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sapphism_no_gensou:7041

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[Narration] 夜風をはらみ、デッキに白衣がひるがえる。

[Narration] 長い黒髪が重なり、それは船旗のようにたなびいた。

[Narration] 湯気の立ちのぼるカップを手に、少女は手すりに積もった雪をはらい落とし、寄りかかった。

[Narration] ここはアメリカ合衆国北東部。マサチューセッツの州都、ボストン。

[Narration] 遠く湾上に浮かんでいるのは、そのボストン港の灯火だった。

[Narration] 昨夜の───あの宝石箱を思わせたニューヨーク港にくらべれば、ずいぶんひかえめな光景だ。

[Narration] 学園船“H.B.ポーラースター”は、埠頭から数マイル離れた湾上に、その巨体をたたえる。

[Narration] 岸から眺めれば、まるで、海上に世界の壁が、こつぜんとせりあがってきたかのように映っているだろう。

[Narration] 今夜も、船からせりだした照明アームの下で、せわしくカーゴが行き来している。

[Narration] カーゴ、すなわち貨物船も、ポーラースターの保有する設備の一つ。

[Narration] クレーンとコンベアーの組み合わされた、半自動化されたロボットのような外見を持っている。

[Narration] ポーラースターのわき腹にある、舷側ハッチは開放され、内港に海水を引き入れて、カーゴのための一時的な港となっている。

[Narration] まるで巣に蜜を運ぶ蜂のように、船内の港と、陸(おか)の港とを、カーゴは機敏に往復していた。

[Narration] 言うまでもなく、作業にあたるクルー全員が、さまざまな人種の、日に焼けた肌を持つ女性たちだ。

[Narration] 昨夜の停泊時間中に積みきれなかった物品を、また慌てて補充しているのだろう。

[Narration] ニューヨークであれだけの積み荷を飲み込んでおいて、まだ足りないとは……

[Narration] 少女はみずからの船の暖衣飽食ぶりに、嘆息をもらした。

[Narration] 湾からチャールズ河の河口にかけては、点々とハーバーがならび、大小のヨットが碇をおろし、帆を休めている。

[Narration] ふと少女は、そんな帆船の一つに目をとめて、そこにインディアンの扮装をした男たちが、奇声を発しながら乗り込んでくる様子を思い描いた。

[Narration] 男たちは、船に積まれた1万ポンドの紅茶の葉を海に投げ入れ、湾を深紅色に染めていく。

[Narration] ───曰く、ボストン・ティーパーティー。

[Narration] 英国の植民地支配に対し、民衆が奮起した事件の舞台となったのが、この場所だった。

[Narration] しかし、全盛期には、世界の中心と呼ばれ活気づいたこの地も、今ではMITやハーバードなどのカレッジを擁する、大学の街、ゆるゆると再開発のすすむ古都である。

[Narration] また、ボストン港は、少女・天京院鼎にとっても特別な寄港地だった。

[Narration] 出不精な彼女が、わざわざ雪積もる甲板にまで、足をのばすほどに。

[Narration] なにしろ、茶会事件以降、植民地の民衆はあてつけのようにコーヒーを愛飲するようになった。

[Narration] ひいては合衆国を世界一のコーヒー消費国へとならしめたのだ。

[Narration] 日本への伝来とは、全く経緯は異なっているが、この港が、琥珀色の飲み物と深く関わりある場所には違いない。

[Narration] そんな、他人には少々共感しがたい感慨をもちながら、白衣の少女はカップをゆるゆると傾けていた。

[Narration] ぬくもりが掌の中から去りゆくころ、ポーラースターめがけ快走する、一隻のランチ(連絡艇)が目にとまった。

[Narration] 背の高い船上には、あきらかにこちらへ向けて手を振る、豆つぶのような人影がある。

[Narration] 遠く、ほの暗くとも、特徴ある民族服のシルエットに、誰かはすぐ見当がついた。

[Narration] ……冬期休暇最後の日に、ようやく戻ってきたようだ。

[Narration] 風のうなりにかき消され、聞きとれるはずもないのに、自分の名が呼ばれているようにも思えた。

[Narration] 天京院は、手を振りかえすこともせず、ランチの近づいてくる様子を、すげなく見おろし、不快そうに顔をひそめた。

[Narration] ……自分がここに居るのは、ボストンを静かに眺めやる、ただそれだけの為だった筈だ。

[Narration] 間を置かぬうちに、天京院は、するときびすを返し、船内へ姿を消してしまった。

[Narration] そうして誰もいなくなったプロムナード・デッキ。その、はるか下方の波間。

[Narration] ランチは、水中翼で波をかきわけながら、ポーラースターの船べりへと、静かに体を寄せていく。

[Narration] 高めの波のわりに、ランチが安定した航行を続けられるのは、先進のジャイロ装置のおかげだ。

[Narration] そのトップデッキに、おそるおそる立っているのは、ファン・ソヨン。

[Soyeon] あ……あれっ……ヘンです……?

[Narration] 少女は、それまで勢い良く振り動かしていた両手を、気落ちしたように、ゆっくりとおろした。

[Narration] その脇に立っているもう一人の少女へ、失意混じりの顔を向ける。

[Soyeon] 確かに居たと思ったんですけど……見えなくなっちゃいました。

[Narration] ランチはゆるやかに船速を落とし、ポーラースター後部左舷へと向かう。

[Narration] 巨大な船体の後部には学園施設が集まり、学園正門もやはりそこにあった。

[Narration] この、ぜいたくな巨船にふさわしい、重厚な装飾のほどこされたハッチが、ゆっくりと開き、緋毛氈(ひもうせん)敷きのタラップが少女たちを出迎える。

[Narration] チマチョゴリをひらめかせ、軽やかにタラップへと飛び移ったソヨン。

[Narration] そのあとから、しずしずと続くのは、彼女の上級生、銀髪の少女ヘレナ・ブルリューカ。

[Narration] 礼装で出迎えたPSたちに、二人は揃って会釈をした。

[Narration] 背後では、再び重々しい音を立て、ハッチが閉じていく

[Helena] やっぱり、私たちが最後の帰校者だったみたいね。

[Soyeon] はい。先輩やあたしの国では、もう新学期になってますね。

[Narration] ヘレナは頭の中に、地球儀を思い描いて、なるほど、とうなずいた。

[Narration] 冬期休暇の初日、サンフランシスコ港に寄港し、生徒たちを開放したポーラースター号は───

[Narration] 休暇の期間を目一杯消費して、その巨躯のため通行不能であるパナマ運河を避けながら、南アメリカをぐるりと周回した。

[Narration] そして、カリブ海を経由しつつ、フロリダなど各寄港地にて帰還する生徒らを迎え入れ───

[Narration] 休暇が終わりを告げるちょうどこの日、ボストンへとたどりついた。

[Narration] ヘレナ・ブルリューカら、残る最後の生徒を収容した船は、明日より新学期を迎えて、北大西洋航路の旅へと出発する。

[Narration] その目的地は、歴史と情熱の国イタリア、最大の港町ジェノバである───

[Soyeon] デッキから、こちらを見てらしたの、天京院先輩でしたよね? ヘレナ先輩。

[Narration] 自信なさげに尋ねるソヨンに、ヘレナはけげんな視線を投げる。

[Helena] ……ソヨンさん?

[Helena] あなた「かなえさーん」って、叫んでいたわよ?

[Soyeon] え?

[Helena] なんだか杏里みたいで、どきっとさせられたわ。

[Soyeon] えっ……ええっ?

[Narration] どぎまぎする後輩をよそに、ヘレナは、エレベーターホールへと続く大理石の階段をのぼっていく。

[Helena] そうね……暗いうえに、小さくしか見えなかったから、私にはよく分からなかったけれどね。

[Soyeon] そっか……それじゃ、向こうからも、見えなかったかもしれないですね……

[Helena] うん……

[Helena] ところで、意外だったわね。

[Helena] ソヨンさんは、普段からヘリコプターで乗り降りしているのだと。

[Helena] もう、その、海を見ても、大丈夫なの?

[Soyeon] 実は……ランチに乗せていただくのは、今日が初めてなんです。

[Helena] あら、ふうん、そうだったの?

[Narration] 丸い眼鏡の向こうには、単純に驚きがあらわれている。

[Soyeon] はいっ、今日はいい機会だと思って。

[Soyeon] 頑張って、勇気を出して、なんとか。

[Narration] ヘレナは顔をほころばせた。

[Helena] あなたの努力家ぶりには、本当に感心するわね。

[Helena] わたしも見習うわ。

[Soyeon] ええっ、そんな。あたしとても、ヘレナ先輩には───

[Narration] ジリリンと、エレベーターの到着を知らせるベルが鳴った。

[Narration] 二十世紀初頭の風合いを残した、フェイクの格子扉がスライドし、壁に黒檀を張った広いケージがあらわれる。

[Narration] はにかむ後輩の肩を、ヘレナは軽くつつく。ケージ内に移り、上部デッキへと向かって、二人は上昇しだした。

[Soyeon] 思いがけず、あのランチに、ヘレナ先輩が同船してくれていて助かりました。

[Soyeon] やっぱり、一人きりでああいう場所に出るのは、まだ……

[Helena] 大丈夫よ。じゅうぶん前進してるもの。ウン。そう。向上心があなたの美徳ね。

[Soyeon] はいっ、ありがとうございます。

[Soyeon] あたし、なんだか、ランチの小窓に、ポーラースターの姿が近づいてきたら、もう我慢ができなくなって。

[Soyeon] すこしでも早く、船を間近に見たくて。

[Soyeon] いきなり、先輩を外に連れ出したり……すみませんでした。

[Helena] いいのよ。でも……

[Narration] 次々と切り替わっていく階の表示に目をやりながら、ヘレナはまなじりを下げた。

[Helena] ふふっ、珍しいわね。

[Helena] 休暇を終えて、明日からまた授業が始まるっていうのに。

[Helena] そんな時に、学園を目にして、楽しい気分になるなんて。

[Soyeon] ええっ? ヘレナ先輩は、ウキウキしてきませんか?

[Helena] まさか。

[Narration] ヘレナはまぶたをとじて、肩をすくめた。

[Helena] ……でもね、本当のところ、私もすこしホッとしたのよ。

[Soyeon] ほっと、ですか?

[Narration] ソヨンは、意外でならなかった。

[Narration] いつも成績も上位にあり、学園一勤勉にみえる彼女が、時には、学業をうとんじることもある。

[Helena] ええ……ホッと……

[Helena] 飛行機が空港に降りていく時……

[Helena] 湾に浮かんでいる彼女、ポーラースターが、だんだん近づいてきて……

[Helena] うんざりする気分と一緒に、肩から力が抜けていくみたいな……そんな気持ち、ね。

[Soyeon] そんな気持ち……ですか。

[Helena] ふぅ……なにしろ、帰省中に2件も縁談を押しつけられて……

[Soyeon] お、お見合いですか?

[Helena] ええ、私個人の予定はお構いなしでね。

[Helena] 縁談がまとまれば、そもそも学校に戻る必要は無いだろう、だなんて……まったく……

[Helena] おかげさまで、こんなギリギリの帰校になってしまったわ。

[Soyeon] はぁー、ふぇー、ほぉー

[Narration] ソヨンは目を見張りながら、しきりに頷いている。

[Helena] ちょっと? もちろん断ってきたのよ? 向こうの方にも、きちんと理由をお話しして、分かっていただけたし。

[Soyeon] それは……勿体ないです……

[Helena] ハ?

[Soyeon] あたしが相手の殿方でしたら、ゼッタイに断りません。ヘレナ先輩が「ダー」というまで粘って粘って───

[Helena] な、何を言ってるの。やっぱりヘンよ? ソヨン。

[Helena] あんなの、単なる家同士の付き合いなんだから……

[Helena] それで、ソヨンさんは?

[Soyeon] あ、あたしは、そんな、アハハハ、まだ、縁談なんて……

[Helena] ではなくて。休暇中は、ゆっくりできた?

