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sapphism_no_gensou:7051

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[Narration] しめった森の吐息。優しく頬をくすぐる朝の日差し。

[Narration] アルノ川沿いに広がるカッシーネ公園は、その昔メディチ家の狩場だった。

[Narration] まだひとけの無いこの場所に不似合いなちいさな姿がある。

[Narration] 少女は手のなかのジェラートの尖峰をしげしげと見つめる。

[Narration] もうひとりの少女が笑った。

[Nicolle] ジェラートの屋台で「カードは駄目なのか?」はよかったな。アッハハ。

[Narration] よく特徴をとらえた声真似に、むっとする。

[Isolde] 笑うな、ニコル。これしか持ち合わせてないんだ。本当は───

[Nicolle] さすがお嬢様。いいから、オゴリにしといたげるよ。

[Isolde] ちゃんと返す。明日にだって。

[Nicolle] ま、ごじゆーに。

[Collone] アン、アン……

[Nicolle] わかったコロー。お前にもあげるって。そっちの川辺でたべようぜ!

[Narration] 早足で駆けだすニコル。イゾルデもジェラートを気にかけながら追いかける。

[Isolde] ほんとうに、このリモーネ(檸檬)が一番美味しいのか?

[Nicolle] エ、スィ! もちろん!

[Nicolle] でも、あたしはこっちのが好きだな。

[Narration] イゾルデは赤と黄色のふたつのジェラートをしげしげと見比べた。

[Isolde] 山イチゴは酸っぱいからだめだと、自分で言っていたじゃないか。

[Nicolle] もちろんスッパイんだけど、それがイイんだよ。

[Isolde] …………

[Isolde] ……交換しよう。

[Narration] ふいに立ち止まるイゾルデ。黄色のジェラートがニコルの顔前に突きだされる。

[Nicolle] へ?

[Nicolle] やあだよ。いいからリモーネにしときなよ。悪いこと云わないからさ。

[Isolde] ニコルは嘘をついている。

[Nicolle] んなことないって。うたぐり深いな。

[Isolde] ならもう一度、買ってくる!

[Nicolle] って、おいイゾルデ!だから金持ってないだろ!

[Isolde] じゃあ───

[Nicolle] はぁ、ったく。一度決めたらこれだよ。

[Narration] ニコルは肩をすくめた。

[Narration] まるで聖火か何かのように慎重な手つきでジェラートを交換してイゾルデは微笑んだ。

[Isolde] ありがとう、ニコル。

[Isolde] 私は欲張りじゃない。ちゃんとコローネにも、分けてあげるぞ。

[Collone] アン、アンッ

[Collone] ……アンッ……

[Collone] ウォンッ……ウオゥ?

[Collone] クゥン……

[Niki] …………

[Narration] 膝に置いた雑誌が落ちた。

[Narration] 大きく成長したボルゾイ犬が静かにニコルを見上げている。

[Narration] その少女の肩に、苦心して毛布を寄せようとしていたニキは、びくりとあとじさりする。

[Nicolle] ……あ、寝てた。か。

[Nicolle] なんでもないよ。

[Narration] 気がかりな様子のニキの前で、ニコルはけだるく髪をかきあげる。

[Narration] 壁にじっともたれたまま、少女は静かに息を吐く。

[Narration] 窓辺に、朝の白い光がゆれる。

[Narration] そろそろ、船も生徒たちも目をさます。

[Nicolle] ………………はぁ……

[Nicolle] ……ごめん。まだ体が寝てるや。

[Nicolle] もうちょっと、ぼんやりしててもいいかい。

[Narration] ニキの首がかすかにふれる。

[Narration] じきに、銀髪の少女はコローネを膝に抱えたまま、とろとろと沈む。

[Narration] ニコルは、ひとりカーテンのゆらめきを静かに見つめていた。

サフィズムの舷窓 追加シナリオ

forza-nicolle!

『がんばれ!   

    ニコル!』

[Anne Shirley] ひゅーまんけみすとりぃひゅーまんそりゅーしょんず

[Anne Shirley] 猿ジャナイ、原人!パージャナイ、変人!ハゲジャナイ、ガンジー!

[Anne Shirley] キチガイではありません。アンシャーリーです。

[Anne Shirley] たったの2年ぽっちしか経ってないのにもう続編が配信されるなんて、科学の進歩はウナギノボリですね。

[Anne Shirley] ごめんなさい。本当はイラクを1ダースぶん蹂躙できるくらいの月日が経ちました。

[Anne Shirley] 根気よくお待ちいただいたファンの皆さんに、モーレツに感謝感謝であります。

[Anne Shirley] ここでちょっとおことわりを。

[Anne Shirley] このWEB配信版では、背景画像など一部でanEpic版と内容が異なることをご容赦ください。馬鹿馬鹿しさはほぼ同じです。

[Aisha] ………………

[Anne Shirley] ……すみません。わたくし嘘をつきました。

[Anne Shirley] 実は、anEpic版のほうがより豪華絢爛に馬鹿になっております。途中でセーブも出来たりします。

[Anne Shirley] 我こそは、と思われる方は、どうぞanEpic版をお買い求めください。anEpic、anEpicをよろしく。

[Anne Shirley] とまー、野暮な営業はこれくらいにいたしまして。

[Anne Shirley] それでは「がんばれニコル!第2回」。お楽しみください。

[Aisha] ……あの

[Niki] それでは、レッツプレイ!

[Anne Shirley] いーつーのーことーだかー♪思い出せーないー♪

[Aisha] おもーえばーとおーとしー♪わがしのーとらやー♪

[Niki] ほーたーるのーひーかーりーまーどーにーまーどーにぃー!

[Anne Shirley] まったっあっえる日までー♪ゆっめっをっかなえもーん

[Aisha] なみだの数だけ つよくなれるよーアスファルトに咲くーはな゛の゛ーよ゛う゛に゛ー(滂沱)

[Niki] ぼくの ごにょごにょ のーやわらかい むにゅむにゅ をー今でもまだ絞めつけるぅぅー

[Aisha] …………

[Anne Shirley] なんとなく不謹慎なエアー!

[Niki] あ〜あぁぁ〜〜中東のどこかにぃ〜〜死刑を〜〜待ってる〜〜ひとが〜〜

[Aisha] ………………

[Anne Shirley] ……おい。

[Niki] さよならSECOMのひと〜さよならメークドラマのひと〜ずっとずっとミスターのひと〜ずっとずっとずっと───

[Aisha] ど……毒針。

[Niki] はうっ。

[Narration] どさり。

[Anne Shirley] 適切な対処だった、同志アイーシャ。国家安全保障上のゆゆしき事態だったな。

[Aisha] ……いかがしましょう。

[Anne Shirley] ふん。テロリストが。

[Anne Shirley] 上海のバラックに放り込んでヤフオク用のプリキュアのセル画でも塗らせてろ!

[Aisha] ううっ……今はどこもデジタル作画なのに……むごすぎる……ありえない……

[Anne Shirley] ふっふっふ……はっはっはっは……

[Anri] へい、大将!コハダ握ってくんな!

[Narration] 一部生徒の粘りづよい嘆願の甲斐あり、ついに、あの回転寿司店がポーラースターにもオープンとなった。

[Narration] その名も、

泣く子も握る『北極寿し』

         (命名けーこちゃん)

[Narration] 昼休み早々、いちばん乗りした杏里が椅子から身を乗り出して注文する。

[Narration] と、カウンター内から「あいよ!」と威勢のいい声が返る。

[Narration] 詰め髪の粋な板前スタイルでネタを握るのは、カリヨン広場のいつもの日本料理店の顔ぶれ。

[Narration] 不思議顔のソヨンに、杏里はニヤリとほほえみかける。

[Anri] ハーイ、無いものはどんどん注文してください。

[Soyeon] 女性のすし職人さんでも大将さんですか?

[Anri] いいの。だって「女将!」じゃ雰囲気出ないし。

[Narration] すかさず「コハダ、お待ち!」と皿を差し出される。

[Narration] 銀色の輝きに、ソヨンもごくりとつばを飲み込む。

[Soyeon] えっと、じゃあ、厚焼き玉子をっと…よいしょ。

[Anri] ほお、玉(ギョク)からとは。お客さんツーですね!

[Soyeon] ツーですか!?

[Anri] ツーですとも!二貫でツーツーフォー!

[Narration] 一方アルマは、流れる皿に手を伸ばしかけては右から左に逃げられている。

[Alma] ……まあ……また……

[Anri] アルマ、お寿司は初めて?

[Alma] いえ、実は家族と幾度か。ストックホルムのお店に。

[Alma] ただこんなにイキのいいお寿司は、はじめてで……

[Anri] 回転スピードと鮮度は関係ないんだけどね。ホラ、取ってあげるよ?どれ?

[Alma] ありがとうございます。それでしたら、あちらの……

[Anri] どれどれ……?ワオ、さっすがポーラースター!

[Anri] 日本のくるくる寿司なら、カッチカチになるまで放置されちゃう高級天然ネタが目白押しだよ!

[Anri] ボタンエビ、いいね! 

中トロ、う〜ん美味しそう! 

生ウニもいいけど焼きウニもなかなか。

おっとカニだ! カニカニ!

[Anri] それとイクラに、

ウナギに、

アナゴに、

ホタテ、

イカ、

タコ、

タイ、

ハマチ!

さあ、召しあがれ! 遠慮は無用だよ!

[Narration] アルマの目の前は、一瞬にして満開の魚畑となる。

[Alma] は、はい。頑張ります!

[Alma] ……か…………神の御加護を……

[Narration] 十字を切るアルマの脇で、ソヨンがメニューを指さす。

[Soyeon] もぐもぐ……とっても美味しいですねー。

[Soyeon] 杏里さん?この「エンガワ」って何ですか?

[Anri] 落語の師匠かな?

[Narration] 「ヒラメですよ」

[Narration] 開店早々、店のイメージを破壊されてはなるまいと、板さんの注釈が入る。

[Anri] へえ、エンガワってヒラメなんだ!つまり、出世魚だね!

[Narration] 「ちがいます」

[Anri] 出世はできないのか……

[Alma] 杏里さま、この「カッパ」と云うのは……?

[Anri] 怪獣かな? 

[Narration] 「キュウリです」

[Rachel] こちら、もうひとつアワビくださーい。

[Principal] くらげ。

[Rachel] 学園長、軍艦巻きばかりですね。

[Principal] そう言うおまえは、貝類ばっか。

[Rachel] このコリコリとした食感たまりません!赤貝もくださーい。二貫で!

[Principal] まぐろ納豆。

[Principal] ……しかも、わざわざ手で食うし。回転寿司はワリバシ使えよっ。

[Rachel] うふふ、私ちょっと、SUSHIには、うるさいんですよ?

[Principal] メリケン人の誇りがあるなら、それらしいもの頼め!なんかあるだろ、あー、ホラ。

[Rachel] ハワイ巻きとか、カリフォルニア巻きとかですか?イロモノじゃないですか。

[Principal] かぁーッ! 非国民め!大将、こいつにサウスダコタ巻きと、ノースダコタ巻き!

[Rachel] ええっ? 何ですかそれ?

[Principal] あーもー、いいから50州まるっと全部やってくんな!バグダッド巻きと、生サダムもな!

[Rachel] しょ、しょんなぁ〜無茶です〜学園長〜

[Principal] 無茶もアガリもあるか!

[Narration] 頭をかかえる板さんをよそに、杏里たちもどんどん皿を重ねていく。

[Soyeon] イカキムチとタコキムチください!

[Anri] ところでさ、ちょっと聞きたいんだけど───

[Narration] ソヨンは小首をかしげた。

[Soyeon] ニコルですか?いつもと変わらないですよ。ねえ?

[Alma] もぐもぐもぐ……ちょっと……お待ちを……ふぅ。

[Alma] ハ、ハイ。いつものごとく休憩時間は起きてましたし、授業中は、お休みでした。

[Anri] 確かに変化はないけど、それじゃよくわからないよ。

[Soyeon] えっと今日は、ルネにせがまれて船員デッキの立ち食いソバ屋を攻略するとか、なんとか?

[Anri] へえ。そんなお店が。

[Alma] どうかされたのですか?

[Anri] ああ、うん。ケンカしたんだ。

[Soyeon] !?

[Narration] 杏里は淡泊な表情のまま、口もとに指をそえる。

[Anri] ……いや、ケンカ、だったのかな。ちょっとボクにもわからない。

[Alma] と、申しますと?

[Soyeon] 知らないうちに、機嫌をそこねてしまったとか?

[Anri] うん。そんな気がするんだ。とにかく謝っておこうと思ってね。なんだけど……

[Anri] ここ数日タイミングが悪くてさ、会えないんだ。

[Soyeon] うーん。元気そうに見えたけどなあ。

[Alma] 私、ニコルさんにお伝えします。杏里さんが心配してらしたこと。

[Anri] ありがとう、アルマ。でも大丈夫だよ。

[Anri] ボクちょっと、船員デッキに行ってみる。

[Soyeon] あ、あたしもご一緒します。

[Narration] 椅子を降りかけたソヨンを、杏里はゆびを指して制する。

[Anri] よければアルマを手伝ってあげて、ソヨン。

[Soyeon] はれ? いちめんのお皿畑?

[Narration] 必死に口をもぐもぐさせながらアルマが頭を下げた。

[Alma] すみません、ソヨンさん。お父様がいつも、天然ものには逆らうなと……

[Narration] 薄暗い通路のおく。チカチカまたたく蛍光灯の光に浮かびあがるように、その店はあった。

[Narration] あわただしく蕎麦をすすっては去っていくクルーの姿は、新橋のサラリーマンのようだ。

[Narration] そんななか、ファーストの制服が見えかくれしている。

[Narration] 杏里はひょいと、そのわきへ立った。

[Anne Shirley] あら、杏里ズズー。

[Renee] 先輩じゃんズズゾバー。

[Narration] 器をかかえこんだふたりが湯気のなかから顔をあげる。

[Anne Shirley] ニコルだったら、ここに案内してくれたあと、超早食いでもどったわよズズズー

[Renee] ふーっ、ふーっ、長居するのはマナー違反なんだってズズズ。

[Anri] アレ……ってことは行きちがっちゃったか!

[Renee] スローフードじゃなくてズズーフード……熱ッ!

[Anne Shirley] ハグハグ……おっきなオアゲ。

[Narration] ふと脇の壁を見ると「給水加熱器室入り口」。

[Narration] 反対側の壁には「2等機関士御用達・立ち食いそば店」 「当たりや」とあった。

[Anri] ……なにが当たるのかな?

[Anne Shirley] いいもの。

[Renee] ニコルなら部屋で昼寝でもしてるんだ、きっと。行ってみれば?

[Anri] それじゃ授業中からずっと寝てばかりじゃないか。

[Anri] うーんそしてなぜか、部屋にはいないような気がする。すくなくとも、昨日はいなかった。

[Renee] じゃ、避けられてるとか?

[Anri] ええ? どうしてさ。

[Renee] さあ?

[Narration] ルネは交叉させた箸の先を杏里の胸先に突きつける。

[Renee] 先輩のこと嫌いになったんじゃない?

[Anri] キツイ顔して、けっこう可愛いね、ルネ。

[Renee] べー、だ。…………ん?

[Anne Shirley] ニコルがいったんつむじをまげると長いのだわ。

[Anri] そうなんだ。それは経験ずみ。

[Anri] でも心配ご無用。すぐに仲直りしてみせるさ。

[Renee] ふーん、がんばってね。応援してる。イヒッ

[Anne Shirley] トォ〜ッピ〜ングゥ─!!

[Narration] ぽちゃん。

[Renee] わぁー! なに?

[Anri] アンシャーリーの愛情表現だよ。はい、ボクからも愛のちくわぶ。

[Narration] どぼん。

[Renee] なんかおつゆにキラキラとデロデロが浮いてる!

[Anne Shirley] 細かい物体は気にしないで。早くめしあがれ。のびるから。

[Renee] あたし食べるのおそいんだもん。しょーがないでしょ!

[Narration] 杏里が甲板や船倉やヘレナの寝室をかけずりまわってるころ───

[Narration] 当のニコルは、ベルベットで裏打ちされたオーストラリア大陸とキューバ島のあいだから、のそのそとはいだした。

[Nicolle] あー気分わる。もう、やめだ。キューバはやめだ。

[Narration] 教室に近い地理用具室からでてきたところをめざとく見つけたのはアルマだった。

[Alma] ニコルさん、ニコルさん、ニコルさんっ

[Nicolle] おー、アルマ。んな走らんでも。

[Alma] ハァ……ハァ……午後の講義に出られなかったので、さがしてしまいました。

[Nicolle] レイチェルだろ?あいつの授業ってのもまた、夢見が悪いんだ。

[Alma] それが、先生……

[Alma] ひどく青ざめた顔のまま教壇に立たれたのですけれど、途中から無口になってしまわれて。

[Nicolle] で、休講に? ハハッ。ちょっと見たかったかも。

[Alma] あの、ニコルさん。杏里様がお探しになっておりましたわ。

[Nicolle] あーそう?じゃあ、あとで顔出しとくかな。

[Alma] あの……よろしかったら、一緒に参りません?杏里さんのお部屋まで。

[Nicolle] ……ん? いいよ。

[Narration] アルマは、ほっと息を吐く。

[Narration] 1ブロックほど進んでから、腕を頭のうしろに組んだニコルが言った。

[Nicolle] そういやアルマ?例の悪だくみは、どしたい?

[Alma] あっ。

[Narration] はたとアルマは立ち止まった。

[Alma] 秘密のパーティのことですね。

[Alma] ごめんなさい。ちょっとずつ準備はしてるんです。お茶の葉は面白いものがありました。

[Alma] あとは、なにか、お菓子をお作りしたいと思っていて……

[Nicolle] そんな凝りまくらなくってもいいよ。

[Nicolle] ちょうどいい、今夜どうだい?

[Alma] ええっ、今夜ですか?で、でも明日も授業が……

[Alma] 試験も近いことですし、せめて期間が終わってから。

[Nicolle] みんなそんな勉強熱心な連中じゃないだろー?

[Nicolle] 息抜きにちょうどいーんじゃない?

[Nicolle] ヘレナにゃ「息抜きっぱなしの人がまた!」なんて怒られそうだけど。

[Nicolle] いそがしくて来られないのは、またつぎの機会に呼んでやれよ。

[Alma] うーん……

[Nicolle] 「準備万端!」だなんてつまんない。トラブルをたのしむ気持ちが、肝心。

[Alma] ……う〜〜〜〜〜〜〜ん……

[Alma] ……そうですね。ニコルさんの、言われるとおりだと思います。

[Nicolle] よし。そうと決まったら即発進。ほれほれ。

[Narration] ニコルはアルマの肩をぐいぐい押して、通路をぐるりとUターンする。

[Nicolle] ハイホー、ハイホー♪イベントが好きー♪

[Alma] あ、ニコルさん、杏里様に。

[Nicolle] あとであとで!

[Narration] サードの部屋が並ぶ通路。

[Narration] 平日の夕食時。多くの生徒は部屋を離れてなじみの店へと足を運ぶ。

[Narration] 部屋の前にしゃがみこみ、手製の招待状を、こっそりと、扉の下からすべり入れる。

[Alma] ふう……あらためてポーラースターのひろさを思い知りますね。

[Nicolle] いやまったく。えーっと、あと誰だっけ?

[Alma] あとはセカンドクラスの方々です。

[Nicolle] じゃあ、あたしが廻ってきてやる。

[Nicolle] アルマはいろいろ仕込みがあるんだろ?もう部屋にもどりな。

[Alma] よろしいのですか?でしたら助かります。

[Narration] 残りの招待状を手渡すと、アルマは大きく礼をして去った。

[Nicolle] さて……セカンドの連中は、スタボー(右舷)をぐるりか。

[Nicolle] ふっふっふ。へっへへへっ。

[Narration] 肩でずるずる壁を引きずりながら、ニコルは右舷通路へ向かう。

[Narration] クローエ、ヘレナとまわって、……あとは杏里の部屋。さらにニコルの足取りが重くなる。

[Narration] 玄関からほんの10メートルほどの場所で、そろそろと様子をうかがう。

[Narration] うなったり、頭をかきむしったり、地面にあぐらをかいたり。

[Narration] そんな不審な動きに目をとめたのは、イライザと同室のメイド、エリザベス・マーカス。

[Narration] 通称“ベス”。

[Bess] ……?

[Narration] (とててて)

[Bess] …………?

[Narration] (そろりそろり……)

[Bess] ……ニ

[Narration] ───コル様どこかおからだの具合が、と声をかけようとしたメイドの肩は、振り返りざまにつかまれる。

[Nicolle] よーしベス! 頼みは他でもない、こいつを大至急セカンドクラス在籍の杏里・アンリエットに届けてくれたまえ書留速達二つ折り歓迎料金着払天地無用! 頼んだよ?

[Narration] (こくり)

[Narration] 声もなくベスはうなずく。

[Nicolle] さぞかし苦難の道程であろう、だが!主はかならずやご覧になっておられよう!そうとも花も嵐も踏み越えて、いざいざ、進め乙女よ!

[Narration] (こくこくこくり)

[Nicolle] ベーネ! よろしい!

[Narration] と、早速退散の姿勢をとったニコルがくるりとふりかえる。

[Nicolle] そういや、このあとってイライザに会う?

[Bess] ……あ

[Nicolle] ───会わない? 今日、遅番?

[Nicolle] あ、彼女、休暇中か!ありゃりゃ……外泊? ってどーゆーことそれ。今どこ……ってまでは、わかんないか。

[Bess] ……で

[Nicolle] ───あ、いやいやいや、わざわざコムで呼び出すにゃ、及ばないんだけどさ。指導部にもバレちゃうし。ううんこっちのこと。

[Narration] ニコルは頭をかきかき、残った招待状と、小柄なメイドを見比べた。

[Nicolle] ……うむっ。

[Bess] ?

[Narration] ニコルは慇懃無礼なそぶりで招待状を差し出す。

[Nicolle] おお善良かつ勤勉なるベスよ、この書状はたった今から貴女に宛てられた物となった。人生を楽しんでくれたまえ。

[Nicolle] かっこくれぐれもメイド長には注意されたし            かっことじ

[Bess] ……ま

[Nicolle] マンジャーレ!(食べて!)

[Bess] ……か

[Nicolle] カンターレ!(歌って!)

[Bess] ……ば

[Nicolle] バッラーレ!(踊って!)チャオ!(チャオ!)

[Narration] 深々と頭をさげて見送りつつも、理解不能な脱力感にベスがおそわれていると───

[Narration] 入れ替わるように、くたびれきった杏里が帰還する。

[Anri] おふろ……おふろ……この世界がひからびてしまう前に……いままさにボクに必要なアビリティ……それはおふろ……

[Narration] 日頃と変わらぬ、ていねいな一礼を送るとベスは、たったいま杏里宛にあずかった招待状を確認し、うやうやしく献上した。

[Bess] ……杏

[Anri] ───もぐ。

[Bess] …………

[Narration] 手紙は食べられた。

[Anri] はひはほふ、へふ……ほふほ……ほふほ……

[Narration] 黒ヤギよろしく招待状をくわえた杏里は、うつろな表情のまま扉のむこうに消えた。

[Narration] 通路にひとりになってから、ベスは受け取った手紙の封をおそるおそるあけた。

[Bess] …………

[Narration] 『今夜、消灯時間後に わたしの部屋でパーティーを開きます。 どうぞ寝衣のままで、こっそり         いらしてください。』

[Narration] 『枕やクッションをご持参のこと。 差し入れも歓迎です。       アルマ・ハミルトン 』

[Narration] 読み終えたベスの頬にぱあっと紅がさす。

[Narration] その様子を、戸口から裸の肩をのぞかせた杏里がぼんやり見つめていた。

[Bess] …………!

[Anri] …………なんなら一緒にオフロする?

[Narration] ベスはさらに顔を赤くしてぶんぶんと首を振った。

[Narration] ビィ──────ッ!

