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sapphism_no_gensou:7061

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[Anri] やあ、ニコル!バールへお出かけかい?

[Nicolle] ……また、あんたか。

[Narration] ───ウィークエンドの午後。

[Narration] 新聞を脇に挟み、前かがみに歩く少女は面倒そうに杏里を見返した。

[Anri] 杏里だよ。杏里・アンリエット。

[Nicolle] 名前まで芝居がかってるとはね。カサノヴァで充分だよ。顔にだって、象形文字で書いてある。

[Anri] ええッ、象形文字?どれ? これ? あれ、これかな?

[Narration] ショーウィンドーに映り込んだ顔を杏里はしげしげと覗きこむ。

[Narration] その間に、ニコルはさっさと歩き去ってしまう。

[Narration] 取り残された杏里は、あわてて道に並ぶ飲食店に次々と飛び込んだ。

[Narration] 昼下がりのバールは、他に客の姿もなく、音量低めにイタリアンポップスが流れる。

[Narration] あきれ顔のニコルの前で杏里はケーキをぱくつく。

[Narration] 濃厚なエスプレッソをふた口で飲み干してから、少女は言った。

[Nicolle] そういや、あんたも結構腕が立つそうじゃんか。

[Narration] きょとんとする杏里にニコルはカードをシャッフルする仕草をしてみせる。

[Anri] トランプ?ああ、船倉賭場での、カジノ遊びのことかい。

[Anri] 誰に聞いたの?

[Nicolle] ちょっと顔見知りにね。

[Nicolle] あんたにゃゲーセン感覚のお遊びかもしれないがあたしにゃ真剣勝負さね。

[Nicolle] ふん───オヤジの出した学費も、賭場の稼ぎから叩き返してやった。

[Narration] 杏里は口笛を吹く。

[Nicolle] まあ、なにしろ降りるタイミングを知らないカモばっかりだ。

[Nicolle] 3年もこの船にいたら、あたしゃ世界の長者番付にランキングされちまう。

[Narration] ニコルははじめて杏里の指先の届く場所まで顔を近づけ、頬杖をついた。

[Nicolle] どうかな、アンリエット。あたしの相棒にならないか?

[Narration] 前髪の合間から、少女は、猫科の獣に似た狡猾で鋭い瞳をのぞかせる。

[Anri] …………もちろんさ、ニコル。

[Narration] 熱をおびた吐息で杏里も身を乗り出す。

[Nicolle] またなにか勘違いしてる顔だ……

[Anri] 違うの?

[Nicolle] ビジネスの話をしてるんだ。金儲けだよ。

[Narration] ニコルは目線の高さに持ち上げた掌の親指と小指を、交互に上げ下げしてみせた。

[Nicolle] わかんないかな。ずっと勝ち続けてばかりじゃじきに誰も相手にしてくれなくなるのは目に見えてる。

[Nicolle] だから、これからあたしは勝ったり負けたりを繰り返しながら、中流の博打打ちらしくふるまうんだ。

[Nicolle] ───ただし負ける時の相手はあんた。往々にして。

[Anri] 僕に勝たせてくれるって?

[Nicolle] あんたは技術はさっぱり。だけど、もっぱら強運で調子づくタイプらしいからね。きっと怪しまれにくい。

[Nicolle] かつかつのクルー連中はともかく、この船のお嬢様方は、べつに賭け金を取り戻したいなんて思っちゃいない。

[Nicolle] ただ相手を負かしたいだけさ。だから時々、あたしが負ける姿を印象づけてやるだけでいいのさ。

[Anri] なるほど。

[Anri] きみが大勝ちしているテーブルにボクが割り込んでいって、きみの送る符丁かなにかにあわせて、全部かっさらえばいいんだね?

[Nicolle] スィ。そういうこと。

[Anri] ボクの手に入ってきた稼ぎはどうなる?

[Nicolle] 7:3で分ける。あんたが3。

[Anri] 10:0にしよう。

[Nicolle] は? 丸取りか?話にならないな。ごうつくばりめ。

[Narration] ぷいと横を向いて席を蹴ったニコルを、杏里は必死に引き留めた。

[Anri] ち、ちがうよ。10がキミだ。ボクはゼロでいい。全部持っていってくれ。

[Anri] ボクは大金には興味ないもの。欲しいのは、きみだ。

[Narration] ニコルは肩に置かれた杏里の手を強く払った

[Nicolle] ……っ……取り分は、あたしの体で払えって!?さすがは、カサノヴァじゃないか!

[Narration] ますます憤慨したニコルは足を速めて甲板へ向かう。

[Anri] 思い違いだよ!気分を悪くしたなら謝る!

[Nicolle] いいや、違っちゃいない。まったく噂通りだよアンリエット!

[Anri] ひとつだけだ。ボクの望みは───!

[Anri] ボクのことを、ファーストネームで、“杏里”と呼んでほしい。それだけなんだ。

[Narration] 杏里の言葉を背中に聞くニコルは、くるりと振り返り、すごみを利かせながら、胸先を指さした。

[Nicolle] それだけ? たった!?

[Nicolle] 馬鹿にすんな!

[Nicolle] あんた、結局あたしの申し出を真剣に考えてないんだろ?

[Anri] う〜ん。賭けの細かいところは、よくわかっていないんじゃないかな〜。たぶん。

[Anri] けれど、きみ自身のことは誓って真剣に想っているとも。毎晩ボクは夢にすら見るんだ。きみの姿を。

[Nicolle] …………っ……信用っ、できない!

[Nicolle] あんたの言ってることは綺麗すぎて、浮ついた冗談にしか思えない!

[Nicolle] もし、本気であたしの相棒を引き受けてくれるってんなら───

[Nicolle] あたしのきちんと納得できる条件を教えてくれ!

[Nicolle] 釘刺しとくが、肉体関係以外でだ!

[Anri] わかった。

[Anri] 正式な取引の代償としてちゃんとボクの本心を言うよ。

[Nicolle] うん。そうだよ。そうこなくちゃ。

[Anri] じゃあまず───

[Anri] 聞かせてくれないか“杏里”と。ボクのベッドの中で。ボクにだけ聞こえるように。

[Nicolle] ───ほう。

[Anri] それからボクの贈ったランジェリーを身に着けててくれると、なお嬉しい。

[Nicolle] …………ほ……う……

[Anri] それから日曜は昼過ぎまで一緒に寝て、さっきの店でコーヒーを飲んでそのあと映画を観よう。ただ散歩するでもいい。

[Nicolle] ……………………

[Anri] 夕暮れは船首で過ごそうよ。今の時期は、船首からの眺めが一番いいもの。それで、星たちが瞬きはじめたら───

[Nicolle] いいかげんにしろッ!

[Narration] パコーン! と、丸めた新聞が快音を立てる。

[Narration] 感情を剥きだしにする少女に向かって杏里は、心の底から愉快そうに笑い声を響かせた。

[Narration] 通路の真ん中で言い合いを続けていたふたりの前に、課外授業を終えたらしいサードの一団が通りかかる。

[Narration] 杏里はそっとニコルの背に触れて道をあけさせた。

[Nicolle] 触んなっ!

[Anri] かなえさーん!

[Narration] 杏里が手を振ると集団から離れて歩いていた天京院が無愛想に顔をそむけた。

[Anri] なに照れてるんだろ。

[Anri] ねえニコル、あの白衣の先輩が、かなえさんだよ。学園一の秀才で発明家なんだ。

[Anri] あっ秀才じゃなくて、天才って呼ばないと怒られちゃうのか。

[Anri] ……ん?

[Anri] ニコル……?

[Narration] 少女もまたサードの集団に見入っていた。

[Narration] しかしその先は、天京院ではなく別の上級生だった。

[Isolde] ………………

[Nicolle] ……………………

[Narration] 先に視線を伏せたのはニコルだった。

[Narration] 杏里は、不思議そうにたずねる。

[Anri] あの人、まだきみを見てるよ。知ってる人?

[Nicolle] いいや。

[Nicolle] ……だとしても忘れたね。すっかり。

[Anri] そうかい……?もう行ってしまったけれど。

[Anri] なんだか……哀しい瞳だったな。

サフィズムの舷窓 追加シナリオ

forza-nicolle!