[Soyeon] あ、はいっ。

[Soyeon] この冬は久々に、家族や、親戚や、おつきあいのあるご家族の女性みんなで集まって、キムチを漬けたんですよ。

[Soyeon] 朝から晩まで、こーんな、こーんな、本当に山積みになってる白菜や大根を切ったり、壺を洗ったり───

[Soyeon] ふぅーっ……楽しかったけれど、大変でした。

[Helena] そう。あなたも、ご苦労様だったのね。

[Soyeon] もう包丁の握りすぎで、手がパンパンです。

[Narration] 指を揉むソヨンの襟首に、ヘレナはくんくんと鼻を寄せて、顔をしかめてみせた。

[Helena] なるほど。

[Soyeon] ええっ、匂います?

[Helena] 心配しないで、冗談よ。

[Helena] 漬けはじめてからでしょ? 発酵しはじめるのは。

[Narration] ヘレナは安心させるように、後輩の背に立ち、両肩に手を置いた。

[Helena] 私も幼いころ、母といっしょに、ビーツのピクルスを作っていて、手が真っ赤になってしまったことがあったわ。

[Soyeon] へええ、ヘレナ先輩のお国にも、真っ赤な色の漬け物があるんですね。

[Narration] ケージに減速の気配が伝わり、身体がわずかに浮きあがる。

[Narration] 再び鳴った到着のベルとともに、入ってきた扉とは反対の壁が割れる。

[Narration] そして、幾度、目にしても、その威容ぶりを薄れさせることのない、荘厳な大廊下が姿をあらわした。

[Helena] よかったら、今度、交換しましょう。おたがいのお家の味を。

[Soyeon] はいっ、ぜひ。

[Soyeon] ところで、ヘレナ先輩。バレンタインデーってご存じですか?

[Helena] 聖人の祭日でしょう? それと、たしか……想い人にカードを贈る日……だったかしら?

[Soyeon] ハイ、それもあります。

[Soyeon] けど……えっとですね、バレンタインデーというのは……

[Narration] 親しげに言葉を交わし、連れだって部屋へと向かう二人は、知らない───

[Narration] 彼女らが学園を離れ、母国で休暇を過ごす合間に、この静かな船のなかで、ささやかな異変が起きていたことを───

[Narration] 車輪に打たれた、たった一つのくさびがゆるみ、やがて馬車そのものを、あらぬ方向へ連れさろうとしていることを───

[Narration] ───まだ、知らない。

サフィズムの舷窓 追加シナリオ

forza-nicolle!

『がんばれ!   

    ニコル!』

[Anne Shirley] 「おひさ。あなたの右手の友、 アンシャーリー・バンクロフトです」

[Anne Shirley] 「今さらだけど、あたしからプレイに あたってのご注意を───」

[Anne Shirley] 「えー、本ゲームに登場する設定は、すべてフィクションであり、実在する人物・企業・国家・テロリスト・宗教団体とは、一切関わりがありません」

[Anne Shirley] 「本作に登場する女の子たちは、みんな18歳以上なのです。ほんとうです。これを書いたのは4月1日です」

[Anne Shirley] 「私たちは、神の教えに背くような不道徳なことは何もしていません」

[Anne Shirley] 「どの神とは申しませんが」

[Anne Shirley] 「オゾン破壊係数ゼロ。またゲーム本編の90%以上を再利用。アンインストールしても有害ガスを発生しません。環境に無駄に優しいのです」

[Anne Shirley] 「プレイのしすぎは健康を害することがあります。マジで」

[Anne Shirley] 「本文は、はじめにお読みくだ……無理だ」

[Anne Shirley] 「洋女(造語)の手の届かないところに保管してください」

[Anne Shirley] 「注意して開けてください。洋女(造語)が入っています。ふ〜ん……」

[Anne Shirley] 「電子レンジでのプレイ不可。青い火花と共に爆発します」

[Anne Shirley] 「これはジョーク商品です。指以外のものを入れて遊ばないでください」

[Anne Shirley] 「人目を避け、絶対零度で保存してください。by大友克洋」

[Anne Shirley] 「社会的立場・羞恥心・睡眠時間・ピュアな気持ち・有明までの交通費・その他。提供したいものを○で囲みます。可能であればご家族にもプレイしていただきます」

[Anne Shirley] 「原画家の筆癖のため、キャラクターの仕様・外観・年齢は予告なしに変更することがあります。ご了承ください」

[Anne Shirley] 「それでは、どうぞお楽しみください」

[Narration] ───時間は、冬期休暇中の船内へともどる。

[Narration] 一つの学期を終え、休校を迎えるやいなや、少女たちは、競い合うように、それぞれの母国へと旅立っていった。

[Narration] ところが、ぞんぶんに羽根を伸ばせるはずの休暇中にも、船にとどまらざるを得ない生徒たちが、ごくわずかに見られる。

[Narration] 事情もじつにさまざまだが、それを互いに詮索することはしない。

[Narration] ふだん、あまり深い関係を持とうとはしない少女たちですら、学年を問わず、ある種の連帯感のようなもので結ばれる。

[Narration] それは、そんな時期だった。

[Narration] 薄暗い部屋のなか、読書灯のもとで雑誌を開いていたニコル・ジラルドは、しずかなノックの音に顔をあげた。

[Narration] ひょいと本来の部屋の主であるニキ・バルトレッティを見る。

[Narration] さきほどまで鍵盤に向かっていたニキは、いつしかソファのかたすみに掛け、足下のコローネと共に、うつらうつらとしている。

[Narration] ニコルは、雑誌を文机に置いて、足音を立てないよう扉へ向かった。

[Nicolle] どちらさま?

[Nicolle] ああ───

[Narration] 扉の隙間には、豊かな金の巻き毛を、リボンでとめたメイドの姿があった。

[Nicolle] ブォナセラ(こんばんは)、イライザ。

[Eliza] グッドイブニング、ニコル様。

[Narration] イライザは衣類を胸に抱えたまま、うやうやしく扉をくぐった。

[Nicolle] ニキは、そろそろ夢の国って感じだよ。

[Eliza] それはちょうどよい時にまいりましたわ。

[Narration] ぽやんとするニキを、イライザはぱっぱと慣れた様子で寝間着に着替えさせ、ベッドへ寝かしつける。

[Nicolle] あのさ、イライザ?

[Narration] 衣服をたたんだり、部屋のちょっとした片づけを済ませるイライザに、寝室の椅子に馬乗りになって眺めていたニコルが、語りかけた。

[Eliza] なんでしょう?

[Nicolle] 働くのはいいけど、それじゃ身体を壊すんじゃないの?

[Nicolle] あたしらみたいなあぶれ者が船に残るもんだから、世話するメイドの気も休まる暇もない、って言われたら、その通りなんだけど。

[Eliza] あら、私もちゃんと休暇はとらせていただきますわ。

[Nicolle] あ、なの? そんならいいけど。

[Eliza] この冬は、すこし長めの休暇をいただけるんです。

[Nicolle] へえー。けーこちゃんの特赦? あの人に、何かいいことでもあったのかね? 

[Narration] 「特赦」は元来、罪人に対して使う単語だが、ニコルに悪気がないのはイライザも分かっている。

[Narration] くすくすと笑いながら、イライザは答える。

[Eliza] いいえ、メイド長のおはからいです。

[Eliza] ほんとうはベスと交代で休暇をとることになっていたんですけれど、彼女、急に国に戻ることになって。

[Nicolle] あ、そう。

[Narration] ───両親に見捨てられた、ニキ。

[Narration] ───奔放が過ぎ、父親の手によって学園に放り込まれ、その許しが出たあとも、なぜか降船しようとしないニコル。

[Narration] ───元・学園生徒だったイライザは、ひとたび船を降りれば、幾多の敵がそこに待ち受けている。

[Narration] ポーラースターの治外法権と、学園長の傘下にかくまわれているイライザには、休暇といえど、陸にあがることは許されなかった。

[Nicolle] じゃ、本当は今の時期がイライザの休暇なんだね。

[Eliza] ええ。

[Nicolle] ふーん、ご苦労さんだね。

[Nicolle] あ、イライザが休暇の時ってさ、ニキは、ベスが面倒みてるの?

[Eliza] いえ、やはり私が。

[Nicolle] なんだ、専属かい。

[Eliza] ニキ様は、そうそう部屋へ他人を入れてくださりはしませんから。

[Nicolle] よねー。

[Narration] ちらりとベッドを振り返り、肩をすくめる。

[Nicolle] あたしもコローネのおまけに、くっついてきてるようなもんでさー。

[Eliza] あら。そうですか?

[Narration] 片づけを終えたイライザは、後ろに手を組み、ニコルの脇の壁に、背をあずけた。

[Narration] 二人の視線は、すうすうと寝息を立てはじめた少女にそそがれる。

[Eliza] ニキ様は、ニコル様と親しくなさろうと、してらっしゃるように伺えますけど。

[Narration] ばつが悪そうに、ニコルは身体を揺らす。

[Nicolle] どうなのかねえ……あたしにゃ、よくわかんないよ。

[Nicolle] 今夜だって、散歩の途中で、気が向いただけだし。

[Nicolle] 部屋に一緒には居たけど、別に何も話したりなんかしないしさ。

[Narration] イライザが手を持ち上げて、空中の鍵盤に指をはわせる。

[Eliza] なにか曲を弾いてくださったりは?

[Nicolle] あ、たまにね。

[Nicolle] ん……それって?

[Eliza] ええ。

[Eliza] ニコル様? 私は、ニキ様がピアノを聴かせてくださるまで、半年かかりました。

[Nicolle] はあ。

[Eliza] 誰の前でも弾くのではありません。ほとんどは即興の曲なんです。

[Eliza] いわば、ニコル様のためだけの、“ノクターン〜夜想曲〜”ですよ。

[Narration] 亜麻色の髪の少女は、くすぐったそうに、こりこりと頭を掻いた。

[Nicolle] そっか……悪いことしたかな。

[Nicolle] あたし、そういうの全然興味なくてさ……まじめに聴いたことなかった。

[Eliza] でも、ずっとご一緒にいらっしゃったんでしょう。

[Nicolle] ま、まあ、ね。暇だったし。

[Nicolle] コロだけ置いといて、ハイさよならってのも、ホラ、なんかさ───

[Narration] 微笑むイライザの前で、ニコルはますます決まり悪そうにそわつく。

[Nicolle] あー、えっと、そろそろ行かせてもらおっ……かな。

[Nicolle] えっと、コロは……

[Eliza] コローネは、今夜はニキ様とお休みになられるようですわ。

[Nicolle] またか。

[Nicolle] ……ごめんイライザ。足跡とか、抜け毛の掃除とか、大変だろ?

[Eliza] いいえ、全く苦にはなりません。それだけの甲斐も、あります。

[Eliza] コローネのおかげで、ニキ様もぐっすりお休みになれるようですし。

[Nicolle] なるほど〜ア〜ニモ〜テ〜ラピ〜〜。

[Eliza] おやすみなさいまし、ニコル様。

[Nicolle] うん。まだ夜は、これからだけどね。ブォナノッテ(おやすみ)、イライザ。

[Narration] 愛犬をおいて、ニキの部屋を離れたニコルは、歩きながら、自分の両ほほをぺちぺちと叩いた。

[Nicolle] うはぁ……まったく。

[Nicolle] あたしも何ともお人良しになったもんだ。

[Nicolle] いつか絶対、痛い目をみる。世の中、善人ばかりじゃない。

[Nicolle] この世はいつだって、二つの岸に分けられてるんだ。

[Nicolle] 騙す側にまわる天才、それと、騙される側の……

[Narration] ひとりかこつニコルの向かう先に、船内唯一の男物の制服が現れ、詰め寄ってくる。

[Nicolle] ……馬鹿。

[Narration] さらに、ぐわっしとニコルの肩をキャプチャーすると、その場に沈み込むように、深々と頭を下げた。

[Anri] ごめんっ、ニコルっ!

[Nicolle] ブォナセラ、杏里。

[Anri] ボンソワ、ニコル。

[Narration] 男装の少女、杏里・アンリエットは、夜の挨拶もそこそこに、その場にひれ伏した。

[Nicolle] どーしたのさ、またいきなり。

[Anri] ああ、ボクはもう、太陽と月と星の下で、キミに顔を向けることすら……っ……!