[Narration] ふいに照明が戻った寝室に、大音量で警報が鳴り響く。

[Narration] 対侵入者・テロリスト用の警戒装置に、反応があった。

[Narration] ベッドから身を起こしたイゾルデは、部屋を横切り、落ち着きはらった動作でブザーを解除した。

[Narration] 軽く髪をととのえ、戸口に駆けつけたPSに、顔を見せる。

[Narration] 背後では、けたたましく電話が騒いでいる。

[Isolde] 何もトラブルはない。装置の誤作動だ。

[Isolde] 今夜は、もう寝る。点検は明日にしてくれ。

[Isolde] ああ……ああ……騒がせてすまない。

[Narration] セキュリティを追いかえしたイゾルデが、部屋へ向き直る。

[Narration] PSの通達でようやく電話も鳴りやみ、部屋はしずけさを取りもどしていた。

[Narration] ゆっくり目を伏せたイゾルデがつぶやく。

[Isolde] ……さっさと出てこい。

[Isolde] ルネ。

[Narration] ごとん、と驚いたように物音がした。

[Narration] クローゼットから、おそるおそる褐色の少女が顔を出す。

[Renee] へへっ、見つかっちゃった……

[Isolde] ………………

[Renee] 怒ってる……?イゾルデ……

[Renee] ───アッ!

[Narration] イゾルデは無言のまま、ぴしりと少女の頬を張った。

[Narration] かしゃん、とバイザーが床に飛ぶ。

[Renee] ひゃうっ……

[Narration] イゾルデがさらに振りかぶる。少女は顔をかばいながら、身を縮こまらせた。

[Isolde] ………………

[Renee] ご、ごめんなさい…………ゆるしてよ……

[Renee] もう、勝手に入ったり……しないから……

[Isolde] …………ふん……

[Narration] イゾルデは、殴ろうとした手でルネの顎を強引に引き出しつまみあげた。

[Isolde] 子供らしくないイタズラが過ぎるな……

[Narration] 強い力で顔をつかまれ、おののくルネの瞳が、氷のようなイゾルデの表情を映す。

[Isolde] この部屋の警報は特注だ。いくら機械いじりが得意でも、簡単には騙せない。

[Isolde] PSは武器もそなえている。不審な者は、予告なく撃たれても、しかたがない。

[Isolde] ……二度とするな。つぎは親元に送りかえす。

[Narration] 自由をあたえられないまま少女の瞳に恭順の色が浮かんだ。

[Narration] PSのあつかう武器は、実際にはゴムスタン銃や、電磁警棒のたぐいだ。

[Narration] 命に別状はない。せいぜい骨折や火傷を負う程度だ。

[Narration] しかし、そんな不祥事が起これば、担当のPSは責任を取って処分されるだろう。

[Narration] そういった事をまるで察しない軽率さがイゾルデは許せなかった。

[Renee] …………から……

[Narration] 少女が、息苦しげにつぶやく。

[Isolde] …………何だ……

[Narration] 腕の力をゆるめると、咳を混じらせながらルネが言った。

[Renee] 出ない……から……

[Renee] イゾルデ……電話に……出なかったから……

[Isolde] だから?

[Isolde] そんなことで勝手に部屋に───

[Renee] 一緒に……寝ようよ……

[Isolde] …………な……

[Narration] イゾルデは嫌悪をあらわにルネを押しやった。

[Isolde] ……ホームシックの子供の面倒まで私に見ろと?

[Isolde] 父上もとんだ荷物を押しつけてきたな。

[Renee] ……ち、ちがうよっ。子供あつかいしないで!

[Renee] 寝られないんでしょ、イゾルデ。

[Renee] そういう病気だって聞いたからさ。

[Renee] あたし、話し相手になれるからさ。おしゃべりしてると、眠くなるでしょ?

[Isolde] ………………

[Renee] もし寝られなくても、たぶん楽しいよ……だから……

[Narration] こらえきれず、イゾルデは顔をそむけ、吐き捨てた。

[Isolde] おまえまで……アンリエットの同類なのか。

[Narration] はっとルネは息をのみ、首をふった。

[Renee] そ、そんなんじゃない……っ……

[Isolde] 女同士、なぐさめあう趣味など───

[Renee] ちがうよ!あたし、アンリエットなんか大嫌いだよ!

[Renee] 大丈夫、イゾルデ!

[Renee] あいつも、ニコルも!ぜったいこの船から追い出してやるから!

[Isolde] でしゃばるな、ルネ。これ以上、面倒をふやす気なのか?

[Renee] …………!

[Narration] ルネは歯を食いしばりイゾルデをにらみつけた。

[Renee] イ、イゾルデの馬鹿!あたしは子供じゃないよっ!

[Narration] イゾルデの脇をぬけてルネが部屋を飛び出していった。

[Isolde] …………やれ……

[Narration] イゾルデは嘆息しながら施錠の確認に、扉に近づく。

[Narration] ───と、小柄な影が扉をすりぬけて、また部屋に戻る。

[Isolde] …………む。

[Narration] 少女は床に落ちていたバイザーをひっつかむと、そのまま、ぼすんとベッドに飛び込んだ。

[Narration] イゾルデに背を向けて枕に突っ伏したまま、黙りこくっている。

[Isolde] …………おい。

[Renee] ……………………

[Isolde] …………部屋に戻れ、ルネ。

[Renee] ……………………

[Narration] 顔を伏せたまま、少女はかすかに首を振る。

[Narration] イゾルデは肩をすくめ、もう一度、深いため息をついた。

[Soyeon] あなた〜変わりは〜♪ ない〜ですよ〜〜♪

[Soyeon] 日ごと寒さが〜♪ つのる〜ですよ〜♪

[Narration] アルマの部屋いっぱいに、ハンディカラオケの合成音と、さも気持ちよさそうな、ソヨンの歌声が重なり広がる。

[Tenkyouin] ……いつから演歌パーティになった。

[Anne Shirley] にぎやかでケッコウケッコウ。次はカナエの番です。

[Tenkyouin] あたしは歌わないぞ。

[Anne Shirley] そうはイカのキングストン弁大開放。

[Tenkyouin] 海の上で不吉なこと言うな。

[Soyeon] 寒さこらえて〜 編んでる〜ですよ〜♪

[Narration] 天京院の繰り言をよそにソヨンは、コブシをぐるんぐるんまわす。

[Soyeon] おんな〜ごころの〜〜 未練〜〜ですよ〜〜♪

[Soyeon] ああ〜〜 津軽海〜峡〜〜♪

[Tenkyouin] おいっ、歌変わってる!

[Anne Shirley] ほんの小ネタです。

[Soyeon] ふゆ〜げ〜 すぃ〜

グ〜〜

[Tenkyouin] グー?わっ、ちょ……!

[Soyeon] くぅー

[Narration] ソヨンは、ぽてっと倒れて、天京院の膝を占領する。

[Tenkyouin] なにっ。

[Anne Shirley] ハッ、ソヨン、寝たネタキター!!

[Anne Shirley] …………3点?(ニヤ)

[Tenkyouin] ………………動けん。

[Alma] みなさん、お茶のおかわりをどうぞ。

[Alma] 天京院様はコーヒーがよろしいですか?

[Tenkyouin] よろしくないが飲む。

[Narration] トレーに湯気の立つカップを並べてアルマがやってくる。

[Alma] まあ、もうソヨンさんの就寝時刻を過ぎてしまったようですね。ふふっ。

[Tenkyouin] ……正子きっかりとは。船内標準時計みたいな奴だ。

[Soyeon] くぅーくぅぅーぅー

[Tenkyouin] こらっ、白衣を引っ張るなっ

[Anne Shirley] 寝る子はソヨン。ソヨンは寝て待てー。

[Tenkyouin] だんだん重たくなってきた。

[Tenkyouin] コーヒーは旨いが、なんだか不愉快だ。杏里、場所を変わってくれ。

[Anri] ゴメン、かなえさん。それがボクもちょっとここから動けないっぽい。

[Niki] …………(うとうと)

[Tenkyouin] ええい、人を無理矢理に連れ出して。

[Anri] そんなに楽しんでくれてるとボクも嬉しい。

[Anne Shirley] ワンダフルな歌声に感動して飛び起きるかも?

[Tenkyouin] ……ええいっ、貸せ、マメカラ!

[Narration] くるくる弄んでいたアンの手からカラオケをもぎとる。

[Tenkyouin] すぅぅ……

[Tenkyouin] あんこぉぉ〜〜〜〜♪ 椿ぃんはぁんぁんぁあ〜♪

[Tenkyouin] 起きろっ、ソヨンッ!!

[Soyeon] くぅー

[Narration] 一方、杏里はニキの寝椅子をつとめながら、夜宴に供されたお茶を満喫している。

[Anri] ふううむ……なんとふくいくたる……なんと匂やかな……

[Anri] さっきの紅茶も美味しかったけど、これも素晴らしい香りだね。

[Alma] ハーブティーなんです。お花を使ってみました。

[Anri] へえ。花のお茶。どうりで色も綺麗だ。

[Alma] この花の名は───

[Anri] 待った!当ててみせよう。

[Anri] えーと……………………………………………………………チューリップ?

[Alma] いえ?

[Anne Shirley] チューリップは毒草。

[Anri] あれ?

[Anri] じゃあ……うーん……えーと……

[Anri] る……ルピナス! ルピナスだ!

[Alma] ふふっ、残念でした。杏里様がお飲みになっているのは“スモールメロウ”です。

[Anri] スモールメロウ?メロウ……メローウ……メロメロ……

[Tenkyouin] メロウはアオイだろ。

[Anri] あ、なーんだ。

[Tenkyouin] スモールメロウの和名は“ハイアオイ”。“ナガエアオイ”とも云う。日本でもべつに珍しくない花だ。

[Anri] ルピナスもこういう綺麗な紫色なんだけど。違ったね。

[Anne Shirley] ルピナス茶がお望みなら、今度あたしが煎じてあげるのだわ、杏里。

[Anri] 美味しいの?

[Anne Shirley] ええ。心臓が麻痺するくらい。

[Anri] そんなに?

[Tenkyouin] だから毒だ。

[Soyeon] くぅぅー

[Narration] やがて、あらたに秘密のパーティーにふさわしくひめやかに扉が開かれる。

[Narration] 寝ついたニキに合わせ首を45度にかたむけた杏里が来客にほほえみかける。

[Anri] やあ、来たね。おふたりさん。

[Alma] ようこそ。いらっしゃいませ。

[Helena] 皆さん、もう就寝時間はとっくに過ぎてます!

[Chloe] とお怒りのブルリューカ嬢から差し入れがあるわよ。

[Helena] ……ええと、これ、皆さんで食べてね。

[Alma] まあ、蜂蜜のいい匂い!プリャニキですね。

[Narration] ヘレナはすまし顔で鼻を高くする。

[Helena] ええ!用意に手間取って、ちょっと遅れてしまったけれど。

[Alma] ありがとうございます。

[Helena] どういたしまして。カブリーシュカもあるのよ。

[Helena] ロシアの誇る超脂質高カロリー兵器を思い知りなさい。オホホホホ。

[Chloe] 私はお菓子じゃなくて、リルケを。

[Alma] 詩集ですか?

[Chloe] あとで朗読してあげるわ。眠たくなることうけあい。

[Alma] そんな。素敵です。

[Narration] ふたりのセカンドは、ほんの刹那、顔を見合わせると、すっと背筋を伸ばす。

[Chloe] 今夜は内密の夜宴にお招きあずかり、ありがとうございます。

[Helena] まことに光栄の至りと存じます。

[Narration] ふたりそろった優雅な会釈に一瞬、互いのパジャマ姿を忘れる。

[Narration] アルマの脳裏をニコルの助言がかすめる。

[Narration] 染みついた返礼の姿勢をとろうとする自分をどうにか抑えこむ。

[Alma] ど……どういたしましてクローエ様、ヘレナ様。

[Narration] 立ち上がって返礼するかわりアルマはポットを手にとった。できるだけ、自然に。

[Alma] どうぞ今夜は、そんなふうに、堅苦しくならないでください。

[Narration] 普段なら、礼法が服を着て歩いているようなアルマにそう言われ、ふたりの上級生はきょとんとなる。

[Anri] パジャマパーティなんだから。格式張るのはよくない。気持ちが大切だよ。うん。

[Helena] その気持ちをあらわすものが礼儀作法なんだけど……

[Chloe] 無礼講の授業では単位はもらえないわ。特にこの船では。

[Narration] 可愛らしいティーカップにポットをかたむけながら少女は言った。

[Alma] 礼儀の城の裏門には怠慢が住み着きやすい。相手を昨日とおなじ人間と思うことが、いちばんの礼儀知らず。

[Narration] ヘレナは小さく息をのむ。

[Narration] クローエは、まぶたを降ろして小さくうなずく。

[Narration] 湯気ののぼるカップをふたりに差し出し、アルマは微笑んだ。

[Alma] ……というのは、ニコルさんからの受け売りなのですけど。

[Alma] わたしも不慣れながらそうできればと。

[Narration] 二人はふたたび顔を見合わせ、ふっと表情をやわらがせた。

[Chloe] ……そうね。この乱雑ぶりにはふさわしいマナーではあるかも。

[Helena] 結局、いつもどおりね。

[Anne Shirley] 『うべなうべなー そーゆーことー』

[Narration] と、アンの持つマメカラが、ダックボイスでがなりたてる。

[Narration] ティーカップに指を添えヘレナは、あえて気取ってみせる。

[Helena] いいわ。私だって、今度淑女の皆さんにふさわしいパーティを用意してご招待するわ。

[Anri] ボクも呼んでくれるの?

[Helena] あなたのためよ、おもに!え……なに? 天京院さん?

[Tenkyouin] 頼む。替わってくれ。だるくてかなわん。

[Helena] あら、ソヨン?気持ちよさそうに。

[Narration] となりに腰を落としたヘレナが、夢みる少女の頬をつつく。

[Helena] いいですけど?ソヨンがダーといえば。

[Tenkyouin] む……聞いてるか!寝言でもいいから言ってみろ!

[Soyeon] にえっと。

[Tenkyouin] え?

[Soyeon] くーぅーぅー

[Narration] にぎわいを増した部屋のすみで、けげんそうにアルマがたずねる。

[Alma] クローエ様、あの……

[Chloe] ……いいえ?イライザは今日は見てない。

[Chloe] そんなに気にすることないわ。好きにやってるだろうから。

[Chloe] それとニコルなら、招待状を直接もらったわ。あとで顔を出す……と聞いたけど。

[Alma] そうですか。……よかった。

[Chloe] きっといつもの隠し場所に寄ってワインでも持ちこむつもりなんじゃない。

[Alma] あ、それはいかにもらしいですね。ふふっ。

[Chloe] …………

[Narration] クローエは後輩の微笑みに、どこか、ぎごちなさを感じたがつづく馬鹿さわぎの中に違和感を埋もれさせてしまった。

[Narration] そして、部屋の外では。

[Aisha] ……………………

[Narration] 念入りにめかし込んだアイーシャが扉の前で顔をこわばらせていた。

[P.S.] どうしました、レディ?

[P.S.] もう12時をまわりました。魔法の時間は終わりですよ。

[Aisha] …………!いえ、あの、これ、ちが───

[Bess] …………(涙)

[Narration] 水音が、ぱらぱらとぶつかり、はねまわりながら、円筒形の空間をのぼっていく。

[Narration] 夜の広場はしずけさに満ちて、ひとつひとつの音の粒子が目に見えるようだ。

[Narration] ここにもやはりニコルの姿はなかった。もういちど部屋にもどろうか。

[Narration] すると、噴水の向こうから、聞き慣れた足音が近づいてきた。

[Narration] こちらから駆けよると、相手はすこし意外そうな顔をした。

[Eliza] ……アルマ様の部屋を訪れている頃合では? みなさん。

[Narration] 少女の口調は、いつものきびきびとした調子でなく、どこかゆったりとしている。

[Narration] 足音にも、すこし浮かれるようなリズムが聞き取れた。

[Eliza] ……では違うのね。

[Narration] 少女が瞼を伏せる。洗濯ノリの匂いとはちがう、鮮烈な香り。

[Narration] ふう、と吐かれた息は、かすかに酒気を帯び、汗ばんでもいた。

[Narration] たたずむイライザの前にコローネは尻をつき身体を休める。

[Narration] と、少女はシノワズリーなパンプスをその場にぽんと脱ぎ捨てた。

[Eliza] さあ、イライザをごろうじあれ、観覧席のお客さま?

[Narration] そう告げると、大理石の噴水のふちに、猫のようにかろやかに飛び乗る。

[Narration] 背筋を伸ばし、つんと気取った笑みを浮かべる。

[Narration] すっと脚をふりあげ、大きく、一歩、二歩と、舞踏手のステップで、池に沿うゆるやかな弧を描いていく。

[Narration] そのステップは、足場の不確かさをまるで感じさせない見事なものだ。

[Narration] 青いゆらめきを身体に映しながら踊る少女を、うっとりと仰ぎ見て、コローネは追いかけた。

[Narration] 指先をウエストの前で向かい合わせ少女がターンすると、肩のストールが羽根のようにはためいた。

[Eliza] おっと……

[Narration] 噴水を一周したところでふいによろめく。

[Collone] オン!

[Narration] 慌てて池にかけよると、少女はしなやかに身体をひねって、水面に身をおどらせた。

[Narration] 冬の星々が舞い降りたような細かな水しぶきがあがる。

[Collone] …………オゥ?

[Narration] 何事もなかったように少女は池に立っていた。

[Narration] 頭からかぶった水をぶるぶると振り飛ばす。そんなこちらを見ながら少女が笑う。

[Narration] 水盆からこぼれる細流に気持ちよさそうに手をかざす。

[Eliza] ……あはっ……冷た……

[Narration] その開放的な気分が伝わる。

[Narration] コローネもつい、ニコルを捜していたことを忘れてしまいそうになる。

[Narration] 噴水のふちに腰をおろした少女が吹き抜けをふり仰げば、真円の星空。

[Narration] コローネは水音と混じりあうつぶやきを聞き取った。

[Eliza] 明日の私と、今日の私はたぶん同じ私。

[Eliza] 来週の私と、今日の私は……どこかすこし違っているはず。

[Eliza] 一月後、半年後、幾年かが過ぎ去れば、きっとその時、私はここにはいない。

[Eliza] 楽しみましょう、今日を。うつろいゆく今を。

[Eliza] この胸に高ぶる情熱のままに……

[Narration] しっとりとした夜ふけを演出すると思われたクローエの朗読は、アンの特製“香”の猛威に、一時中断となった。

[Narration] 部屋のあるじのアルマと、飛び入り参加したベスは立ちこめた毒ガスの換気に大わらわになっている。

[Soyeon] ……く……っ…(ピクピク)……くくっ……(ピクピク)

[Narration] ソヨンはうなされつつもげっそりとした天京院にしぶとくしがみついていた。

[Narration] せき込むヘレナがふと見れば、杏里はまるで平気な顔だ。

[Helena] (慣れてるし……)

[Narration] 不満そうに尋ねる。

[Helena] ……また手ぶら? あなた。

[Narration] 杏里はきょとんとヘレナを見返した。そして自分を指差す。

[Anri] ああ、手みやげのこと?

[Anri] やだなあ、ヘレナ。ボク自身というこのうえないギフトが……

[Narration] 聞き飽きたとばかりに嘆息するヘレナに、杏里は小首をかしげてみせる。

[Anri] あれ? へんだな。ベッドなら、いつも喜んで───

[Narration] 真っ赤になって杏里の口を押さえるとニキの頭がごとんと落ちた。

[Narration] あわてて、ふたりそろそろと元の位置に戻す。

[Anri] ……というのは冗談で、ちょっとしたおみやげを持ってきた。

[Helena] ……なんと……

[Narration] 人心地つき皆がクッションに戻った頃合いを見計らって、杏里は切り出した。

[Anri] これは、ちょっとした記念の品なんだ。

[Narration] 布袋から、芝居がかったしぐさで1枚の長方形の紙片をとりだす。

[Anri] ドライフラワーを使った“しおり”を作ってみたんだ。

[Anri] この夜をいつまでも思い出の狭間に留めよう……って。

[Chloe] 用意がいいわね。杏里にしては。

[Anri] ……あはは、実を言えば乾燥させたまますっかり忘れてて。

[Narration] 杏里は見えないアイロンを空中で往復させる。

[Anri] 今夜の招待状がなければ、パサパサになっちゃうところだったよ。うん。

[Anri] クローエが読んでくれたのも、花の都フィレンツェを謳った詩だったし、今夜はなんだか、花づくしだね。

[Narration] すでに手に取ったしおりは寝間着のポケットにもどして、杏里は、また別のしおりを袋から取り出した。

[Narration] 紙片にならべられた真っ白な花弁は、その大小の組み合わせで、斜めから見た大輪の花を、うまくかたちづくっている。

[Anri] うん。これはヘレナ。

[Narration] 長い指の先につまんだしおりをヘレナに差し出す。

[Narration] それは皆の目の前で、摘みとったばかりの花のように輝いた。

[Anri] ヘレナは

“アネモネ”

[Helena] あら、全員異なってるの?

[Anri] ウイ。

[Anri] アネモネの花言葉はね───

[Chloe] “期待”

[Narration] 視線がクローエに集い、杏里が頷く。

[Narration] ヘレナは贈られた言葉の意味と意図に複雑な表情を浮かべ、赤面したがそれでも大切そうにプレゼントを受け取った。

[Narration] また杏里は手元の袋に指をのばす。

[Anri] これは……クローエ。

[Anri] はい。クローエは

“ローズマリー”

[Anri] 花言葉は?

[Chloe] ……わ……

“私を思って”

……

[Narration] 今度はクローエがゆっくりと赤くなった。

[Narration] にやつくアンシャーリーがクローエのかかとをくすぐる。

[Anne Shirley] まあ、なんてぴったりなんでしょう……げぶっ……!

[Anne Shirley] ををををを……おんし……本気で蹴りよったばい……

[Chloe] …………

[Alma] ……アンさん? アンさん?

[Narration] 白目をむいてぐったりしたアンをアルマが揺り起こす。

[Anri] えーと、イライザは自主欠席なので、今度あげよう。

[Anri] えーと……あ、これは。ハイ、かなえさん。

[Narration] 天京院は、紙片に押された白銀色の小さな花をいぶかしげに見た。

[Tenkyouin] ……

白妙菊(シロタエギク)

か?

[Anri] うん。さすがだね。

[Anri] じゃ、花言葉は?

[Tenkyouin] 知らん、そんなもんは。

[Tenkyouin] 花言葉なんて商業主義が生んだ幻想だ。迷信だ。

[Anri] 夢がないなあ、かなえさんは。

[Anri] ハイアオイを知ってるのに、白妙菊の花言葉を知らないの?

[Tenkyouin] ほっとけ!

[Chloe] 白妙菊の花言葉は、

“あなたを支える”

[Alma] まあ、素敵です。

[Helena] ……そう……かしら。

[Anne Shirley] ……報われないかんじ。

[Anri] そっか……じゃあ、やっぱりいらない?

[Tenkyouin] 要るよ!

[Narration] 天京院は、袋に戻しかけた杏里の手からしおりを奪い取った。

[Anri] ワオ。

[Anri] いつも、字の細かい、漬け物石みたいな本ばかり読んでるんだから。

[Anri] これで、ときどき目を休めて。ね?

[Tenkyouin] ……ああ。

[Anri] それから……一部お休みになられているお姫様たち。

[Anri] これはアンシャーリー、きみだ。大丈夫?

[Anne Shirley] ぐー。

[Anne Shirley] むにゅむにゅ……私の花は“ラフレシア”花言葉は“俺の愛で溶けろ!”

[Anri] 残念。ちょっとちがう。

[Anri] アンにあげるのは

“ネリネ”

花言葉は

“幸せな思い出”

[Anri] いかが?