『がんばれ!   

    ニコル!』

アンシャー・リーに聞いて───

みよっ!

みない……

苺は最後まで取っておくものだ。

[Alma] 杏里様?

[Narration] 天京院の部屋の前に立っていた杏里に静かにアルマは声をかけた。

[Anri] ああ、アルマ。かなえさんに用?

[Narration] 少女が頷くと、杏里は優雅に半身を倒して扉の前から身を退いた。

[Anri] ようこそ、お客様。科学と狂気とミキサーの園へ。

[Anri] ボクはもう戻るところだから。まだ鍵はあいてるようだよ。

[Alma] ありがとうございます。おやすみなさいませ、杏里様。

[Anri] うん、おやすみアルマ。

[Narration] 杏里はアルマの髪に優しいキスを残して自室へ引きあげていった。

[Narration] アルマが挨拶を口にしながら部屋に足を踏み入れるとあいかわらずの白衣姿の麗人は、窓の外に散らつく雪を眺めていた。

[Narration] その横顔に、アルマは心を痛めながら、告げた。

[Alma] 杏里様……泣いていらっしゃいましたね。

[Narration] 天京院はかすかに頷いた。

[Alma] はじめてです。杏里様が、あんなに小さく見えたのは。まるで子供のよう……

[Tenkyouin] ………………

[Narration] ガラスに映った天京院の表情が苦いものになる。

[Tenkyouin] 頼まれていた件はあたってみた。

[Narration] ソファのかろうじて空いている一角を来客にすすめた天京院は、数枚のプリントアウトを机上に置いた。

[Tenkyouin] ニコルとイゾルデの賭けにおいて、イゾルデ側の“かた”にされたのは、『メディチ手稿』というものだ。

[Alma] 『メディチ手稿』……ですか。

[Tenkyouin] 作者はレオナルド・ダ・ヴィンチ。あたしの大先輩にあたる、偉大な発明家だな。多少は絵も描いた。

[Alma] 多少……

[Tenkyouin] 手稿とは、いわゆる素描、デッサンの集まりだ。

[Tenkyouin] ペン画やチョーク画、羊皮紙に特殊な薬品を塗って銀筆で描かれたものなど、その時々でちがう。

[Tenkyouin] ダ・ヴィンチが残した手稿は合わせて1万葉以上にもなる。

[Tenkyouin] 当のダ・ヴィンチにとっては芸術作品じゃあなく、学術的視点からの覚え書きといったところだろう。

[Tenkyouin] 特に有名なのは、『人体のプロポーション図』か。そうだな。ほかにも……

[Tenkyouin] ミラノ図書館の『アトランティコ手稿』、英国王室図書館の『ウィンザー手稿』、トリノ王立図書館の『鳥の飛翔に関する手稿』などなど───

[Tenkyouin] そんなふうに世に知られているダ・ヴィンチの手稿は大きく分類して、9種類ある。

[Tenkyouin] しかしどうやら、メディチ手稿はその10番目になるものらしい。近年のメディチ家復興までは極秘とされていた。

[Alma] では非常に貴重なものなのですね。

[Tenkyouin] ああ。

[Tenkyouin] ただし手稿の規模としてはごく小さいものだ。ほんの数葉しか現存してないんだから。

[Tenkyouin] しかしその価値は3000万ドルをくだらないだろう。あくまで、私の推定だが。

[Tenkyouin] もっとも、誰かに売るはずもないがね。

[Alma] 何が描かれているのでしょう?人物画でしょうか?

[Tenkyouin] それがわからない。どこにも公開されていないんだ。手稿の存在そのものが本来ならば極秘の物件となっている。

[Alma] まあ。

[Tenkyouin] 手稿を実際に見たことがあるのは、メディチ家の人間の他では、おそらく───

[Tenkyouin] ウフィツィ美術館の辣腕ルチアーノ・ベルティ館長と、フィレンツェ市長。

[Tenkyouin] それと一部のキュレーターに、あとは歴史学者くらいのものだろう。ほんの若干名だ。

[Alma] ダ・ヴィンチほどの、歴史的芸術作品でしたら、なるべく広くの人間に観覧していただくべきではないでしょうか───

[Tenkyouin] その通りだと思うよ。あたしだって見たい。

[Tenkyouin] しかし現実には、直接見ることはおろか手稿の存在を知る人間すら、ごく少数にすぎなかった。

[Tenkyouin] いったい何が描かれているのか……興味をそそられるな。

[Alma] イゾルデ様は、この手稿こそ自分がメディチであることの証である、とおっしゃられたそうです。

[Tenkyouin] うん。手がかりはそれだ……

[Narration] 腕組みしたまま指をぺんぺんと叩く。

[Tenkyouin] もう就寝時間も間近だが……コーヒー、飲むか?

[Alma] ぜひ。

[Narration] 天京院は熱いコーヒーカップを手に、折りたたみベッドに腰掛けた。

[Tenkyouin] 実際、自分がメディチ家の末裔だと称する人物は、多数現れたんだよ。イゾルデの父ジョヴァンニ検事が最初じゃないんだ。

[Tenkyouin] もちろんみんな、単なる自称メディチ。つまり、有名人になりたがりの真っ赤なニセモノだった。

[Alma] ロマノフ家のアナスタシア皇女の伝説と同じですね

[Tenkyouin] うん。

[Tenkyouin] しかしジョヴァンニ検事は、件の手稿を携えていた。それが真のメディチである、決定的な証拠となったわけだな。

[Alma] ……ということでしたら。その手稿に描かれた内容はメディチ家に深くかかわるもの、ということですね。

[Tenkyouin] そうなるな。おそらくは、人物、肖像画か……

[Tenkyouin] まあ、すぐにわかるさ。今、ちょっとしたコネを使って、ウフィツィのキュレーターに接触している。

[Narration] アルマは深く頭をさげた。

[Narration] 天京院は無関心を装いながら壁側に深くもたれて背伸びした。

[Tenkyouin] おおっ……?

[Narration] 折りたたみベッドの中でもぞもぞと動いたのはヤーンだった。

[Tenkyouin] またこんなところに……やれやれ毛だらけだ。

[Alma] よくお休みになりますね。

[Narration] アルマが微笑む。

[Narration] マーブル模様の猫の背に目を落としながら、天京院は言葉を続けた。

[Tenkyouin] だが本気か、アルマ。あれと真っ向から勝負するなんて。

[Alma] はい。もちろんです。

[Tenkyouin] ……言うまでもないが、敵にまわしたメディチは手強いぞ。鉄と石で出来た城のような女だ。

[Tenkyouin] あたしじゃなく、指導部に相談したほうがいいんじゃないのか?

[Alma] 事の次第をすべて打ち明けて……ですか?

[Alma] それを、確かに考えなかったわけではありませんが……

[Alma] ですがそれは、杏里様も含め、船倉賭場という秘密の場所に出入りする方たち全員が問題になるのではないでしょうか。

[Alma] 船を去るのは、それこそニコルさんだけでは済まなくなるように思います。

[Tenkyouin] だろうな。

[Tenkyouin] 賭場については、どうせ指導部も黙認状態なんだろうが、おもてだった理由さえあれば、いつでも排除するつもりだろ。

[Alma] ……でしたら、ニコルさんを取り戻すには私からイゾルデ様に、直接勝負を挑むしかありません。

[Alma] ポーラースターがジェノバに寄港する前に。

[Narration] アルマはまっすぐに天京院を見る。

[Alma] 私はニコルさんと一緒にこのポーラースターを卒業いたします。かならず。

[Alma] このまま指をくわえて眺めているだけだなんて……

[Alma] 天京院様だって、杏里様のあんなお顔、もう見たくはありませんでしょう……?