[Nicolle] …………電灯の下ならイイわけ?

[Nicolle] つか、目、真っ赤じゃん、杏里。

[Anri] さもありなーん!

[Anri] あんな一大事のあとで、平静を保っていられるものだろうか!? いや、ない!

[Nicolle] ……へぇ?

[Anri] ああぁぁ、決まってるじゃないか。昨夜のことだよ!?

[Nicolle] ……昨夜?

[Anri] ──────!!

[Narration] さも心外そうに杏里は息をのむ。

[Narration] ニコルの肩へ深く腕をまわし、長髪にうずもれた耳元へ唇を寄せては囁いた。

[Anri] ……昨晩……

[Anri] ……ボクは、きみの願いを聞き遂げることが……できなかった…… 

[Nicolle] くすぐったいよ、杏里。。

[Anri] き、きみが、涙まじりの声で切望した……快楽の極みを……ボクは……ボクは、贈り与えることが……できなかったんだ……

[Anri] キミを桃源郷へと導くことが……あああぁぁぁ、こんなこと初めてだよ……

[Anri] ああぁ、こんな不名誉な……

[Anri] ボクのレゾンデートルを……粉々にうち砕くような……ううう……

[Narration] 杏里の頬には、ぽろぽろと大粒の涙すらこぼれ落ちる。

[Nicolle] レゾ……って、あー、つまり……

[Narration] つまり、ベッドでニコルをイカせられなかったという失態が、よっぽどよっぽどよっっっっっっっぽど、口惜しかったらしい。

[Nicolle] た、たはは……ちょ、ちょっとさ……

[Narration] 呆れ顔のニコルは、力の抜けた杏里の腕を引いて通路脇へ連れていく。

[Narration] めそめそと泣きくずれる杏里を、置かれた長椅子へと座らせた。

[Nicolle] ば、バーカ

[Anri] だ、だけれど……ううう……

[Narration] ニコルは、杏里のポケットから勝手にハンカチを抜き取り、こぼれる涙をぬぐってやる。

[Nicolle] んー……ホラっ、昼間のプールで疲れてたし、あの時は二人ともワインを飲み過ぎていたしさ。

[Anri] ボクの愛は、アルコールで薄まったりはしないよ。

[Anri] ましてや、キミの期待を前に、睡魔に負けるだなんて……

[Nicolle] …………ああもう。

[Nicolle] だから、ちょっとスランプだっただけ。そうだろ?

[Narration] 杏里は腫れあがった目を、ぼんやりとニコルへ向けた。

[Anri] ……スランプ……?

[Nicolle] そ。

[Nicolle] 誰にだって、そういう時はあるって。

[Nicolle] だいたい、あたしはそんなの別に、ぜんぜん気にしたり、怒ってやしないんだから。

[Nicolle] まあ、ちょっとガッカリくらいは、したけど。でも別に……

[Anri] わぁやっぱり! ボクはもう破滅だぁ〜!

[Nicolle] だから、ちょっとだけだっての!杏里に完璧さなんて望んでない!

[Nicolle] 杏里とさ……そのう……するのは、楽しいけど。別にそれだけってわけじゃ……

[Nicolle] 杏里だってそうだろ?

[Anri] でもそれじゃボクの気が……

[Nicolle] まず肯定しろって。

[Nicolle] ふう……

[Narration] ニコルは腕を組み、思案げに指をトントンと鳴らした。

[Narration] 何か閃いたらしく、すぐにその指をピンと立てる。

[Nicolle] じゃあ、今晩ちょっとつきあってよ。

[Narration] 杏里はバネのように椅子から跳ねあがった。

[Anri] 挽回の機会をくれるのかい?うん! 了解したよニコル!

[Narration] 通りがかったメイドが、声に驚いてこちらを見る。

[Anri] 今夜こそ腕によりをかけ、全身全霊を捧げて、きみを伝説の理想郷エルドラードへ───

[Nicolle] ああ、違う違うっ、ていうかそんな大声出すなバカっ。

[Narration] 今度はニコルが、杏里の耳を引き寄せて囁きかけた。

[Nicolle] 船倉につきあっておくれ、杏里。

[Anri] 船倉……

[Anri] ……あの地下の秘密の賭場へかい?

[Nicolle] うん。

[Nicolle] アッチのほうがスランプでも、賭事の方までそう、とは限らない。

[Nicolle] 逆に、ツキまくるってこともあるよ。

[Anri] そんなものかな。ウン、わかった、まかせてよ

[Nicolle] もちろん軍資金は杏里持ちね。

[Anri] ええっ。ボク、ニコルにずいぶん貸しがあるよ?

[Nicolle] だからさ、今夜の二人の稼ぎで、それを払おうじゃないか。

[Anri] どうせ返すなら……

[Anri] ……う、わかりました。

[Narration] ──────船倉賭博。

[Narration] まさに一個の街といえるポーラースターで、最も多額の現金がやりとりされる場所。

[Narration] 世界有数の富豪の子女らが乗る船とあらば、それは言わずもがな。だが、生まれた当初からそうだったのではない。

[Narration] 元は船員たちの息抜きの場、心優しき悪女たちの社交場だった。

[Narration] いつしかそれは、一部の学園生徒の知るところとなり、じきにモナコやラスベガスの華やかさにも劣らぬ、今日の船倉賭場となった。

[Narration] 杏里・アンリエットは、ダイスの目に一喜一憂するテーブルの熱気から離れ、賭場の中央にずらりとボトルを並べるパブのカウンターに立った。

[Narration] 「タロッコでいいかい、杏里」

[Narration] 何も言わないうちから、バーテンダーはよく冷えたブラッドオレンジジュースを差しだす。

[Anri] ありがとう。

[Narration] 白シャツをラフに着こなす、ブルネットの髪のバーテンダーは、馴染みの顔のはずだ。

[Narration] が、例によって、ちっとも名前が浮かんでこないあたりが、杏里のさがだ。

[Narration] それでも、杏里好みの酸味の強い味には、憶えがある。

[Narration] 果樹園からもいだばかりの、鮮烈な香りだった。

[Narration] 喉を潤わせながら、きらびやかな照明に目を細める。

[Narration] 学園が休暇中ということもあって、賭場の客は、みな私服の船員たちだ。

[Narration] 船員服を脱ぎ、思い思いのドレスに身を包んで、ギャンブルを楽しんでいる。

[Narration] 学期中のウィークエンドであれば、その中にチラホラと見かける学園制服も、杏里たちの他には見あたらない。

[Narration] しばらくして、同じテーブルから離れてきたニコルが、興奮した様子で顔を見せた。

[Narration] 両手には溢れんばかりのコインを抱えている。

[Nicolle] グラーツィエ、グラーツィエ!さっすが杏里!

[Anri] ふふっ、お役に立てたみたいだね。

[Nicolle] もう、笑いが止まらないとはこのこと! 今のいったい何連投だい?

[Anri] さあ? サイコロの振りすぎで、筋肉痛の心配をするとは思わなかったなあ。

[Narration] ふざけて杏里の腕をつつくニコルは、杏里にやりかえされ、ぽろぽろとコインをこぼしては慌てる。

[Narration] カウンターに収穫物を載せて、また差しだされたグラスを一気にあおる。

[Nicolle] ぷはぁっ、50回? いや、100回届いてたね。とにかく新記録だよ!

[Nicolle] それだけ連続して、7が出ない確率って、えーと……

[Anri] むむ? 100分の1くらい?

[Narration] 「杏里にとっては、そうなのかもね」とバーテン。

[Narration] 「普通人にとっては、ざっと  百万分の一……パーセント」

[Anri] ワオ。

[Nicolle] わーお。

[Narration] 「それじゃ、杏里の後光が薄れないうちに、コレはいただいておくよ」

[Narration] バーテンは、カウンターに積まれた高額コインを、数枚つまんでウインクした。

[Nicolle] あーっ!……ちぇっ、わかったよ。持ってけ。まったく、ずいぶんな利子じゃないか。

[Anri] あれっ、ここの飲み物って有料?

[Narration] 渋々顔のニコルの横で、杏里はきょとんとしている。

[Nicolle] いや、これは飲み代じゃなくて、彼女への個人的な借りでさ……

[Anri] あちこちに借金があるね、ニコル。ふふっ。

[Nicolle] ほっといておくれよ。笑うなって。ちゃんと返すったら。

[Narration] バーテンと顔を合わせ笑う杏里をよそに、興奮気味のニコルは稼ぎをあらためて数える。

[Nicolle] ウーノ……ドゥーエ……トレ……ふふふふ……行ける、行けるよ、杏里!

[Anri] ん? なに?

[Nicolle] これだけ軍資金があれば、今夜は奥の部屋に入れてもらえる〜!

[Anri] やったね! ニコル!

[Anri] ところでニコル、二人でのんびりババ抜きでもしない? 

[Nicolle] あーコラコラ、だからっ!

[Nicolle] 杏里は生まれつきツイてるくせに、てんでそれを活かそうとしないんだ!

[Nicolle] 奥の部屋で遊べる機会なんて、めったに無いんだから!

[Anri] ボクは、ニコルと二人で遊んでいる方が楽しいんだけどなあ。

[Nicolle] ちっちっち。

[Nicolle] せっかくあたしにもツキが訪れたのに、また杏里に取りもどされちゃ、かなわないって。

[Anri] つれないな。

[Anri] 別に、賭けるのはニコルでなくても構わないよ? そのコインでもさ。

[Narration] え〜と、ちなみに現在の未納ニコルは───と、杏里は手製の帳面を開いて確認する。

[Nicolle] そ、その借りはきっちり返すって!

[Narration] 赤面しつつ、帳面を押し戻すニコル。

[Nicolle] つか、ここんところ驚異的なペースで返済にいそしんでる最中で……

[Anri] だねえ。

[Anri] あ、でも昨夜は未払いになったわけか。

[Anri] とはいえ、あれはボクの一方的な過失だ。こういう時は、どうしたらいいんだろ?

[Anri] そうだ。アンリエット通貨でも発行しようか?

[Nicolle] なるほ…………

だぁッ! 一緒じゃん!だいたい───

[Narration] 周囲の喧噪に負けじとやりあう二人を、あきれ気味にバーテンが眺めている。

[Narration] 「なんだかねぇ。ふたりとも、どんな遊びに入れ込んでるのやら……」

[Narration] ふうん、と指を顎にあてる。

[Narration] 「ここはニコルのわがままを聞いてあげてはどうか、杏里?」

[Narration] 「聞けば今夜は、あなたが借りを返す番なのだろ?」

[Narration] 杏里ははっとなる。

[Anri] あっと……そうだった。

[Nicolle] そうだよ!

[Anri] ごめん、ニコル。キミの言うとおりにする。

[Nicolle] わかればヨシ。しばらくスロットでもやっててよ。

[Anri] スロットはどうもキリが無くなるし……やっぱり、ボクも一緒に行こうかな。

[Nicolle] 杏里も?