[Anne Shirley] わるくないわ。球根は食べられます。

[Helena] 無毒なら食べていいわけじゃないでしょ。

[Chloe] ネリネの花言葉は

“箱入り娘”

のほうが一般的では。

[Narration] と、ひかえめにクローエが告げても、杏里はマイペースだ。

[Anri] それはイギリス式。ボクのは世界いろいろ取り混ぜたアンリエット式。

[Tenkyouin] ますますオカルトだな。

[Anri] フフッ。

[Narration] 調子にのって、杏里は袋に残ったしおりを数える。

[Anri] どーれーにーしーよーおーかーなーかーなーえーさーんーのー

[Anri] ウン。これはニキの。

[Anri] ニキは

“ラークスパー”

またの名を、ひえん草。

[Anri] 花言葉は

“自由”

[Narration] 夢心地の少女の胸元に、そっとしおりを添える。

[Chloe] こんな言葉もあるわ、

“私の心を読んでください”

[Narration] 感心したヘレナが首を揺らす。

[Helena] 考えてるじゃない。

[Anri] いや?ぜんぜん悩まなかったよ。

[Anri] それから……っと、この綺麗な青い花は、ソヨン。

[Anri] はい、どうぞ。

[Narration] やはり寝息をたてる少女の髪に青い花が咲いた。

[Anri] ソヨンは

“ムクゲ”

。花言葉は

“デリケートな愛”

だよ?

[Tenkyouin] 叩いても揺すっても起きないデリケート……

[Anri] 繊細さと強さは、ぜんぜん違うものさ。

[Tenkyouin] ああ、はいはい。

[Soyeon] くぅー

[Anri] あと数枚。……うん。

[Anri] この小さくて可愛い花は、アルマ。キミだ。

[Alma] “エーデルワイス”

ですか?まあ……大好きな花です。

[Anri] よかった。

[Anri] とても愛らしい花だけど、その花言葉は意外にも

“気高く毅然とした勇気”

[Anri] これほどキミに似合う花があるだろうか! いや無い!

[Anri] ハイ。今夜はお招きありがとう。

[Narration] アルマは受け取った花のしおりを誇らしげに胸に抱いた。

[Narration] ここで杏里は袋をのぞきながらがっくりと肩を落とす。

[Anri] え〜……ベスにもたらされた情報によればアイーシャは、ううっ……

[Anri] ボクらのオトリに……もとい

[Anri] 巡回中のPSの魔の手にかかり連行されてしまったそうだから……これも今度に……うう……

[Narration] 看取ったベスも涙ぐみ、部屋はお通夜のようにしめっぽくなる。

[Chloe] 花言葉が“いけにえ”ってあったかしら……

[Anri] 失敬だな、キミたちは!そんな面白フラワーは世界にひとつだけでいいよ!どれもみんな綺麗だな!

[Tenkyouin] あるのか?

[Anne Shirley] 杏里? ルネのぶんは?

[Anne Shirley] 今夜はあんのじょういないけど。

[Anri] 忘れてた。というか、もう花が品切れ。

[Chloe] あの子、どのみちマンガ以外は読まないわ。図書館でも、もっぱら端末をいじってばかりだったし。

[Anri] なの?ボクと一緒だ。

[Anri] じゃあ、彼女にぴったりの“ビショージョゲーム”を見つくろてあげよっかな?

[Anne Shirley] どんな?

[Anri] 中世触手純愛ものとか───

[Helena] やめなさい。

[Bess] ………………

[Narration] 杏里は袋を口にくわえて腕組みする。

[Anri] ふむ。あとひとつなんだけど……

[Alma] ………………

[Helena] そうすると最後は……あら?

[Helena] ちょっと待って。ニコルなの?

[Tenkyouin] ついに来なかったな。

[Anri] 今夜は、アルマとニコルのふたりの主催と思ってた。

[Anne Shirley] またあてがはずれたわね、杏里。

[Narration] 肩をすくめる杏里を、何のことやらと天京院は横目で見る。

[Alma] あの……杏里様?

[Narration] ためらいがちに切り出すアルマに杏里はきょとんと顔を向けた。

[Alma] あの、ニコルさんには、今夜のパーティの相談にのっていただきましたけれど。

[Anri] うん。

[Alma] 今夜は、ほかに用事があると、おっしゃって……

[Narration] 杏里は寂しそうに笑った。

[Anri] ……そっか。それじゃ仕方ないよね?

[Anri] これが最後のパーティってわけじゃなし。また今度。うん。

[Narration] 苦笑いする杏里に、アルマもすまなげに微笑み返す。

[Alma] ええ、ぜひ。

[Narration] 杏里とアンシャーリーは早くも次のパーティについて突飛なアイデアを述べあっている。

[Narration] ふたりを眺めるアルマの視線はきまり悪そうに逸れていった。

[Narration] そんなアルマの背後で、それとなくクローエがつぶやく。

[Chloe] ……あなたが、そんなに気を遣うことないわ。

[Narration] 壁に背もたれたクローエは、手に取った蔵書をめくりながら、独り言のごとのように、そう言った。

[Alma] …………

[Narration] アルマは揺れる瞳を起こす。

[Narration] その目前で、ヘレナもまた肩をすくませていた。

[Helena] そうよ。あの子のことだから、すっぽかしたんでしょう?いつもの気まぐれね。

[Helena] 時間があてにならないのは、誰かさんと一緒なんだから。まったく。

[Narration] やれやれと両手をひらくヘレナに杏里はむくれる。

[Anri] むむう。なんだよう。

[Helena] 怒りなさい? アルマさん。

[Alma] あの、でも本当に……

[Helena] 顔も見せないなんて!ふたりで考えたパーティでしょう。きつく言ってやって当然よ。

[Helena] 喜びを分かち合わずに、何のための友達なの?

[Alma] …………

[Narration] 返す言葉がないアルマの前に、杏里がとりなしに入る。

[Anri] まあまあ、ヘレナ。アルマだって残念なんだよ。

[Narration] そんなのわかって……と応じかけ、ヘレナもハッと身をひく。

[Helena] あら……そんなつもりじゃ……

[Helena] そうね。アルマさんに辛くするみたいになってしまって……ごめんなさい。

[Narration] 平謝りするヘレナにアルマは笑顔で首を振った。

[Narration] クローエは本に目を落としたまま、小さく息を吐いた。

[Narration] 夜は更け、訪客たちは礼を告げ、いくばくかの睡眠のために戻っていった。

[Anri] なんだい、アルマ?

[Narration] 別れぎわ、杏里に機先を制され、アルマはめんくらった。まだ発してもいない心の声が聞こえたかのように。

[Alma] あの、よろしければ……

[Narration] 杏里は、ちょっと思案げな顔をしてから、その提案を請け合った。

うたげのあとに……

杏里たちを見送る。

天京院たちを見送る。

[Narration] 彼女たちは、二組に別れ各自の部屋へと向かった。

[Narration] ニキを背負う杏里。そのあとからアンシャーリーと、ベスがつきそう。

[Anne Shirley] 結局、ほとんど寝てたわね。

[Narration] ニキの寝顔をのぞき込むアン。

[Narration] 杏里は首をめぐらせて、ささやきかけた。

[Anri] 途中からは起きてたよね?

[Niki] ………………

[Narration] 眠っているはずのニキの頬はゆっくり赤くなり、ごそごそと反対向きになる。

[Anne Shirley] あらあ。ネタフリャーですか。

[Narration] くすくす笑うアン。

[Anri] ベス?ちょっと頼むよ。

[Narration] 手のふさがった杏里が、胸のポケットを視線で示す。ベスが中身を取り出す。

[Narration] それは、先ほどのしおりだった。

[Narration] どぎまぎするベスに、杏里はうなずく。

[Anri] そう、あなたに贈るぶん。ちょっと急ごしらえだけど。

[Anri] アルマから、残ったハイアオイの花を分けてもらったんだ。

[Narration] 目を見張るベスの手に、青紫の小さな花が咲く。

[Anri] ボクはちゃんと知ってるよ。

ハイアオイ

の花言葉は

“優しさ”

[Bess] ………………

[Narration] 一瞬、足がとまり廊下にとりのこされたベスはあわてて追いすがる。

[Anri] イライザのよき友人でいてあげてね。ベス。

[Narration] 小柄なメイドは赤面しながらも真顔でしきりに頷いた。

[Narration] 彼女たちは、二組に別れ各自の部屋へと向かった。

[Helena] あのニコルがパーティーに現れず、私のほうが就寝規則を破っているなんて……

[Tenkyouin] それが本音か。

[Chloe] じっさい、珍しいわね。

[Narration] 熟睡中のソヨンを腕に抱えるクローエが同意する。

[Tenkyouin] なのか?

[Helena] いつもなら、それはもう大騒ぎで───

[Helena] マンジャーレ!(食べて!)

[Chloe] カンターレ!(歌って!)

[Narration] ばっと二人が天京院を振り向く。

[Tenkyouin] ば……バッラーレ。

[Helena] ……なんて上機嫌ではりあげてるころなのに。

[Narration] うん、とクローエも頷く。

[Narration] つまらなさげに天京院がもらす。

[Tenkyouin] 一人でいたい。それだけだろ。放っといてやればいい。

[Narration] クローエはひややかな目で天京院をうかがった。

[Chloe] ……本気で?

[Tenkyouin] いけないのか。

[Chloe] いえ、何も。

[Chloe] ただ、寂しいだけ。

[Tenkyouin] …………

[Narration] ソヨンの部屋に立ち寄り少女をベッドに放り込む。

[Narration] 去りぎわ、ふとヘレナがたずねる。

[Helena] ……もしかしてクローエは、すぐ朝のトレーニング?

[Chloe] まさか。

[Narration] 肩をすくめたクローエが壁の時計をちらりと見る。

[Chloe] 1時間くらいは寝るわ。

[Tenkyouin] うへぇ……

[Narration] ───明け方。

[Narration] メイド達であればとうに持ち場へおもむき、早ければ生徒でもそろそろ身支度を始めるころ。

[Narration] アルマの部屋の扉が音もなく押し開けられ、ひょっこりと闖入者が顔を出す。

[Nicolle] (おはよーございます……)

[Nicolle] (やー…… きれいに片づいてら……)

[Narration] パーティは無事済んだらしい。人気のなくなった朝の室内は冷えきっていた。

[Narration] 玄関につづく部屋にはだれの姿もない。アルマもさすがに寝室だろう。

[Narration] そのまま壁づたいに、そろそろ隣室へ移動してみる。

[Narration] と、そこにはちいさなテーブルの脇に立ちつくす金髪の少女の姿があった。

[Narration] ぎょっとしてニコルは口に手をやる。

[Narration] 意味もなく観葉植物にかくれる自分の影がながく伸び、怪物然としてアルマの足もとに落ちる。

[Narration] 気づかないわけはない。が、少女は黙ったままだった。

[Narration] 動悸はますます高まる。

[Narration] 息詰まる沈黙がつづき、観念してニコルは切り出した。

[Nicolle] あ、アァ、アルマ?

[Narration] ひっくりかえった声も、緊張をやらわげる役に立たない。どうにか唾を飲み込み続ける。

[Nicolle] あ、あのさ……

[Nicolle] いまさら謝ってもあとの祭りっつーか、アフターカーニバルとゆーかええとその……

[Narration] 身体を前に折り曲げ、ニコルはしどろもどろに弁解する。

[Narration] アルマはみじろぎもしない。

[Narration] おそるおそる首をひねり、前髪のあいだから相手の表情をうかがった。

[Narration] 窓と逆光のアルマの表情は、硬くて、ただ、つらそうで、

[Narration] 今にもさめざめと泣き出すのか、怒りあらわにまくしたてるのか、わからない。

[Narration] すがめた目でうつむき、唇を噛みしめていた。

[Narration] そんなアルマの苦痛が、ニコルにも伝わる。

[Nicolle] …………ご……ごめ……

[Narration] 苦しさに言葉が途切れる。

[Narration] ひとかけらの心もこもらない言葉なら、憎まれるほうがよほど───

[Narration] そう自省するニコルの指をひんやりとした掌が包んだ。

[Nicolle] …………

[Narration] どうにか顔を起こすと、アルマがうなずき、微笑んだ。いつものおだやかな彼女だった。

[Alma] ニコルさん。

[Alma] もう夜は、明けてしまいましたけれど……もういちど、お茶もあたためないといけませんけれど……

[Alma] たったふたりでも、いいですよね。パーティをしましょう?

[Nicolle] ………………

[Narration] 指先はどんどん熱くなった。

[Narration] 相手の体温なのか自分のほてりなのかわからない。

[Narration] 手を触れ合わせたまま、微笑みながらアルマが語る。

[Alma] ……ヘレナ様やクローエ様は、怒りなさいとおっしゃられます。

[Alma] そうあるべきなんだと思います。きっと。けれど、できないんです……

[Alma] 本当の友人であれば、怒って当然なのに…………できないんです。

[Alma] 私、ニコルさんに嫌われるのが怖いんです。きっと。

[Narration] アルマの指にぐっと力がこもる。

[Alma] だったら……っ……こんなの、友情ではありませんよね?ただの下心ですよね?

[Alma] これじゃあ私は、ニコルさんの親友になんてなれませんよね……?

[Narration] ほほに、細く光の筋が流れた。

[Narration] ニコルの視線はぼんやりと、アルマの涙のあとを追った。

[Narration] ぎごちなく指がほどけ、離れていく。

[Narration] 小さくすすりあげたアルマは恥ずかしそうに笑って、引き出しから大切そうに何かを取りだした。

[Alma] これ、杏里様からおあずかりしたんです。

[Nicolle] 杏里から……

[Narration] その名を耳にして、思わずニコルは身をすくませた。

[Alma] 手作りの花のしおり。杏里様のプレゼントなんです。どうぞ。

[Narration] 受け取ったニコルの手に、鮮やかなオレンジの花が咲いた。

[Alma] マリーゴールド。

[Alma] 綺麗で、明るくてニコルさんにぴったりだと思います。

[Narration] アルマははにかんだ。

[Narration] ニコルはうつむき手の中にじっと視線をそそぐ。

[Narration] 朝日を受けて輝く花にぽつりぽつりとしずくが落ちて、震えた。

[Alma] ニコル……さん?

[Narration] 心配げにアルマがのぞきこむ。ぞろながい前髪の下で少女はつぶやいた。

[Nicolle] ……そんなことないよ。

[Narration] 引きもどすように、今度はニコルの手が伸び、アルマの手がにぎりしめられた。強く。

[Nicolle] そんなことない。

[Narration] ニコルの腕にアルマはしっかりと抱きとめられる。

[Narration] 金色の髪がうずまく肩に、頬をうずめてニコルは言った。

[Nicolle] あんたは最高の友達だ、アルマ。親友にしてほしいのはこっちのほうさ。

[Alma] ……ニコルさん……

[Narration] アルマは熱い涙をあふれさせてニコルの小柄な身体を抱き返した。

[Nicolle] ごめん、嘘、ついて。

[Alma] ……いえ……

[Narration] 重なり合った頬が揺れる。呼吸に上下する胸を感じる。

[Narration] 抱擁のぬくもりにひたるアルマは、やがて変化に気づく。

[Narration] その身体は炎のように熱い、のに、凍えるように震えている。

[Nicolle] ……っ……うっ……

[Narration] 乱れた吐息が声になって漏れると堰を切ったように、ニコルはいっそう激しく身体を震わせた。

[Nicolle] ……ふ……うっ…………ふぅっ……うぐっ……

[Nicolle] う……うぁぁ……ああ……ああああ……

[Narration] 嗚咽するニコルを抱いたまま、アルマはじっと、待ち続ける。

[Narration] その憂いのまなざしは、力強く、まっすぐなものに変わっていく。

[Narration] くずおれ、その場にしゃがみこんだニコルを、膝立ちで支える。

[Narration] 溺れたかのように、ニコルがうめく。

[Nicolle] ……っ……アルマ……あたし……どうしたら……わかん……ない……

[Nicolle] やだよ……やっぱり……だめ……

[Narration] しゃくりあげ、ちぢこまって顔を覆ってしまう腕を、安堵させるように語りかけながら幾度も開いては、深く抱きよせる。

[Narration] やがて、泣き疲れてぐったりしたニコルにアルマは静かに語りかけた。

[Alma] 話してください。ニコルさんの力になりたい。

[Alma] いっしょなら、傷ついても平気です。

[Narration] 歯をくいしばってニコルはうなずいた。

[Narration] 薄日のくぐる朝の部屋に、吐息がかすみ、とぎれとぎれに打ちあける、少女の声が響く。

[Narration] 忘れられたようにフロアに落ちた、一枚のしおり。

[Narration] マリーゴールドの花言葉

  ───それは

“可憐な愛情”

アンシャー・リーに……

聞いてみる。

直撃よ!

サヨウナラ。

頬寄せて。

花束をあげてください。

[Narration] 試験前週間となると、はやめに授業が切り上げられるのは、ここポーラースターも同じだ。

[Narration] すぐさま個室にとじこもって日頃の遅れをとりもどそうとする者。

[Narration] その反対に、あいた時間を普段以上に優雅に過ごし、ゆったりと心身を休ませる者。

[Narration] それが余裕のなせるわざか、あきらめの境地かは、いざしらず。

[Narration] まあそれはともかく───

[Narration] サウナフロアはひたすらに広大であたかもタヒチやバリのリゾートをおもわせる楽園だ。

[Narration] フロア中央には不規則にヴィラ(別荘)が建つ。中身はもちろん大小のサウナ室。

[Narration] 建物をぐるりとかこむ椰子の木の小道をくぐり抜ければ、また別世界になる。

[Narration] ガラス張りの採光ドームに覆われた、ヒョウタン型のプールと、スカイブルーの水面。

[Narration] そしてもう一方には、調光設備の整った、扇形の人工のビーチが広がっていた。

[Narration] クローエとヘレナのふたりに誘われ、ソヨンは、はじめて濡れた砂を足の指のあいだで掴めるところまでやってきた。

[Narration] 人工の渚とはいえ、本物と同じ潮騒の音は、ソヨンの首筋をぞくりとさせる。

[Narration] でもなんとかなる。思ったほどじゃない。大丈夫。

[Narration] それよりも問題なのは、身にまとうものの一切無いこの、心もとなさだった。

[Narration] 半球状のスクリーンに照り返され、ビーチは一面、夕焼けに染められている。

[Narration] 波打ち際には、先客が優雅にねそべり、ほてった身体をさましていた

[Narration] 前をいく二人の先輩は、裸身をつつみかくすことなく、堂々とその場に腰をおろす。

[Soyeon] …………う。

[Narration] 貧相な自分のスタイルなど、誰も気にかけない、とわかりきっていたが、それでもソヨンは、こそこそと一団の端に尻をついた。

[Narration] 似たように落ち着かなくしていたアイーシャと、ふと目が合い、小さく頭を下げる。

[Narration] ……彼女も同年齢とはとても思えない。

[Anri] やあ、みんなも来たんだ。

[Narration] あご肘をついて寝そべる杏里がのんびりと挨拶した。

[Anri] やっぱ半どんの日はここにかぎるよねー。

[Anri] プールじゃ冬場は冷たすぎるし。うーん、いい気持ち。

[Aisha] はんどんって?

[Anri] 日曜日以外ぜんぶ。ボクの場合。

[Aisha] だったら日曜は?

[Anri] どんどん?

[Narration] 杏里はむにゃむにゃいいながら渚に身体を広げた。

[Narration] しっとりとした長髪をかきあげ、両目を細めてヘレナが言った。

[Helena] 誰の後ろ姿かと思ったら……

[Narration] 引き締まった肉体を見せつけ、少女がほほえむ。

[Eliza] 飲み物をお持ちしましょうか?

[Helena] ……やめてよ。

[Eliza] 昨晩はいかがでした?

[Narration] 砂浜にいくつも三角形を描いていたソヨンも顔をあげる。

[Narration] 期待を察してヘレナは昨晩のパーティの欠席者たち(と寝てた者)に子細を語ってきかせた。

[Narration] ときどきクローエが冗談ともつかぬ合いの手を挟みヘレナやソヨンを戸惑わせ、おだやかな笑いを呼んだ。

[Narration] イライザも、ひかえめながら冴えたユーモアで調子を合わせる。

[Narration] ヘレナが赤くなる。杏里がくつくつと笑う。

[Narration] 耳を傾けるばかりのソヨンには、くつろぐイライザの姿がまったくの別人に感じられた。

[Narration] なのに、杏里はともかく、ヘレナやクローエのふたりまでが、平然と接しているのは驚きだった。

[Narration] たしかに元は級友だった。でも、立場の異なる今、ぎごちないやりとりになるものなのでは?

[Narration] が、波打ち際にただようのは、季節を連れ添った少女たちの、親しく通じ合った空気だった。

[Narration] うちとけた和やかな時間。そばにいるだけで心地よく暖かい。

[Anri] …………すぅ……すぅ……

[Narration] やがて、杏里が寝息を立てだしたころ、待ちかねていたように、ヘレナは声をひそめて告げた。

[Helena] ……ミシェルが現れたわ。今年も。

[Narration] ぎょっとしてクローエが首を起こす。

[Eliza] あら、それは深刻ですね。

[Chloe] ぜんぜん楽しそうだわ。

[Chloe] わたしは正直ごめんこうむる。

[Helena] そうは言っても───

[Soyeon] あの、ミシェ……ルさんて?

[Narration] 聞かない名前だった。

[Narration] ソヨンは思わず身をのりだして、すぐに自分の格好を思いだし赤くなる。

[Narration] 興味があるのはアイーシャも同じだった。

[Aisha] セカンドクラスの……転入生ですか?

[Narration] 首を振りながらクローエはため息をつく。

[Chloe] いいから気にしないで……とわたしが望んだところで、無意味ね。

[Helena] ええそうよ。時間の問題よ。ニコルとはもう顔を合わせているし。

[Aisha] …………

[Narration] その時、アイーシャには、熟睡中の杏里の寝顔が、一瞬ふっと曇ったように思えた。

[Narration] 悪夢を祓うように、そっと頬に手をそえる。

[Eliza] 私が引き取りましょうか。

[Chloe] そうして。

[Helena] だめよ。せっかくの休暇中なのに。私たち全員でことにあたるべきだわ。

[Chloe] 共産主義の亡霊がいるわ。

[Helena] 何か言った。

[Narration] どさりと頭を投げ出してふてくされるクローエに失笑しながら、ソヨンも追求をゆるめない。

[Soyeon] ここまで話しておいて、秘密のまま終わらせるなんて、ずるいですよ。

[Soyeon] 転入生なんですね?

[Narration] やはり失敗だったというふうにヘレナは眉をひそめた。

[Helena] そうではないけど、たしかに私達の級友にはちがいないわ。

[Soyeon] ……んん?やっぱりよく……

[Aisha] そのお話、杏里に伝えなくても?

[Helena] ……えっと……

[Chloe] …………

[Narration] 困惑した様子にイライザがさりげなく口添える。

[Eliza] 残念ながら、杏里様では手に負えないでしょうね。

[Soyeon] ……そうなんですか?

[Soyeon] ふうむふむ。クローエ先輩にも恐れられ、杏里さんにまで手に負えない相手とは……ふむむ……

[Narration] ますますソヨンは首をひねる。

[Chloe] ……大丈夫よ。心配しなくても。寝る子は育つから。

[Soyeon] だといいんですけど……兄様たちは二人とも長身なのに……

[Soyeon] ───ってぜんぜん関係ないですよ!

[Narration] ところで、彼女たちは知らなかった。

[Narration] すっかり貸し切りのつもりだったビーチにもう一人、客が紛れていたことを。

[Narration] 彼女たちから離れた場所に、さざ波の波頭にまぎれ、褐色の大の字がぷかぷか浮いている。

[Renee] (……なにあれ。エアバッグ?)

