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[Narration] それは唐突な電子音だった。
[Eliza] え?
[Narration] 甲高く、周期的に鳴り響く電子音。
[Eliza] え、ええっと……。
[Narration] この部屋には誰もいないはずだった。よしんばいたとしても、こんな声や音を出す人間はそうそういない。
[Narration] 部屋の掃除のために訪れたイライザは、周囲を数度見渡した後、念のため、学園職員全員が携帯しているセンサー機器に目を落とす。
[Narration] 特に異常はない。それもそうだ、もしこの機器が作動しているなら、もっと緊迫感をあおる音を出す。
[Eliza] では、何が……?
[Narration] 電子音に急き立てられながらも、冷静に状況を判断しようとつとめる。
[Eliza] 目覚まし時計の音に似ているけど……、この部屋の目覚まし時計はベルの音をしていたはずだし……。
[Eliza] 船内警報の類ではないし……。時限制爆発物……? いえ、今日この部屋に持ち込まれた荷物なんてないはず……。
[Narration] まかり間違っても、ポーラースターは船であり、世界中のVIPの息女を集めた学園である。船外からの持ち込み物へのチェックは厳しい。
[Narration] 例えそれが学生個人宛の小荷物であったとしても、プライバシーの絶対秘匿と引き替えに、中身は各種検査方法で入念にチェックされる。
[Narration] 危険物など、持ち込めるはずがないのだ、船外からは。
[Eliza] 家電の作動音かなにかかしら……。でも、この音は、どこかで聞いた憶えが……。
[Narration] 3回ほど、電子音が繰り返される間、イライザは浮かんだ手がかりから記憶をたどっていく。
[Eliza] あ……!
[Narration] イライザの中で、記憶と聴覚が一致する。慌てて、部屋中を見渡し、反響する電子音の発信源を探す。
[Narration] それは、デスクと壁の間、何かのはずみに、手のひらに収まる程度の物が転がり落ちるのにふさわしい場所。
[Narration] そこで、それは、必死になって泣いていた。ピーッピーッと電子音を鳴らして。
[Eliza] あんり!?
[Anri (hiragana)] へれにゃーっ!
[Narration] なぜ、ここに? イライザは呆然と、電子音をあげて泣き散らすゲーム機器を見つめる。
[Eliza] ……もしかして、忘れていかれたんですか……?
[Anri (hiragana)] へれにゃーっ! へれにゃーっ!どこーっ!!!!
[Chloe] 忘れていった、ですって?
[Eliza] ええ、そうとしか……。ヘレナ様が意図的にこのゲームを置いていくとは考えられないので……。
[Chloe] ふーん……。
[Narration] クローエはテーブルの上に置かれたポケットエアステーションのストラップをつまみあげ、液晶画面を目の高さまで持ち上げる。
[Narration] バックライトが落ちた画面の中で、あんりと名付けられたキャラクターが眠っている。すやすやと……? いや、泣き寝入りしているようにも見える。
[Eliza] いつまでも音を出しているわけにもいきませんので、とりあえず、食事を出して、眠ってもらっているのですが……。
[Chloe] 食事、ねぇ……。
[Chloe] そんな手間暇のかかる大切なおもちゃを、なんで忘れていくんだか……。
[Eliza] 急なご帰省でしたから……。
[Narration] 小さな液晶画面の中で眠るこの電子ペットのご主人様であるヘレナは今、ポーラースターを離れていた。
[Narration] 昨日の朝、ロシアの実家から連絡を受け、そのまま、北大西洋を航行中の学園から、ロンドンを経由してモスクワへと帰省していた。
[Eliza] なんでも、大伯母にあたる方が倒れられて、ご入院なされたとかで。ヘレナ様もお世話になった方だとかで、ずいぶん心配しておられましたし。それに……
[Chloe] それに?
[Eliza] 慌てていらっしゃるところに、その時は杏里様がご一緒でした。
[Chloe] 忘れ物や落とし物の一つもしようってものね。……でも、自業自得だわ。
[Eliza] それはちょっと手厳しいかと……。
[Chloe] 同情はするけどね。……それにしても、これ、どうするの?
[Eliza] ええ、それが困ったことに……。このままですと、この『あんり』もいなくなってしまいますし……。
[Chloe] いなくなる?
[Eliza] ええ、このゲームのエンディングの一つなんですが……。
[Eliza] 旅に出ると言って、このキャラクターがいなくなるんです。
[Chloe] それって、ゲームオーバーってこと?
[Eliza] 記録していたデータなどはすべてなくなるそうですから、実質的にはそうなりますね。
[Chloe] なんでまた、そんな仕掛けが?
[Eliza] さぁ……、そこまでは。ただ、ゲームとしての緊張感を持たせるためとか、長時間プレイし続けた場合の新陳代謝を、ユーザーへの罪悪感なしに行うためとか……。
[Eliza] 中途半端なプレイへのペナルティとか、デジタルペットといえど、安易な育成放棄への警告とかいろいろ考えられますが……。
[Chloe] ご大層なものね。
[Eliza] まぁ、このことは説明書にも書いてありますし、プレイ中のガイダンスにも出てきますので、遊ぶ方もわかっていることとは思うのですが……。
[Eliza] やはり、時間をかけて育てたペットが旅に出ると、人によってはとてもショックを受けるようですね。
[Eliza] 実際、私の同僚も、不注意からペットに旅立たれた時は、三日ほど寝込んでましたから。
[Chloe] そういえば……。
[Chloe] 半年くらい前に、原因不明の欠席者が立て続けに出たのは……。
[Eliza] ええ、これが原因ですね。
[Chloe] なんというか……。
[Narration] 軽いめまいを覚えたのか、クローエは額に手を当てて息をつく。
[Chloe] たいしたものね、たかがゲームだっての言うのに。
[Eliza] あのヘレナ様も熱中しておられるくらいですから。よくできているのでしょう。
[Chloe] それで? ヘレナのいないあいだに、この子が消えてしまう可能性があるっていうの?