[Tenkyouin] ………………

[Narration] 天京院は無言のままだ。

[Narration] アルマから明かされた事情を聞くかぎり、言うなればこの事態は、ニコル自身が蒔いた種に発したものだ。

[Narration] イゾルデもニコルも、納得の上でおこなわれた賭けだ。そして運命は決し、ニコルは敗北し、その負債を支払うことになったのだ。

[Narration] 結果はどうあれ、イゾルデに非はない。

[Narration] 勝利者がニコルであれば、イゾルデのほうが船から去っていたのかもしれないのだから。

[Narration] それに、あのイゾルデが既に決した結果を撤回するような反則的な勝負を受けるかどうかは、怪しいところだ。

[Narration] ごく薄い可能性のなかで、相手の手の内をさぐり、最大限の挑発手段を考えているアルマのやりかたは、この状況ではいちばん前向きといえるだろう。

[Narration] いかに絶望的といえども。杏里の、笑顔のためにも……

[Narration] カオス状態に散らかった寝室を部屋つきのメイドが整頓するあいだも、少女は昨夜からの下着姿のままずっと、ソファに仰向けになっていた。

[Narration] お辞儀と共にメイドが部屋を去ったあとも、寝そべる姿勢は変わらず、まるで死人のようだ。

[Nicolle] ………………

[Narration] 置かれた軽食と、湯気立つコーヒーの香ばしい匂いがソファまで漂ってきたが、立ち上がって手にとる気にはならない。

[Narration] ひとり寝返りをうち、ずれた下着を面倒そうに、指先でひきあげる。

[Narration] はぁ……とため息が漏れた。

[Narration] 口も開いていないのに。

[Unknown] まったく……だらしのない……

[Narration] ふいに耳元から発せられた声に、ぎょっとする。

[Narration] ソファの背に両肘をついてのぞきこんでいたのは、銀髪の少女ヘレナ・ブルリューカだった。

[Nicolle] ……ッ……ヘレナッ!

[Narration] 驚きの眼差しはいつものあきれ顔で迎えられる。

[Nicolle] な、なんだっつの勝手に人の部屋へ!出てけッ!

[Narration] 部屋主の抗議には耳を貸さず立ち上がると、勢いよくカーテンを引き、薄暗かった室内に陽光を招き入れる。

[Helena] お忘れ?本日は風紀委員会の定例会です。

[Helena] 委員長の私としては、貴重な参席者を見逃すわけにはいかないわ。

[Nicolle] あれは……っあんたの一人党大会があわれで、暇つぶしに寄ってただけだろ。

[Helena] それはまた随分ね。

[Helena] とにかく起きなさい!?そんな丸裸じゃ、外へ連れ出せないでしょう。

[Narration] ヘレナはメイドの残していった着替えを、次々とニコルに放り投げる。

[Nicolle] …………

[Narration] 覆い被さる服の合間からニコルはヘレナをねめつける。

[Helena] 大丈夫よ。心配しなくても。

[Helena] 杏里だったら、サウナへ向かったばかりだから。

[Helena] どうせ午後いっぱいは出てこないわ。イライザにも頼んであるし。

[Helena] あなたも軽くシャワーを浴びてさっぱりするといいわ。

[Narration] 服をはねのけたニコルはあぐらをかき、仏頂面のまま頬杖をつく。

[Narration] 差し込む日の光が目に入ると、いっそうしかめ面になって額を押さえた。

[Nicolle] 今さらあたしに何言ったって無駄だ。だいたい……

[Helena] 知ってるわ。私にもそれなりに情報網があるもの。

[Helena] 退学届けを出したのですってね。一身上の都合とやらで。

[Helena] まだ一般生徒への正式な告知には至ってないけれど……

[Nicolle] それなら話が早い。

[Nicolle] どうせあと1週間も経たないうちに船はジェノバだ。

[Nicolle] そしたら、あたしゃ晴れて自由の身だ。この洋上の囚人船ともおさらばさね。

[Helena] ……ふぅ……

[Narration] 憎まれ口を叩く少女の横に腰を降ろし、ヘレナは寄り添う。

[Narration] 怪訝顔の少女の、むきだしの肩をそっと包み込む。

[Nicolle] お、おい……馬鹿、サカってんのか!?

[Helena] すこし静かにしていなさい……

[Narration] もがく少女はいかんせん非力で、結局、穏やかな抱擁の内にやんわりと押さえ込まれてしまう。

[Nicolle] ……………………

[Helena] ………………

[Narration] 抵抗をあきらめたニコルはヘレナの胸のなかでぶすくれている。

[Narration] 頬にあたる豊かな感触の向こうからは、確かな鼓動がつたわってきた。

[Narration] そしてヘレナの高い体温も。すこしだけ、頭痛がやわらいだ。

[Narration] ニコルの瞼はじんわりと熱くなってくる。失態を見せないよう、歯を食いしばってこらえた。

[Helena] 冷たい肩ね……それに……お酒くさいし。

[Nicolle] 校則なんて知ったもんか。もう関係ない。

[Narration] ヘレナは微笑した。

[Helena] 懐かしいわね……その減らず口。

[Helena] こんなふうに両手の中に捕まえられたら、あれほどは手を焼かなかったかしら?

[Nicolle] ……あたしは元々こういう奴なんだ。

[Nicolle] 何しに来たんだよ。

[Helena] 定例会のお誘い。それと……

[Helena] まあ、熱い紅茶でも飲みましょ。

[Narration] ふたりが甲板のカフェテラスにかけると、呼びもしなかったのに、ニキがコローネを連れてその場に現れた。

[Helena] ……では、そんな強引で不条理な約束を───賭けの結果を、受け入れるというのね。どうしても。

[Narration] ニコルは銅色の海を見つめ言った。

[Nicolle] 結果は結果だろ。あたしゃ負けたんだ。勝負に、たらればもしも、は無い。

[Niki] ………………

[Collone] …………ウォゥ……

[Helena] まったく……強情ね。私だったらイゾルデさんに頭を下げてでも船に残るわ。

[Nicolle] そういう謝るとか許すとかの問題じゃない!

[Nicolle] カフェオレをコーヒーと牛乳に戻すのはどだい無理なんだよ!

[Niki] ………………

[Nicolle] …………なに、ニキ。

[Niki] …………

[Helena] えっと……『天京院さんはこの間、 発明品で元に戻してました』?

[Nicolle] ……と、とにかく常識では不可なんだよっ!

[Helena] そうかしら。私には今もって、お互いの意地の張り合いに見えるわ。

[Helena] あなたが船を降りると公言しているかぎりは、イゾルデさんからも決して折れはしないでしょう? それくらいは私にもわかります。

[Helena] だったら……

[Narration] ヘレナは腕を組み、頬に手を当てた。

[Helena] やっぱりアルマさんに賭けるしかないのかしら……

[Nicolle] ……アルマが?

[Narration] ヘレナが伝えた話を耳にしながら、心苦しくニコルの表情は曇らせる。

[Nicolle] ……アルマにゃ悪いけど、そんな勝負が成り立つわきゃない。

[Nicolle] 第一、イゾルデが受けやしない。もう今後、賭場に近づくことすらないと思う。

[Narration] ヘレナは組み合わせた指に目を落としながら、しばらく黙考する。

[Narration] しかしやがては食いさがるのも諦めたらしく、大きなため息を吐いた。

[Nicolle] ヘレナ、あんた、ため息つきすぎ。ため息で地球が温暖化するっての。

[Helena] 身の回りに、困った人ばかりで癖になってしまったでしょう!

[Nicolle] じゃ、ため息製造機かい?そのでかいのは。

[Helena] ……あのね。ひとつはそう。もうひとつはお説教製造機。

[Narration] ヘレナはニコルの手を軽く叩いた。

[Narration] ころん、きろん、とつっかえつっかえのたどたどしい音色。

[Narration] ニキと一緒に、遅い昼食を終えた杏里が、インテリア代わりに置かれたピアノをいじっている。

[Anri] ちがうな……ララ、ル、ラ、ラ……

[Narration] 長椅子の隣にニキが不思議顔で腰掛ける。

[Anri] ボクはうまく弾けないけれどこんなふうな曲、知らないかい、ニキ?

[Narration] 熱心に音を拾う杏里の演奏に耳を傾けていたニキは、やがて1オクターブ高い鍵盤に長い指をすべらせた。

[Narration] おぼろげに杏里の中にあったメロディを再現してみせる。

[Anri] …………ラ、ララ、ル、ル……

[Anri] ……うん! それだ!

[Anri] なんだけど……でもちょっと違うんだ。

[Niki] …………?

[Anri] あ、ごめんよ。今のは、ニキも知っている曲だね。題名、わかるかな?