[Renee] (にしてもソヨンはホンっト、 おっチビだよ。アハハハハハー)

[Renee] (………………)

[Renee] (……で、なぁに、ミシェル? そんなの生徒名簿になかったじゃん。 誰よ。それ)

[Narration]    でーれ

[Renee] (ふん……ま、どうせ、 ろくな隠しごとじゃないよね)

[Renee] (ちょっと学園のネットに 潜ってみれば、すぐに───)

[Narration]    でーれ

[Narration]    でーれでーれ    でーれでーれ♪

[Narration] ジョン・ウィリアムズ作曲の怪フレーズとともに潜行してくる不気味な背びれ。

[Renee] (きっとなんか弱みっぽいのが あるに違いな………?)

[Renee] …………ッ……!!!

[Narration] ざざざざと青白いサメの鼻面が迫り、恐怖にこわばるルネの尻を勢いよく突きあげ、ひっくり返す。

[Anne Shirley] U・S・J! U・S・J!ユニヴァーサル・スタジオ!

[Narration] ザッパーン! と、頭から大波をあびせかけられむせかえる。

[Renee] ひゃうわッ!? げほげほっちょやめ助けがぼがぼぼぼ───

[Anne Shirley] 独〜り〜ジョ〜ズと〜呼ばない〜で〜♪

[Narration] ふと、ソヨンが波間に目をやる。

[Soyeon] ……あれっ?いま、誰か溺れてませんでした?

[Narration] そちらに目も向けず、瞼を降ろしたままクローエが応える。

[Chloe] この海に足が立たない場所なんてないけれど。……まだ怖い?

[Soyeon] す、すこし。ちょっとだけ。

[Narration] ソヨンが目をこらしても水面にはもう誰もいない。

[Soyeon] ……気のせいかな……?

[Soyeon] でも、とってもいい場所です。またご一緒させてください。

[Chloe] そうね…………あふ……

[Chloe] わたしも眠くなってきたわ。ソヨン、部屋まで頼むわね……

[Soyeon] えっ。

[Helena] では私も。ふぅ……くたっ。

[Soyeon] ええっ。あっ、イライザさんまで!

[Narration] 助けを求めてソヨンが見回すと、もうアイーシャはいなかった。

[Narration] 上級生の大教室に突き当たる、背の高い回廊。

[Narration] その脇の階段、大きく波うつアールヌーボー装飾の手すりに、少女は足をぶらつかせながら乗っていた。

[Narration] とおりがかるサードたちが、ひまそうな少女を見つけてはめずらしがり、あけすけに語りかける。

[Narration] 少女が、バイザー型のHMD(ヘッド・マウント・ディスプレイ)のあいだから、おずおずと童顔をのぞかせる。

[Narration] 二言三言、はにかみながら、申し訳程度に言葉を交わす。

[Narration] しかし、そのまま会話はとだえて、少女の視線は、落ち着かなげに、HMDに戻ってしまう。

[Narration] サードたちもまたそれ以上は興味を持たずその場を離れていった。

[Narration] やがて、待ち人は少女の前をそのまま通り過ぎた。しばらくしてから気づいた少女が小走りに追いかけてきた。

[Renee] 待っ───遅いよ!

[Narration] カリヨン広場へむかう長身の女生徒が歩幅をゆるめて、ようやくその横に並んだ。

[Isolde] 待っていろとは言わなかったが。

[Renee] ハァハァ……何してたの?

[Renee] 居残り勉強?夕ごはん何にする?それとさ、ミシェルって誰?

[Isolde] …………フゥ。

[Narration] ため息をついてイゾルデが答える。

[Isolde] サードの試験は、下級生ほど真剣なものじゃない。選択科目は、午後もふつうにおこなわれる。

[Isolde] おそく出てきたのは、顔見知りの教師と世間話をしていただけだ。

[Renee] へぇ。

[Isolde] ディナーなら今夜はトルコ料理店のシェフの招待に応じるつもりだ。

[Renee] トルコ料理!……ってどんなの?

[Isolde] すこぶる美味だ。

[Renee] わ。

[Renee] やっぱ、ヘルスィーでスパイスィーなかんじ?

[Isolde] そんなところだ。シェフ自身はムスリムだが、カシュルート(ユダヤ教の食事の決まり)の知識もある。

[Renee] 行く行く! やったあ!エイオーケイ!

[Isolde] それはよかった。じつは前もって特別メニューを用意させてある。

[Isolde] ピーマンのドルマ。ナスの揚げ物。ニンジンと根セロリの冷製。

[Isolde] 極めつけはアスパラガスのソテーだ。きっと気に入るだろう。

[Renee] ……げっ……げげっ……大嫌いなの知ってて……!

[Isolde] フッ……だが、神に禁じられた食物というわけではないだろう。

[Isolde] お前の血肉となるよう、祝福されたものばかりじゃないか?

[Renee] うっ……ううー

[Isolde] 御父君も、おまえの偏食ぶりには嘆いていらしたからな。

[Isolde] まあ、むしろ私としては食の喜びを知らず、合成菓子ばかり口に入れているのがあわれでな。

[Narration] くっく、とイゾルデが含み笑う。

[Renee] ひ……ひどっ……あたしよりイジワルだ……

[Narration] しかしだから行かないとはルネは言い出さなかった。

[Narration] むくれたままイゾルデのあとについてカリヨン広場に出ると、エレベーターで甲板にあがる。

[Narration] あいかわらず船の緯度は高く、夕刻ながらも、まだ太陽は高かった。

[Narration] 庭園を通って、現在南に面している左舷ポートサイドへとむかう。

[Narration] 購買部通りをかすめて、天蓋のないサンデッキへと出る。

[Narration] 船尾方向には、淡いすみれ色に染まりはじめた見事な北大西洋の眺めがひろがった。

[Narration] そのまま甲板を進んでいくと、ちょんちょん跳ね歩くウミスズメの群れが、いっせいに飛びたった。

[Narration] 駆けだし、残る数羽のカモメを追いかけまわすルネが振り返る。

[Renee] あっ、そうだよ!ミシェルって誰なの?

[Isolde] 聖人か、それとも芸能人のか。

[Renee] この学園のだってば。んー、たぶんセカンド。

[Isolde] ああ……あれか。

[Narration] イゾルデは口元に指をそえて記憶をたぐる。

[Isolde] ただの幽霊だ。

[Renee] えっ! 幽霊! ユーレイッ!?

[Narration] ルネがぎくしゃくと硬直する。

[Isolde] そう。幽霊。

[Renee] ……なにそれ。

[Isolde] まあ、怪談話のたぐいだ。私も詳しくはない。小耳に挟んだだけだ。

[Isolde] ここもいちおう、寄宿学校だ。べつに珍しくもなかろう。

[Isolde] ほかにも、いわくカリヨンゴーストやら、いわく最下層で鎖に繋がれた令嬢やら。枚挙にいとまがない。

[Isolde] ……どうした。

[Narration] いつのまにか、ルネはイゾルデのそばで、ぐっと首をすくめ、手すりにかじりついていた。

[Isolde] 怖いのか?

[Isolde] 亡霊や怪物ならビデオゲームでおなじみだろう?

[Narration] と、たずねると、ルネは唇をとがらし、今日、身に起こった出来事を聞かせた。

[Isolde] サメに襲われた? サウナでか?

[Isolde] ほう。それは災難だったな。

[Renee] …………

[Renee] なに。その言い方。

[Narration] きつくにらみ返しますます唇をとがらせる。

[Isolde] よもや私が、その冗談を真にうけるなどと、おまえも信じていないだろう。

[Renee] ……そっ、そー、そーだよ!

[Renee] でも、そのあたしがあえて喋ってるんだから信じてくれたってイイじゃない!

[Narration] 一拍の間隔をおいてイゾルデはうなずく。

[Isolde] では信じよう。

[Renee] ほんと? ホントに? 

[Narration] 手すりから身を大きく乗り出しルネは顔を輝かせた。

[Renee] …………でも、なんかムカつく……

[Narration] イゾルデは気にせず海を向いた。

[Narration] ようやく空は、淡いスミレ色の夕映えに染まりつつある。

[Narration] はるか彼方の水平線には、一番星のように光る灯火があった。

[Isolde] このあたりの海域に棲むのは、深海にいる小型な種類か、クジラの死骸をエサにしている、ノロマなやつだ。

[Isolde] サウナのような温暖な場所にはまずあらわれない。

[Isolde] 海のありあまる脅威のなかでは、サメの順位は高くない。むろん注意は必要だとしても。

[Renee] ……そなの?

[Isolde] 血のしたたるエサでも振りまわさないかぎり、奴らはまず寄ってこない。

[Renee] なぁーんだぁ……

[Renee] ───って、じゃあ、ぜんぜん信じてくれてないじゃんっ。

[Isolde] そうでもない。だから、ルネを襲ったのは、サウナを好んで棲息する新種のサメか。

[Isolde] でなければ、ポーラースターの幽霊譚に仲間入りする、新参者ということになろう。

[Isolde] どちらがいいんだ?

[Renee] いいよもうっ、わかった!

[Narration] ルネは、さらに上甲板へと続くステップを駆けあがった。

[Narration] そこは数面のコートがならぶ細長いスポーツデッキだった。

[Narration] ポーラースターの基準では、けして広い場所ではないものの、この夕刻のながめは格別だった。

[Narration] 眼下の庭園、そして彼方に輝く海原。対をなす、あざやかなグラデーションを見渡せる場所に、ラタン製のデッキチェアが並ぶ。

[Narration] ふたりがおとずれたのも、はじめてではない。なかば指定席となった場所にイゾルデは腰をおろす。

[Narration] 雪がはらわれているのをたしかめ、ルネもおずおずと隣りにすわる。が、座面の木肌の冷たさに飛び上がる。

[Narration] まったく意に介さず文庫本を開いたイゾルデに、ルネはあきれた。

[Isolde] ……夕食までまだ間がある。部屋にもどって、試験の暗記でもしていろ。

[Narration] 手もとに目を落としたまま、そっけなく告げるイゾルデに、ルネはあかんべえをする。

[Narration] そのままデッキをうろついて、積雪の照り返しよけの覆いにいたずらしたり、海鳥に雪玉を投げたり。

[Narration] マジックアワー。魔法の時間。世界は刻々と彩りを変えていった、

[Narration] やがて退屈して椅子に戻ってきたルネは、背中のゲーム機に手を伸ばす。

[Narration] が、ふと、それはとりやめて、そのまま頭のうしろに腕を組みなおした。

[Narration] 二人並んで座っているうちに、やがて、足下の照明がともされるほどに暗くなった。

[Narration] みると、イゾルデは文庫を膝に置いて、水平線の彼方を見つめている。

[Narration] くしゃみをしたルネに気づいてイゾルデは、すっと腰を浮かせた。

[Isolde] 行こう。だいぶ冷えた。

[Narration] そんなイゾルデに、ルネは、まだ椅子にかけたまま語りかける。

[Renee] ねえ、イズー。

[Renee] 海さあ、好きなの?

[Narration] イズーという愛称に、イゾルデは眉をぴくりとさせたが、とくに追求はしなかった。

[Isolde] ……べつに、好きでも嫌いでもない。正直、見飽きたよ。

[Renee] ……じゃあ、船が好きなんだ。

[Narration] 先刻のイゾルデの視線のさき。灯火をともす、細い三角の影があったのをルネはよく見ていた。

[Narration] 再び椅子に背をもたれさせ、イゾルデはゆっくり息をはいた。

[Isolde] ああ……

[Isolde] 船は、好きだ。

[Renee] ここだって船じゃん。とびきりのさ。

[Isolde] 本気で言ってるのか?

[Isolde] 客船の船旅ではない。ディンギー。それにキールボート。

[Isolde] セイリングだよ。

[Narration] はじめて耳にした単語の羅列に、ルネは不思議そうな顔をしている。

[Isolde] つまり、ヨットだ。

[Isolde] ヨット同士が競い合うレースだ。

[Narration] ルネは、おおげさにうなずいた。細くすぼめた手の上に、もういっぽうの手をマストよろしく立てる。

[Renee] ふぅー、ふうーん。なにが好きなのさ。ヨットの。

[Isolde] 答えは簡単だ。

[Isolde] 私が傾けるすべての力を受けとめてくれる。手加減なく。そこに曖昧なものはない。

[Renee] ヨットよりモーターボートのほうが速いじゃん?

[Isolde] 速さを語るのはナンセンスだが……

[Isolde] あえて言うなら、モーターボートは重い。最速でせいぜい40ノットだ。

[Isolde] 条件のいい横風があれば、ヨットは45ノット出せる。

[Renee] げっ……

[Renee] でも、そんなの、すっごい強い風が吹く時だけでしょ。

[Isolde] そうだ。15ノットの風がな。

[Renee] 15ノット? んん?

[Isolde] 15ノットだ。ヨットがいきおいよく帆走すると、こんどは、前からの見かけ上の風を受けることになる。

[Isolde] その風を、また帆はつかまえて力にする。その連鎖だ。

[Isolde] 最終的な速度はざっと、風速の3倍にもなる。

[Isolde] が、速さは問題じゃない。ヨットレースは勝負だ。競い合う相手がいて、はじめて、速さに意味がある。

[Isolde] 持つものすべてを駆使して、おのれの速度とコースを守り、そして時には相手を攻撃する。

[Isolde] 楽しいぞ。

[Renee] ……なんか、くたびれそうだし、ちまちました感じ。つまんなそう。

[Isolde] はは。ポーラースターのクルーにもヨット愛好者は多い。機会があれば、練習につきあってみるか。

[Isolde] その時に、もういちどそのせりふを聞きたい。

[Renee] い、いいよ……どうせオーストリアに海ないし!はっ……はっ……

[Narration] 毒づくルネが、また大きくくしゃみをした。

[Narration] イゾルデは肩をすくめて、ルネを連れて船内へと戻っていった。

[Narration] メイドにあてがわれる相部屋の一室で、杏里は紅茶を淹れる。

[Narration] その手つきは、時に専門家のように優雅、時に泥酔した執刀医のように危なっかしい。

[Narration] 椅子にかけるイライザは、落ち着かなげに、その様子を見守っていた。

[Anri] ふんふん。では、ただ遊びに来た、というわけではないんだね。

[Eliza] どうでしょう。ご本人はおそらくそのつもりかと。

[Eliza] ですが、ご両親にはまた別の意図があるようですね。

[Anri] うーん、そもそも、ロスチャイルド家って?

[Anri] はじめて聞く名前ではないけど。わからないな。

[Anri] メディチ家みたいなものかな?

[Narration] ポットをカップに傾けようとしながら“茶こし”を忘れている杏里に、イライザはすっと差し出す。

[Narration] 杏里はにっこりとそれを受け取る。

[Eliza] たしかに、金融業で成功をおさめるなど、メディチ家に通じる部分はありますね。

[Eliza] ただ、ロスチャイルドは、歴史がまだ浅く、そして決定的に異なるのは、彼らがユダヤ人であるということでしょう。

[Anri] ユダヤ人か……イゾルデ・メディチだって、イタリア人だ。たんに生まれた国のちがいじゃないか。

[Anri] 歴史上、ユダヤ人への差別と虐殺があったことは知ってるけど。

[Eliza] ……いえ。

[Eliza] 日本でお育ちになられた杏里様には、おわかりにならないかもしれませんが、ユダヤ人であるという事実には、単なる国籍の違いより、ずっと大きな隔たりがあるのです。

[Narration] いただきます、とうやうやしく頭をさげ、カップを口に運んだイライザの表情がみるみる渋くなった。

[Anri] あれ……?時間はきっちり守ったよ。

[Narration] 杏里も、まだ熱い紅茶を冷まし冷まし口にふくんで、同じ表情をうかべた。

[Eliza] 杏里さま……茶葉はスプーンで2杯ですよ……

[Anri] そうしたんだけれど。

[Narration] 自分とイライザを交互に指差す。

[Anri] ボクに2杯。イライザに2杯。

[Eliza] このポットは2杯用です。

[Anri] わお。

[Anri] えーと、お湯で薄めるのはなんだか、だいなしっぽい。ワンモアチャンスッ。

[Eliza] 捨てるのは勿体ないですわ。それより、ミルクを足しましょう。飲み頃の温度にもなります。

[Anri] なるほど。うんうん。冷蔵庫にエバミルク、あったよね。

[Narration] さらに砂糖を1さじ半ほどまぜて、杏里はシナモンのスティックを立て、イライザはクルミの粉末をふった。

[Narration] 一息ついて、イライザは続けた。

[Eliza] ルネ・ロスチャイルド様のお父様は、インド出身のコンピューター技術者です。

[Anri] インドといえばチャイ。砂糖より甘い、おそるべき飲み物。あ、ごめんチャイ。続けて。

[Eliza] ……この方は数年前に、ネットワークのセキュリティ技術に関して、基礎的で、革新的で、非常に重要なアイデアを発表されました。

[Eliza] すぐに世界中に広まりました。このポーラースターにも使われています。

[Eliza] 天才的な人物です。また、たいへんな変わり者でもあったようですね。数々の特許をお持ちになり、いまや世界的な富豪です。

[Anri] ということは、ルネが生まれたころは、まだ一介の技術者にすぎなかったわけだ。

[Eliza] ええ。

[Anri] じゃ、もちろん奥さんのほうが、ロスチャイルド家だったわけだ。婿養子だね。おっと、逆玉?

[Eliza] 逆玉はともかく、婿養子というのはその通りです。

[Eliza] お父様は、みずからロスチャイルド家の一員となられたのです。

[Eliza] しかし、そこには複雑な事情がありまして。

[Eliza] ルネ様は、ロスチャイルド家の5大分家のひとつ、ウィーン分家の血をお母様から受け継いでおられます。

[Eliza] いわゆる5本の矢とは、初代アムシェルの息子5人が、ヨーロッパの各都市に散り、互いに協力しながら事業をはじめたことに由来しています。

[Anri] あ、銀行の看板にもなってるあのマークだね?

[Eliza] ハイ。

[Eliza] フランクフルト本家、ウィーン分家、ロンドン分家、ナポリ分家、パリ分家。

[Eliza] 傍流は数あれど、現在残る伝統的な家系は、ロンドン分家とパリ分家だけです。ウィーン分家が再興するまではそうでした。

[Eliza] 分家の消失には、さまざまな理由があるのですが、ウィーンの場合は、あのアドルフ・ヒトラーです。

[Eliza] ウィーン分家は、ロスチャイルド、いえユダヤ人としては当時異例の、男爵位を持つにいたったほどの名家でした。

[Eliza] しかし、ご存知のように、ヒトラーはユダヤ人殲滅を掲げていましたから、資産家のロスチャイルド家は、格好の目標となりました。

[Eliza] あろうことにヒトラーは、当時のウィーン分家の当主ルイ男爵を、刑務所に収容し、残る一族にたいして、資産のすべてを供出するよう脅迫したんです。

[Eliza] ウィーン分家の土地・権利、そのすべての資産をです。

[Anri] どひゃあ。世界屈指の大富豪だろう?莫大な額になったろうね。

[Eliza] それはもう。これ以上の身代金は、歴史上ありません。

[Eliza] そして、一族はそれを払いました。

[Eliza] 1年後、ようやくルイ男爵は釈放されましたが、もはや事業を続ける気力も、資本も、残されてはいませんでした。

[Eliza] あわれなルイ男爵は、アメリカに亡命し、バーモント州の農場でひっそりと余生を送りました。

[Eliza] いわゆる、没落貴族となったわけです。

[Narration] イライザの横顔に、複雑な表情が浮かぶ。彼女自身もまた、同様の境遇だった。

[Eliza] 戦後、敗れたドイツから、一部は資産は返還されましたが、男爵はこれをすべて、母国オーストリアに寄付してしまったそうです。

[Anri] かわいそうな男爵……

[Eliza] このルイ男爵が、すなわちルネ様のひいお爺さまです。

[Anri] ははあ……わかってきたぞ。

[Anri] インド系のパパと、男爵の孫娘のママが、アメリカで出会い、恋に落ちた。

[Anri] その時は、実はまだロスチャイルド家とは無縁のエピソードなんだね。

[Eliza] おそらく、そう思います。ただでさえロスチャイルド家は、プライベートを外部にさらけだすのを嫌います。

[Eliza] 事情が変わったのは、やはり、お父様が成功されてからですね。

[Narration] カードキーの電子音に気づいたイライザが玄関を見た。

[Narration] 仕事を終え、くたくたになって戻ってきたベスだった。

[Bess] ただいま。

[Narration] 小柄なメイドは、帽子を壁にかけ、二人のいるティーテーブルの前をぼんやりと通り過ぎた。

[Eliza] お疲れさま。

[Anri] おかえり、ベス。お茶が入っているよ。

[Bess] うん。ありがと。先に着替えちゃうね。

[Narration] そう言って、イライザと共用のドレッサーの前で、服の紐をほどきはじめる。

[Bess] あ、セップクの新作……

[Eliza] もちろん確保済み。アブリコのサバランケーキ。

[Bess] わあ、大好き。

[Narration] とたんにベスは元気をとりもどし、ハミングしはじめた。

[Anri] アブリコってなに?

[Eliza] “アンズ”です。仏語で。英語ならアプリコット。

[Anri] おや。ボクの名前はそのまま読むとアンズの里って意味なんだ。

[Eliza] まあ。とても可愛らしいお名前だったんですね。

[Narration] はんぶん服を脱いだところで、ようやくベスは来客に気がついた。

[Bess] …………!

[Narration] と、音を立てて息を吸い込むと椅子の上の着替えをひっつかみ奥の寝室へと逃げこんでしまった。

[Anri] む、残念。

[Narration] うしろ姿を目で追いかけ舌打ちする杏里の頬を、横から伸びた指先がつねる。

[Eliza] ……お話のつづきですが。

[Anri] ふぁい。

[Eliza] ルネ様のお父様は、ロスチャイルド家の奥様と結婚なさると同時に、それまでの無宗教から、ユダヤ教に入信され、ユダヤ人となられたんです。

[Eliza] ユダヤ人の結婚相手は、またユダヤ人でなければなりませんので。

[Anri] ……え、ちょっと待って。

[Anri] お父さんはインド人だったよね?いきなりユダヤ人に変身しちゃうの?インド大魔術?

[Eliza] ユダヤ人とは、モーゼを敬い、旧約聖書を奉ずる、ユダヤ教徒である、という意味なんですよ。

[Eliza] もし、杏里様が今からそうする、とおっしゃられれば、杏里様はユダヤ人です。

[Anri] おお、そうだったのか……

[Eliza] 初代アムシェルの遺言によれば、家督を継ぐのは、父系の男子に限られるとされています。本来は、養子縁組も認められないはず。

[Anri] ふむふむ。

[Eliza] さて、前置きが長くなりました。

[Eliza] ここから先は、幾つかのリサーチにもとづく、私の推測です。

[Eliza] ルネ様のお父様が、ロスチャイルド家に迎えられ、その結果、ウィーン分家が再興を遂げた理由は、ふたつあります。

[Anri] じゃあまず、お父さんが大金持ちになったから?

[Narration] イライザは、その答えをなかば予期していたように、かすかに微笑んだ。

[Eliza] それは一番ありえない理由です。表面に出ることは、決してありませんが、ロスチャイルド家の資産はたいへんなものです。

[Eliza] それはもはや、たんなる通貨とは言えず、見えない力です。国家を揺るがし、世界を変える巨大なパワーです。

[Eliza] 「世界有数の資産家」ていどには、見向きもしません。

[Anri] わあ……桁がぜんぜんちがう、ってことだね。すごいんだなあ、ロスチャイルドって。

[Anri] ……じゃあ資産の有無ではないとすると?

[Eliza] まずひとつは、時代が変わったこと。

[Eliza] いまや、ロスチャイルド家の経営に参加されている女性は多数います。有能でさえあれば、もはや父系にはこだわらないということです。

[Anri] なるほど。それは賛成。

[Eliza] もうひとつは、彼らがなによりも名誉を重んじるということ……意外にも。

[Eliza] ウィーン家の独力再興は、彼らのプライドを高めるでしょう。彼らが不滅であるという、なによりの証しです。

[Eliza] そしてルネ様のお父様は、偶然にもメディチ家の現当主と御学友で、とても親しい間柄だったんです。

[Anri] イゾルデのお父さんと?それはちょっと驚きだけれど、そんなに強い理由になるかい?

