……?

[Anri] もちろんだよ!

[Narration] ニキの頬に手をのばして、杏里は答える。

[Niki] じゃ、じゃぁ……。

[Narration] ニキは杏里の手に顔を赤らめながらも、言葉を必死につむいでいく。

[Niki] 今の曲は……。

[Anri] えーと、バッハかな? それともショパン? メンデルスゾーン? ごめん、ちょっと誰の曲かはわからなかったんだけど……。

[Niki] あぅ……。

[Narration] 杏里が続けた言葉を聞いて、ニキはうなだれる。それはあきらかに、失望した仕草だった。

[Anri] ごめんごめん。教えておくれ、キミがボクに伝えたかった言葉を。

[Niki] う、うん……。

[Narration] ニキは、胸の前の手で、自分の意志を形作りながら、言葉を続ける。

[Niki] 今の、曲は……。わ、わたしが……、作った曲なの……。

[Anri] ええ!? なんだって!?

[Narration] 寝そべっていた杏里は、思わず上半身を起こして叫ぶ。

[Narration] 杏里の間近にいたニキは、その勢いに思わず、体を固くして退かせた。

[Narration] ついでに、本日は飼い主を放っておいてお泊まりをしゃれこんでいるコローネも、その体を起こして、何事かとうかがっている。

[Anri] ごめんごめん! 驚かせてしまったね、でも、ボクも驚いた!

[Anri] 今のはニキ、キミが作った曲だっていうのかい!

[Niki] は、はい……。

[Niki] だ、だめだっ……?

[Anri] 素晴らしい!

[Niki] ……きゃっ……!

[Narration] 杏里はニキを抱きすくめる。突然の包容に、ニキの顔が真っ赤に染まる。

[Anri] ああ、今日はなんて素晴らしい夜なんだろう! ニキが、自分で作った曲をボクに聴かせてくれるなんて!

[Anri] ああ、素養のないボクを許しておくれ! キミの曲を見抜けないばかりか、他の作曲家と間違えるなんて!

[Anri] ああ、モーツァルトも、ベートーベンも偉大な先人には違いない。でも、今、ボクの目の前にいる生まれたての音楽の女神にかなうはずはない!

[Niki] あ、あの、杏里……!

[Narration] 杏里の腕の中で、ニキが少し苦しそうに身もだえる。

[Anri] ああ、ごめんごめん、あまりにもうれしかったから!

[Narration] それに気づいて、杏里はニキを解放した。

[Narration] ニキはあらためて、杏里の前に、ちょこんと腰をおろした。

[Niki] その、それで……。

[Anri] なんだい?

[Niki] な、なにか、悪かった、ところはある……?

[Anri] いいや、なにも! 何一つ!

[Narration] 明快な杏里の答えに、一瞬、ニキの手の動きが止まる。

[Niki] あ、あの……、おかしかったところでも、いいの……。

[Anri] あるわけがないよ! ニキ、キミのピアノは最高で、完璧だったよ! 聴衆であるボクは、ちょっと出来が悪いけど……。

[Anri] でも、キミの演奏に文句をつけられるわけがない!

[Niki] ……あ……。

[Narration] 杏里の言葉に、言葉を殺し、ニキはうなだれた。

[Anri] あれ……? どうしたの? ニキ。

[Niki] あ、杏里……。

[Narration] ニキは顔を上げると、杏里に向かって必死に手を動かし、言葉を押しだしてきた。

[Niki] わたしは、さっき……、な、何度も、指を間違えたの……。

[Anri] うん、でも……。

[Niki] きっと……!

[Niki] その時、音が少し、はなれてしまってたの……。

[Niki] それに、調和してない音を、いくつも出した……。

[Niki] 音が、思いつかない時は、同じ旋律を繰り返してごまかしたり……。

[Niki] だめ、だったの……。

[Niki] あの曲じゃ、だめなの……。

[Anri] 二、ニキ?

[Narration] 両手を握りしめてうつむくニキに、杏里は声をかける。

[Anri] ダメなんてことはないよ、ニキ。とても素晴らしい曲だった。うん、きっと、どんなコンクールに出しても恥ずかしくないほどに!

[Anri] 満場の喝采を受けるべき、曲だと思うよ!

[Niki] ………………。

[Narration] ニキは、杏里の言葉を聞き終えると、ゆっくりと立ち上がった。

[Anri] ニキ?

[Niki] 杏里……、ありがとう……。

[Anri] どういたしまして! キミの開くコンサートならいつだって馳せ参じるさ。そして、いつまでもアンコールの拍手をしているよ。

[Niki] でも……。

[Narration] ニキは、杏里の腕の裾をつかむ。

[Anri] どうしたの?

[Narration] それが、自分に立ち上がることを促しているのだと気づいて、杏里は腰をあげる。

[Niki] だめ、なの……!

[Anri] え? ニ、ニキ!? ちょ、ちょっと!

[Narration] おどろいた杏里がとっさに叫ぶほど、意外な力でニキは杏里を引っ張った。体格差からよたよたと、それでも、ドアへ向かってまっすぐに。

[Anri] 二、ニキ! なにをするんだい?

[Narration] その気になればたやすくふりほどけるものの、そんなことはとてもできずに、杏里はずるずるとドアの方へと押しやられる。

[Niki] 杏里……、ごめんなさい……。

[Anri] どうしたんだい、ニキ!?

[Niki] 杏里じゃ、だめなの……。

[Anri] ボクじゃだめって!?

[Niki] ほめてくれちゃ、だめなの……。あの曲は、とても、大切だから……。

[Anri] 大切なの? それなら、ボクはいつだって最高の讃辞をキミのために……。

[Niki] ちがうの……!

[Niki] 大切な曲だから……、杏里に……、ほめられたら……。

[Niki] だめ、なの……!

[Anri] そんなっ!? あ、ちょっと! ニキ!

[Narration] ついに、ニキは廊下へと通じる扉へと、杏里を押しつける。

[Niki] 杏里、……ごめんなさい……。

[Anri] いや、ニキ! ちょっと待って……!

[Narration] そして、普段のあのニキ・バルトレッティのいったいどこにそんな力があるのかという勢いで、杏里は廊下へと押し出された。

[Anri] ニキ! 待って……!

[Narration] 扉へすがろうとする杏里の耳に、ニキの言葉が飛び込んでくる。

[Niki] しばらく……、会えない……!

[Anri] ニキ!

[Narration] 叫ぶ杏里の目前で、扉は固く閉ざされる。ドアノブに手を伸ばすものの、しっかりと施錠され、微塵も動かない。

[Narration] 夜遅く、誰もいない廊下へと放り出された杏里の脳裏に、ニキの言葉がよみがえる。いわく、しばらく、会えない、と。

[Anri] そんなぁ……!

sapphism_no_gensou/7202.txt · Last modified: 2018/05/22 17:15 (external edit)