[Niki] ………………

[Anri] 飲んで歌って騒ぐ?宴とお酒の神サマ?

[Anri] ……ええと、それはバッカスかな?ああ「バッカスの歌」というんだね。

[Chloe] イタリアの謝肉祭で歌われる古謡よ。

[Narration] 湯気立つレモネードを手にするクローエがそこへ顔を出した。

[Anri] へえ……ずいぶんさみしいメロディだけどお祭りの歌とは、意外だ。

[Anri] たしかにそのメロディで間違いないんだけど。

[Anri] ヘンだな……ボク、どこかでその歌を聞いたことのある気がする。

[Niki] ………………

[Anri] いや、それはないと思うよ。

[Chloe] …………ニキは何と?

[Anri] うん。以前、ニコルが口にしていたんじゃないかって。

[Chloe] …………

[Anri] ボクが覚えているかぎりニコルがその歌を歌ったことはない。

[Chloe] じゃあ、貴女はどこで聴いたの?その「バッカスの歌」については。

[Anri] 夜の森の妖精から。

[Chloe] はあ?

[Anri] ね、クローエ!歌詞も知ってるんだよね?よかったら歌ってみせてよ。何か思い出せるはずだから。

[Chloe] いいえ、結構。

[Anri] イタリア語だとわからないから、船内標準語でお願いするね。

[Chloe] 断っているでしょう。サウナの貴女じゃあるまいし───

[Narration] クローエの思惑とは裏腹にニキは前奏を始めてしまう。

[Narration] 期待に顔を輝かせる杏里をねめつけ、渋々クローエは歌詞を口ずさみはじめた。

[Narration]   Quante bella giovinezza,

   che sia fugge tuttavia,

  青春とは 何と美しいものか

   とはいえ 見る間に過ぎ去ってしまう

[Narration]   Chi vuol essere lieto, sia

   di doman non ce certezza…

  愉しみたい者は さあ、すぐに

   確かな明日は ないのだから……

[Narration] ───「バッカスの歌」塩野七生・訳

[Narration] 石畳を大粒の雨がうるさく叩き、洗い流していく。

[Narration] 学校帰りのニコルは、ふと広場の片隅に立っている赤い傘に目が止まった。

[Narration] 低く垂れて顔の見えない傘の下からのぞきこむ。

[Isolde] ……うわっ……

[Isolde] ニ、ニコル。

[Nicolle] なにしてんの?あんたも学校の帰り?

[Isolde] あ、ああ……

[Nicolle] イズーって河向こうの私立校じゃなかったっけ。

[Isolde] ……別に、私がどの道で帰ってもいいだろう。

[Narration] その有名私立校では、生徒は必ずスクールバスで送り迎えされるとニコルも知っていたが、それは口には出さなかった。

[Narration] そのかわりに傘をぐいと持ちあげて、自分と相手の二つの傘を並ばせ一つの屋根にする。

[Nicolle] ……ねえ、ペンの店に行こうか?

[Isolde] え? なんの店だって?

[Nicolle] 居酒屋だよ。ペネローペっていう、知り合いの女コックがやってんだ。

[Isolde] 居酒屋なんて……はじめてだ。

[Nicolle] まだ開店前の仕込みの時間だけど、頼めば入れてくれるからさ。

[Narration] まだ客のいない居酒屋の、窓際の席で、イゾルデは、借りてきた猫のようにおとなしくしている。

[Narration] 威勢よく声の飛び交う厨房から、やがてニコルが、危なかしげにお盆を持って現れた。

[Nicolle] お〜待〜ち〜ど〜これ、ペンのおごりね。

[Narration] 木製のテーブルにミネストローネの皿がふたつ並びトマトと月桂樹の香りを漂わせる。

[Narration] おもわずつばきが湧く。イゾルデは昼から何も食べていない。

[Nicolle] お嬢さまの口に合うようにって念押しといたから。

[Narration] 馴れた調子で、ニコルは勝手にテーブルのキャンドルに火をともす。

[Narration] ほの暗い店内に、ふたりの影がぼんやりと浮かび上がった。

[Nicolle] ……どした? 変な顔して。

[Isolde] あ、いや、居酒屋だからてっきりお酒が出てくるのかと。

[Nicolle] おいおい。やかましいオヤジ連中が入ってきたら、あたしらはもう退散するってば。

[Isolde] だ、だな。

[Nicolle] あったかいうちにいただくとしよーぜ。

[Nicolle] まったくさ……あんなとこに彫像みたいに突っ立ってて、風邪ひくっての。

[Narration] ニコルはイゾルデの胸に前にスープボウルを押しつけ、自分もスプーンを手に取った。

[Nicolle] それでいったい……───ぶっ!

[Isolde] …………!!

[Narration] ふたりは口や胸を押さえて声にならない悲鳴をあげた。

[Isolde] こ、胡椒が……っ……

[Nicolle] あ、あたしゃ唐辛子かい!うひッ、ペネローペめぇ〜!

[Isolde] ……フフ……あはははっ……まあ、飲めなくはないよ。すこし刺激は強いが、とても美味しい。

[Nicolle] お褒めにあずかりまして!伝えとくよ、ったく。

[Narration] それからイゾルデは、ぽつぽつと胸のうちをちいさな友人に語って聞かせた。

[Nicolle] そっか、オヤジさんにバレちまったか……

[Isolde] うまくジュリアーノに口止めできなかった。すまない、ニコル。

[Nicolle] イゾルデが謝るこたぁないよ。もちろんジュリアーノも。どうせ時間の問題だったんだ。

[Nicolle] で、やっばり「もう会っちゃいけない」ってのかい? 友は選ばにゃイカンとかなんとか。

[Narration] イゾルデがさびしげにうなずく。

[Narration] ニコルは眉を寄せたまま、互いのスープ皿をひょいと交換してみる。

[Nicolle] うはっ……こっちのがすげーいや。よくいけるな。

[Isolde] …………ニコル。

[Isolde] それで、父は神経質になっていたせいかもしれないが、ニコルの父君のことを……

[Nicolle] マフィオーソ(マフィア)だってののしったんだろ?

[Narration] イゾルデはつらそうに顔をゆがめ、続くニコルの言葉に息をのんだ。

[Nicolle] しょーがないよ。そりゃ、本当のことだもん。

[Isolde] オメルタ(沈黙の掟)は!?だ、誰かに聞かれたらニコルの命が……!

[Narration] イゾルデは慌てて周囲を見渡した。

[Nicolle] アハハハッ!そりゃあ昼間っから、ペラペラ喋るようなことじゃない。

[Nicolle] でもどうせ隣近所はみんな知ってることだから。警察やってるイゾルデの父さんが、知らないはずない。

[Isolde] 警察じゃなくて、検事だ。

[Nicolle] そか。ごめん。

[Nicolle] まあ、確かにうちのオヤジはマフィオーソだよ。

[Nicolle] 一度、なったらからには、死ぬまでやめられないらしい。難儀なもんだよ。

[Nicolle] でもね、うちのオヤジはシチリア島からこの街に移ってきたとき誓ったんだとさ。

[Isolde] 何を?

[Isolde] ……あ、いや、秘密のことなら……

[Nicolle] だからべつに構やしないってのに。

[Nicolle] オヤジはさ、ずっとずーっと長いあいだ子供ができなくってさ、それで遂に神様に誓ったんだそうだ。

[Narration] わざわざ少女は床に座りこみ、椅子の上で両手を結びあわせ懺悔のポーズをとる。

[Nicolle] 神様!もし、このあたしが無事にこの世に生まれたなら!このシチリアを離れます!

[Nicolle] 殺しも麻薬もワイロも売春も全部やめて、悔い改めます!

[Nicolle] ……ってさ?

[Isolde] …………よ、よく他の仲間が許したな。

[Narration] ニコルは立ちあがって頭を掻いた。

[Nicolle] いやあ……すっごかったらしいよ。あたしゃ赤ん坊だったからよく知らんけど。

[Nicolle] ていうか結局許しちゃくれなかったんだよね。

[Isolde] えっ。

[Nicolle] ばーちゃんを頼って逃げるみたいにトスカナに来たけどもちろんすぐにバレてさ。

[Isolde] ど、どうしたんだ?