[Eliza] なります。

[Eliza] 近代ロスチャイルド家が、常に手本としてきたのが、歴史に名だたる名家メディチ家だからです。

[Eliza] メディチが芸術を庇護し、ルネサンスを花開かせたように、文化の後援者として尊敬を集めることが、彼らの名誉心をなにより充足させるんです。

[Eliza] ロスチャイルドは、そのために彼らは、再興されたメディチ家と、つながりを持ちたいと熱望しています。

[Eliza] あわよくば、血縁関係を結んでしまおうと考えることも、ありうるでしょう。ユダヤ教の観点からは不道徳ですが、それもまた時代の流れです。

[Eliza] そういった事柄が、この特殊な状況を作った要因ではないかと……

[Anri] なるほど、よーくわかった!……ような……はぐらかされているような……

[Anri] あ、ごめん、怒らないでよ。

[Eliza] 怒っていませんよ。

[Anri] きみには心から感謝してるって。ほんとに。

[Eliza] 怒っていませんてば。

[Anri] でも、そうか……パパ・ジラルドがほのめかしていたのは、そういうことだったのか。

[Eliza] 杏里様もなにか?

[Anri] うん、じつはね。だけど……

[Narration] 腕組みする杏里が、ちらりと隣室の扉を見た。

[Anri] そろそろ、お待ちかねのケーキタイムにしようか。イライザに渡したいものもあるし。

[Eliza] あら、なんでしょう。

[Narration] 杏里が声をかけると、おずおずとベスは部屋に入ってきた。心なしか、めかしこんでいる。

[Narration] 立ち上がり椅子を引くと、恥じ入った様子のベスを、ティーテーブルへと招いた。

[Anri] ケーキ、ボクらのぶんもある?

[Eliza] ぬかりはございません杏里様は、ミルフィーユ・オ・ショコラ。

[Anri] やったあ……ん……?

[Anri] えっ……!ショコラって、チョコラ!?

[Eliza] 冗談です。

[Eliza] 私たちはモンブランですよ。アーモンド・ジェノワーズの。お好きでしょ?

[Anri] わーい、大好き!スプーンが立つくらい堅いやつだね。モンブランはケーキのエベレストです!

[Bess] ……? ?

[Narration] しずまりかえった大教室。ポーラースターは試験期間に突入した。

[Narration] 万年筆が紙をひっかく音。ヤマ感的中の抑えた歓声とガッツポーズ。イライラした椅子のきしみ。絶望のため息。

[Narration] どの国の学生にも、おなじみの風景。

[Narration] そして軽快ないびき。

[Narration] 斜め前にすわるアルマが振り返ってにらんだ。

[Alma] …………! ……!

[Nicolle] (……あっと、寝てた寝てた)

[Narration] テスト用紙の端についたよだれの跡をちぎり取ってごまかした。

[Narration] アルマはきつく眉を寄せて、口をパクパクさせている。

[Nicolle] (ちょっと強すぎなんだよ、暖房が)

[Alma] ……! ……!!

[Nicolle] (追試でエンジンかかるタイプ なんだって! 大器バンセーって言うだろ?)

[Alma] …………

[Nicolle] (聞いたことない? 大器ってのはあれだ、鼎のことで、 そうそうカナエーの鼎だよ)

[Nicolle] (で……あ)

[Narration] 咳払いの音に向き直ったアルマの前には試験監督のレイチェルが苦みばしった表情で腕組みしていた。

[Narration] 2科目の試験が終わった。今日はもうこれで終わりだ。明日一日は、中休みになる。

[Narration] 少なくないクラスメートが連れだって、足早に駆けていく。けっこう慌てた様子だ。

[Narration] 試験が終わるとふつう、死人みたいにぐったりするか、妙にハイテンションに騒ぎ出すか、なのに、ちょっとめずらしい光景だ。

[Nicolle] (……そんなに食欲を刺激される問題 だったかな? 数学で?)

[Narration] といっても彼女らが向かったのは、食堂の集まる広場ではなく、その反対方向の上級生の教室へだった。

[Narration] 脇の下にぐっと腕がまわりこむ。

[Nicolle] あん?

[Anne Shirley] じゃあいくわよ、ニコル。

[Nicolle] アン?

[Soyeon] あにょ。

[Nicolle] な、なにさ、ソヨンまで。

[Soyeon] 試験で頭を酷使したあとは甘い物が食べたくなりませんか?

[Narration] 捕らえられた灰色の宇宙人よろしくニコルは両サイドから挟みこまれた。

[Narration] といっても、ソヨンが一番ちいさいので右から左へ階段状だけど。

[Narration] ソヨンは金色のリボンで結んだ小さな青い箱を、誇らしげにみせた。

[Narration] アンシャーリーは不定形の赤い紙の包みだ。

[Nicolle] へっ?それ、もしかしてチョコ?

[Narration] 大きくうなずくソヨン。

[Nicolle] って、バレンタインにゃまだ早いだろー?

[Narration] アンとソヨンは、ふたり揃って「ちっちっちっ」と指を振る。

[Anne Shirley] 時代は、いま───!

[Soyeon] バレンタイン・イブ!

[Nicolle] んじゃそりゃあ!まだ前日ですらない!

[Anne Shirley] じゃ、イブイブ?うんにゃ、イブイブイブ───

[Nicolle] まだ気が早いってなげいてたの、ソヨン、あんただろーが。

[Soyeon] 弱肉強食、豚キム定食ですよ。明日の中休みを過ぎたら、またしばらく試験日になっちゃうし……

[Nicolle] 踊らせようとして踊らされている……むむむ、おそるべしコマーシャリズム。

[Soyeon] それに、ニコルはバレンタイン発祥の国の人だし、どんな秘策を隠しているやら!ぬけがけは許さないですよ!

[Nicolle] ソヨン、目、目がおかしい。

[Anne Shirley] あたしは、あたしは?

[Nicolle] あんたの目はいつも綺麗だよ。

[Anne Shirley] ひゃっほう。

[Narration] 助けを求めて廊下を見まわすと教室出口でレイチェルに呼び止められ、平謝りしているアルマがいた。

[Narration] そうしながらも、気遣わしそうに、ニコルを見ている。

[Nicolle] ……うっ、すまん、アルマ。だがしかし万事休す!

[Anne Shirley] バンジー急須ー。

[Nicolle] そ、そうだ、あたしにゃ強い味方がいたじゃないか!

[Nicolle] コロ! コローネ!

[Narration] 折しも昼食時、そろそろコローネが迎えに来るはずだ。

[Narration] 愛犬の姿はすぐに見つかった。

[Collone] ウォン! ウォン!

[Nicolle] コロ、助けろ!

[Collone] …………ウォウ。

[Niki] ………………

[Nicolle] なぬっ?

[Soyeon] あれ、ニキだ?テストにはいなかったのに。

[Niki] …………

[Narration] ニキはかがみこんでコローネになにかを嗅がせている。

[Anne Shirley] 杏里のパンツかしら?

[Soyeon] なぜ、そんなものを……

[Collone] ……ウォン!

[Narration] よしきたとばかりに大型犬は駆けだして、ニコルたちの脇をすりぬけた。

[Narration] さらに、ニキが足早にあとに続く。胸にはしっかり手製のプレゼントをかかえている。

[Nicolle] お、おい、コロー!?この裏切り者ーっ!

[Soyeon] 意外な伏兵が出現です!あたしたちもダッシュですよ!

[Anne Shirley] オッケーチャンプルー!

[Narration] あとを追ってソヨンとアンシャーリーも駆けだした。ニコルも当然引きずられていく。

[Nicolle] うわっ、やめれーっ!

[Alma] あ、ニコルさん!

[Narration] アルマの声が、むなしく背後に響いた。

[Narration] 試験を終え、教室から出てきた杏里の背をヘレナがこづいた。

[Helena] 杏里、あなた寝ていたでしょう!?

[Helena] しかも遅刻して入室してきて。まじめにやりなさい!

[Anri] 遅刻はごめん。でも、ちゃんと答案は埋めたってば。余裕があったから、休んでたんだ。

[Helena] あ、あら、ごめんなさい。じゃあ手ごたえあったのね?

[Anri] もちろんだとも。

[Anri] オランプ・ド・グージュと、ジロンド派ロラン夫人の、相似点、相違点だろう?

[Anri] 「おお自由よ、汝の名において なんと多くの罪が犯されたことか!」

[Helena] ……小論文のスペースなんてないわ?化学の試験でしょう?

[Anri] え? 化学? ウソ!あーッ、そんなバカな!

[Anri] 丁寧に解説マンガまでつけたのに!

[Helena] もうっ、なにやってるのよ。

[Anri] まあ過ぎたことは忘れて。明日からがんばるさ。

[Helena] 明日は試験日じゃありません!しっかりしてよ!

[Narration] つめよるヘレナから、杏里はさっと身をかわす。そのまま階段を降りかけ、ふと振り返った。

[Anri] あ、待ってヘレナ!ランチならクローエも呼んでこよう。

[Helena] それが……クローエは今いそがしいみたいよ。

[Anri] ん? どれ?

[Narration] ヘレナの言うとおり、廊下をのぞきこむとクローエは下級生たち──中にはサードの制服まで──に囲まれ、当惑顔をしていた。

[Anri] クローエが集団いじめにっ!?

[Narration] とっさに駆けだそうとした杏里の襟をひょいとつまみあげる。

[Helena] 違うでしょ。ややこしくなるから、ほっときなさい。

[Narration] ジタバタする杏里を引きとめながらあきれ顔を浮かべるヘレナ。その鼻先に、すっと、小箱が差し出される。

[Helena] ……え?こ、これ、わたしに?

[Narration] 目を白黒させるヘレナの前でうつむきかげんのファーストの帽子が揺れる。

[Narration] 背の高い、ショートカットの少女だ。白磁のように白い頬は、クローエのとりまきのように赤く染まることもなく、クールそのもの。

[Narration] どちらかというと、ヘレナのほうが俄然赤くなっていた。

[Narration] 杏里は、そのやりとりを不思議そうに観察している。

[Helena] あ、ありがとう。

[Narration] 戸惑いながらも小箱を受け取ると少女はさっと一礼して去った。

[Anri] ほーう、ほうほう。ほほう。

[Anri] あれ、園芸委員のキルシだよね?……なんのヤミ取引だい?それとも上納金かなにか?

[Helena] し、失礼ね。そんなんじゃありません!

[Anri] じゃあ、どんなんかなー?

[Narration] 身体をゆらしてのぞき込む杏里から、贈り物を必死に隠す。

[Helena] べ、べつに、以前、すこし相談にのってあげただけで───

[Helena] い、いいからランチに行きましょう!クローエならあとから来るから!

[Anri] んん〜?それってさ、もしかして───

[Helena] な、なに食べましょうか?辛いものがいいわね!不味いものでもいいわ!

[Anri] それもいいけど試験のあとはやっぱりさ……をふっ!

[Collone] ウォン!

[Narration] と、コローネが嬉しそうに吠えた時には杏里はばったりと床に倒れ伏していた。

[Narration] 横腹を押さえてグッタリゲッソリしたままぴくりともしない。

[Collone] ……ウォゥ?

[Anri] や、やあ……コローネ、ふふ……やるね……右脇腹かい……こいつぁ……いいパンチだ……

[Anri] ふふふ……

美少女せんたい

……

サフィズム

ふぁーいぶ

全員

出動ー

あい

あい

さー

トン

デモ

ナーイ

[Helena] 杏里、気をしっかり持って!み、水か、気つけのブランデーか何か。

[Niki] …………

[Helena] あら、バルトレッティさん、助かるわ!

[Helena] 杏里、きつけのチョコよ!

[Helena] ……チョコ?

[Anri] ………………うう……

[Niki] ………………

[Helena] ちょ、ちょっと、ニキ?

[Narration] ニキは、チョコをひとかけ口にふくむとうつろな目の杏里を抱き起こして唇を重ねた。

[Helena] ……!!

[Soyeon] あ、ああ───ッ!

[Anne Shirley] おお───う!

[Nicolle] うぇ〜、酔った……

[Narration] ようやく解放されたアルマに褐色の少女がたずねた。

[Renee] 助けにいかなくていいの?

[Renee] なんか困ってたみたいだけど。

[Alma] 大丈夫ですわ。いつものことですから。

[Narration] アルマは屈託なく微笑んだ。

[Renee] そう?

[Renee] だといいけどね。

[Alma] ルネさんはいかがですか?よかったら、お食事ご一緒に。

[Renee] いい。今日は。朝食べたから、おなかすいてない。

[Alma] ですか? では残念ですけど。

[Narration] ルネは頭のうしろで手を組み、ぷらぷらと教室を離れていく。

[Narration] アルマはその背にむかって丁寧に会釈してから、別の通路の奥へと曲がった。

[Narration] そしてルネの視界から逃れたことを確認すると、アルマは唇を噛みしめ、全力で駆けだした。

[Narration] 朦朧とした杏里は、ニキの桃色の唇をまるで飲み水を与えられたように吸った。

[Narration] ニキは身体をふるわせて、なおきつく杏里を抱きとめる。

[Soyeon] ………………!!!!

[Anne Shirley] まあまあ。順番ですよ。次はあたしの番だけど。

[Soyeon] ……わのうあにをやあー!!!

[Narration] 泣きながら暴れるソヨンをアンが適当にいなす。

[Narration] 杏里の喉が動き、ゆるやかに嚥下すると、杏里のカラーに下がったペンダントが光った。

[Narration] ぱちりと、杏里の目が開かれる。

[Anri] ──────!

[Narration] ぐうんと立ち上がった杏里は、そのままニキを空中に抱き上げもう一回、確かめるように、強く唇を吸って、それから、とんと下に降ろした。

[Narration] ぽうっと見あげているニキの唇を、指先でなぞり、もう一方の手の指で自分の唇をなぞった。

[Narration] 信じられない物をみるかのように両方の指先を凝視する。

[Anri] ……チョコだ……

[Helena] ああ……

[Narration] ヘレナが大きく息を吐いて額に手をやった。

[Anri] ……うう……チョ……チョコだあ……

[Narration] 視線のさだまらない杏里は、ふらつきながら壁に手をついた。

[Nicolle] ……杏里!

[Narration] あっけにとられていたニコルは杏里に駆け寄り支えた

[Nicolle] あ、杏里?どうしたのさ、アンの薬でも入ってたのか?

[Anne Shirley] いやあ、それほどでも。

[Helena] ちがうわ。いまの杏里は、その普通じゃなくて───

[Narration] ヘレナは口ごもる。

[Anri] ……うう……チョコは……やだ……チョコはやだよ……

[Narration] 杏里は子供のように、むずがって泣き出した。

[Nicolle] 杏里、どうしたんだよ。しっかりしろ!

[Narration] ニコルはわななく杏里の手をにぎり呼びかけた。

[Nicolle] キスくらいなんだってんだ。ニキだってびっくりしてるじゃないか!

[Anri] でも、チョコは、チョコだけはいやなんだよぅ……チョ……

[Anri] ……あれ、ニコル?

[Narration] 杏里の瞳がまた唐突に正気に戻る。

[Anri] ああ、よかったぁ、ニコル!やっと会えたね!

[Narration] あふれた杏里の笑顔に、ニコルの胸はびりびりと震えた。

[Nicolle] え……あ、杏里?

[Narration] 今度は感激に目をうるませながら顔を寄せてくる

[Nicolle] うう、やべっ!

[Narration] しかしニコルは、近づく唇をはっしとおさえて飛びすさった。

[Narration] そのまま180度向きを変えて逃走する。

[Collone] ウォウォン!

[Narration] ソヨンがもじもじと切り出す。

[Soyeon] あ、あの、杏里さん、実は折り入って召し上がって欲しいものが。

[Anne Shirley] あたしもーアラ、杏里いない? 食い逃げ?食ってから逃げろ!

[Narration] ぽこぽこ、と頭をはたかれる。帽子を持ち上げる二人を、ヘレナがにらむ。

[Helena] 空気を読みなさい、あなたたちは!

[Helena] って、それどころじゃないわ。杏里を止めなくっちゃ。

[Soyeon] ええ、万事まかしてください、ヘレナ先輩!杏里さーん!

[Helena] ちょ、ちょっとソヨン? アン!?ニキを……!

[Narration] ニコルを追いかける、コローネと杏里。さらにその杏里を追いかけて走る、ソヨンとアンシャーリー。

[Narration] 置き去りにされたヘレナは、がっくりと落ち込んだ様子のニキをおろおろとなだめている。

[Narration] そこへ、金の髪を揺らしてようやく少女がたどりつく。

[Alma] ハァ……ハァ……ヘレナ様!ニコルさんか、杏里様をご覧になりませんでしたか!?

[Helena] アルマ!ちょうどいいところへあのね、すこしニキを───

[Narration] うつむいたままニキは廊下の先を小さく指差した。

[Alma] ありがとうございます!

[Helena] ちょちょちょっと、ハミルトンさん!?

[Niki] …………

[Helena] ク……クククー。

[Narration] やたらに広大なポーラースターの通路を駆け抜けながらニコルが叫ぶ。

[Nicolle] ついて来んなったら!

[Anri] なんで!?どうしてだい!

[Narration] 杏里の返事が、ニコルの何倍もの音量でひびく。

[Anri] こんなにボクがきみのことを───

[Nicolle] わあーわあーうわあああ───!!

[Narration] ニコルは両手で耳をふさいで絶叫する。

[Nicolle] わっと、エレベーター!

[Narration] しまりかけた扉にすべりこんだ。

[Narration] たちまちケージ越しに回廊の光景は遠ざかり、ニコルは上昇していく。背をもたれて息を整えるニコルを先客の生徒が、けげんそうに見る。

[Narration] ちりりんと到着のベルが鳴り甲板近くのフロアに飛び出した。

[Nicolle] うわっ!

[Narration] と、目の前で杏里がにこにこして、変なポーズまでつけて待っている。

[Nicolle] な、なんでいんのさ!?

[Anri] となりのエレベータがちょうど来て。

[Nicolle] なるほど。

[Narration] またもや追走劇。ひいこらとニコルが逃げ、律儀に杏里は、その背を追いかける。

[Nicolle] だ、だいたい、あたしゃ、走るの苦手なんだから、走らせるなよっ!そういうキャラじゃないんだ!

[Anri] じゃあ、早歩きしながら話そう!それでいいかい!? いいよね!?

[Nicolle] オッケー了解!

[Anri] よし! 1、2……3!

[Narration] 合図と同時に、杏里は大股で歩き出した。オーバーな手振りで、胸中を吐露する。

[Anri] それでねニコル、ボクはきっとなにかキミの逆鱗をカンナがけするようなしくじりを───

[Anri] って、い、なーい!

[Anri] あんなところに! もう!

[Narration] ニコルの背中を小さく見ながら悔しげに爪を噛む。

[Anri] いいさ、草の根を分けてでも、必ずやきっときみを探し出すからね!ニコル!

[Aisha] ねえ杏里。

[Anri] なんだいアイーシャ。

[Narration] 声をかけられた杏里はするりと脇道にそれた。

[Narration] せわしない足音が階段を登ってくる。

[Soyeon] 杏里さーん!

[Anne Shirley] チョコの嫌いな子はイネェガー!

[Collone] ウォウォン!

[Soyeon] そっち!?

[Narration] さかんに尾を振り、ボルゾイ犬はソヨンたちを導いた。

[Narration] 二人の姿がその場から消えて間もなくアルマが、肩を上下させながら辿り着いた。

[Alma] はぁ……はぁ……ニコル……さん……

[Narration] 途方にくれながら、それでも少女は止まらず歩き続けた。

[Narration] ニコルは書架にぜいぜいと手をついて、こみあげる吐き気をこらえた。

[Narration] 薄暗い図書館には、ほかの生徒の姿はない。

[Narration] それでも、すぐに隠れられるように、書架のあいだの絨毯に腰をおろす。

[Narration] 投げ出した両脚に、塵ひとつない紫紺色の絨毯が、すこし冷たい。

[Narration] しばらく体を深呼吸をさせるにまかせ、ようやく人心地つく。

[Narration] 細い光が、窓から差し込んでいる。

[Narration] 手近にあった薄い本をとって、天井に向けた顔にのせる。

[Nicolle] ……………………ふぅ……

[Narration] いつまでもこうして逃げ続けるなんて無理だ。さっきのは幸運だった。

[Narration] もう時間の問題だ。イゾルデとの賭けの期限は、まだ一週間以上ある。

[Narration] 授業を休んで、どこかに隠れ続ける?それこそ、自分から捜してくれ、と言っているようなものだ。

[Narration] 杏里は心配して真相をさぐり出そうとするだろう。それはまた破滅への近道だ。

[Narration] いっそ、すべてを白状してしまおうか。杏里に。ずっと楽になるだろう。その時だけは。

[Narration] それに──イゾルデはあり得ないとしても──もしかしたら“御大”の気が変わって……

[Narration] ……いや、だめだ。

[Narration] そんなのは、まっとうな賭けとはいえない。

[Narration] ゲームの途中でルールが変わるのを期待するなんて、馬鹿げてる。

[Narration] それでも、賭けに負けて、船を降りることになっても。杏里と二度と会えなくなっても。

[Narration] この胸のわだかまりをぶちまけて───

[Narration] そんな破れかぶれな考えを弄んでいると、ふと、怒りを秘めたアルマの顔が浮かんだ。

[Narration] 朝の部屋で、嗚咽混じりの告白を、静かに聞いてくれたアルマ。

[Narration] 今でも身体が熱くなり、安らぎが広がる。

[Narration] すべてを話し終えたあと、アルマはまっすぐな、迷いのない微笑みを浮かべて言った。

[Narration] ───ニコルさんは負けません。私がいます。私が支えます。

[Narration] アルマにだけは、もう嘘はつかない。隠し事はしない。そう誓った。

[Narration] ……そのはずなのに。

[Narration] 勇気づけられたのは確かだ。いくら感謝してもたりない。

[Narration] ……それなのに、今はついに巻き込んでしまった、という重い後悔ばかりがもたげてくる。

[Nicolle] はぁ……………

[Narration] 深いため息にまぎれて、パタンと本の倒れる音がした。

[Narration] びくりと身じろぎすると、顔の上に置いた本は身体をすべって落ちた。

[Nicolle] だ、誰……っ?

[Narration] つい尋ねてしまった。足音は聞こえなかった。

[Narration] 今はがさごそ音がする。

[Girl] えーと、本の虫さん?

[Narration] のんきに声は言った。

[Narration] 書架と本の狭い隙間の向こう。のぞき込むグリーンの瞳がぱちくりしている。

[Narration] ニコルはふたたび、ため息をついて床に座ったまま腕組みした。

[Nicolle] ふーん。だったら、図書委員会の天敵だな。

[Nicolle] かかとでつぶされないよう、訓練しておいたほうがいいと思うけどね。

[Girl] じゃあ天使ってことで。

[Narration] ニコルは肩から力が抜けた。それまで真剣に悩んでいたのが、なんだか馬鹿みたいだ。

[Narration] 少女は、よつんばいのまま書架をまわりこんできた。胸の前に垂れ下がったブロンドがふわふわ揺れる。

[Michelle] こんにちは、ニコル。なにしてるの?

[Nicolle] し、シーッ……!

[Narration] きょとんとしたミシェルは必要以上にひそめた声で言った。

[Michelle] ……アル・パチーノごっこ?

[Nicolle] そんなとこだよ。頼むから、静かにしててくれ。

[Michelle] 了解、ボス。

[Nicolle] ……ふぃぃ……

[Michelle] よいしょ、っと。

[Narration] ミシェルは楽しそうに、ニコルの隣の書架に背をあずけて並んだ。

[Nicolle] ……しばらく見なかったじゃないか。

[Michelle] ええ。こう見えて私もなかなか、いそがしいのです。

[Nicolle] なんだそりゃ。よく言うよ。

[Michelle] ニコルはどうなの?