[Narration] 一瞬、心強そうに顔をほころばせるニコル。しかしすぐに首を振る。

[Nicolle] いやっ、だめだめ。ぜったい場が無茶苦茶になるんだから。

[Nicolle] しっかりつかまえといて、ペン。

[Narration] 「シィ、シニョリーナ」

[Narration] ニコルは小さく手を振りながら、厚いベルベットのカーテンの狭間へ消えた。

[Narration] つまらなそうに唇をとがらせる杏里の脇に、色鮮やかなカクテルが置かれる。

[Narration] 「酔いたいかい? 杏里」

[Narration] バーテンがカウンターに肘をのせ、すこし身を乗り出している。

[Narration] 「よければ話相手になってあげよう」

[Anri] うん……

[Narration] 杏里はグラスを手に取りはするものの、バーテンの声はまったくよそに聞いていた。

[Narration] 酒精が染み入り、身体を軽くしていく。

[Narration] いつも変わらぬ、活気ある雰囲気の中に、杏里は、別の光景を見ていた。

[Narration] ───噂を頼りに、ようやっと捜してあて、辿り着いた、秘密の遊技場。

[Narration] そこへ、亜麻色の髪の少女が姿を現してからはずっと、杏里は、熱のこもった視線を彼女へと送り続けていた。

[Narration] 結い上げられた、琥珀色の髪───

[Narration] 紅玉を思わせる、強い主張のドレス───

[Narration] そしてサファイアのごとき深い青をたたえた瞳───

[Narration] 少女は、なみいる博徒たちを相手に、五分以上の勝負を繰り広げていた。

[Narration] 凛々しい横顔と、きびきびと無駄のない身ごなしが、少女の存在感をいや増す。

[Narration] 勝利のたびに、少女が振りまく笑顔は、最高に魅力的だった。

[Narration] ときおり、顔を上げた少女と目が合う。そんな時でも、杏里が目をそらすことはない。

[Narration] 何度か、そんな視線と視線の交錯があった。

[Narration] やがて、カウンターに背もたれる杏里の前に、みずから少女がやってきた。

[Narration] 正面に立った少女は、物怖じすることなく杏里を見つめる。

[Narration] ふん、と少女は鼻であしらう。

[Nicolle] イカサマのしっぽは、捕まえられた?

[Narration] 杏里は微笑んで首を振る。

[Anri] いいや……?

[Anri] だってボクは、ゲームのルールだって知りゃしないもの。

[Nicolle] はーん。

[Narration] 少女は視線をそらさぬまま、腕を組む。

[Nicolle] なら、あたしに何か用でもあるのかい?

[Narration] 口調はやわらかい。しかし、その眼差しにはありありと警戒の光が見える。

[Anri] 今夜は、あのおっきな犬は連れていないんだね?

[Nicolle] ……!

[Narration] すこし驚いたように、少女が目をしばたく。

[Narration] 初めて間近にした、青い瞳のきらめきに、杏里は引き込まれた。

[Narration] 日中は、教室の窓際で机と溶け合ったように寝こける彼女。

[Narration] 愛犬にずるずると引きずられるようにして、午後の船内をぶらつく彼女───

[Narration] そんな表向きの外見を裏返したように、生気あふれる、みずみずしいしぐさに杏里は心躍らされる。

[Narration] 杏里には、初めてのタイプだった。

[Narration] 胸に賛美と賞賛のフレーズが湧きいで、今しも口をついて飛び出そうとする。

[Narration] ───と、少女は不意に切り出した。

[Nicolle] 聞いてるよ、杏里・アンリエット。あんたに関する、二、三の事実。

[Anri] へえ!

[Narration] 今度は杏里が大仰に驚いてみせる。

[Anri] ボクの名を気にとめておいてくれたんだね。嬉しいよ!

[Narration] 迎えいれるように腕を広げた杏里を、掌で制して、少女は淡々と告げる。

[Nicolle] 悪いけど、あたしはそういうんじゃない。

[Anri] え……? そういう?

[Nicolle] カサノヴァには用は無いんだ。

[Narration] 少女はそう言い残し、当てつけのようにして、スカートの両端をつまみあげて去った。

[Narration] 残された杏里は、きょとんと首をかしげる。

[Anri] …………カサノヴァ?

[Narration] ───ジャコモ・カサノヴァ。

[Narration] のちに杏里が調べた……いや、博識なクローエに尋ねたところ、それは18世紀イタリアの人物とわかる。

[Narration] 衰えゆくベネツィア共和国にて生を受けた彼は、十もの肩書きを持っていた。

[Chloe] 稀代の冒険家、詐欺師、賭博師、脱獄囚───

[Chloe] ───いろいろあるけれど何より彼を知らしめた呼び名はやはり「女たらし」に尽きるでしょうね。

[Anri] 女たらしって、誰さ?

[Chloe] そうね、この船の人間に例えるなら……

[Chloe] ……って、ちょっと。あなた本気で言ってるの?

[Anri] …………?

[Narration] いつしか空になっていたグラスの向こうに、小さな人影がゆらめいて見えた。

[Unknown] ふーん……こいつか……

[Narration] 鳩羽色の上着とスカート、白いセーラーカラーは、ファーストのしるし。

[Narration] しかしその明るい褐色の肌も、柔らかそうな金色の髪も、待ち人のニコルとはちがっている。

[Anri] ……?

[Narration] 彫像のように、宙に視線を泳がせていた杏里が、つと目を合わせる。

[Narration] 少女は驚いてちょっと身を引きながら、忍び笑いをもらした。

[Unknown] イヒヒっ

[Unknown] あなたがレズの人ぉ?

[Narration] 悪意よりも、好奇心をむき出しにした質問に、杏里は平然と答える。

[Anri] ……否定はしないよ。きみは?

[Anri] この部屋、いや、船では一度も見たことのない顔だね。

[Narration] (印僑……インド系移民の血筋かな? なんにせよ、ボクと同じ混血だ……)

[Anri] 転入生かい?

[Narration] ファーストクラスの生徒については、誕生日から何から、一人残らず記憶しているつもりだった。

[Narration] その完璧なリストに、手抜かりがあるとなっては、杏里の性分が許さない。

[Unknown] ナンパ? イヒヒヒっ、ナンパだ。

[Narration] くつくつと笑う少女は、その未成熟な体つきと相まって、いっそう子供らしく見えた。

[Anri] ジュースをもらってあげる。ここのジュースはかなりいけるんだ。

[Anri] ───それともカクテルがいい?

[Narration] グラスを手に振り返ると、もう少女の姿は無い。

[Narration] グラスを両手に下げたまま、不思議そうにあたりを見回していると、今度こそニコルの姿が目にとまる。

[Narration] ぶかぶかとバッシュを鳴らし、急ぎ足で向かってくる。

[Nicolle] ───帰ろう、杏里!

[Anri] もうスッちゃったの?

[Nicolle] …………っ……

[Narration] ニコルは答えず、唇を噛んで、戸惑う杏里の腕を強引に引いた。

[Anri] ちょ、ちょっと、ニコル?

[Narration] いつになくニコルは焦っている。杏里にもその不安は伝わる。

[Narration] ひとまず了解し、おとなしく杏里は出口へと連れられていく。

[Narration] ───しかし、時すでに遅し。二人の背に、脅かすように声がかぶさる。

[Unknown] 楽しんで、いかないのか?ニコル・ジラルド。

[Narration] 振り向くと、絨毯の上に、冷ややかな微笑を浮かべた学園生徒がひとり立つ。

[Narration] 天京院やアイーシャと同じ、気高き桔梗色の制服は、サードの制服。

[Narration] 斜に構え、その大人びた美貌を誇示するように、腕を組む。

[Narration] 動作のすべては、歌劇のように、優雅さに満ち、また見る者を威圧した。

[Unknown] 夜はまだ、呱呱の声を上げたばかりだ。誰に遠慮をする必要がある?

[Unknown] なるほど。勝ち逃げも、勝者の特権ではあるな……

[Narration] 低く重みのある声が、賭場につたわると様子が一変する。

[Narration] 遊戯にかまけていた客たちは、手をとめ、口々にささやく。

[Anri] …………

[Narration] 杏里の問いたげな顔つきに、ニコルはうめく。

[Nicolle] ……イゾルデ……

[Nicolle] イゾルデ……メディ…チ……

[Narration] 名はしらなくとも、杏里に匹敵するその恵まれた長身には、式典の折りなどで、たしかに見覚えがあった。

[Narration] ゆたかな髪は、シルクの薄布と黒いリボン飾りで筒状におおわれ、背後にたらされている。

[Narration] 腰には、彼女の家紋とおぼしき、真鍮製のバックルが粛然と光る。

[Anri] (イゾルデ───メディチ?)

[Narration] その家名もまた、ありきたりに聞く名では無かった。

[Narration] さすがの杏里にも、呼び起こされるものがある。

[Narration] さしあたり、二人にとり共通の上級生となる少女、イゾルデ・メディチは、より近くに立つ杏里には目もくれず、ニコルを見すえた。

[Isolde] ……そも……

[Isolde] 人の顔を見るなり、部屋を退出するのは、少々、マナーに反するのではないかな。

[Isolde] 案ずるに、“御大”も、喜ばしくは思わないだろう。

[Nicolle] ……ぐっ……

[Isolde] ……無論、そう流言される人物が、本当にこの船に居る、というのなら、だが。

[Narration] 冷笑を浮かべるイゾルデに、ニコルは唾を飲みこみながら返答する。

[Nicolle] ……どんな心境の変化だい、イゾルデ。

[Nicolle] あんたが、こんな下層に降りてくるなんて。

[Isolde] そう怖い顔をするな。お前と、札を交えたかったんだよ。

[Isolde] 同じ机を囲んで……昔日のように、な。

[Narration] 杏里は、これ以上ニコルを、この居たたまれない場所に置くことに、耐えられなくなった。

[Narration] 彼女なりの助け船を出そうと思惑をめぐらせながら、会話に割ってはいる。

[Anri] シニョリーナ・メディチ? 悪いけど、先約があるんだ。今夜ニコルは、ボクの花嫁でね。

[Anri] それを邪魔されたとあったら……ボクもちょっと、黙っていないよ?

[Narration] イゾルデは、そう言う杏里にかすかに目をくれるが、自信に満ちた冷笑は決して崩さない。

[Anri] ニコル……? さ……

[Narration] 肩を包んで、そううながした杏里は、固く結ばれた少女の唇を見て、また胸を痛めた。

[Narration] ニコルは言った。

[Nicolle] わかったよ……勝負しようじゃないか。

[Isolde] そうこなくては。

[Narration] ニコルはすまなそうに、肩にのった杏里の指をほどく。

[Nicolle] ごめん、杏里……もう今夜はいいから。

[Anri] でも、ニコル……!

[Nicolle] ルールなんだ。この賭場では、勝者は挑戦を拒めない。

[Nicolle] さっさと逃げなかったあたしが、いけないんだよ。

[Nicolle] ……そんな顔すんなって!別に、取って喰われるじゃなし!

[Anri] なら、ボクも行くよ。

[Nicolle] だ、ダメだってさ……

[Nicolle] わかってよ、杏里。今夜は、あたしの言う通りにしてくれるんだろ?

[Narration] そう言ってニコルは歯を見せるが、杏里は納得いかず、憮然とした表情のままだ。

[Narration] 杏里の咎める視線を振り切って、ニコルは向き直り、大きな身振りでイゾルデを指さした。

[Isolde] ……?

[Nicolle] 待たせたね、イゾルデ。ただ、忠告しとく。

[Nicolle] この賭場で遊びたいなら、“御大”を挑発するような口ぶりは良くない。

[Nicolle] あの人が、本当に居るか居ないかなんて、そんなことは問題じゃないんだ。

[Nicolle] これは、ここに出入りするばくち打ち達が守る、最低限の約束なんだから。

[Isolde] ……控えよう。

[Narration] イゾルデとニコルが奥の部屋に消え、広間に再びざわめきが戻ってきても、杏里は顔をこわばらせたままだった。

[Anri] なんだい、ルールって……それも“御大”が決めたのかい……?

[Narration] 「さあ……」

[Narration] 傍観者に徹していたバーテンが、グラスを布でぬぐいつつ答える。

[Narration] 「博徒たちは、ゲンを担ぐからね。暗黙の取り決めごとがあるんだよ、いろいろと」

[Anri] …………

[Anri] ……ボクは別に、この賭場が嫌いなわけじゃないけど。

[Anri] ニコルを悲しませるルールや“御大”なんて、クソくらえだよ。

[Narration] そう吐き捨て、杏里はカクテルをあおった。

[Narration] バーテンは肩をすくめ、聞かなかったフリをする。

[Narration] ───明け方近く。

[Narration] 壁際のテーブルに突っ伏していた杏里は、肩を揺すられて目を覚ます。

[Anri] ……ニコル?

[Anri] おかえり、ニコル……ふぁ、ふぁ……

[Anri] っくしゅん!

[Nicolle] バカ、部屋で寝ないと風邪ひくって。ったく……帰れって言ったろ?