[Nicolle] うん。さいわいうちのオヤジは商売がやたらとうまかった。

[Nicolle] こっちでも手広く商売を始めてさ。難癖ふっかけてきた連中は、ぜんぶ金で丸め込んで解決したんだそうだよ。いかにもマフィオーソらしいね。

[Isolde] この店もそのひとつ。

[Isolde] えっ、じゃあマフィオーソの店なのか?

[Nicolle] お、おいおいっ……

[Narration] ニコルは身体を乗り出し、イゾルデの耳に囁きかける。

[Nicolle] そいつは、もうちょっと小声で頼むって。ペンときたら、とんでもない地獄耳なんだから。

[Isolde] 悪かった。

[Narration] それを、ちょうど聞きつけたかのように少女たちのもとに女コックがきびきびと早足で現れた。

[Penelope] ほら、お姫様がた。今日のドルチェだ。マチェドニア“悲しい雨の日”風。

[Nicolle] ペンは毎日、変なドルチェを考えんのが趣味なんだぜ。

[Penelope] 趣味はそれだけじゃない。

[Penelope] そろそろ店開きだよ、ニコル。食べ終わったら裏口から出てっておくれよ?

[Nicolle] スィ。

[Narration] 思っていたよりずっと若い姿のコックにイゾルデは感銘を受けたようだった。

[Narration] そのイゾルデの顔をしげしげとペネローペがのぞきこむ。

[Penelope] おや……? 見た顔だね?ニコルの年上の友達かい?その制服って確か───

[Isolde] ご、ごちそうさまです。

[Penelope] プレーゴ。プレーゴ。プリンチペッサ。

[Nicolle] ほうらペン!仕込みで忙しいんだろ。行った行った!

[Isolde] ふたりっきりで内緒話かい。つれないね。

[Narration] ニコルに背中をはたかれてペネローペはしぶしぶ厨房へ引き下がった。

[Isolde] ……すごいな。あんなに若くても一人前のコックになれる。

[Nicolle] 腕はすこぶるいいからね。オヤジの肝いりでさ。

[Nicolle] あと、うちのオヤジは変わった奴が好きだから。

[Narration] イゾルデはドルチェに手をつけないまま神妙な顔つきをしていた。

[Nicolle] ……食べないの?

[Nicolle] あ、さては!あたしに毒味させよーってんじゃないだろね?

[Isolde] ち、ちがう。

[Narration] イゾルデはフルーツを口に運んだ。とたんに、ひゃっ、と飛び上がる。

[Nicolle] え? こっちのは普通に美味しいけど……

[Nicolle] はうっ…………!す……酸っぱ…………!!

[Narration] ニコルはイゾルデと同様にぎゅっと肩をすくめて悶絶した。

[Nicolle] やられた……青いランポーネ(木イチゴ)だ……油断もスキもないよ、もう。

[Narration] それでも、二人はドルチェを楽しくたいらげ店を離れた。

[Narration] 小降りになった雨の下を、赤い傘とオレンジの傘が並んでとぼとぼと歩いていく。

[Narration] 二人の帰路の分岐点まで自然と、遠回りな道を選んでいた。

[Narration] 川面に映る暗い空はぼんやりと赤みがかっている。それでも遙か彼方には晴れ間が見え、山あいを金色に照らしていた。

[Isolde] ニコル、この間の約束は覚えてるか。

[Nicolle] ……あの、爺さん橋をポンテ・ヴェッキオを一緒に渡ろうって話?

[Nicolle] 別にいいって。

[Nicolle] そりゃあちょっとは残念だけど、イズーの父さん、許しちゃくれないだろ。

[Isolde] でも父は、一度した約束は必ず果たすものだとも、日頃から言っている。

[Isolde] それに……私はもう、自分のことは自分で決めるんだ。

[Nicolle] ………………

[Isolde] 今日も帰ったらきっと怒られるだろうな。

[Narration] イゾルデは笑った。うすうす勘づきながらニコルは尋ねた。

[Nicolle] なの? どうして。

[Isolde] 放課後のクラブをサボって出てきた。

[Isolde] 迎えの人間からは、きっともう家に連絡がいってるはずだ。

[Isolde] 本当はそろそろ電話をしないと。どのみち、次はもうこんな風には学校を抜け出せないだろうな。

[Nicolle] それはそれは……ずいぶん無理したなあ。

[Isolde] 私とジュリアーノに、ボディーガードをつけるとも言っている。

[Nicolle] 物騒だからね……。

[Nicolle] イゾルデの父さんだって、たしかすんでのとこで爆破テロを逃れたんだろ。バレルモだっけ。大変だよな。

[Isolde] ……うん……

[Isolde] でも父は家ではぜんぜん平気な顔をしてみせるんだ。私も、新聞で知ったくらいだ。

[Nicolle] ありゃ。

[Narration] イゾルデは悲痛な表情にしずむ。日に日に不安はつのり、少女の心を着実に蝕んでいる。

[Narration] しかしながら、テロの主な舞台となっている、シチリアやナポリから離れたこのフィレンツェでは、まだマフィアたちの銃声はずっと遠くに響いていたのだった。

[Nicolle] あたしらにとっちゃまったく迷惑な話だよ。

[Isolde] うん、そのとおりだと……私も思う。

[Isolde] …………

[Isolde] ……ニコルが私と同じ学校に来ればいいんだ。

[Nicolle] はぁ?

[Isolde] そうすれば毎日会えるし、テロリストも関係ない。学校は安全だ。

[Nicolle] そしたら、あんた上級生風を吹かす気だろ?

[Isolde] いいじゃないか。少しくらいは。いつもやりこめられてる仕返しだ。

[Nicolle] イズーが挑発的なんだよ。

[Narration] イゾルデの肩が小突かれる。

[Isolde] ……フフッ。

[Nicolle] イゾルデが行くみたいなお嬢様校かあ。不良で万年サボりのあたしにゃ、考えらんない話さね。

[Nicolle] ま……考えとくよ……

[Isolde] ……うん。

[Narration] 別れ際にイゾルデは決心してニコルに告げた。

[Nicolle] うへっ、学校を抜け出してベッキオ橋へ?マジ?

[Isolde] そのほうがボディガードは撒きやすいと思う。

[Nicolle] あたしにとっちゃエスケープなんて別に珍しかないけど。あ、あんたはさ……

[Isolde] 大丈夫だ。式典に出席するといえば、教師から詳しく聞かれることもない。ジュリアーノだって連れていける。

[Nicolle] そりゃまあ、ウィークエンドよりは、観光客も少なくて好都合だろうけど。

[Narration] ニコルはあきれたように腰に手をやり、肩の上で傘の胴をとんとんと叩いた。

[Nicolle] お嬢様は思い切ったことするよ。ほんとに。

[Isolde] どうかな? ニコル。

[Nicolle] ───うん。わかった。

[Nicolle] 必ず行くよ。ヴァザーリの回廊を通って、一緒にヴェッキオ橋を渡ろう。

[Nicolle] 見せてとくれよ。ダ・ヴィンチがイズーのご先祖さんにくれた宝物をさ。

[Isolde] うん。約束だ。

[Narration] つかのまふたつの傘が重なりやがて、名残惜しそうに別々の道を歩いていった。

[Narration] その朝はなにかが違っていた。

[Narration] 3階の個室から、2階の居間へニコルが寝ぼけ眼で降りてくると食卓にはすでに身支度を済ませた父親が座っていた。

[Nicolle] おはよう。あれ? 早いじゃん。

[Narration] 朝のキスをかわしたものの父親の肩はいつになく硬く張っていて、ぎごちない。

[Narration] 機嫌が悪いのだろうかといぶかしむが、初老の父親は、ただ黙々と煙を吹かすだけだった。

[Narration] 手早く朝食を済ませ、バンドで縛った教材を背負って、出かけようとすると厚い手のひらが、少女の肩を押さえた。

[Nicolle] なに、バッボ?

[Narration] 一瞬、ニコルは学校へ行こうとするフリが、バレたのかと胸をギクリとさせた。

[Narration] しかし続く父親の言葉は意外なものだった。

[Nicolle] え……?今日は学校へは行かなくていいってどういうこと……?