[Nicolle] へ?

[Michelle] 忙しい? ハッピー? 充実してる?

[Nicolle] あたしは……あたしは別に。毎日だらだらやってるよ。

[Michelle] このあいだの、タップダンスとか、アコーディオンは?

[Nicolle] 飽きっぽいからさ、あたしゃ。近頃はぜんぜん。

[Michelle] でも好きなんでしょう?

[Nicolle] …………まあね。

[Nicolle] 楽しそうだからさ。

[Nicolle] そりゃあ、感心するほど上手な人は、見えないとこで血のにじむような下積みをして、頑張ってるんだろーけど。

[Nicolle] もちろん辛いんだろうけど、それはぱあーっと気持ちの晴れる一瞬があるからできるんだろうなって。

[Michelle] うんうん、そうねえ。

[Michelle] あ、でも、それだけじゃないと思うわ。

[Nicolle] ん?

[Michelle] ひとりじゃ続かないわ。誰かのためにがんばるし、がんばれるのよ。

[Narration] ニコルは呆れたようにミシェルを見返す。腕を枕に、書架に寄りかかる。

[Nicolle] 誰かのために……か、ま、あたしなんかが偉そうに言うことじゃないけど。

[Nicolle] そりゃ、甘ちゃんの考えだよ。芸はひとりだよ。

[Michelle] ひとり?

[Nicolle] そ、独り。自分のため。

[Nicolle] だから突き詰めりゃ、芸術は芸術のためにあんだよ。他人に理解されんのは二の次さね。

[Michelle] ひねくれ者。

[Nicolle] スィ。

[Michelle] ……だってそれじゃ、寂しいでしょう。

[Narration] ニコルは鼻でせせら笑った。

[Nicolle] 寂しさなんて、ありふれてるじゃないか。

[Nicolle] 誰かに媚びてみたところで、その先にあるのはやっぱり、寂しさ、むなしさ、徒労。

[Nicolle] 他人ばかり見てたら、自分を見失う。

[Nicolle] だから、孤独はアーティストのこやしみたいなもんだ。

[Narration] ミシェルは腕組みして真剣に考えている。すこし時間を置いてから、言った。

[Michelle] ……たしかに、目に見えない気持ちは形となって残らないかもしれないわ。アートを極めた人たちのような壮絶な美しさにも、欠けているかもね。

[Michelle] でもね、だからってそれが自分の生きた証を残さなかったことになるかしら。

[Michelle] 魂を、燃焼させなかったことになるかしら?

[Narration] ミシェルはそびえる本の壁を見上げ、さらにその遠くを見つめた。

[Michelle] 私はこう思うわ。

[Michelle] 誰にも理解されず、なにかに打ち込んでいた人も、やっぱり、誰かにわかってほしかったんだって。

[Michelle] 心の底で、喜びを分かち合う相手を捜していたんだって。

[Narration] そう言って、ミシェルは優しく笑いかけた。

[Michelle] 私たちは、こうして話せるし愛せるんだもの。きっと、伝わるわ。誰かさんに。

[Nicolle] 誰かさん?

[Michelle] ええ。大切な誰かさんに。

[Nicolle] ……どうだかねえ。結局、結果がすべてだよ。

[Michelle] あれっ?いま私、そう言ったのよ。

[Nicolle] はあ?

[Michelle] というよりニコル?あなた、なんでそんなに世をはかなんでいるのよ?

[Michelle] 若いくせに、さ。

[Narration] ミシェルは瞼を伏せるとこつんと、額をニコルに寄せた。

[Narration] それは、司祭が信徒に祝福のキスを与える様子にも似ていた。

[Narration] ニコルは黙って、されるがままにしている。

[Michelle] ああ……さては期待して裏切られるのが怖いのね。

[Michelle] そうでしょ。

[Nicolle] …………ばーか。

[Michelle] ………………

[Narration] ニコルの頬がつままれ横にひっぱられる。

[Michelle] ばかとはなあに、ばかとは。せめてふつつか者、とか、おしゃまさんとか───

[Nicolle] ひひはひふはひふは!

[Narration] 今度はニコルにも侵入者の接近がわかった。が、もはや手遅れ。

[Narration] 頬をふくらませるミシェルの背後にゆらりと立つ、長身のシルエット。

[Narration] ふたりの腕がつかまれ、床から、ぐんとすくいあげられる。

[Michelle] きゃっ!エリオット・ネスの強制捜査!?

[Nicolle] ふほーへ! あいや、クローエ!

[Narration] 黒髪の少女は、裁定者の目でふたりを見おろす。

[Chloe] ……世間話と痴話喧嘩は外のテラスでしなさい。

[Chloe] でないと、落とすわよ。

[Nicolle] ……ってあたしらを?それとも、かかと。

[Chloe] 両方。

[Narration] テラスへ向かう登り階段を、ずんずん引きずられながら、ミシェルは声をはずませる。

[Michelle] クローエじゃない、久しぶりね!

[Chloe] そうね。

[Chloe] できればわたしは、会いたくなかったわ。

[Chloe] 第一、あなたに会いに来たんじゃないの。当番で見回りに寄っただけよ。

[Chloe] 捜し物をしていたのは、そちらの人よ。

[Narration] 吊り下げられたニコルの前にいたのはアルマだった。

[Alma] ニコル、さん……やっと……追いつい、た……

[Narration] まだ息が整わず、大きく胸を上下させている。

[Narration] 綺麗な髪は乱れて、汗で張りつき、帽子も横にずり落ちて、ぶかっこうに見えた。なんとも滑稽な姿に。

[Narration] 感謝よりも先に、そんな気持ちが湧くなんて。ほかならぬ自分のために、かけずりまわったというのに。

[Narration] アルマはもの問いたげにニコルを見つめている。

[Narration] 何も起きなかった、大丈夫だと目くばせする。

[Narration] アルマは安堵に胸をなでおろした。

[Narration] むしろ、今しもアルマが激怒するのではないかとびくびくしていた自分のほうが、ホッとしたかもしれない。

[Narration] 胸のうちでニコルは地獄に堕ちればいい、と自分に吐きつけた。

[Narration] 雪残るテラスでクローエはミシェルを問いつめる。

[Chloe] どうして、いつも試験期間中なの!?おとなしくしてないと、進級できなくなるでしょう!

[Michelle] そんなこといっても。

[Narration] 肩をすくめる人物をアルマは不思議そうに見る。

[Narration] 見慣れぬ顔に、ようやく気づいたらしい。

[Alma] あの……ミシェルさん、とおっしゃるのですか?

[Alma] はじめまして。アルマ・ハミルトンと申します。

[Michelle] よろしくね、友達想いのアルマ。

[Narration] ふたりはにっこりと微笑み合う。

[Nicolle] ……変なこと聞くけど。ミシェルとクローエは知り合いなんだ?

[Narration] ニコルの問いかけにクローエは露骨に嫌な顔をする。

[Chloe] ……ええ。

[Michelle] そうよ。クラスメートだもの。当然でしょう。

[Michelle] 同じベッドで寝たこともあるし。

[Chloe] ……っ……!

[Narration] クローエが犬歯を見せて歯がみする。

[Nicolle] へええ〜、それはそれは。

[Alma] 仲がおよろしいのですね?

[Narration] クローエはテーブルに手をついた。

[Chloe] まきらわしい言い方やめて!文字通りの意味よ。

[Chloe] あなたが勝手に、領海侵犯してきたのよ。それも、わたしの知らぬ間に……

[Narration] 不服そうなクローエを置いてミシェルは立ち上がると甲板でリズムを刻みはじめた。

[Narration] ニコルは、おやと眉をあげた。あの時のタップのビートだ。

[Narration] くるくるまわりながら、雪のない甲板上をそって、手すりまで踊りつく。

[Michelle] お腹がすいたわ!ランチにしましょう?

[Narration] クローエはやれやれと肩をさげ大きくため息をついた。

[Alma] いいですわね。私もです。

[Nicolle] だな。

[Narration] また踊りながらミシェルはテーブル脇に置いてあった、帆布のトートバッグに勘づいた。

[Narration] ミシェルが駆け寄る前に、とっさに取りあげてしまう。

[Chloe] これはだめ。貰い物よ。

[Michelle] それってチョコレートでしょう?ぜぜ、ぜんぶ!?

[Michelle] ねえそれ、ひとりで食べるの?すこし手伝うわ。よければ半分ほど。えっと、クローエさえよければ全……

[Chloe] ひとりで食べます。

[Michelle] ええーっ!

[Narration] ミシェルはがっくりと甲板にへたり込んだ。

[Michelle] そ、そんなの、チョコレートハラスメントだわ!略してチョコハラ!

[Alma] …………?(どこかで……)

[Narration] いぶかしむアルマを見て、クローエは焦ったように、出口へ向かった。

[Chloe] わかったわ。ランチにしましょう。ただしデザートは抜き。

[Alma] まあ。ダイエットですか?

[Nicolle] そんなに食べたいんなら、あたしのやるって。ちょっと待って。

[Narration] そう言いながら、ニコルはポケットで手をごそごそやる。

[Michelle] 本当!? ハラショー!

[Chloe] 悪いことは言わないから、やめたほうがいいわよ。

[Nicolle] いいじゃん。そんなケチケチしなくたって。チョコくらいさ。

[Michelle] そうよ。チョコレ〜ト、ショコラ〜テ、プラリネ、ガナッシュ、ザッハ・トルテ〜

[Nicolle] ……おっ。

[Narration] しかし、ポケットから出てきたのは一枚の包装紙だった。

[Narration] 薄いトレーシングペーパーに何か文句が印刷されている。

[Nicolle] あちゃ、ごめん……ちょーど切らしてた。

[Narration] それを聞いたミシェルの落胆ぶりは相当なものだった。

[Michelle] ……甘い匂い……残ってる。

[Narration] 名残惜しげに、ニコルの手に顔を寄せてなんども香気を肺に吸い込む。

[Nicolle] ちょ、やめろって。くすぐったい。それはやるから。

[Michelle] んー……

[Alma] ほんとうにお好きなんですね。

[Chloe] ……異常なほど。

[Narration] 4人が図書館から食事の場所へ移動するうち、生徒たちが交叉する回廊にさしかかると、ふっとミシェルの姿は消えた。

[Narration] ニコルとアルマはさかんに捜したが、くたびれはて、ベンチにのびているソヨンたちを見つけたにすぎなかった。

[Narration] クローエは消失を一向に気にとめずむしろ安心した様子で、「また会えるわ」とだけ告げた。

[Narration] 試験最終日の、その前夜。杏里はヘレナに呼び出され、一夜漬けを仕込まれている。

[Narration] 杏里にしては、記録的に頑張った。連続で17分間も机に向かっている。

[Narration] 小休止の時間に、軽食をとっていると、杏里が切り出した。

[Narration] 杏里なりに、真剣な様子で。

[Anri] どうもニコルに避けられているみたいなんだ。

[Helena] …………なんの台本?

[Anri] 演劇の練習をしてるんじゃなくてさ。

[Anri] 経験豊富なヘレナを見込んで相談してるんじゃないか。

[Helena] それは光栄ですこと。

[Narration] 皮肉な頼みだ。とはいえ、同じたぐいの相談は、はじめてというわけでもない。

[Narration] その時々に挙がる名は、メイドになる以前のイライザだったり、入学したばかりのニコルだったりした。

[Narration] まあ、杏里に悪意がないのはわかりきっている。悲しいことに。

[Helena] ちょっとした喧嘩だったら、いつものことでしょう。

[Helena] だったら、時間が解決するわ。

[Narration] 杏里の顔は浮かないままだ。

[Helena] ……杏里?

[Narration] ……では、とにかく安心させてほしいのでも、挑発しているのでもなく、本当に悩んでいるのか。

[Narration] 心の底では不本意ながらも、ヘレナの世話好きな性分が働きはじめる。

[Narration] まあ実際のところ、頼られるのは悪い気分ではない。

[Helena] 杏里のほうには、覚えがないの?

[Anri] イゾルデが関係しているのじゃないかな、とは思うんだ。

[Helena] そう……あのふたり、犬猿の仲だものね。

[Anri] うん。ボクとしては、ぜひ仲良くなってほしいんだけど。

[Narration] 杏里は鮭のパテと、ピクルスのサンドイッチの先端をくわえて、窓の外を向いた。

[Narration] 窓の外はまた雪が降っている。ヘレナはサモワールからお湯を足した。

[Helena] イゾルデ・メディチさんとは何度かお話ししたこともあるけれど、とてもいい人よ。

[Helena] 家柄のわりに、気どったところはないし、パーティでもよく気のきく、社交的な人だわ。

[Narration] ヘレナは口にひとさじジャムを含んで紅茶をいただいた。

[Helena] といっても、羽目をはずされるタイプではないし、あの独特の、厳格な雰囲気な方だから、こちらから語りかける時には、すこし緊張してしまうわ。

[Helena] ほら、この船では出身国の同じ生徒は、むしろ仲が悪いことが、ままあるでしょう。

[Helena] 私は、そういうことだと思っていたけれど。ニコルはあのとおり、ルーズの極みだし。

[Narration] 杏里は口をもぐもぐやりながら、そっけなく言った。

[Anri] ……いや、あのふたり以前は仲がよかったらしいよ。この船に来る前はさ。

[Helena] あら、知り合いだったの!?それ初耳よ?

[Anri] うん。パパから聞いた。

[Helena] パパ?

[Narration] 伸びた杏里の手から自分のサンドイッチを守りながらヘレナは身を乗り出した。

[Anri] ふたりともフィレンツェで育った幼馴染みなんだよ。

[Anri] きっと、親友だった。

[Narration] ヘレナは狂おしいほど、その話の続きが気になったが、かろうじてノートを取り出し杏里の前に開いた。

[Helena] さて。その前にまず、やるべきことを済ませましょ。

[Anri] うえっ。

[Helena] いい?ここから……ここまで、丸暗記よ。あとで問題を出すわ。

[Anri] そ〜ん〜な〜に〜?もっと楽しくて変化ある勉強をさ。

[Helena] だめ。あなたは要点さえ押さえれば、むしろ、応用や論文は得意なんだから。まずは暗記です。

[Anri] はーい。わかりました、プロフェッサー。

[Narration] 杏里の答案は完璧だった。

[Narration] ヘレナは、2回も見返したが誤りはなかった。あとはちゃんと試験に出席さえしてくれればばっちりだ。

[Narration] うん。こうでなくては、杏里らしくない。

[Narration] とはいえ、教えているほうは少々馬鹿らしくなってくる。

[Narration] まあ、それはそれとして。嬉々としてお茶の葉を替える杏里に、おずおずとヘレナは言った。

[Helena] じゃ、じゃあ、さきほどの話の続きを聞かせてもらえるかしら。

[Anri] うん、オッケー。

[Anri] えーと、演劇で大切なのは、やっぱり台本を忘れないことかな?

[Helena] ……もうっ、根に持つわね。おやつあげないわよ?

[Anri] ハハハ、ゴメン。

[Anri] ボクが、パパ・ジラルドから聞いた話はね……

[Isolde] シチリア!?

[Narration] 河ふちにかけたイゾルデは目を丸くした。

[Isolde] ニコルはシチリアで生まれたのか?フィレンツェではなく。

[Nicolle] そんなビックリしてくれると話した甲斐あったなあ。

[Nicolle] そうらしいよ。ぜーんぜんおぼえてないんだけどね。

[Nicolle] 思い出せるかぎり昔の思い出は、もうこの街だし。

[Nicolle] シチリアのことなんて、ぜんぜん知らないさ。

[Collone] アンアン!

[Nicolle] おまえは正真正銘トスカーナの生まれだろー? コロ。

[Collone] アン。

[Nicolle] イズーは?こっちに来る前はミラノだったっけ?

[Nicolle] ミラノっ子じゃん。ひゅー、カッコイイー。

[Isolde] いや、ええと……ちがう。人には言わないでほしい……のだが……

[Nicolle] エ、スィ。

[Isolde] 人には絶対言わないでほしいのだが!

[Nicolle] わかったよ!

[Narration] ニコルは片手をさしあげて、神に誓った。

[Isolde] うん……ジュリアーノは、本当にミラノの病院で生まれたんだ。

[Isolde] でも、私が生まれた場所は、アメリカだ。

[Nicolle] なんと、アメリカ人?

[Isolde] 違うっ。れっきとしたイタリア人だ! 国籍は。

[Isolde] 一瞬だって、アメリカ人だったことなんて無いぞ。馬鹿にしているのか?

[Narration] イゾルデはむくれて。固く口をつぐんでしまう。

[Narration] ニコルは二つ年上の少女をなだめすかし、あれ以来気に入ったらしいジェラートを屋台まで買いに走って、ようやく話を再開させた。

[Isolde] 父も母も、もちろんイタリア人だ。アメリカで法律の仕事をしていたんだ。

[Isolde] あ、いや、母は法律の勉強をする学生だったのかな?ちょっとわからないが。

[Isolde] ふたりは知り合って、結婚して、わたしが生まれた。

[Nicolle] そのあいだに、ごにょごにょがあった。

[Isolde] ……こ、子供をつくる時なら、ごにょごにょは良いことなんだ。

[Nicolle] 良いことは、いつどこでやっても、きっと良いこと───

[Isolde] ご、ごにょごにょの話じゃない!私がどうやってフィレンツェに来たかだ!

[Nicolle] そうだよ。つづけて。

[Isolde] ……父はイタリアで、国の仕事をするようになった。それで一足先に、イタリアに戻った。

[Nicolle] じゃあ、お産のあと、しばらくはママと一緒にアメリカにいて、それからイタリアに還ってきたんだね。

[Narration] イゾルデはうなずいた。還ってきた、という響きは彼女のお気に召したらしい。

[Narration] そして、もっとお気に召したらしい山イチゴのジェラートを、少女は真剣に味わっている。

[Nicolle] 美味しいんだったら、そんなに眉寄せて食べることないだろー?

[Isolde] ど、どう食べようが、私の自由だ。

[Isolde] 知っているか、ニコル。メディチは、ジェラートをヨーロッパに広めたんだ。

[Nicolle] へえ! それ、すごいや!イゾルデのご先祖がジェラートを発明したの?

[Isolde] 発明、じゃない。たぶん。カトリーヌ・ド・メディチが、フランス王家に嫁がれた時に、一緒にマエストーロを連れていったんだ。

[Nicolle] なるほどー。それでフランスで大流行ってわけだ。

[Isolde] うん。

[Nicolle] だけど、そのメディチのお姫さんのイズーが、ジェラートを食べたこともなかったなんてねえ。

[Isolde] そうじゃない! あ、ある!こういうのは、初めてだったんだ。

[Nicolle] じゃ、どーゆーのなのさ。ふだん、イズーが食べてるのは?

[Narration] イゾルデは身振りをまじえて説明した。

[Nicolle] ……はあ。

[Nicolle] 薔薇やら、鳥やら……毎度ちがう形で、金箔のちりばめられたやつを、ベネチアングラスに載せて、銀のスプーンで食べる?

[Narration] ニコルは、河原の草むらに身を投げ出して腹をかかえて大笑いした。

[Collone] アンアン!

[Isolde] わ、笑うな、ニコル!それは───へ、変なのか?

[Nicolle] 笑うよ。うちのオヤジだって笑う。

[Isolde] ニコルのお父さんは、どうやって食べるんだ。

[Nicolle] そりゃあ、真夏のくそ暑い日になるとあたしにグリエルモ(2000リラ札)を渡してこういうわけさ。

[Nicolle] 「リモーネだ。お前は好きなやつにしろ」

[Nicolle] それで、あとは庭に水まいてシャツ1枚でベンチに座って黙々となめる。

[Isolde] シャツ1枚!?

[Nicolle] そ。

[Nicolle] あたしも似たようなカッコでさ。並んで。はたから見りゃ、むしろ暑苦しいね。

[Nicolle] でもオヤジときたら、そりゃまあ嬉しそうに食べんだよ。ひっひひ。

[Nicolle] イゾルデのバッボはやんないの?

[Isolde] し、しない!使用人でさえ許されない。

[Isolde] 信じられない……下着一枚で、しかも晩餐会でもないのに、庭園で物を食べたりなどしたら……

[Nicolle] 怒られる?

[Isolde] ……口も聞いてもらえない……と思う。

[Nicolle] ふうん。それじゃ、ジュリアーノも可哀想だなあ。

[Isolde] …………

[Narration] 一瞬、強い怒りをまとったイゾルデだったが、すぐに消沈した表情になった。

[Nicolle] ……あ、ごめんよ。まだ、会ったこともないのに。

[Nicolle] イゾルデのお父さんも、きっと優しい、いい人だよ。

[Isolde] ……いや、いいんだ。我が家はやっぱりちょっと、おかしいんだと思う、から。

[Isolde] ……ただ……

[Narration] ためらっている様子のイゾルデをニコルは待った。

[Narration] 靴のつま先に波紋を作りながらイゾルデはぽつぽつと語る。

[Isolde] ジュリアーノの元気がないんだ……ピアノも、ぱったりやめてしまって……

[Isolde] まだ、こちらで一人も友達がいない。私が誘っても、外に出ようとしないんだ。

[Nicolle] そっか……

[Isolde] …………

[Nicolle] ねえ、ジュリアーノは、犬は嫌いじゃないかな?

[Isolde] 犬……そ、そうだな、吠える犬はたぶん怖がる。

[Isolde] でも……コローネみたいな子犬なら……

[Narration] 名前を聞いて、コローネの耳と尻尾が、ぱたんぱたんと動く。

[Nicolle] じゃあさ、コローネのこと話してみたら?それでもしよけりゃ、連れてきなよ。

[Isolde] …………いいのか?迷惑じゃないか?

[Nicolle] あン、迷惑?……どうしよっかコローネ?

[Collone] クゥ……?

[Nicolle] ねえ、ジュリアーノっていくつさ?

[Isolde] ニコルより、ふたつ下になる。まだ子供なんだ。

[Nicolle] じゃあ、コローネのが兄貴だ。

[Collone] クォ……アン!

[Isolde] え? コローネはどう見たってまだ……

[Collone] アン、アン!

[Nicolle] 犬には犬の齢の数え方があるんだってばーちゃんいってた。

[Isolde] あ、ああ、そういうことなのか。

[Nicolle] コロー? 弟の面倒、見られるかい?

[Collone] ゥゥ……

[Collone] ……アン、アンアン!

[Nicolle] だってさ。

[Narration] ニヤリとニコルは微笑んだ。

[Isolde] ありがとうコローネ!ジュリアーノも、きっと気に入ると思う。

[Narration] イゾルデは微笑みながらジェラートをゆっくりと味わう。

[Narration] ニコルは背中を地面にあずけて寝そべる。

[Narration] アイスの包み紙を丸めて投げるとそのたびに、コローネがくわえて戻ってくる。

[Narration] もう、朝の鳥たちは鳴きやんだ。時折耳にとどくのは、甲高い自転車のブレーキ、くぐもったクラクション、そして、森の葉ずれと、アルノ河のせせらぎ。

[Narration] そろそろイゾルデは“朝の散歩”を終えて、家に戻らねばならない時刻だった。それでも少女は、川面を見つめて座ったままだ。

[Narration] そのうちコローネは、イゾルデのそばにやってきてうとうとしはじめた。

[Nicolle] ……それでさ、イゾルデ、あんたは、どうなの?