[Anri] ごめん。

[Narration] それはいつものニコルだった。

[Narration] 安堵の笑みで迎えながらも、問いたげにしている杏里に、少女はガッツポーズを見せた。

[Nicolle] 勝ったよ。一応ね。

[Nicolle] あいつに吠え面かかせる、って程じゃなかったけど……

[Nicolle] ま、勝ちは勝ちだ。

[Anri] うん。

[Narration] くつろいだニコルの表情に、杏里の心の疑問符は消えていく。

[Narration] もう、賭場の人影もまばらになり、そこにイゾルデの姿も無かった。

[Nicolle] ふぁーあ、さすがにクタクタだよ。

[Anri] ボクもまだ眠いや。

[Nicolle] じゃ、ここは休暇中らしく、昼さがりまで惰眠をむさぼるとしますか───?

[Narration] 机を立った杏里の腕に、ニコルがすがりつき、そのまま賭場の外へと足を運ぶ。

[Narration] 人目に触れる場所では、軽いキスすら拒む彼女にしては、珍しく親密な愛情表現だった。

[Anri] あはっ、そうだね。ドアノブにドンディス下げて。

[Narration] ドンディスとは、ホテルで使用する「Don't Disturb(起こさないでください)」カードのこと。

[Nicolle] や、やめろって……これみよがしに、誰か、邪魔しに来るに決まってるんだから。ゼッタイ。

[Anri] ふむ……いやあ、大丈夫さ。ニコルの可愛い声を耳にしたら、みんな、そんな気はどこかへ消えてしまうもの。

[Nicolle] だ、だから、寝かせろって……

[Anri] あははっ……

[Narration] そうして、二人が寄り添いながら、去りゆく様子を、賭場の奥から見送る二つの影がある。

[Narration] 一つは、今しがた僅差の敗北を喫した、イゾルデ・メディチ。

[Narration] そしてもう一つは───

[Unknown] ……なにアレ。ラブラブ。ラブラブ。

[Isolde] …………

[Unknown] ……ふわ…………あたしも、ねっむぅ………

[Unknown] …………えい。

[Narration] 褐色の少女は、押し黙ったままのイゾルデを、ちらちらとあおぐと、ニコルの真似をしてその腕にすがりついた。

[Narration] ───が。

[Isolde] ……重い。

[Narration] すげなく振り捨てられ、少女は、ころころと床に転がった。

[Clare]  そ

[Mirriela]      し

[Coe]    てー!

[Narration] ───冬季休暇が終わりを告げ、新学期がはじまった。

[Narration] 学園長の執りおこなう始業式は、最短記録を更新して終わる。

[Narration] その後、教室に移動し、各クラスのホームルームとなる。

[Narration] 学期の航路や寄港地の説明のほかには、学習予定など、おきまりな退屈な内容につきる。

[Narration] ……しかしながら、ファーストクラスにおいては、ちょっとした異変が見られた。

[Teacher] 「ごきげんよう、みなさん」

[Narration] 担任教師の声に、生徒たちは綺麗にそろって頭をさげる。

[Narration] ふっくらとした顔だちに、ピルグリム(清教徒)風のシンプルな服を着た女性教師は、着席する生徒たちを見渡しほほえんだ。

[Teacher] 「誰ひとり欠けずに、新学期をむかえられたことを、うれしく思います」

[Teacher] 「……さて、それでは今日から、みなさんとともに、勉学にはげまれる転入生をご紹介します」

[Narration] 教師は、生徒を迎えいれるために、いったん扉の外へむかう。

[Narration] 早速、好奇心旺盛な生徒たちは、物静かなご令嬢の仮面をやぶって、そわつきだす。

[Narration] そんななか、ニコルはぶすくれ顔でつぶやく。

[Nicolle] ……なにいってんだ。ニキがいないよ。

[Narration] といっても、不満そうなのは単に休暇がなごりおしいがためのようだ。

[Narration] 教室の反対側の席からワープしたように、ひょっこりあらわれる、アンシャーリー。

[Anne Shirley] じゃあ、転入生はニキかしら?

[Nicolle] なんで。

[Anne Shirley] そして伝説へ?

[Nicolle] どこへ行く気だ。

[Narration] 両手で頬杖をついたニコルは、斜め前の席からアンとのやりとりをニコニコとながめていた少女・アルマと、ふと目があう。

[Narration] 視線をはずすのもめんどうで、そのままでいると、じきにオロオロとうろたえはじめる。

[Alma] あ、あの、わたしは───

[Nicolle] あー! あんたがうわさの転入生? どうりで知らない顔がいるなあ、ってちがうだろ。

[Nicolle] 入学式からこっち、ずっといっしょにいたろうが。しっかりすれ。

[Narration] 少女はほっと胸をおさえる。

[Alma] よかった……

[Alma] なんだかわたし、むしょうに不安になって。

[Alma] 実家で過ごしているあいまも、なぜでしょう? こう……漠然と胸にあいた場所が……

[Nicolle] なんだなんだ、贅沢なやつだな。

[Alma] その、もし、この船での暮らしや、みなさんとの体験やなにもかもが、夢のなかの出来事でしたら、どうしましょうって……

[Narration] あやしげに目をほそめ、ニヤリとするアン。

[Anne Shirley] うふふふ……夢みたいなものよ?

[Nicolle] あのな、つとめて夢と現実の境界線を、うやむやにするなっての。

[Nicolle] 現実でする苦労が、ムダになるだろ?

[Narration] ハッとして、ニコルの胸に詰め寄るアン。

[Anne Shirley] …………夢の世界の苦労はッ!?

[Nicolle] 知らん知らん。

[Narration] 閑話休題。むかえに出たはずの担任教師は、それっきり、なかなかもどってこない。

[Soyeon] あたし、ちょっと見てきます。

[Narration] 前列の席に座っていたソヨンが、立ち上がって扉へ向かう。

[Alma] どうしたのでしょう?

[Anne Shirley] こうして、雪に閉ざされた教室からは、ひとり消え、ふたり消え……

[Nicolle] 誰もいなくなった。

[Alma] 誰も? まあ。

[Nicolle] 結構結構。授業が無くなるなら、もう何でもOK───

[Collone] ヒャウンッ!

[Narration] そのとき、なさけない鳴き声が、教室の背後からあがった。

[Narration] 陽のあたる窓際で、絨毯にしずかに伏せていたコローネがとびあがり、ニコルの席へとかけよってくる。

[Collone] ウォゥゥ〜〜

[Nicolle] コロ? どーしたい。

[Unknown] あれー、なんか踏んだァー。

[Narration] すっとんきょうな声に、教室の少女たちが、いっせいに後ろを振りむく。

[Narration] その舌ったたらずな調子から、ビジタークラスが迷い込んできたのかと思いきや……

[Narration] それは正真正銘のファーストの制服だった。

[Narration] 声のぬしは、自分が注目されていることに、どうも気づいていない。

[Narration] いかんせん、両耳はヘッドホンの下に、両目はヘッド・マウント・ディスプレイの下に、それぞれ隠れてしまっている。

[Narration] 背には、スクールバックを大胆に改造したゲームマシン・ホルダー。

[Narration] マシン内部では、ディスクが虹色に輝きながらスピンしている。校則ぶっちぎりもいいところである。

[Unknown] ちぇ〜いっ、ちぇいちぇいっ!

[Narration] コントローラーをにぎる少女は、右に左に、他人には見えない何者かを避けながら、腰をふりふり歩いてくる。

[Unknown] ちぇちぇい!ここで連射、すかさずボム!キュババヴォ───ン! Cool!

[Girls] 「……………………………………」

[Alma] あたらしい転校生のかたですか? わたし、アルマ・ハミルトンと申します。

[Alma] あの、おとりこみ中のところを失礼いたしますけれど、その───

[Nicolle] 聞いちゃいない、聞いちゃいない。

[Collone] ウォッ、ウォゥゥ〜

[Narration] さまよいながら、せまってきた少女は、またもやコローネを、その足で踏みつけようとする。

[Narration] アンシャーリーの人差しゆびが、グラスの真ん中をひょいと押さえると、小柄な少女は、その場でするすると足を空転させた。

[Unknown] あれ? バグかな?

[Anne Shirley] そう。バグバグ。

[Nicolle] ボケ倒しの気配が、ギュンギュンします。

[Narration] 今度は教壇のほうから声があがる。

[Narration] 息をはずませ、教師より一足さきに戻ったソヨンだ。

[Soyeon] あーっ! こんなところに!?先生ー! こちらにいらっしゃいましたー!

[Narration] そんなこんなで、少女は教壇に立ち、額に汗した教師によって紹介される。

[Teacher] 「はい。オーストリア・ウィーンから、いらっしゃいました。今学期より、私たちのクラスの一員となる───」

[Renee] ルネ・ロスチャイルド!こんちは! ルネでいいよ!

[Renee] この船ってさ、すっごいオモシロそうだったんで、パパにおねがいして入学させてもらいました!

[Nicolle] 自分から希望してくる奴もめずらしい。

[Teacher] 「ルネさん? ポーラースターは、生活の場である以前に、学問と礼節を身につける場所ですよ?」

[Renee] えっ、ケッコンさせられるまで、好き勝手して遊んでいい場所じゃないの?

[Teacher] 「ちがいます」

[Anne Shirley] 一部に真実がふくまれています。

[Narration] 教師は「現代女性として教養を身につけるのは当然」とか「将来自立するためにも世界を知るべきです」などなど訓辞を垂れているが、少女はどこ吹く風だ。

[Narration] 先ほどの騒ぎの最中も、几帳面に教師のかえりを待っていたお嬢様たち……

[Narration] しかしその彼女たちですら、ルネの名を聞いて、そわそわしはじめた。

[Young ladies] 「ロスチャイルドって……」

[Narration] ロスチャイルド・ファミリー。

[Narration] 上流社会に属する人間たちで、その名を知らない者はいない。

[Narration] 世界中に分家とコネクションをもつ、大財閥だ。

[Narration] 彼ら自身が、表社会に顔を出す機会は限られ、その実態は、ほとんど知られていないに等しかった。

[Narration] とはいえ、財産価値だけで推し量れるほど、ハイソサエティーはシンプルではない。

[Narration] その富のほかにも、伝統、信仰、血筋、国勢、さまざまなものが混然となって、彼女らのプライドをかたちづくるのである。

[Narration] 彼女たちの戸惑いは、その家名から連想されるイメージと、少女の外見の差にあったようだった。

[Narration] 教師が先に立ち、おごそかな雰囲気をかもしながら、定められた席へと少女が案内される。

[Narration] 目には見えない、うらやみや、あざけりの雲が教室にわだかまる。

[Narration] やがて、ホームルームが終わり、午後の授業までのゆったりとした休憩時間となる。

[Narration] 久々に顔を合わせた少女たちは、故郷のおみやげ話に花を咲かせる。

[Narration] しかし、ちょこんと椅子にかけるルネのまわりは空気が異なり、微妙な間隔があった。

[Narration] ロスチャイルドの名を聞きつけた上級生たちまでが、ときおり教室へのぞきにやってくる。

[Narration] が、少女に直接声をかけるものまでは、なかなか現れない。

[Narration] 昼食の時間帯までは、まだ時間がある。

[Narration] ルネは笑顔すら浮かべていたが、破天荒な自己紹介ぶりにくらべると、ひっそりとした印象は否めない。

[Narration] 手持ちぶさたに、ゲームのコントローラーを握りかけると、肩にぽんと手が置かれる。

[Unknown] 「いっしょにランチに行かない?」

[Narration] はっとルネが顔をあげると、そこにはファン・ソヨンの笑顔があった。

[Soyeon] ホームルームでも自己紹介したけど、あわただしかったから、あらためて───

[Soyeon] あたし、ファン・ソヨンっていいます。はじめまして。

[Renee] …………

[Soyeon] よかったら、ランチのあとで船内も案内するけど? どうかな?

[Narration] 緊張からか、ソヨンも少々表情がこわばっている。

[Narration] ルネは一瞬、呆然として、ソヨンを見上げていたが、すぐに歯を見せて笑いだす。

[Renee] ───イヒヒッ。

[Soyeon] いひひ?