[Nicolle] どっか旅行でも行くの?ねえ、バッボ───

[Narration] その問いには答えてくれないまま、階段を引きずられ、自室に連れて行かれる。

[Narration] 目に入った使用人に助けを求めても、顔を伏せて、見ないふりをしてしまう。

[Nicolle] ねえ! バッボ!いやだよ!

[Narration] 壁や家具にへばりついて抵抗するが、それも無駄に終わる。

[Narration] 無情に部屋の扉はとじられ、外からジリッジリッと音がして鍵をかけられる。

[Narration] その金属音には聞き覚えがあった。もう1年以上前に、しつけに使われたあの憎たらしい南京錠に違いなかった。

[Nicolle] 出してよ!どうしてこんなことするんだよ!絶対、許さないから!

[Nicolle] 何かのおしおきなら別の日にしてよ!今日だけは、駄目なんだ!

[Narration] わめき散らし、幾度も扉をなぐりつける音の向こうで父親は使用人に何か言いつけている。

[Narration] 絶対に娘を街に出すなと、厳しい調子で言っているようだった。

[Narration] やがてシャッターと門の開く音が届き、アルファロメオの野太いエンジン音が小さくなっていった。

[Narration] 再び門が閉じる音がして、家は静まりかえった。

[Narration] ニコルは部屋の出窓にとりついて家の壁を見下ろす。

[Narration] よく脱走に使っていた配水管はきれいに取り外されて、足がかりになるようなものは、一切見あたらなかった。

[Narration] 遠く、フィレンツェの中心部を見渡す。

[Narration] 横たわるアルノ河の向こうに、ここからでも充分に大きな、ドゥオモと、ジョットの鐘楼がそびえ立っている。いつもの、のどかな光景だった。

[Narration] 不条理な怒りに、涙がこみあげた。

[Nicolle] なんなんだよ……あたしが何したってんだ……

[Narration] 窓に寄りかかって顔を伏せ、ニコルは歯を食いしばった。

[Nicolle] ……イズー…………

[Narration] 悲しみに沈もうとしていたニコルの胸に、やがて、怒りの火がくすぶりはじめた。

[Narration] ロープ代わりになるものがあるかもしれない。

[Narration] 正門も裏門も、きっと誰かが見張っていて、普通には通れないだろう。

[Narration] それでもここであきらめるわけにはいかなかった。

[Narration] 街で何かが起きようとしているのは確かだ。イゾルデとジュリアーノにそれを伝えなければ。

[Narration] クローゼットをひっかきまわし、あるだけのベルトやタイを掘り返していると、庭でコローネの声がした。

[Narration] あれは、顔見知りの客への吠え方だ。

[Narration] ニコルが窓から身を乗り出すとちょうど下を通りがかったコック姿の女性と目が合った。

[Nicolle] ペン!

[Penelope] おや、お姫さん。なんて顔してる。

[Nicolle] コロ! 静かに!

[Narration] ニコルはできるかぎり小さく、ぎりぎり階下に届くような声でペネローペに語りかけた。

[Narration] ペネローペは、ニコルの父親に、つまり、自分が切り盛りする店のオーナーに抗議にやってきたところだった。

[Narration] 居酒屋は突然、見知らぬ男たちの集会所として貸し切りになり、店の関係者さえ入れなくなってしまったのだという。

[Narration] それについては、もはやペネローペはあきらめ気味で、売り上げへの影響や、仕入れた食材の処置について相談に訪れたらしかった。

[Narration] 話を聞いて、ニコルはますます焦燥感を強めた。

[Narration] 監視役の男が庭をぐるりと回って、ペネローペのそばにやってきた。

[Narration] 女コックはまったく動じる様子はなかったが、ニコルはとっさに話題を変えた。

[Nicolle] 囚われの身としちゃ、せめて美味いドルチェでも食べたくってさあ。

[Nicolle] ペネローペも今日考えたドルチェのレシピを無駄にしたくないだろ?

[Penelope] わざわざここで作っていけってのかい?

[Narration] ペネローペは腕組みしたままちらりと男を見た。

[Narration] 男は何かペネローペに低く告げたがわかったわかったと、手を振っていなして返す。

[Narration] 隙を見て、ニコルは丸めたメモ用紙を足下を狙って落とした。

[Collone] ウォン?

[Narration] コローネが口でひろいあげた紙を、ペネローペは、自分のレシピ帳で隠しながらのぞき見る。

[Narration] そこには南京錠の絵と5桁の数字が殴り描かれていた。

[Narration] ペネローペはニコルのいる窓を見上げもせずに腰に手を置き、大げさにため息をついた。

[Penelope] ……やれやれ、姫のおおせとあらば致し方ない。厨房、借りてくよ。

[Penelope] 作るだけだぞ?あたしも、まだ用事残してるんでね。

[Nicolle] グラーツィエ! ペン!これでおとなしくしてられるよ!

[Penelope] はいはい。

[Penelope] それじゃ、本日のドルチェは、ジェラート“ラプンツェル”風だ。

[Narration] 広場の一角で、イゾルデはまた腕時計に目を落とした。

[Narration] 2杯目のコーヒーを飲み終えてもまだニコルは姿を現さない。

[Narration] ジュリアーノは今か今かとうずうずしている。

[Narration] そのくせ、しびれを切らしたイゾルデが広場を去ろうとすると、ニコルを待たなきゃと言って、姉を引きとめるのだった。

[Narration] まだ初夏に入ったばかりというのに、トスカナの日差しは強く、広場をまぶしく照らしていた。

[Narration] ミラノでは今頃、灰青色の霧雨に、街は覆われていたものだ。

[Narration] また、のどが乾いてきた。

[Narration] イゾルデは、身をかがめて小さな弟に語りかけた。

[Isolde] ジュリアーノ?さきほど前を通ってきた、回廊の通用門はわかるな?

[Narration] 弟は頷いた。

[Isolde] 私はニコルを迎えにいってくる。ジュリアーノ、お前は先に回廊に入っていてくれ。

[Isolde] 守衛は、ちゃんとお前の顔を覚えてる。きちんと名前を言えば、いつだって回廊を通してもらえるんだ。

[Isolde] 入ってすぐのところに座る場所がある。そこで待っていてくれ。できるな?

[Narration] 少年は不安をのぞかせたがやがて好奇心のほうが優ったようだった。

[Narration] 再び、姉にうなずき返す。

[Isolde] うん。

[Isolde] お前は、メディチの長男だ。あの回廊は、いつかお前の肖像画がかかる場所なんだ。

[Isolde] それを忘れず、しっかり堂々と胸を張っていくんだ。

[Isolde] あとからすぐに行く。

[Narration] 誇らしげに顔を輝かせる弟の頬にキスをおくり、帽子をまっすぐに直す。

[Narration] イゾルデはその場を離れて通りへ向かった。

[Narration] ───それが、その後彼女が後悔してやむことのない決断となった。

[Narration] 待ち合わせの広場に辿り着いたニコルは額に手をやった。

[Narration] 以前、一緒に腰掛けてジュースを飲んだ場所には、イゾルデとジュリアーノの姿はもう無かった。

[Narration] ヴェッキオ橋に、向かってしまったのだろうか。

[Narration] 一縷の望みをかけて、通用門へ向かう。そこには誰の姿もなかった。

[Narration] こっそり近づくと、普段は締め切られている重々しい扉の鍵は開かれていた。意外にも、守衛の姿すら無い。

[Narration] ニコルは音を立てないように中へ忍び込んだ。

[Narration] 手洗いと、清掃用具などが置かれた小さな詰め所のある入り口を通り過ぎて、階段を登ると、そこはもう赤い絨毯の敷かれた、回廊の内部だった。

[Narration] 入り口のそばのせいか、見通しは思ったよりも悪く、通路の幅も狭い。

[Narration] 照明は落とされたままで、ところどころ鉄格子付きの丸窓から、カーテン越しに外の光が差し込んで、床に淡い模様を作っている。

[Narration] かすかに耳に届く、外の商店街の喧噪が、かえって回廊の静けさを強調した。

[Narration] 肖像画を斜めに見て、先に進みながら、ニコルは小声で呼びかけた。

[Nicolle] ……イズー?