[Isolde] どうって……

[Nicolle] なんか、あんじゃないの。溜め込んじゃってるようなこと。

[Nicolle] そういう顔、してるよ。

[Narration] コローネの背を掻いていた少女は毅然として告げた。

[Isolde] 私はメディチだ。メディチ家の長女だ。

[Isolde] フィレンツェは、私が住むのにふさわしい町だ。父祖たちも見守っていてくれる。

[Isolde] まだ馴れないこともあるのは認めるがそれは、すぐ覚える。

[Nicolle] …………うん。一生懸命なのはさ、いいんだけど……

[Nicolle] それでいいの……?ほんとにさ。イゾルデは。

[Narration] イゾルデは不服そうにニコルの背をにらむ。

[Narration] と、ニコルは無言で寝そべったまま、小さく片手をあげた。

[Narration] イゾルデの表情は、苦しげに曇った。

[Narration] 頭を落とし、川岸に拡がり消えていく波紋を見つめながら、かすかに少女はつぶやいた。

[Isolde] ……帰りたい……

[Narration] ふるえる拳が、草の葉先を握りしめる。両方の瞼に涙が浮かびあがる。

[Narration] ニコルは背中を向けたまま黙っている。

[Narration] こぼれる涙もぬぐわず、瞼を閉じてうつむいたまま、イゾルデは、静かにすすり泣いた。

[Isolde] ミラノに……帰りたい……

[Isolde] 帰りたいよ……

[Anri] フィレンツェに移り住んで、数年して、イゾルデのご両親は、離婚したんだそうだ。

[Anri] パパ・ジラルドが言うには、ニコルとイゾルデは、その頃から顔を合わせなくなったらしい。

[Helena] やはりそれがショックだったのかしら。

[Anri] でも、それでニコルが遠ざかる理由にはならない。

[Helena] ええ。たしかにニコルがそんな気を使うはずもないし。

[Narration] ヘレナはしばらく黙考して、つぶやいた。

[Helena] まだ、なにかありそうね。

[Anri] ボクもそう思うんだ。

[Helena] 私、入学したばかりのころのニコルをよく覚えているわ。

[Anri] うん。ボクも。

[Helena] ずいぶん荒れていたわね。何度、注意して無視されたかわからないわ。

[Anri] え、そうだった……?

[Narration] 杏里は本気で意外な顔をした。ヘレナは呆れかえる。

[Helena] そ、う、で、す。

[Helena] まるで野生の山猫よ。

[Helena] それが今では──さほど行動に変化はないにしても──せめて人の話くらいは、耳を貸すようになったのだもの。大進歩といえるでしょうね。

[Narration] 続く「あなたのおかげよ」という感謝の言葉はからくも飲み込む。

[Narration] 杏里は真剣に考え込んでいる。

[Anri] そうだったのか……むむむむ……

[Helena] たしか彼女は、この船への入学は、本意ではなかったと言っていたわね。

[Anri] うん。そうだよ。

[Anri] 素行が悪いとかで、パパ・ジラルドに放り込まれたんだ。今では、パパもそれは撤回してるけれど。

[Anri] ヘレナの言うように、学園で品格指導やら何やら、たたき込んでもらおうと思ったんだろうね。

[Helena] 本当にそうなのかしら……

[Anri] そうだよ。それはパパにも確かめて───

[Helena] ううん、そうではないの。

[Helena] 本当にニコルは、この船に乗ることを望んでいなかったのかしら?

[Anri] …………え?

[Anri] もしかして、わざと入学するようにしたってこと?

[Narration] ヘレナがうなずく。

[Helena] 休暇期間まで、家に戻らないのは、果たして父親への意地だけ?

[Narration] 杏里は腕組みしたまま、部屋をうろうろと歩き回った。

[Narration] そのままうつぶせに、ベッドに倒れ込む。

[Anri] ヘレナ、こっちでもっと真剣に考えよう。きっと名案が浮かぶよ。

[Helena] どうせすぐ寝てしまうくせに。

[Anri] ふふ。寝なくてもいいけど?

[Helena] 寝なさい。自分の部屋で。試験期間中よ。

[Anri] うーん、ニコル、ニコル、ニコルはなぜどうして……

[Anri] を、ポケエポ発見。どれどれ───

[Helena] 聞いてるの、杏里!?

[Narration] 翌日。二人はそろって試験に遅刻した。

[Narration] 杏里はいつものようにバーの椅子に浅くかけて、賭場をながめている。

[Narration] 試験週間あけの解放感は、この賭場にも伝わり、ドレス着の船員に混じる生徒の姿も、いつもより多い。

[Narration] 杏里の目当ての人物は、まだ賭場には訪れていない。

[Penelope] それ、メニューに加えようかと思うんだけど。どうかな?

[Narration] バーテンのペネローペは、手が空いたらしく、カウンターに肘をついた。

[Penelope] シンプルだけどなかなか新鮮だろう?

[Narration] グラスのふちには、パイナップルの細い葉、それと小さな星型に切り抜いたレモン皮のデコレーションが、流星のように飾られている。

[Narration] カクテルそのものは、冷ややかに輝く淡い白色で、さざ波を思わせた。

[Anri] ああ、うん。いいんじゃない。

[Narration] 気のない返事にペネローペはがっくり肩を落とした。

[Penelope] ……なんだ。せっかくきみに一番に飲ませたのに。

[Anri] ごめん。

[Penelope] 知り合いに教えてもらったレシピさ。その名も「北極星」。洒落てるだろう?

[Anri] …………ふーん。

[Anri] ……スコーネのほうがいいかな。ボクは。

[Narration] グラスを下げてしまおうしていた手を止めて、バーテンはおやと眉をあげた。

[Penelope] ……なるほど。

[Penelope] アクアヴィットの銘柄を変えてみる、か。うちの客には、そのほうが好まれそうですね。

[Penelope] ……待てよ。スコーネも悪くないが、リニアというのも風変わりで面白いな。しかし、この色は出ない……

[Anri] じゃあそっちは「南十字星」にするといい。

[Anri] ふたり一緒に飲むには、ちょうどいいんじゃないかな。

[Narration] ペネローペは合点がいったように幾度も頷いた。カウンターの奥に戻って、カクテルを試作しては味見している。

[Narration] ぼんやり考えてみると、この二つの星は、同じ夜空にありながら一生出逢うことがない。

[Narration] ……もしかして、ロマンティックとは言い難いのでは。

[Narration] そう思い直し、ペンに告げようとした時、小柄なファーストの制服が、にぎわう賭場の一隅に、かいま見えた。

[Narration] 杏里はすぐさま、その場へ走り寄って物も言わずに相手を抱き寄せた。

[Renee] な、なあっ!

[Renee] あ、杏里・アンリエット!?離せっ!

[Narration] かかえあげられ、じたばたと暴れるルネ。クラップスに興じていたクルーたちが、どっと湧いた。

[Anri] あれっ……? ルネかい?ねえニコル、知らない?

[Renee] 知らないよ! 降ろしてったら!

[Anri] あ、ごめん。

[Narration] テーブルを離れて杏里とルネは向き合った。ルネはまだ杏里を睨んでいる。

[Anri] 今夜は、イゾルデと一緒じゃないんだね。

[Renee] 一緒じゃなきゃ、いけない?

[Anri] ボクの個人的意見を述べさせてもらうならそうあるべきだ。

[Renee] なにそれ!相手のプライバシーとかさあ!

[Anri] ───だってきみ、イゾルデが好きなんだろ。

[Renee] ……っ…………

[Narration] ルネはしばらく杏里をにらみあげていたがやがて、肩を落としてつぶやいた。

[Renee] ……追い出された。

[Renee] ……うるさいっ……て。

[Anri] おや。

[Anri] それじゃ、ボクら似たもの同士かな。

[Renee] ば、バカ言わないで!そんなわけ……ないじゃん!

[Narration] 杏里はバーで二人ぶんのジュースを頼んだ。

[Anri] イライザから聞いたんだけど、彼女、不眠症で眠れないんだって?

[Renee] …………うん。毎晩、ほんの少ししか。全然眠れない時もある。

[Renee] 寝てても、よくうなされてる。

[Anri] そうなのか……ボクにはわからないけどきっと辛いんだろうな。

[Anri] 何とかしてあげたいものだけど。

[Renee] …………

[Renee] あたしは……知ってるよ!どうすればいいか。

[Anri] え? それは……?

[Renee] あ、杏里センパイには関係ないことだよ。

[Renee] それよりも、ニコルをどうにかしてあげたら?あれでいて、本当は寂しがってるんだと思うけど。

[Anri] ふぅ……まったくその通りだ。今夜あたり、こちらに顔を見せるかと思ったんだけどねえ。

[Renee] そんなんじゃダメだね。もっと、強烈にアタックしなくちゃ。

[Anri] そうだね。やっぱり、もう一度部屋に行ってみるか。

[Renee] ダーメダメ! 居留守使われるに決まってるじゃん。少しは頭働かせてよ。

[Renee] ニコルも授業には出てるんだからその時に逢えば?

[Anri] でも、ボクも授業中だよ?エスケープなんて、そうそうヘレナが許してくれるもんじゃない。

[Renee] でも、同じ場所で授業する時だってあるでしょ?ほら、合同なんとかって───

[Anri] あ……そうか……!それ、いいアイデアだよ。うん!

[Anri] ありがとう、ルネ!きみ、友達想いなんだね。

[Renee] どーいたしまーしてー。

[Narration] 杏里は活気と微笑みを取り戻して、手を振りながら、賭場を去った。

[Renee] ………………ふん、バーカ。

[Penelope] ねえ、お嬢さん?

[Renee] うわ!?

[Renee] な、なに。

[Penelope] イゾルデと懇意にされているようですね。

[Renee] 勘違いしないで!あたしは杏里なんかとは───

[Narration] ペネローペは両手をあげて、滅相もないとばかり首を振る。

[Penelope] シニョリーナ・イゾルデは、私の友人でもありまして。ご存知のように、彼女は他人から親身にされるのがお嫌いのようで。

[Renee] ……そんなことないもん。

[Penelope] よろしかったら、お嬢さんの知る範囲で結構。近頃の彼女の様子を教えてはくれません?

[Narration] ルネはいっそういぶかしげに相手を見すえた。

[Renee] ……そっちは何を?だったら、イゾルデの昔のこと、教えてよ。

[Penelope] それはできません。約束しましたから。

[Renee] じゃ、いい。

[Narration] ペネローペは苦笑して、きびすをかえすルネを引きとめる。

[Penelope] 好物くらいなら、教えられますよ。彼女の食卓の面倒を見ていたのは私ですからね。

[Renee] …………イゾルデの好きな物……

[Penelope] ああ、それと、杏里とニコル。あの二人の馴れ初めなんてどうです?

[Renee] ……なんで、あたしが……

[Penelope] この船で出会ったばかりのあの二人は、それはもう、忌み嫌う仲でねえ。まあ、ニコルの側から一方的にですが。

[Penelope] 思えば、私もあの一件から、杏里に一目置くようになったものです。

[Penelope] それに比べたら、今のあつれきなんてトラブルのうちに入りません。

[Narration] ルネは聞いているうちに気が変わったらしい。カウンターの椅子によじのぼる。

[Renee] ……いいよ。聞かせてよ。でも、そっちからだよ。

[Penelope] もちろん。なにかお飲みになりますか?

[Renee] オレン……イゾルデは何を飲むの?

[Penelope] あなたには早い。

[Renee] じゃあ、それちょうだい。

[Narration] 短い試験休みがあけてふたたび授業の日々となった。

[Narration] 試験結果が出るまでは、指導部のやる気もなく、しばらくは息抜きのような 授業ばかりだ。

[Narration] 各学年の屋外スポーツの内容を決める前日投票の結果、ファーストはスノーボード、セカンドはスキー授業となった。

[Narration] その夜には、ふだん見向きもされない、ウィンタースポーツ店やアウトドアショップがごった返し、大いに賑わった。

[Narration] ちなみにサードは、寒がりが多かったらしく、イヌイット式のイグルー作り──エスキモー風かまくらと言おうか──となった。

[Narration] もとはゴルフカントリーだった草地に、その雪山は忽然と出現していた。

[Narration] 学園のお嬢様がたの望みとあらば、甲板上にゲレンデすら作りだす、クルーたちの働きと献身たるや。

[Narration] しかし、そんな舞台裏には露とも思い馳せぬまま、生徒たちは各学年ごとに雪山のふもとに集結して点呼した。

[Narration] それが済むと、杏里たちの属するセカンドではスポーツ講師が、スキー初心者に挙手をさせた。

[Narration] ちらほらとポールがあがる。

[Narration] 雪国ロシア生まれのヘレナはもちろん、杏里もスキーは得意なほうだ。

[Narration] スキー経験者は、大方の予想通り、自由に滑って構わないらしい。

[Narration] 3人で仲良く滑走する姿を思い描きながら杏里はクローエを見た。

[Narration] クローエは憮然とした表情でポールを差しあげている。

[Anri] ……あれ?

[Chloe] …………なにか腑に落ちない点でも。

[Anri] あっ、そうだよね。ギリシャには雪は───

[Chloe] 降るわよ。雪くらい。

[Chloe] 悪かったわね。夏も冬も、テコンドーの練習ばかりしてて。

[Helena] はじめてだわ。クローエより得意なスポーツがあるなんて。ちょっと感激。

[Chloe] わたしも未知への期待でおおいに胸がときめくわ。

[Anri] クローエ?まず転び方から教えてもらうんだよ?

[Chloe] ───なんですって?

[Anri] いや、ホントだって。からかってるんじゃないってば。

[Chloe] ちょっとそこにいなさい。杏里。

[Anri] あ、危ないよ、クローエ!

[Helena] あっ、身体を先にねじらない方が、ああ、ああああ……

[Narration] 危惧したとおり、クローエはややこしく脚をもつれさせて雪につっぷした。

[Narration] ゲレンデにスキー板の十字架をかかげ、身動きのとれなくなっているクローエを、二人がかりで救出する。

[Anri] ……さて。

[Narration] 渋面のクローエを初心者講座に送り出すと、杏里は手袋をはたいてポールを握った。

[Narration] 見あげると、ゲレンデにはデコレーションケーキの飾りのように極彩色のウェアの生徒たちが弧を描いている。

[Narration] 山頂めがけて設置されたTバーリフトはすっかりおもちゃ扱いされて、興じるファーストたちの笑い声がここまでかすかに届いた。

[Helena] 杏里? 私も行くわよ。

[Anri] ───うん。

[Narration] 杏里の不安をすっかり見透かして、ヘレナは言った。

[Helena] まあ、大丈夫だとは思うけど……念のためね。

[Narration] 杏里よりもよほど心配そうにしているヘレナに、杏里は笑いかけた。

[Narration] 赤白のストライプのウェアに身を包んだニコルが、長い髪をなびかせ滑降してくる。

[Narration] ふもとまで滑りきると、バックエッジを立てて、豪快な雪のしぶきをあげた。

[Narration] 続いてアルマが、こちらは音もさせず、ほとんど雪も蹴立てずにブレーキングしてみせた。

[Alma] かっこいいですね、ニコルさん!

[Nicolle] ハハッ、アルマのほうがずっと綺麗だよ。

[Nicolle] あたしゃスケボーの癖があるからさ。うしろがズルズル滑って、なんかフラつく感じだ。

[Narration] 滑っているあいだだけは無心になれたのか、ニコルの表情も明るくなり、アルマは束の間、気を緩めた。───しかし。

[Renee] どいて──────ッ!そこ邪魔───ッ!

[Narration] 絶叫をあげながら二人の立つ場所に黒いウェアが突っ込んでくる。

[Narration] あわや身をかわすと、暴走する少女は雪原にもんどりうって、大の字に転がった。

[Narration] ぴくりとも動かなくなった少女を、ニコルはおそるおそるのぞき込む。

[Narration] 声をかけようとした矢先、ぱちりと少女の目が開く。

[Renee] アハハハハハハ!なにこれ! 面白ーい!

[Narration] ため息がもれる。

[Renee] アハハハハハ!

[Nicolle] ……初心者コースへ行ったほうがよかったんじゃないの、ルネ?

[Renee] 大丈夫だよっ、チ、チロルじゃバンバン滑ってたもん!

[Nicolle] どうだか。本当かね。

[Renee] 本当だよ!今はいっしょうけんめい、思い出してるんだから!

[Alma] でしたら、ルネさん。ボードの流れ止めのコードは、しっかり結んでおかないと。

[Narration] 遠くまで跳ねとんだボードを拾ってきたアルマは、ルネにボードを差し出しながら言った。

[Renee] あー、ごめんごめん。次はそうする。

[Narration] あきれ顔だったニコルの顔色が、にわかに曇った。

[Narration] ルネが振りむくと、杏里とヘレナが、緩い斜面をスケーティングしながら、こちらへ登ってきていた。

[Narration] 遠くから、ポールを振って彼女らの名前を呼んでいる。

[Narration] 無言でニコルは歩き出す。アルマとルネも、ボードを脇にかかえて、あとに続く。

[Narration] ニコルの顔色をうかがいながらルネがささやき声で告げる。

[Renee] 来ちゃったよ、杏里。

[Nicolle] わかるよ。見りゃ。

[Renee] いいの、どっか隠れなくても?

[Nicolle] ……雪にもぐるのか?

[Renee] じゃあ、あきらめムード?雪だるまのフリするとかさ。あたしトボけてあげるから。

[Nicolle] すこし黙っとれ。

[Renee] ───イヒヒっ

[Alma] …………

[Narration] ついに杏里が横に並んだ。すこし汗ばみ、息をはずませている。

[Narration] 頬が熱い。ニコルはうつむき歩きながら痛いほどに杏里からの視線を感じていた。

[Narration] 陽気な挨拶の声が響く。

[Renee] こんちは! 杏里センパイ。あと、ブリュルーカセンパイだっけ?

[Helena] ブルリューカよ。こんにちは、ロスチャイルドさん。

[Anri] やあ、ルネ。そのウェア、よく似合ってるね。

[Renee] イヒヒッ

[Anri] アルマも、やっぱりウィンタースポーツは得意なんだね。遠くからでも、よくわかったよ。

[Narration] アルマはこくりと頭を下げた。

[Anri] それと……ニコル?

[Nicolle] なかなか上手いだろ?遊んでばっかりいたんだから。このくらい出来て当然だよ。

[Anri] う、うん。

[Renee] イゾルデも? スノボやるの?

[Nicolle] ……さあ、どうかな。一緒にゲレンデに行ったことないから。

[Narration] 杏里は、立ち止まって、不思議そうにニコルたちを見る。

[Anri] リフトを使うんじゃないの?

[Nicolle] あたしゃ、あのタイプのは苦手なんだ。昔ひどい目にあった。歩いて登るからいいよ。

[Alma] 杏里様はどうぞ、リフトをお使いに。

[Anri] じゃあ、ボクも一緒に登るよ。

[Narration] 杏里は板の先を90度曲げてニコルたちのあとに続いた。

[Nicolle] ……ま、ごじゆーに。

[Alma] …………

[Helena] ………………杏里……

[Narration] ゲレンデのほうぼうから、生徒たちの歓声が届く。

[Narration] そのなかで、杏里たちの周囲だけが奇妙な沈黙に包まれている。

[Narration] きくり、きくり、きくり───しゃっ、しゃっ、しゃっ……新雪が、交わされる言葉のかわりに音を立てる。

[Narration] 一様に浮かない表情のなか、ひとりルネだけがニヤニヤしていた。

[Narration] アルマは、わずかに離れた場所を歩きながら、神妙な顔つきで成り行きを見守っている。

[Narration] 最初にその沈黙を破ったのは、杏里だった。

[Anri] ニコル。

[Nicolle] ……んー?

[Anri] すこし話をしたいんだけど、いいかな。

[Nicolle] いいよ。

[Narration] そう言葉を返しつつも、ニコルは立ち止まるわけでもなく、二人きりで話してくれるつもりはないようだった。

[Narration] まるで杏里がそばにいないかのように、黙々と斜面の先に向かっている。

[Narration] ニコルのプライバシーに関わるだろう会話を、この場ではじめていいものか、杏里は迷っている。

[Nicolle] なんだよ、あらたまって。

[Narration] 平坦な調子でニコルが促す。杏里は踏ん切りをつけて、口を開いた。

[Anri] 謝っておこうかと思って。

[Nicolle] ……ああ。あたしのグラッパ勝手にあけた件なら400ニコルで許してやるよ。

[Anri] え、ホント!?……あいや、その話はまた今度に。

[Anri] その、ここのところのきみの不機嫌の理由を教えてくれると嬉しい。のだけど。

[Nicolle] ………………

[Renee] へぇー、そんな風に見えなかったけどなぁー。

[Narration] アルマは、眉を曇らせ、なにか口を挟みかけたが言いよどんだ。

[Narration] 声は別の方向から届いた。

[Helena] そんなことないわ。

[Helena] 私も数日前までは気づかなかったけれど確かにあなた、すこしおかしいわよ。覇気がないというか……

[Helena] 杏里に不満があるのだったら、この際だから、言ってみなさいよ。

[Helena] 杏里にしても、もちろんそうだけど、見てられないわニコル、あなた。

[Narration] 少女は小さく、鼻で笑った。

[Nicolle] …………そうかい?

[Nicolle] 普通にスランプとかじゃ、だめかね。イタリア人も、たまにはナイーブになるさ。

[Helena] …………

[Narration] 皮肉だ。ただ、いつものニコルならではの辛辣さとユーモアは、感じられない。

[Narration] ヘレナはとっさに二の句が継げなかった。

[Anri] ……今、話す気にならないなら。いいよニコル。ボクは待つから。

[Anri] ただ……

[Narration] 悪寒が走り、ぎりっとニコルの口元が鳴る。

[Anri] ただこれだけ……、ひとつだけおぼえていてほしいのは、ボクが───

[Narration] ニコルが瞼を強くとじる。ルネがしたり顔で含み笑う。

[Narration] だがその時、やわらかな声が杏里の言葉を断ち切った。

[Alma] ……杏里様?ニコルさんは、いまお考えになられているんですよ。

[Alma] 将来のことや、人づきあいのこと。いろんなことを。

[Alma] もちろん杏里様のことも。

[Narration] ルネはさっとアルマを振り返った。

[Narration] その顔には、ニコルを追いつめる絶好の機会を逃した悔しさと憎しみが、色濃く浮かんでいた。

[Narration] しかし、そのルネの視線を受け止めたのは射抜くような、挑戦のまなざしだった。

[Narration] その力強さに、思わずルネはたじろぐ。

[Alma] ですから、杏里様。今はしばらく、ニコルさんを静かにしておいていただけませんか?

[Narration] おだやかに言葉を続けながらも、アルマの瞳は揺るがない。

[Narration] 新たな敵を発見したルネは再び憎々しげに少女をねめつけた。

[Narration] そんな水面下の駆け引きは知らぬままに、ヘレナが杏里をたしなめる。

[Helena] ……年頃ですものね。憂鬱になることもあるわね。

[Helena] 杏里……?そういうことなら……

[Anri] ダメだよ。

[Narration] 杏里はきっぱりと言い放った。

[Helena] ……杏里……!

[Alma] …………杏里様……!