[Renee] チャイニーズ? ジャパニーズ?

[Soyeon] コリアン。韓国よ。

[Soyeon] ルネさん、えっと、ルネって呼んでもいいかな?

[Renee] うん、いーよ。呼んで。

[Renee] あなたはぁ、ファン? ソヨン?どっちがファーストネームなの?

[Soyeon] ソヨンよ。あたしも、ソヨンって呼んでくれたら嬉しいんだけど。

[Renee] そうする、ソヨン……ソヨン? イヒッ。

[Narration] 発音を確かめるように、名前を連呼すると、ソヨンも笑みをこぼす。

[Narration] 向かい合って話すうちに、だんだん二人の少女に残っていた堅さもほどけてくる。

[Soyeon] 船には、美味しいお店が本当にいっぱいあるんだけど、ルネは嫌いなものとか、どう?

[Renee] 肉とぉ、魚とぉ、卵は、ダメ。

[Soyeon] うっ。

[Renee] あと、ピーマンとナスとニンジンとセロリとアスパラガスの緑のもキライ。

[Soyeon] ……ううっ。

[Narration] 予想外の言葉に汗を垂らして硬直するソヨン。

[Soyeon] それじゃ、ど、どこがいいかな、えーと、ケ、ケーキ屋さん……?

[Renee] エイオーケィ。

[Renee] べつに、どこでもいーよ? よけて食べればいーもん。

[Soyeon] そ、そうだね。

[Narration] そうこうするうち、正午をしらせる鐘が鳴った。

[Nicolle] ソヨン! メシに行こーぜ。

[Narration] ニコルたちが、揃って呼びかける。

[Soyeon] うん!

[Soyeon] ルネも一緒にいいよね!?

[Nicolle] へいへい、そうくると思った。連れてこい、連れてこい。

[Anne Shirley] 始業日は、各店・新メニューで、みなさまをお待ちしています。

[Alma] やっとルネさんにご挨拶できますのね。

[Collone] ウォウ?

[Soyeon] 行こ、ルネ。みんなも紹介するよ。

[Renee] エイオーケィ☆

[Narration] ルネは差しだされたソヨンの手を握り返す。

[Narration] そんな少女が、ひそかに油断のならない笑みを浮かべるが、それには誰も気づいていなかった。

[Anne Shirley] …………

[Narration] 誰も気づいていないのだった。

[Narration] 昼食を終えた少女たち(と一匹)は、空中庭園の脇道から、森へと分け入る。

[Narration] ポーラースターは、現在、カナダの東岸・ハリファックス沖を航行中だ。

[Narration] さすがに冷たくなってきた海の風を避けて、森の一角にあるパビリオンを午後のくつろぎの場にえらぶ。

[Narration] ブドウ棚と隣りあわせる、うっすらと青みがかった大理石の園舎には、ほどよく日光がさしこみ心地よい。

[Narration] 光のなかで、少女たちの笑いさざめくさまは幻想的で、杏里であれば、妖精たちの宴と表現しただろう。

[Soyeon] それじゃ、もうだいたい船内は見てまわっちゃったんだ?

[Narration] 転入生のルネが、冬季休暇の開始早々にすでに船をおとずれていた───

[Narration] ───という話を聞いて、ソヨンはずいぶんと気勢をそがれたようだ。

[Narration] 食後の薬をピルケースから振りだしながら、アンがぼそりと横やりをいれる。

[Anne Shirley] ……ソヨンは後輩開発マニアね。

[Soyeon] や、やだ、アンったら。

ルネはクラスメートだよう。

[Narration] 背中をはたかれ、アンの手のひらに山盛りのクスリが、ケースのフタごと落ちる。

[Anne Shirley] ………………ふっ……

[Alma] でも、どうしてなのですか?そんなに急いで船にいらしていたなんて。

[Renee] だって、ガマンできなくって。オモシロそうなんだモン。

[Nicolle] すっかりレジャーランド扱いか?まあ無理ないけどねえ。

[Nicolle] ん……? でも、なんかヘンだな。

[Nicolle] あたしは、休暇のあいだ、あんたを別に見かけることもなかったけど?

[Renee] あたしはちゃんと見てた。

[Nicolle] へっ?

[Renee] ほら、だって、こんなに広いもんねぇ?ホント、すっごいとこだよ!

[Alma] わたしもしばしば、みなさんを見失ってしまいまして。

[Nicolle] いや、見失ってるのは主にあたしら。

[Anne Shirley] (ボリボリ)杏里と(ボリボリ)にいりびたって(ボリボリ)で(ボリボリ)が(ボリガリ)たんじゃないの(ボリボリ)。

[Nicolle] わからんわからん。

[Narration] 全員そろって首を振る。

[Soyeon] 話題は変わるんだけど、みんなバレンタイン・デーって知ってる?

[Narration] パビリオンの円形の壇に、ソヨンがあがって両手を広げる。

[Alma] バレンタイン・デー……ですか?いいえ?

[Narration] 首をかしげるアルマの横で、ルネが空中に地図を描いた。

[Renee] ウィーンの西のほう、ドナウの上流に向かうと、そんな名前のトコがあるよ。

[Soyeon] えっ、ほんと?

[Anne Shirley] 知ってる。男性から女性へ、チョコやお花を贈る日よ。

[Soyeon] うん、それ! 

……あれ、逆?

[Soyeon] コロンビアでは、男性からなんだ?お国が変わると、ずいぶん違うのね。

[Narration] と、しきりに感心するソヨン。

[Nicolle] そりゃあ、聖ヴァレンチヌスの日だろ。

[Narration] シエスタよろしく、石の長椅子に仰向けになっていたニコルが、立てた人差し指をぐるぐる回しながら言う。

[Nicolle] たぶん、発祥はイタリアだよ。

[Nicolle] こっちじゃ、男女関係なく、もっぱらカードやプレゼント交換の日だね。

[Nicolle] ああ。そういや、そろそろだ。ソヨンのお国じゃ、チョコを贈んの?

[Soyeon] うん、そうなんだ。たぶん、もとは日本からきた習慣なんだと思う。

[Narration] ソヨンは後ろに手を組み、胸をはる。

[Soyeon] あらためて説明いたしますと、バレンタイン・デーは、女性から、堂々と愛を告白できる日なのです。

[Soyeon] その時に、贈り物として、チョコレートを渡すのです。

[Nicolle] へえ〜、じゃあモテる男ほど、歯抜けになるってわけだ。アッハハハ……ハ?

[Narration] と、むとんちゃくに笑っているのはニコルだけで、少女たちは真剣にソヨンの話に耳をかたむけている。

[Soyeon] 高級チョコレートもけっこうですが、やはり気持ちのこもった、手作りのチョコがいちばんとされています。

[Narration] にわかに教師然として、身振りをまじえながらソヨンは熱弁ずる。

[Alma] チョコレートって……今は工場で作られているのですよね?

[Soyeon] ですよ?

[Alma] 手作りしても、法律で罰せられないのでしょうか? お酒のように?

[Soyeon] さ……されないですよ? たぶん。

[Anne Shirley] 違法かどうかはともかく。手作りするのはカンタンだわ。あたしはよくやる。

[Alma] そうなのですか?

[Anne Shirley] ええ。教えてしんぜましょう。

[Anne Shirley] まず、お店でチョコレートを買ってきます。特売の一番安いのでいいです。

[Anne Shirley] 湯せんで溶かします。せっかちさんは電子レンジでもOKです。

[Anne Shirley]  

 

まぜます。

[Anne Shirley] 冷やします。

[Anne Shirley] まあ! おいしい手作りチョコレートのできあがり?

[Renee] そんなら、あたしにもできる。

[Narration] と、足をぷらぷらさせているルネ。

[Nicolle] まて。なにか気持ち以外のモノが混ざってるだろ、それ。

[Anne Shirley] ……E気持ちを……すこし。

[Narration] と目線をそらすアン。

[Nicolle] あのな。

[Nicolle] まあ、癖になるとチョコもドラッグみたいなもんだけど───

[Narration] ニコルは、じぶんのこめかみを指でつついた。

[Nicolle] ……ははあ、わかってきたよ。ファン・ソヨンさん(仮名・韓国出身)の魂胆が。

[Soyeon] ───どき。

[Alma] わたしもなんとなく、見当がついてまいりました。

[Alma] つまり……公正を期そうという事ですのね?

[Narration] 少女たちも俄然、闘志をかきたてられたようだ。

[Narration] 要は、抜けがけでなく、目的の人物へのスタートラインを、公正にしきろうということらしい。

[Narration] といっても、新参のルネは、暗号を聞かされたように、ぽかんとしている。そんな風に見えた。

[Renee] ?

[Nicolle] まあ、多くは語らんのが華かい?おおかた、カナエーや、ヘレナあたりも巻き込んでるんだろ。

[Soyeon] どきどきどきッ。

[Anne Shirley] ずびしね。

[Soyeon] それをいうなら図星、ってバレてるや……

[Narration] きょろきょろと不思議そうに、少女たちを見渡していたルネは、おもむろに吹き出した。

[Renee] ヘンな人たちだ。イヒヒッ、面白いね!

[Narration] 屈託なく笑うルネ。

[Narration] ソヨンたちも顔をほころばせる。

[Narration] 枝を揺らし、穏やかな風が吹き抜けていく。

[Nicolle] でもさー。

[Collone] ウォウ?

[Narration] 寝返りをうって横をむいたニコルが、コローネの尻尾をもてあそびながらぼやく。

[Nicolle] 新学期早々、試験期間だろー?ぜんぜんそれどこじゃないって。

[Alma] そういえば……ですね。

[Narration] 成績優秀で試験への心配がない、ソヨンやアルマたちを揶揄しようと、ニコルが口を開きかけた時だ。

[Anri] さがしたよみんな!

[Narration] いたずら好きな妖精パックのように、杏里・アンリエットが飛び込んできた。

[Narration] 壇上に飛び乗り、ソヨンの指をからめとるやいなや、熱烈なタンゴのステップをきざみはじめる。

[Anri] おかえり! おかえり! おかえり!

[Soyeon] あ、杏里さん? ちょ、ちょっと──

[Anne Shirley] もっと面白い人がきた。

[Anri] 久しぶりだね、逢いたかったよソヨン! アルマ、アンシャーリーも!

[Narration] ソヨンを抱いたまま、幾何学的模様をえがいて杏里は踊りつづける。

[Soyeon] ふわわふわわわわ〜〜〜〜

[Anri] 何の話をしてたんだい?

[Anne Shirley] 気持ちと不純物の混合率よ。

[Anri] え?

[Nicolle] だめだめ、アン。一応ナイショの話なんだろ。

[Alma] ええ。ナイショですわ。ごめんなさい杏里様。

[Anri] ええっ、アルマまで?なんだいいったい?

[Soyeon] ふわわわ〜〜ナイショですよ〜〜

[Alma] まあ、午後の授業の予鈴が。

[Narration] 少女たちが、見えない薄羽根を広げて立ち上がる。

[Anne Shirley] じゃあね、杏里。

[Anri] うそ、もう行っちゃうの?久々にみんなと顔を会わせたのに!

[Soyeon] く、くらくらです〜杏里さ〜んおみやげ話はまたのちほど〜〜

[Narration] とソヨンも千鳥足で教室へと戻っていく。

[Anri] そ、そんなあ!この日をどんなにボクが……!

[Narration] 杏里はふと、その場に残った褐色の少女と目が合う。

[Anri] あれ……キミは……

[Renee] 転入生のルネ・ロスチャイルド。よろしくね、センパイ。

[Anri] よろしく! 杏里・アンリエットだよ。でもさキミ、たしか……

[Renee] ソヨンたちが呼んでる。もう行ってもいい?

[Anri] もちろん、いいさ。

[Narration] さびしげな杏里だけが、パビリオンの中央に残される。

[Narration] 腰に手をおき、深々と息をはく。

[Anri] ふぅ…………そうか……

[Anri] そろそろ……そんな季節だっけ……

[Narration] ───しんしんと冷える夜だ。

こんな夜は……

“メディチ家”とは──

それより鼎……さんは?