[Eliza] ええ。その、旅に出てしまう確率というのが、そのペットとどれだけ親密に過ごしていたかに関わってくるそうで。
[Chloe] ほったらかしにしていると、旅に出てしまう?
[Eliza] ええ。逆に、毎日、こまめに面倒を見て話しかけ、良好な関係を続けていると、旅立ちも防げるとか。
[Chloe] なるほど……。ところであなた、なんでそんなに詳しいの? まさか、あなたも……。
[Eliza] いえ、私は持ってませんけど。ただ、いろいろお話をうかがって、詳しくなりました。その、よく、持ち主のかわりに世話をおおせつかることもありますので。
[Chloe] なるほどね。しかし、たかがゲームに、人を使ってまで……。
[Eliza] 価値観は人それぞれですし……。生きているペットも、時には他人に世話を頼むこともありますから。
[Chloe] 確かにそうね。ペットとの関係なんて、人間からの一方的な押しつけですもの。どのような形があったっていいわね。相手がデジタルであろうとも。
[Eliza] そういう割り切り方でもないと思うのですが……。
[Chloe] で、これはどうしたらいいのかしらね。
[Narration] あらためて、クローエがテーブルの上のデジタルペットを抱えたゲーム機を指し示す。
[Eliza] そうですね……。食事を与えるなどの操作は、私でもできるのですが……。
[Chloe] ん……、ちょっと待って。電話がかかってきたわ。
[Narration] クローエがポケットから、折り畳まれた携帯電話を取り出す。バイブレーション機能で震える電話機の液晶の表示に、クローエは目を走らせてから、イライザに視線を戻した。
[Chloe] ヘレナだわ。
[Eliza] ちょうどよかったですね。このことをお伝えいただけますか?
[Chloe] ええ、そうするわ。……もしもし……。
[Helena] 『Где туалет!』
[Chloe] な……。
[Narration] イライザにさえ聞こえるくらいの、ヘレナの声が響き渡る。
[Eliza] 今の……、ヘレナ様ですか……?
[Narration] クローエが答えるより先に、続けてスピーカーから悲鳴さながらの声があがる。
[Helena] 『Прошу любить и жаловать!!』
[Chloe] うるさい!船内標準語で落ち着いて話しなさい!
[Narration] 厳しく眉根を寄せて、クローエが一喝する。それで、スピーカーからの悲鳴は、いったん途絶えた。
[Helena] 『А……、ご、ごめんなさい……。 動転していて、つい……』
[Chloe] それでいいわ。だいたい察しているけど、用件はなに?
[Helena] 『あ、あの、私、その……、そっちに忘れ物を してるんじゃないかと思って……』
[Chloe] してるわよ。ゲーム機のことでしょう?
[Helena] 『そ、そうなの……! どこに……!』
[Chloe] うるさくしないで。切るわよ? あなたの部屋に落ちていたのを、イライザが見つけてくれたわ。
[Eliza] ご心配なく、泣いているようでしたので、お食事もお出ししておきました。
[Helena] 『あ、そ、そう……。ごめんなさい、 面倒をかけてしまって……』
[Chloe] いいわよ、わたしがかけられたわけじゃないから。そっちはどうなの?
[Helena] 『え、ええ。大伯母様はそれほど深刻な容態で もないの。もう少しでお会いできるから、 ご挨拶したら、すぐにそっちに戻るつもりよ』
[Helena] 『そうね、今日の夜にはなってしまい そうだけど』
[Chloe] せわしいこと。
[Helena] 『あ、あの……、それで、こんなこと頼むのも 申し訳ないんだけど……』
[Chloe] はいはい。杏里の面倒でしょ?
[Helena] 『え、ええ……』
[Chloe] いいわよ、別に。今日はアルマ達とゴルフコースに出てるそうだから。帰ってきたら、食事をさせて、明日の予習でもさせておけばいいのね?
[Helena] 『え? あ、いや、あの、そっちの杏里じゃ なくて……』
[Chloe] あら、なぁに? そっちの杏里、以外にあなたの大切な『あんり』がいるとでも言うの?
[Helena] 『あ……、あの……、うぅ……』
[Eliza] クローエ様……、あまりおいじめにならない方が……。
[Chloe] そうね、悪かったわ。わかってるわよ、あのデジタルペットのことでしょう?
[Helena] 『そうなの……。あ、ごめんなさい、そろそろ病室の方へ入れるみたい……。じゃ、お願いね』
[Chloe] はいはい……。……あら、切れたわ。ずいぶん、急いでいたみたいね。
[Eliza] よほど、ご心配だったんでしょうね。
[Chloe] 入れ込むタイプは怖いわね、煩わしいこと。まぁ、いいわ。たまにはこういうもので遊ぶのも悪くはないわよ。
[Chloe] 要はヘレナになったつもりで、ゲームの相手をすればいいわけでしょ。たいしたことじゃないわ。
[Chloe] ……まずは、どこをいじればいいの?
[Eliza] こちらのボタンですね。これで、『あんり』様が起きるはずですよ。
[Chloe] ああ。なるほど。
[Eliza] そして、このボタンを押すと会話モードに……。
[Chloe] ちょっと待って。
[Narration] クローエがそう言ったからではないが、二人同時に、小さな液晶画面に表示されたものを見て、動きが止まる。
[Chloe] パスワードを要求されたわ。