[Narration] 杏里は手を緩めずに続けた。

[Anri] ニコル、きみはボクから逃げだした。今もまだそうだ。まだ、逃げ続けているね。

[Anri] きみとは何度も喧嘩をしたけどいつも必ず、ボクの目をまっすぐに見返して、堂々と言い返してくれたろう。

[Anri] でも、いまのきみは違う。まるで別人だ。

[Narration] 深く息を吐き、瞼を伏せた。

[Narration] 静かに自分の胸の内をのぞきこみながら、杏里は吐露することをやめない。

[Anri] ……傷ついている人を、たった一人にして、そっとしておくほうがいいって、ボクは嫌いだ。

[Anri] そういう時こそ、一緒にいなきゃいけないんだ。ただ、それだけでいいんだ。ボクはそう、信じてる。

[Anri] ボクらは、それほど強くなんかない。誰だって。

[Anri] ほんとうに一人にしてしまったら、手遅れになってしまう。そういうことだって……あるんだ。

[Anri] ボクはそれを……ある人から教わったんだ。

[Narration] 無意識のうちに、杏里の指先は自分の喉元に触れていた。

[Anri] ニコル。それにみんなも。

[Anri] こんなこと、ボクが言うと笑われるかもしれないけれど───

[Anri] ボクらが一緒にいられる時間は、永遠じゃないんだよ。

[Anri] 有限なんだ。大切なんだよ。

[Helena] (……っ……)

[Narration] ヘレナは息を呑む。

[Narration] 自分のお決まりの気遣いなどよりも、杏里はずっと深い場所で相手のことを想っていた。

[Narration] 杏里は、常にそういう人間だった。日々の馬鹿馬鹿しい喧噪のなかで、ついつい印象を薄れさせてはいるが、杏里は杏里なのだ。

[Narration] こんな辛そうな杏里を見るのは、胸がしめつけられたが、ここはまかせるべきだと、ヘレナにもわかった。

[Narration] 横を見ると、アルマもまた辛そうに唇を噛んでうつむいていた。

[Anri] ボクは……本当にいい加減な奴だけど、自分の気持ちだけは、絶対に裏切らない。

[Anri] ボクには、聴こえるんだ。きみの声が。

[Anri] 助けを求める声が聴こえる。だから一緒にいたい。

[Nicolle] …………っ……

[Narration] それ以上、もう何も言わないでくれ───

[Narration] その一瞬、ニコルは顔を振りあげ、揺れる瞳を杏里に向けて、懇願していた。

[Narration] しかし、見返す杏里の澄んだ瞳は自分の心の奥底を、本当の想いをいとも簡単に見透かしてしまうのだ。

[Narration] まったく、本当に……困った奴だ。

[Narration] その時が来たと、ニコルは知った。

[Nicolle] (さあニコル・ジラルド 一世一代の、大ばくちだ……!)

[Narration] 心中で決意をつぶやく。

[Narration] ニコルは、ようやく立ち止まると、こわばっていた肩を落とした。

[Narration] 全員に聞こえるほど大きい、これみよがしなため息をしてみせる。

[Narration] そして、せせら笑いを浮かべながら言った。

[Nicolle] どうしても、言わせたいのかい。

[Anri] それはきみの本心じゃない。別のものが言わせてるね。

[Nicolle] どっちでもいいだろ。本音もタテマエも、たいして、違いなんかない。

[Nicolle] 誰かを好きになるのに、理由なんかあるかい。だったら、嫌いになるのもおんなじだろ───

[Narration] 続く言葉を、予期しなかったはずはない。

[Narration] それでも、その言葉が実際に少女自身から発せられた時、杏里は総毛立つ自分を抑えられなかった。

[Nicolle] 杏里───もう、あたしの前に顔を見せんな。二度と、話しかけないでくれ。

[Nicolle] あんたとは、終わりだ。

[Narration] まるでうわずる様子などなく、ただ冷然と、ニコルは告げた。

[Narration] 立ちつくしたまま、誰も、一言も言葉を発しない。

[Narration] 自分の声の反響に耳を澄ますように、その場で、杏里の足下を見つめていたニコルは、やがてきびすを返し、またさくさくと雪の上を歩きはじめた。

[Narration] しばし呆然としていたアルマが、気を取り直して、ニコルのあとに続いた。

[Renee] ……ふーん。まあ、これはこれでいっか。

[Narration] ルネは、ボードを雪面に立てて頭の後ろに手を組み、ひとりごちる。

[Helena] ………………杏里……

[Narration] 小さくなる少女の背を見つめ続けている杏里に、ヘレナはなんと声をかけてよいのか、わからない。

[Alma] ……ニコルさん……っ……

[Narration] 追いついたアルマが息を切らしながらその名を呼んだ。

[Alma] ニコルさん、どうして……っ……

[Nicolle] ……わりい、アルマ。

[Narration] 悲痛な声でとがめるアルマに、ニコルは顔も向けず淡々と詫びた。

[Alma] …………っ……

[Narration] アルマは歯を食いしばり、やっとのことで責める言葉を飲み込んだ。

[Narration] 憤りが、胸にうずまく。

[Narration] 先走ったニコルの自暴自棄な言動も、傷つけられた杏里の、切ない瞳の色も彼女を支えきれなかった自分へのふがいなさもみんな───

[Narration] だが、そんなアルマに、ニコルはつぶやいた。

[Nicolle] ごめんな。

[Narration] 揺れる前髪の合間から、少女の頬をつたい落ちるしずくに、アルマははっとなった。

[Nicolle] まったく……ほんと最低だよな……ハハッ……

[Narration] ニコルは、まっすぐ前を向いて歩く。背後に遠ざかる杏里に、その心境を悟られないよう、せいいっぱい胸を張って。

[Alma] ニコル……さん……

[Narration] アルマはそれ以上は何も言わず、ただニコルの歩みにつき添った。

[Narration] ……そこへ、追いうちをかけるように信じられないような大音声がかぶさる。

[Anri] ニコル──────ッ!!

[Narration] 杏里の絶叫はゲレンデ中に響き渡った。なにごとかと、生徒たちが滑りやめたほどの。

[Narration] 肩を引くヘレナを振り切って、杏里は叫んだ。

[Anri] ボクは───ボクはあきらめない!

[Anri] ぜったいに!きみを取りもどしてみせるまでは!

[Anri] ボクは、だってボクは──────

[Narration] ニコルは恐怖に唇をわななかせた。とっさに両手を耳にやる。スノーボードが雪面へと落ちる。

[Narration] 杏里を止めなくては……!ニコルをかばうように立ったアルマがきっと振り返る。

[Narration] そのアルマの視界に飛び込んできたのは───

[Narration]              『オトナになれば〜♪』

[Helena] え? 歌声が?どこから?

[Narration]     『あなたもわかる〜      そのうちに〜〜♪』

[Narration] きょろきょろと周囲を見渡すヘレナのはるか頭上を、華麗なエアトリックを決めてしなやかな影が駆けあがり、飛び越えていく。

[Helena] あ、杏里ッ、危な───!!

[Anne Shirley] 恋人がサンタクロ〜ス♪

[Anne Shirley] 本当は カ〜ネル・サンダ〜ス♪

[Anne Shirley] 道頓堀に〜 突き落とし〜て〜♪

[Narration] そのままアンシャーリーは大きな大きな放物線を描いて、杏里に突っ込んだ。

[Narration] ……さらにもう一人を巻き添えにして。

[Renee] ……え?

[Anne Shirley] ヤッホー☆ 杏里〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜♪

[Anri] ボクはキミのことを──────ん? な、なに?

[Anri] うわアンッふぎゅあ───!??

[Renee] うぎゅ!

[Narration] ゲレンデに盛大な雪煙が舞い上がる。衝突を起こした者たちが一瞬かき消える。ボードの折れる嫌な音も聞こえた。

[Narration] 墜落地点にヘレナが慌てて駆けよっていく。

[Narration] その光景を遠くに見ながらアルマは、まだ何が起きたか知らず、耳を塞いでうずくまっているニコルの肩に手を置いて、安堵の息をついた。

[Narration] ルネが自慢気に語る顛末を、イゾルデは無言のまま聞いていた。

[Isolde] ───ではまだ賭けは終わってはいないというわけだな。

[Renee] まあ、そーだけどー。

[Renee] でも、ニコルのあのうろたえぶりったら、なかったけどね!

[Renee] ムービーも撮ったし。観るでしょ?

[Narration] ルネは頭のバイザーをはずしてルネに差し出した。

[Isolde] 今はいい。

[Renee] え? 見ないの? あ、そう……

[Renee] 見たいって言ってたのに……

[Narration] ぼそぼそ不平をこぼすルネのことは意に介さず、イゾルデは考え深げに口元に指先をそえた。

[Isolde] 残りあと1日だな……

[Narration] ルネがイゾルデの顔をのぞきこむ。

[Renee] ……どうすんの、イゾルデ。もしかして途中でやめちゃう気?

[Renee] あたしはべつにそれでもいいけど───

[Narration] 威圧する視線にルネは身をすくませた。とっさに話題を変える。

[Renee] ね、ねえ、ルネだったらあれ、見せてよ。

[Isolde] 別に、何も約束などしていないが。

[Renee] でも、何度もあたし、頼んだじゃない!

[Isolde] …………ああ、あの絵か。

[Renee] え……? 絵なの? あの紙筒。重要な書類とかじゃないの?

[Isolde] 以前にも絵だと言ったはずだ。

[Renee] ……そうだっけ。

[Isolde] 素描(そびょう)といって、鉛筆で描かれた単なる習作だ。おまえが見ても、つまらないものだ。

[Renee] でも……大切なものなんでしょ?

[Renee] ニコルが……賭けにのってくるくらい。

[Narration] 神妙な顔つきをしてルネが尋ねる。

[Narration] イゾルデは薄暗い通路の先にじっと目を凝らした。

[Isolde] ああ……大切なものだ。

[Collone] アンアン!

[Narration] 石壁に囲まれた広場に吠え声が反響する。

[Narration] ジュリアーノがフィレンツェの街に繰り出したのは、これで二度目。

[Narration] こんどは、人気のない河原ではなく、観光客の行き交う広場に、ニコルは誘い出した。

[Narration] 広場では、年少の子供たちが、彫像や、大人たちの合間をすりぬけるようにして、やかましく駆け回っている。

[Narration] ジュリアーノは犬用のおもちゃを手に、コローネの気を引こうとして、やっきになっている。

[Narration] イゾルデとニコルは、石段に腰をおろし、離れた場所から、その様子を見つめていた。

[Narration] すると、3人ほどの少年が、コローネにさそわれて近づいてきた。ジュリアーノと、そう齢は変わらない子供たちだ。

[Narration] なにか口々に話しかけている。が、ジュリアーノは少年たちに顔を向けずに、その場でかたまっている。

[Narration] 突然、声をかけた少年のひとりがジュリアーノの手から、おもちゃをひったくった。

[Narration] 振り仰いだジュリアーノの黒い巻き毛がはねる。

[Isolde] ……!

[Narration] イゾルデは立ち上がり弟のもとへと駆け寄ろうとした。だが、その手をニコルが強く掴み首を振る。

[Nicolle] だめだよ。

[Nicolle] 今、あんたが出てったら、ジュリアーノには、一生友達ができなくなる。

[Narration] ニコルはそのまま、イゾルデを引きずって太い柱の影に隠れた。

[Narration] 気が気でない様子で、イゾルデは広場を盗み見る。

[Narration] ジュリアーノは、悲痛な表情を浮かべ、それまでイゾルデたちがいた場所を、しきりに振り返っていた。

[Narration] 子供たちは、おっかなびっくりにおもちゃをコローネに向かって振ってみている。

[Narration] コローネは子供たちにさかんに吠えたてた。

[Narration] とり残されたジュリアーノが、握ったこぶしで、左右の頬を何度もこすりあげる。

[Isolde] …………ニコル……

[Narration] 殺気立った声でイゾルデがつぶやく。

[Narration] それでもニコルは、なにくわぬ顔のまま握った手を離さない。小さく、口笛すら吹きはじめる。

[Narration] そうしているうちにコローネは一人の少年のズボンすそに噛みついた。

[Narration] 少年は驚いて転んだ。それでもコローネは唸りながら、口を開こうとしない。

[Narration] 少年は泣きだし、持っていたおもちゃを放り投げた。

[Narration] もう一人がそのおもちゃを拾いあげて、おずおずとジュリアーノの手に返す。

[Narration] しかしそれは受け取らずに、ジュリアーノは、噛みつきっぱなしのコローネのそばに、しゃがみこんだ。

[Narration] なにか話しかけながら、その背を撫でて、落ち着かせようとする。

[Narration] が、興奮したコローネは唸りっぱなしのまま、口を開こうとしない。

[Narration] ジュリアーノは、ゆっくりと周囲を見渡し落ちていた少年の靴をとると、ぱかんとコローネの頭を殴った。

[Collone] キャイン!

[Isolde] あっ。

[Nicolle] ありゃ、そう来たか……コロすまん……

[Narration] 子供たちもあっけにとられている。

[Narration] コローネはひどく申し訳なさそうに、地面に伏せた。

[Collone] クゥ〜〜〜〜

[Narration] 少年たちはその、間の抜けた様子に声を立てて笑った。

[Narration] 噛まれた場所にも傷はなくスボンに穴があいただけだった。

[Narration] 少年たちが再び話しかけてくる。おずおずと相づちを打ちながら、ジュリアーノが応じる。

[Narration] 起きあがったコローネは少年たちの足の間をくるくると走ってまわる。

[Narration] 一時、青ざめたイゾルデの顔に血の気が戻り、大きなため息がもれる。

[Nicolle] あいつらの顔は、あたしも知ってんだ。大丈夫。べつに悪いやつらじゃないんだよ。

[Nicolle] でもさ、新顔は、ちょっと怒らせて試すんだ。

[Nicolle] 悪かったね、イズー。

[Isolde] ……ニコルの時は、どうしたんだ?

[Nicolle] 髪の毛、引っ張られてさ。全員ぶん殴った。

[Narration] 肩をすくめるニコルをイゾルデはあきれ顔で見つめた。

[Isolde] ニコルが一番乱暴じゃないか。

[Isolde] ……さっき、私が出ていったらどうなったんだろう……

[Nicolle] ……きっと馬鹿にされて、連中の相手にゃされなくなったろーねー。

[Nicolle] 姉ちゃんとままごとでもしてな……ってね。

[Isolde] ままごとなんてしないぞ!

[Isolde] あ……いや……

[Narration] ふたたびイゾルデは広場をふりかえった。

[Narration] ジュリアーノは、その顔を輝かせてできたばかりの友人たちと一緒に、広場の噴水の彫刻によじのぼっていた。

[Isolde] ありがとう……ニコル。

[Narration] ニコルは首を振る。

[Nicolle] がんばったのは、ジュリアーノさ。

[Narration] こくりとうなずくイゾルデの目に、涙がにじんだ。

[Narration] 帰りしな、コローネとジュリアーノのあとを歩きながら、上機嫌のイゾルデが歌を口ずさむ。

[Isolde] Quante bella giovinezza…… 

[Narration] いつもなら、すぐにからかっているはずのニコルは、その時ばかりは、イゾルデにあわせて口笛のメロディを奏でた。

[Narration] やがて、二人は声を揃えて歌い出す。

[Isolde] Chi vuol essere lieto, sia  di doman non ce certezza……

[Narration] 影の伸びる路地に小さな歌声が染み渡っていった。

[Narration] ふと笑いやんだ合間に、イゾルデが言った。

[Isolde] ニコル。ヴェッキオ橋を渡ってみないか。

[Nicolle] あん?ポンテ・ヴェッキオなら、毎日通ってるよ。

[Nicolle] 嫌いだよ、あんなところ。

[Isolde] そ、そうか?

[Nicolle] いつも観光客でいっぱいだろ。スリに間違われて、ガードマンに追いかけられたこともあるし。

[Isolde] そうなのか。でもそんな心配はいらない。私たちだけで、ゆったり通れる。

[Nicolle] んん? それって?ああ、美術館のことだろ?

[Nicolle] 確か、橋の2階んとこが、ずーっとつづく細長い画廊になってるんだよね。

[Isolde] うん。

[Isolde] 昔はメディチ家の専用通路だった。“ヴァザーリの回廊”と言う。

[Nicolle] へえ! 宮殿だけじゃなくてあんな橋まで大改造してたのか!

[Narration] イゾルデはほこらしげに微笑し、頷く。

[Nicolle] でも、あたしゃ美術品なんてこれっぽっちもさ……

[Isolde] 私も回廊を通ったことはないんだ。まだ、一度も。

[Isolde] でも、いつでも自由に入ってくれて構わないと、市長も、館長も、約束してくれた。

[Narration] じっくりと間をおいて考え込んでからイゾルデは続けた。

[Isolde] あそこに、父と私しか知らない宝物がある。

[Nicolle] わお、宝物!?イゾルデも見たことないって?

[Isolde] いつかジュリアーノには教えようと思っていたんだ。よければ、ニコルも、一緒に。

[Nicolle] 行く行く!

[Isolde] ふだんは観光客がいるからだめだ。だから、休館日に入れてもらおうと思ってる。

[Narration] イゾルデは急に不安になってきたようで何度も念を押した。

[Isolde] ……秘密だぞ。絶対に、秘密だぞ。

[Nicolle] エ、スィ!

[Isolde] 神様に誓えるか───?

[Narration] ニコルは神妙な顔で片手をあげた。

[Narration] イゾルデは頷いた。

[Nicolle] で、宝って何なの?

[Isolde] ……何なのかは、私も知らない。でも、それを作った人の名前は教えてもらった。

[Nicolle] へえ、誰さ? 有名人?それとも、うんと偉い人とか?

[Isolde] ダヴィンチ。レオナルド・ダ・ヴィンチ。

[Nicolle] ダヴィンチ!?

[Narration] 大声をはりあげたニコルに、通りの反対側を歩いていた通行人までがいっせいに振り向いた。

[Narration] コローネとジュリアーノも不思議顔で引き返してくる。

[Narration] イゾルデは、頭をかきかき謝るニコルを、きっとにらみつけた……

[Anne Shirley] おねがいしまーす。

[Anne Shirley] おねがいしまーす。

[Narration] なんとも大回廊にそぐわぬ、アーリーアメリカンファッションに身を包んだアンが、通行する生徒たちの間を、ぱたぱたと走り回る。

[Narration] 脇にさげた籠から、なにやら手渡されたものを、少女たちはきょとんと見つめている。

[Narration] 通りがかったのは、各種パーツのたぐいを山と積んだカートを引く天京院。

[Narration] 脇にはコーヒー豆の徳用袋と、コーヒー味のキャットフードもかかえている。

[Tenkyouin] おい。なにしてるんだ?

[Anne Shirley] あら、カナエ。買い出しね。はいどうぞ。

[Tenkyouin] ……ん。『超ヤバ・クーポン』? なんだこりゃ。

[Narration] カートをその場に立たせ、自由にした手で、チケットを受け取る。

[Anne Shirley] 杏里が“まわるOSUSHI屋さん”をプロデュースして、なかなか流行してるじゃない?

[Tenkyouin] あの浮きまくってる店は杏里の仕業か。

[Anne Shirley] あたしも負けていられないと思って。前からアイデアを暖めてたのよ。

[Tenkyouin] ……それでハンバーガーショップを?

[Anne Shirley] ええ!その名も『アンシャーリーズ』!!

[Tenkyouin] 本気か?よく指導部が許したな。

[Anne Shirley] 総合教育の一環なのよ。でも、ちゃんとお客さまが来てくれないとつぶれちゃうの。

[Tenkyouin] ……なんだ、この「L/S/Dセットからお選びください」ってのは。

[Anne Shirley] アッパーソースとダウナーソースはトッピングし放題です。

[Anne Shirley] 来週から開店するからカナエもきっと来てね?

[Tenkyouin] 習慣性があったりするわけか。

[Anne Shirley] きっと大繁盛すると思うわ。

[Tenkyouin] おい。

[Tenkyouin] ……まあ、あたしもディスプレイに向かいながらジャンクフードってのは、一度やってみたかったからな。発明家として。

[Anne Shirley] ぜひいらしてね。まあ正確にはジャンキーフ───

[Tenkyouin] 普通に商売しろ。

[Anne Shirley] あら、杏里だわ。

[Narration] 天京院は日差しの差し込む回廊奥を見やった。

[Narration] ヘレナと並び歩いてくる。しばらくぶりに、杏里の姿を見た気がする。

[Narration] 杏里も天京院に気づいて笑みを浮かべた。

[Narration] 見慣れた笑顔のはずなのに、いつも違って見える。

[Narration] つと、脇にいたヘレナの顔色がわかりやすく変わった。

[Narration] 不思議そうにアンシャーリーが視線の先をたどると、回廊の反対にはアルマと、ニコルがいた。

[Narration] 天京院は、そのまま杏里を見つめ続けた。そうさせる気配があった。胸がしめつけられる。なんて切なげに微笑む───

[Narration] そのまま、回廊の中央で、杏里とニコルはすれ違った。

[Narration] 何も起きない。視線を交わすこともなく、ただ、二人はゆき過ぎる。

[Narration] お互いが目に見えず空気となってしまったかのように。

[Narration] 通路に居合わせた生徒たちの誰ひとり、それを気にかけてはいない。別に何が起きたわけでもない。

[Narration] それでも、妙だ、と天京院もアンも同時に思った。

[Narration] これまでそんなことは、ただの一度だってなかった。

[Narration] つれだって歩くアルマとヘレナはかすかに視線を重ねて、また伏せた。

[Narration] 杏里とニコルの様子を回廊にかかる高架から見おろす、イゾルデとルネの姿があった。

[Narration] ルネは、興味を剥きだしに。欄干に頬杖をつく。無表情のイゾルデがその脇に立つ。

[Narration] 見下ろす先で、杏里とニコルの、二人の背中がゆっくりと離れていく。

[Narration] ルネはその様子をウエスタンムービーの決闘シーンのようだと思った。

[Narration] こつ、と杏里の足音が止んだ。

[Narration] 予感にアルマも歩みを止めて振り返る。

[Narration] 杏里は身体をめぐらせながら、呼びかけた。

[Anri] 僕の大好きなニコル、忘れ物だよ。

[Narration] 周囲のざわめきにも埋もれず、言葉は星の瞬きのように澄んで、相手に届いた。

[Anri] 僕の胸の中の部屋いっぱいに、きみの荷物が散らかしっぱなしなんだ。

[Anri] みんな宝物だよ。どこかへ捨てるなんてできない。

[Anri] きみに預けた物もたくさんある。あんな捨て鉢な言葉で、ぜんぶ返してくれたつもりかな?

[Anri] ボクを嫌うなら、もっと本気にならなきゃ。

[Anri] でないとボクは永遠に、きみを愛することをやめられやしない───

[Narration] 杏里に背を向けたままニコルはゆっくりと足を止めた。

[Narration] 誰にも表情を見せないまま呆然と立ちつくしている。

[Isolde] ………………

[Narration] ルネは欄干からぴょんと飛び退いて、隣人を見あげた。

[Renee] 言ったね!確かに言った、あたし聞いたよ!

[Renee] ね、イゾルデも聞いたでしょ?あれって、完全NGでしょ?

[Narration] イゾルデは一歩前に出ると高架の上から高々と呼ばわった。

[Isolde] ──────ニコル!金貨の表裏は決したな!

[Isolde] 賭けは終わりだ!お前の、負けだ!

[Narration] ニコルはびくりと身体を震わせた。

[Narration] 髪を波打たせながら身をひるがえし駆けだした。杏里のもとへ。

[Alma] ニコルさん!

[Anri] 賭け───?

[Narration] 頭上から届いた声に、振り仰ごうとした杏里の頬が熱くなった。

[Narration] パン───と、乾いた音が響く。

[Narration] 頬を抑え、呆然とした表情で杏里は目前のニコルを見つめる。

[Narration] 回廊の生徒たちの視線が二人に集まった。

[Anri] ……っ……ニコル……

[Nicolle] 馬鹿野郎ッ!

[Narration] 光るしずくを振りまきながら、少女は叫んだ。

[Narration] そして、飛びつくようにすがりつき、ありったけの力で杏里を抱き寄せた。

[Narration] 唇が重なる。ほんの一瞬。強くからめられた、滑らかな舌。全身が燃える──────涙。

[Narration] ふるえながら、抱擁を返そうとめぐらせた杏里の腕は、はねのけられた。

[Narration] そのままよろめくようにして少女は走り去る。

[Narration] 残された杏里に、かすかに届く別れの言葉を残して。

[Narration] 「Addio Anri───」  

[Anri] …………ニコル!!

[Narration] おおいに不満の表情を浮かべ階下の出来事を睨んでいたルネが、イゾルデを見る。

[Narration] イゾルデは、もう振り返りもせずその場を歩み去るところだった。

[Isolde] Addio Nicolle───

私の復讐も終わった。

[Narration] イゾルデとニコルのふたりの賭けは、こうして幕を閉じた。

[Narration] マリーゴールドのもうひとつの花言葉、  ───それは“別れの悲しみ”

[Narration]              ─────つづく。

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