夜? 寝てるよ。   

[Narration] 休暇があけて、はじめてソヨンが部屋をおとずれる。天京院鼎は食事中だった。

[Narration] もっとも、書物とDVDとミキサーに埋もれ、ラジオをながし、新聞をひらき、おまけにキーボードへ向かいながらでは、食事風景と云えるのかどうか。

[Narration] ソヨンは部屋の静けさを壊さないように、しずかに挨拶をして、さらにぺこりと頭をさげる。

[Soyeon] こちら、お借りしていたご本です。ありがとうございました。

[Narration] それはレンガほども厚みのある、科学書のペーパーバックだった。

[Narration] 天京院は画面を向き、コンビーフとレタスのサンドイッチをくわえたまま、「ん」と生返事をかえし、親指で机をうながす。

[Narration] が、机はすでに先客でいっぱいだ。

[Narration] 絶妙なバランスで積まれた書物の山脈に、おそるおそる、ソヨンは本を載せた。

[Soyeon] その、すごかったです。「あっ、そうか、そうだったんだ」っていう驚きの連続で……

[Soyeon] ときどき単語がわからなくて、用語辞典も引きましたけど、それでも何とか、あたしでもわかる範囲で書かれてましたから……

[Soyeon] 良い本を教えていただいて、ありがとうございます。

[Soyeon] ちょっと夢中になりすぎて、寝不足になっちゃいました。えへへ。

[Narration] さらに、ソヨンは華やかな色の包みをとりだした。

[Soyeon] これ、お礼といっては何ですけど、おみやげのお菓子です。

[Soyeon] 以前のキムチは、ちょっと不評でしたけど、これはコーヒーにも、とっても合いますよ。

[Soyeon] オミジャタシク(五味子茶食)と、ケソンヤックァ(薬菓)。あたしも大好きなお菓子なんです。どうぞよければ……

[Tenkyouin] ん。

[Narration] 天京院はまた適当にあいづちを打つ。

[Narration] ソヨンは、そこいらじゅうを見渡した末に、けっきょくさきほどの本のとなりへ、そろそろと包みをのせる。

[Soyeon] 天京院先輩……あの、お忙しいようですから、今夜は失礼いたしますね。

[Narration] ソヨンは小声でつづける。

[Soyeon] 本当は、すこし相談にのっていただきたいことがあったんですけれど……

[Narration] 返事を受け取ることができないまま、部屋を退がるソヨン。

[Narration] 後ろ髪がひかれるのか、扉のノッブに触れて、ソヨンはふと足をとめた。

[Narration] 天京院に背を向けたまま、ぽつりとつぶやく。

[Soyeon] ……杏里さんと喧嘩でもされたんですか?

[Narration] ぶうっと、天京院が吹き出す。

[Tenkyouin] うるさいぞ!用が済んだなら、とっとと戻れ。

[Narration] 少女は、チマをひらめかせ、くるりと振り返る。

[Soyeon] あっ、ごめんなさい、忘れてました。ヤーンにも挨拶しなくっちゃ。

[Narration] マンクス猫のヤーンは、部屋のすみに置かれた籐カゴとクッションの中で、丸くなっていた。

[Narration] 冬のネコはよく眠る。

[Narration] 山積する物品で暖房の効率が悪いらしく、部屋はすこし冷えこんできた。

[Narration] ソヨンがそっとそのマーブル模様の背に触れると、ヤーンはすっと顔をあげて、その指先をなめた。

[Narration] 胸に抱きあげると、ヤーンは鼻先をソヨンに近づけ、すうすうと鳴らした。

[Soyeon] ただいま、ヤーン。起こしてごめんね?

[Soyeon] またちょっと大きくなったかな?

[Tenkyouin] …………

[Narration] 天京院は、爪を噛んで、ディスプレイへ向きなおる。

[Narration] ソヨンはゆっくりと身体を揺らしながら、ヤーンへ語りかける。

[Soyeon] ご主人さまは、ちょっと虫の居所が悪いみたいです……おとなしくしていましょうか?

[Soyeon] おまえ、だんだん、コーヒー豆の香りがしてくるね?

[Soyeon] 模様もなんだかそれっぽいし。マキアートっていう名前にした方がよかったかな? ふふ……

[Narration] 天京院はイライラとした様子を隠さないまま席を立ち、二人ぶんのコーヒーを淹れた。

[Narration] ガチャン、と乱暴にソヨンのそばの椅子にカップを置く。

[Tenkyouin] ───飲みな。

[Tenkyouin] 飲み終わったら、出ていってくれ。

[Soyeon] …………

[Narration] 湯気のあがるカップを見つめ、ソヨンはにっこりと微笑んだ。

[Soyeon] ありがとうございます。じゃあ、お菓子を出しますから。

[Soyeon] 食器をお借りしますね?

[Narration] またもや天京院は、調子をくずされて歯噛みする。

[Narration] 寝息をたてるヤーンを膝にのせ、椅子にかけたソヨンは天京院と語らう。

[Soyeon] そろそろ来年度の、学科をえらぶ時期なんです。それで、お話を聞かせていただけたら、って。

[Soyeon] 天京院先輩は、船の客員教授のかたとも個人的なお知り合いが多いと聞きましたし。

[Tenkyouin] ……そんなことか。

[Narration] 天京院は、つきあいのある理数系の教師の長所短所を、かいつまんで語った。

[Narration] ソヨンは時おり、質問をはさみながら、真剣に耳をかたむける。

[Narration] 結局、そろそろ日が変わろうという頃まで、ソヨンは天京院の部屋へ居残っていた。

[Narration] 静かに時は流れる。

[Narration] やがて、ソヨンは礼をのべ、いとまを告げる。

[Narration] ぴりぴりと張りつめていた天京院は、肩から力が抜けて、おだやかな表情をとり戻していた。

[Narration] ふっと、特製の船外モニターに目をやると、照明の光の柱の中に、白い綿毛のようなものが舞っている。

[Tenkyouin] ……雪だ。

[Soyeon] えっ、ほんとうですか?

[Tenkyouin] うん……積もるな。この強さだと。

[Tenkyouin] ボストンの雪はすぐに消えたが、これなら……

[Soyeon] わあっ。じゃあ、明日が楽しみですね。

[Narration] 心なしか、廊下までが寒々としてきたようだ。

[Narration] 扉の外まで見送りながら、天京院はためらいを振り切って口にする。

[Tenkyouin] ソヨン……どうしてだ。

[Tenkyouin] あたしは、イヤな奴だぞ。いつでも、きみを嫌いになれるように、隙をうかがってる。

[Tenkyouin] おのれを卑下してるわけじゃない。これでも我が身を理解しているつもりだ。

[Tenkyouin] 自分自身では、どうしようもなくとも、だ。

[Tenkyouin] 博愛心なら、お断りだぞ。

[Tenkyouin] それとも、きみが面倒を見たくなるほど、あたしは子供っぽいか?

[Narration] ソヨンは、ヤーンとの別れを惜しみながら、すこし困ったような微笑を浮かべた。

[Soyeon] だって、あたしは……

[Soyeon] あたしは……かなえさんの味方だから。

[Narration] 天京院はさざ波のような驚きに包まれて、少女を見た。

[Narration] みずから普段の敬語をくずしてしまったことにソヨンは気がつき、唇に手をそえる。

[Soyeon] あ、すみません。また、あたし───

[Tenkyouin] いや、別に……

[Narration] 天京院の胸中に反響を残しながら、静かにソヨンは続ける。

[Soyeon] ランチから、天京院先輩の姿が見えたと思った時、すごく嬉しかったんです。

[Tenkyouin] ……見てたよ。

[Soyeon] 自分でもわからないけれど、ほんとに、すごく嬉しくて。

[Soyeon] ……杏里さんは、離れていても、いつもそばに居てくれているような、そんな気がするんです。

[Soyeon] でも、天京院先輩は、その……なんだか、どこかへ消えていってしまいそうで……

[Soyeon] 儚げに見えて……不安……だったんです……

[Tenkyouin] ……そうか。

[Narration] この夜、はじめて、天京院は目前の少女をまじまじと見つめた。

[Tenkyouin] 変わったな、ソヨン。

[Tenkyouin] まるで…………いや……

[Narration] ばつが悪そうに口をつぐむ。その先をソヨンはもう悟っていた。

[Narration] 天京院もまた、ランチでのヘレナと同じ言葉を告げようとして───

[Narration] だが、複雑な彼女のプライドは、それを許さなかったのだ。

[Narration] ソヨンは頷き返す。

[Soyeon] ───はい。

[Soyeon] いつまでも、子猫じゃないです。

[Narration] ───閉館後の大図書室。

[Narration] 図書委員の持つ鍵で錠をはずし、背の高い扉を押し開く。

[Narration] 通路からの照明を受けて、二つの細い影が、林立する書架の狭間に揺れた。

[Narration] 暗がりの奥から、かすかに波音が耳朶に触れる。

[Narration] 日中には気づくことのなかった静けさだ。

[Anri] ふぅぅ……けっこう寒いね……

[Narration] 白い吐息が交互に混じりあい、暗闇へにじんでいく。

[Narration] 背の高い広大な空間に、二人の他には誰もいない、とあらためて知ると、いっそう肌寒く感じられてきた。

[Chloe] ……といっても不法侵入の身では、暖房は入れられないわよ。

[Chloe] 調べものなら、別に明日だって……

[Anri] ごめん、クローエ。どうしても今、知りたくなったんだ。

[Narration] 緑の黒髪の少女は瞼を伏せ、幾度目か知れないため息をつく。

[Chloe] いつもの杏里・アンリエットというわけね。

[Chloe] 控え室から毛布をとってきて、杏里。

[Anri] ウィ。

[Narration] 観葉植物で仕切られた図書室の一角が、ネットワークに接続された卓上プロジェクターの光で明るくなる。

[Narration] シックな色合いのカウチに浅く腰かけ、装置を調整していたクローエの肩に、ふわりと毛布がかかる。

[Anri] 失礼?

[Narration] 悪戯っぽい微笑みを浮かべながら、杏里が身を寄せ、同じ毛布の下に潜り込む。

[Chloe] ……どうして二枚持ってこないの。

[Anri] 一人ぶんしかなかったんだ。

[Chloe] 嘘。

[Anri] ふふっ。こっちの方があったかいよ。

[Narration] 二人でかぶった毛布の合間から、リモコンを操るクローエの手だけが突き出ている。

[Narration] ディスプレイされた膨大なライブラリーの目録から、すばやく目的の映像情報を呼び出し、プログラムに登録していく。

[Narration] 映像の投影範囲は小さく、スピーカーのボリュームも、ささやく程度に押さえられている。

[Anri] ね? もうすこし音、大きくしない?

[Chloe] 夜の何時だと思ってるの? 闖入者としての自覚を持ちなさい。

[Chloe] どちらにせよ杏里、あなた、挨拶と口説き文句のほかに、イタリア語を知らないでしょ。

[Chloe] いいから、わたしが解説してあげるわよ。

[Anri] ティ アーモ、ガッティーナ ミア……言われてみればそうだ。うん、お願いするよ。

[Narration] ゆったりと椅子の背にもたれる杏里に、つきあわされ、クローエもしぶしぶ半身を倒す。一枚きりの毛布の罠だ。

[Narration] 寄り添う二人の前に、白と緑、そして淡い薔薇色の大理石でおおわれた町並みが、映し出される。

[Anri] フィレンツェ……これが……

[Narration] いつか、鐘楼でニコルが話してくれた「赤茶けたキッタない町並み」は、杏里を魅惑して逃さぬ、情味あふれる古都だった。

[Chloe] 古くは、ローマの植民都市フロレンティア。“花の女神”の意味よ。

[Anri] それが“花の都”と呼ばれるゆえんだね。うーん麗しい…

[Narration] アルノ河をはさんで広がる、切り石積みの建物。ひときわ高く、街を象徴する建築物ドゥオモ(大聖堂)と、414段の階段を持つ名高きジョットの鐘楼。

[Narration] 広場には、歴史的な彫刻が威風堂々と立ち並び、町行く人々を見守る。

[Narration] カメラは美術館の外観をとらえ、やがて一枚の肖像画に切り替わる。

[Narration] 赤い服に、やはり赤い帽子をかぶった、鷲鼻の老人の横顔。

[Chloe] コジモ・デ・メディチ。

[Chloe] メディチの名が、歴史で大きくとりあげられるのは15世紀。「祖国の父」と呼ばれた、このコジモの時代からね。

[Chloe] 当時、まだイタリアという国もなく、半島はいくつもの都市国家に別れていた。

[Chloe] コジモと、その父ジョヴァンニが、家業の銀行業を成功させ、商人の街・フィレンツェ共和国での揺るぎない地位を築いたのが、メディチ家のスタート地点といえるわ。

[Chloe] ……といっても、君主を持たない共和制国家の話だから、あくまで政治に深く関わる一市民として、だけれど。

[Anri] タテマエの上では、だね。……ん? 銀行?