[Nicolle] ジュリアーノ……?

[Narration] 返る声はない。

[Narration] 背後から扉の閉められる音が聞こえた。近づいてくる足音と声に、とっさに、近くの布のかけられた文机の下へと身を隠した。

[Narration] 守衛と清掃夫らしき大人が、談笑しながら行き過ぎる。

[Narration] 会話にメディチ、という単語があったようにも思えた。が、前後はよくわからない。

[Narration] 閉館中の館内にただよう、安穏とした雰囲気に、自分の焦りが、ただの杞憂にも思えてくる。

[Narration] もう一度、広場に戻って、イゾルデたちを探したほうがいいかもしれない。

[Narration] そう思った時だ。

[Narration] 机の下から這い出すと、長く暗い通路の先で、ぽつんと一人で立っているジュリアーノの姿が目に入った。

[Narration] よじのぼるような格好で、窓の下の、橋の光景を、興味深げにのぞいている。

[Narration] ニコルは、ほっと胸をなでおろして声をかけようと立ち上がった。

[Narration] ───その直後。ニコルは瓦礫の中に昏倒していた。

[Narration] 何が起こったのか、わからない。

[Narration] すぐにもう一度、強い衝撃が襲いかかり、床に押しつぶされた。

[Narration] じわじわと聴覚が戻ってくる。漆喰の細かな破片がふりそそぎ、きな臭い香りが、鼻をつく。

[Nicolle] ば……爆発……?

[Narration] よろめきながら立ったニコルは、薄暗かった回廊に、今や黒煙の立ちのぼる空がひろがり、見る影もなく崩れ果てた様子を見おろしていた。

[Nicolle] ジュリアーノ……! イゾルデ!

[Narration] 痛みに耐えながら、瓦礫の斜面を這い降り、ニコルは何度もその名前を叫んだ。

[Narration] 周囲には惨状が拡がり人々のうめきと怒号が飛び交っている。

[Nicolle] ジュリアーノ!イゾルデ! 返事をしてよッ!

[Narration] ニコルは大きな瓦礫の脇に、ころがる一つの帽子を見つけた。たった今までジュリアーノの被っていたものに違いなかった。

[Narration] すぐにその場に向かって周囲を見渡すと、果たして瓦礫の山の中に、少年の姿があった。

[Narration] 血に染まり、ぐったりと横たわる少年の上には、みしみしと今にも崩れかかりそうな屋根材がのしかかっている。

[Narration] ニコルはあらんかぎりの声をはりあげて助けを求めた。

[Narration] 自身も血だらけの大人が、その声を聞きつけて、まっしぐらに駆けつけた。

[Nicolle] ジュリアーノ! ジュリアーノ!しっかり! 今、助ける!

[Narration] さらに2人の大人が駆けつけて屋根材をかろうじて支え止める。

[Narration] ニコルは一心不乱に瓦礫をとりのぞいて隙間に身体を入り込ませ、少年の腕を掴んだ。

[Narration] ぬるりと鮮血ですべる。もう一度、その腕を強く掴み直す。

[Narration] 大人たちが叫び声をあげて、ニコルの身体を強引に引くと、意識のないままのジュリアーノが引きずりだされた。

[Narration] すぐのち、屋根材は真っ二つに折れて、その場につきささるように崩れ落ちた。

[Narration] ジュリアーノとニコルのそばにひとりの大人の女性が残り、あとの者たちは、またすぐ他の現場へと向かっていった。

[Narration] あちこちで救急車を呼ぶ声が聞こえた。やはり怪我を負っている守衛の一人が、手元の無線機に向かって、がなり立てている。

[Narration] ニコルは、その場にへたりこみ、べっとりと血で覆われたジュリアーノの顔をぬぐい、その指先を握りしめた。

[Narration] とめどもなく涙がこぼれ落ちた。

[Nicolle] 死なないで、死んじゃだめだ!ジュリアーノ!

[Narration] かすかにあえぐように、少年の唇が動いた。

[Narration] ほんのわずかに、ニコルの手が握り返される。

[Narration] 細くて長い、美しい指。

[Narration] 青ざめた唇は、声にならない声で、それでも確かに、姉さん───とつぶやいた。

[Narration] ニコルは少年に付き添ったまま知らず、神に祈りを捧げていた。

[Narration] あまりに遅く、救急車のサイレンが響きはじめた頃に、背後から名前を叫ばれたのも気付かなかった。

[Isolde] ───ニコル!

[Narration] 振り返ると、息を乱し、汗だくで駆けつけたイゾルデがいた。

[Nicolle] ああ、イゾルデ……!

[Narration] 前に横たわる小さな姿を見るや、イゾルデは総毛立ち、ニコルを押しのけるようにして、少年の前に跪いた。

[Narration] 付き添っていた女性は、少年に抱きつこうとするイゾルデを、強く制止しなくてはならなかった。

[Narration] ニコルは唇を噛みしめ、なぜそこに横たわっているのが、自分でなく、最も無垢な少年なのだろうと、何度も自分に問いかけていた。

[Narration] ブザーと共に、手術室のランプが赤く点灯し部外者を閉め出してから、もう30分が過ぎていた。

[Narration] ニコルとイゾルデは、長椅子の両端に離れて座っている。

[Narration] イゾルデは、組んだ手を額に押しつけ、うつむいたままだ。

[Narration] 同乗してきた救急車からの無言がずっと続いていた。

[Narration] その沈黙を破ったのはイゾルデだった。

[Isolde] ……知っていたんだな。

[Isolde] 今日のことを……この爆破テロのことを……

[Narration] びくり、とニコルは身体を震わせた。その熱のない声に、掴みとられたように肺が痛んだ。

[Nicolle] ………………

[Narration] ニコルにはわからなかった。確証がなかった。

[Narration] メディチ姉弟と共に、ヴェッキオ橋を訪れることを、どこでも口外したはずはない。

[Narration] それは神に誓える。

[Narration] だが、イゾルデと友人になったことは、家の中では、何度も自慢げに吹聴していたことだ。

[Narration] 父親や、家の人間たちがそれを、どう思いながら聞いていたのか。

[Narration] 知らずのうちに、自分はマフィオーソの内通者となっていたのではないのか。

[Narration] 約束を違えず、ちゃんとイゾルデたちと合流していればこんな、最悪の結果からは逃れられたのではないか。

[Narration] ニコルは返す言葉を持たないまま歯噛みする。

[Narration] ……少なくとも、父親はこの日、フィレンツェで何が起きるかを知っていたのだ。

[Narration] たとえ、もしそれを事前に知っていたのならば、自分は……

[Narration] それを、イゾルデに打ち明けて、まさに父親を売るような真似を、家族全員を、報復の危険にさらすような真似をしただろうか……

[Narration] 答えは明らかだ。決して、しない。

[Narration] 沈黙の掟。オメルタ───ニコルは心の中で叫んでいた。

[Narration] イゾルデは無表情のまま静かに息を吐き、椅子に背をつけた。

[Isolde] 覚えていてくれ、ニコル……もし……万が一にも……

[Isolde] ジュリアーノがこのまま、あの部屋から出てこないようなことがあったら……

[Isolde] 私は……許さない……

[Isolde] テロリストの一族を、許さない。

[Isolde] 必ず、復讐をする。

[Nicolle] ………………

[Isolde] もうじき、父と母がやって来る。

[Isolde] 行ってくれ、ニコル。面倒な説明をしたくはない。

[Nicolle] イ……イズー……あたしは……!

[Narration] 思わず、その名を口走っていた。イゾルデは激しく振り向き、ニコルを凝視した。

[Narration] 射すくめられたニコルは、ついにそれ以上、言葉を続けることが出来なかった。

[Narration] 呆然とあとずさり、その場を離れる。それしか出来なかった。

[Narration] 重い足取りの少女の背に低いつぶやきが刺さった。

[Isolde] Addio Nicolle───

[Isolde] もう二度と顔を合わせることもない……

[Narration] 浅く、薄く、けだるき眠りからイゾルデは目覚めた。

[Narration] 厚い布で締め切った部屋は暗く、時間はわからない。窓際にほんのりとだけ夜光が漏れている。

[Narration] 脇に置いた懐中時計に手を伸ばそうとして人の気配に気づく。

[Narration] かすかに耳に届いたすすり泣く声に、思わずイゾルデは口走っていた。

[Isolde] ジュリアーノ……

[Narration] 目の焦点がさだまってくるとベッド脇にぼんやりと金色の髪が見えた。

[Narration] ルネだ。あの日の弟ではない。

[Narration] 今度はどうやって忍び込んだのか。膝をかかえベッドの足下に座りこんでいる。

[Narration] 息遣いの変化に気づいたルネが振りあおいだ。

[Narration] 濡れた頬を見せながら、少女は口をひらきかける。だが、言葉にならぬまま、のみこんでしまった。

[Narration] 膝立ちになり、小さな体をさらにすくませてベッドに突っ伏す。

[Narration] 指先を髪の先端がかすめた。

[Narration] いさめる他に言葉を持たないイゾルデは、読書灯に手を伸ばし、ただ待った。

[Narration] 室内は冷え切っている。いつものように部屋は空調を落としていた。

[Narration] いつまでも待つわけにもいかない。頃合いを見て声をかけた。

[Isolde] ……どうした。

[Narration] やってみれば優しい声も出るものだと自嘲の笑いが浮かぶ。

[Narration] そんなイゾルデを、こわごわ顔を起こしたルネが見つめる。

[Renee] イズー……

[Narration] 再び少女の瞳には涙があふれだす。

[Renee] まだ見るの……?まだ、いやな夢……見るの?

[Narration] 無言のままでいるイゾルデにルネが顔を寄せる。

[Narration] そこに壁があるかのように、決してある距離からは近づかないように、おずおずと。

[Narration] 行き場所のない指先は、シーツを強く掴んでいる。

[Renee] 一番悪い奴はもう追い出したよ?次は誰?イズーを泣かすのは……誰?

[Renee] ……杏里? アルマ? 誰?

[Renee] もう……泣いたらやだよ…………

[Narration] 頭を落としてルネは嗚咽する。イゾルデは静かに部屋に視線をはわせた。

[Isolde] ……また、うなされていたか。

[Narration] 首を折ったまま、声なくルネがうなずく。

[Renee] 言ってよ、イズー……っ……

[Renee] あたしに言って……!なんでもする……

[Renee] あたし、イズーが眠れるように、なんでもするから……!

[Narration] 祈るように吐き出すルネを、イゾルデは他人事のように見つめた。

[Narration] ルネのすすり泣く音だけが、暗い部屋に響く。

[Narration] その瞳はやがてゆっくりと色を変えた。少女を凝視ししたまま、イゾルデは静かに寝台を立つ。

[Narration] かすかな期待をこめて見上げた少女の表情は、すぐに凍りついた。

[Narration] 肩に両手が置かれ、強く握りしめられる。

[Renee] イ……イゾルデ……っ……

[Narration] 苦悶の声も意に介さず、イゾルデは青き光を瞳にたたえて少女をのぞき込む。

[Isolde] 何をした、ルネ。

[Narration] ルネの瞳が恐怖に揺れ、唇がわななく。

[Isolde] なにをしたんだ、ルネ!

[Narration] あっけなく幕切れは訪れた。

[Narration] イゾルデ・メディチが一方的な、講和ともいえる申し出をしてきたのは、ニコルが降船する予定の2日前だった。

[Narration] 勝負においての不正の発覚、それが伝えられた理由のすべてだった。

[Narration] いつの間にか、ジブラルタル海峡を越えたポーラースターは、地中海沿岸の景勝地にその白い勇姿を誇示しつつ、ゆっくり北上していた。

[Narration] 一路、イタリア・ジェノバへ向けて───

[Narration] 再び雪がちらつきだした船首甲板にたたずんでいた少女の背に、雪を踏む、聞き慣れた足音が近づいてきた。

[Narration] 少女は、今度はついに逃げ出さず、舳先を見つめたまま待ち受けた。

[Anri] つーかまーえた。

[Narration] ふわりと、外套が少女を包み込む。

[Narration] 懐かしいぬくもり。髪をくすぐる吐息。

[Nicolle] ………………うん。

[Narration] 胸前にからめられた腕に、ニコルはそっと指を添えた。

[Anri] やっぱり、船を降りるんだね。

[Nicolle] …………うん。

[Anri] 寂しくなるよ。

[Nicolle] ……せいぜい1週間だよ。またすぐ戻るって。

[Anri] ボクにとっては永遠の煉獄のように感じられるとも。

[Anri] でも、仕方ない。パパとの約束でもあるし。

[Nicolle] 誰との約束だって?

[Anri] ううん、こっちのこと。いいから存分に甘えておいで。

[Nicolle] よせって。

[Anri] まったくきみたち父娘は似たもの同士だよ。

[Anri] 本当に伝えたいと思ったことは、決して言葉にはしないんだ。

[Nicolle] 悪かったね。だから杏里がいるんだろ?

[Anri] ……なるほど。むべなるかな。

[Narration] 少女はより深く杏里に背を預けてつぶやく。

[Nicolle] ハァ……なんでかなあ。

[Anri] ん?

[Nicolle] ……あたしゃ、あんたのことは、大嫌いだったのに。

[Nicolle] そりゃもう死ぬほど。心の底からだよ。

[Anri] そうだったんだ。

[Nicolle] そうだよ。

[Narration] 杏里は瞼を伏せて亜麻色の髪に顔を埋めた。

[Anri] だからきみは……イゾルデへの償いを果たそうと、ボクとの最初の賭けに乗った。

[Nicolle] ……そうさ。

[Anri] この学園生活がさ、一から十まで、ぜんぶ最低のものになるように……ってね。

[Nicolle] あたしはうまく負けてさ、大っ嫌いな相手に、めちゃくちゃにされるはずだった。

[Nicolle] ……だったんだけどねえ……

[Nicolle] 一つだけ、さ、出目を読み違えていたのは───

[Anri] ……このボクに、負けてしまったこと。

[Nicolle] …………うん。

[Narration] ニコルは杏里の指をとると吐息で暖め、自分の頬へすべらせた。

[Narration] 杏里は、全身で感じ愛おしむ少女の、されるがままにしている。

[Nicolle] あんたみたいな、さ、ギネスに載るほどの大馬鹿を……

[Nicolle] こんなにさ……

[Nicolle] こんなに好きになっちまうなんてさ……

[Narration] 杏里の指先に熱いしずくが触れた。

[Narration] 握られた指先はいっそうかたく頬に押しつけられた。ふるえ声でささやく。

[Nicolle] ごめん……

杏里…………

[Narration] 応えるかわりに、杏里は強くニコルを抱きしめた。

[Narration] 腕のなかで少女は顔をくしゃくしゃにして泣きむせぶ。

[Anri] いいんだ。

[Anri] どんなに遠くても、きみの声、ずっと届いていたもの。

[Anri] それに、今はここにいるじゃないか。

[Nicolle] ………………

[Nicolle] …………うん……そだね……

[Narration] 淡い雪の降りしきるなか静かに唇が触れ合う。

[Narration] そんな二人を離れて見守っていたコローネの前に、雪にまじってはらりとなにかが落ちた。

[Narration] 小さな薄い紙片だ。

[Narration] ほのかに甘い香りのするその紙片を、鼻先に貼りつかせると、コローネはその場から歩き出した。

[Collone] ……ウォウ。

[Narration] きっと、ふたりはもう大丈夫だ。

[Narration] 自分はどこか暖かい場所で、何か美味しいものにでも、ありつかせてもらうとしよう。

[Narration] 紙片には5種類の言葉で、こんなふうに書かれていた。

[Narration] 一度吹き消された火が、 再び甦ったときには、よりしなやかで  明るい炎になって燃えさかる。       (Anonimo 〜詠み人知らず)

[Narration] ……しかし。

[Narration] 残念ながら犬語では書かれていない。おおいに不満をおぼえる。

[Narration] イゾルデなら、どうだろう。教えてくれるにちがいない。

[Narration] コローネは、落ちては消える春の雪を踏みしめながら、甲板の上をとことこと歩いていった。

[Narration]   ───「がんばれニコル!」                おわり。

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