[Anri] メディチ家って、アンシャーリーの実家とおんなじ薬屋さんじゃなかったの?

[Anri] 確か、ほら、イゾルデが腰に巻いているバックルの───うん、それそれ。

[Narration] 映像が高速で送られ、そして静止する。盾の上に金属球が並べられた、メディチ家の紋章のアップ。

[Chloe] 変なことは知ってるんだから……

[Chloe] 言うとおり、メディチがメディスン(薬)の語源で、紋章の球体が、丸薬を現すという俗説はあるわ。

[Anri] 俗説? ってことは、事実じゃない?

[Chloe] さあ? 特に確たる証拠はないの。

[Chloe] 薬を取り扱っていたという記録も、残ってはいないし。

[Narration] メディチの紋章は、少しずつ形を変えながら、フィレンツェのあらゆる場所で見ることができた。

[Narration] この町に、もはやメディチの名は分かちがたく刻まれている。

[Chloe] この球は、金貨や、両替に用いた分銅をあらわしているという説───

[Chloe] なかには、それは物品ではなく、祖先の騎士が巨人を打ち倒した時に、その棍棒を盾で受けた跡だ、なんて作り話もあるわね。

[Anri] ボクはそれがいいな。カッコイイから。

[Chloe] ───続けるわよ。

[Chloe] コジモ以降のフィレンツェでは、比較的、平和な時代が続いたわ。

[Chloe] メディチ家が追放の身となるような、政変にも見舞われるけれど、またフィレンツェに戻ってきた。

[Chloe] そう。いつでもメディチは、フィレンツェに戻ってきた。

[Anri] へえ。やっぱり、商売で儲けたお金や、取引先との“つて”があったから?

[Chloe] わたしに言わせるなら……

[Chloe] フィレンツェを───花の女神を、愛していたからよ。

[Chloe] シスマ、すなわち教会の分裂。ペストの流行。英仏の百年戦争は終焉しつつある。まだ新大陸も、発見されてはいない……そんな時代。

[Chloe] ひとときの平安を謳歌するフィレンツェは、まさしくヨーロッパの中心だった。

[Chloe] その時期に、メディチ家は、ヨーロッパ文化の形成を語る上で、とても重要な貢献をしたわ。

[Anri] ハイ、ハイ!

[Narration] クイズ番組の回答者のように、杏里が挙手する。

[Anri] はじめてマカロニに穴をあけた!

[Chloe] …………

[Narration] カウチを立つクローエの腰に、杏里は抱きつき、必死に引きとめる。

[Anri] ごめん、ごめんっ! 冗談だよ!

[Chloe] わたしがイタリア人だったら殴ってるわ。

[Anri] ギリシャ人は蹴る───あ、いやいや。ごめん。実は知ってる。

[Anri] 『プリマヴェーラ』『ヴィーナスの誕生』『美しきシモネッタ』───

[Anri] ルネサンスだね。

[Chloe] そう。

[Chloe] ……美女画、美少女画ばかりなのが気にかかるけど。

[Chloe] もちろん、それらの絵画を残したボッティチェリも欠かせないわ。

[Chloe] けれど、ルネサンスを代表する芸術家を、一般的な知名度であげるなら───

[Chloe] ミケランジェロ、ラファエロ、そしてレオナルド・ダ・ヴィンチでしょうね。

[Anri] なるほど。

[Anri] ボクが知ってるのは『モナ・リザ』くらいだけど。

[Chloe] 今、名の挙がった、だれ一人として、メディチ家の保護を受けていない者はいないわ。

[Chloe] メディチ家なくして、フィレンツェは考えられない───

[Anri] フィレンツェなくして……ルネサンスは考えられない。

[Narration] クローエは頷く。

[Chloe] もちろん、家門の威光を示したり、投資としての目的もあったはずだけれど、メディチ家の当主たちは、とりわけ芸術と文化への理解が深かったと言えるわね。

[Chloe] その後、メディチ家は、影の支配者の座を抜け出し、諸外国との政略結婚を重ねながら、名実ともに支配者、貴族としての性格を強めていくわ。

[Chloe] “豪華王”ロレンツォ、“黒隊長”ジョヴァンニ、コジモ一世、フェルディナンド一世……

[Chloe] 歴史の節目々々に、傑出した人物を送り出したけれど、やはり世襲のさがかしら。

[Chloe] ゆっくりと動脈硬化を引き起こして、メディチ家、そしてまたフィレンツェも、活気を失っていくの。

[Anri] 寂しいんだね。

[Chloe] あら、わたしは好きよ。懐慕(かいぼ)と衰退のみちゆき。

[Anri] きみらしい。

[Narration] そう言って、いつのまにやらクローエの肩に置いた手を引き寄せる。

[Narration] 気づかぬそぶりのまま、クローエは説明を続ける。

[Chloe] 18世紀前半、最後の当主ガストーネが没し、その姉のアンナも、子を持たないまま亡くなり、メディチ家はついえたわ。

[Narration] 瞼を伏せるクローエ。

[Narration] これ以上は考えられないほど壮麗な、メディチ家の礼拝堂がスクリーンに現れ、杏里は声を失った。

[Chloe] ……というわけで、かけ足で話してきたけれど。これでメディチ300年の治世にも、終止符が打たれたわけ。

[Anri] ついえた……それじゃ、イゾルデは?

[Chloe] ええ。

[Narration] ここからが本題といわんばかりに、クローエは見栄を切る。

[Chloe] ところがメディチ家は生きていた……歴史の狭間に潜みながら。

[Narration] 歴史的な資料や絵画を見せ続けていたプロジェクターは、一転して、現代のフィレンツェへと時代を移す。

[Narration] イタリアの国営放送RAI。その過去のニュース映像が呼び出される(かようにポーラースターのライブラリーは充実している)。

[Narration] 背が高く、額の秀でたスーツの男性が、大勢の記者に囲まれながら、冷ややかに受け答えしている。

[Chloe] この男性をご存じ?

[Anri] ……いいや?

[Chloe] 現イタリアの上院議員にして、法務大臣。

[Chloe] このインタビュー映像の頃は、マフィアがらみの汚職を大量に摘発して、国民に圧倒的な人気を誇った、敏腕検事だった。

[Anri] もしかして、イゾルデのお父さん?

[Chloe] そう。当たり。よく似てらっしゃるわね。

[Anri] じゃあ、この人もメディチ!?

[Chloe] いいえ、この時はまだ。

[Anri] ……って、どういうこと?

[Chloe] イゾルデの父君・ジョヴァンニ検事が、メディチ家の末裔、その正統な後継者であることを明かしたのは、ここ数年の話よ。

[Chloe] イタリアのみならず、世界中でそれは大変な話題になったわ。

[Chloe] ……杏里はそんなこと、まるで興味なかったと思うけれど。

[Anri] いやあ、それほどでも。

[Chloe] ……こちらは、その事実を公表して、それまで住んでいたミラノから、フィレンツェにやってきた時のテープ。

[Chloe] 祖先の愛した町に帰還し、永住するためにね。

[Narration] 多くの歴史を作ってきたシニョーリア広場は、物見高い市民や、観光客が群衆となって、ごった返していた。

[Narration] 広場に接する、市庁舎でもあるヴェッキオ宮殿の扉が開き、当のジョヴァンニ検事が顔を出した。

[Narration] 紙吹雪が舞い、大歓声がまき起こる。熱狂の中で、人々が連呼する。

[Narration] 「パッレ、パッレ、パッレ────!」

[Anri] うわ、すっごい。サッカーの応援みたい───みんな何て?

[Chloe] 「メディチ、メディチ」よ。パッレは“球”。例の紋章の球よ。

[Anri] おお。大歓迎だったんだね。

[Chloe] いかにイタリア人が郷土愛にあふれ、お祭り好きだとしても、これではまるで凱旋のようね。

[Narration] カメラは、検事の脇に立ち、肩に手を置かれている少女に寄っていく。

[Anri] ───!

[Narration] 杏里は息をのみ、大変な勢いでスクリーンにかぶりついた。

[Anri] だだだだだだ誰だいっ!?この可憐な美少女わっっ!!

[Anri] ひゃっほう! パッレ、パッレ!

[Narration] 自分の身体を、スクリーン代わりにして興奮している杏里を、クローエはあきれ顔で見る。

[Chloe] ……10歳の誕生日を迎えたばかりの、イゾルデ・メディチ嬢よ。

[Anri] ええっ!! そんな馬鹿なっ!!あ──────っ!! 神よ!!

[Chloe] ……静かにしないと蹴るわよ。

[Narration] 鳴りやまぬ大歓声の嵐の中で、イゾルデは小さな胸を張って立っていた。

[Narration] すこし頬を紅潮させながらも、正面をりんと見据えている。

[Narration] まだ幼い少女とは思えない沈着ぶり。

[Narration] 媚びず、気品にあふれるその面立ちは、名家メディチの再興と、町の新たな象徴が誕生する場に、ふさわしかった。

[Narration] やがて映像は尽き、プロジェクターの光も落とされる。

[Narration] 名残惜しそうな杏里に、クローエは淡々と語る。

[Chloe] ある時期、コジモの孫“豪華王”ロレンツォから続く血統は絶えて、コジモの弟の血脈への交代劇があったのだけれど───

[Chloe] ジョヴァンニ検事の家系は、そのロレンツォにつながる、まさしく直系のものであることが、歴史学者にも証明されたの。

[Chloe] そもそもロレンツォの曾孫で、フランス王妃となったカトリーヌには弟がいたのだけれど、激しい勢力争いの中で───

[Chloe] ちょっと聞いてるの、杏里?

[Anri] く、クローエ、毛布に入れて……こ、凍え、そう、だよ……ううう……

[Narration] クローエは毛布に一人くるまりながら、無視して続ける。

[Chloe] なぜ、これまでメディチの名を隠し、今また明らかにしたのかは、わたしも知らないわ。

[Chloe] どのみち、一度は正史から退場した、正統メディチの血脈が、後継の支配者から疎まれる存在であったことは、想像にかたくないけれど。

[Chloe] おそらく、なんらかの家訓……

[Chloe] それと、イゾルデの堅信式(カトリックの秘跡の一種)にも関係があったのじゃないかしらね。彼女の年齢から見て。

[Chloe] 杏里はどう思う? それとも、今から彼女の部屋に直接たずねに行ってくる?

[Anri] うううっ……寒いぃぃよぅぅぅ……悪かったようぅぅ……

[Narration] 夜が明けると、ポーラースターは一面の銀世界へと変わっていた。

[Narration] 海上の天気は、ほとんど前もってわかっているので、あえて、降雪がある航路を選んだということだ。

[Narration] いくら広いとはいえ、かわりばえしない光景に囲まれ過ごす生徒たち。

[Narration] そんな彼女たちへの、学園長からの贈り物というところだろう。

[Narration] (これは、あちこちの掃除に骨を折ることになりそうだ……)

[Narration] イライザ・ランカスターは、ついつい、そんなことを考えてしまった自分に苦笑した。

[Narration] もう、そんな心配をせずともよいのだ。しばらくは。

[Narration] 少し軽装すぎたかもしれない。そう思いつつ、ストールを肩に寄せた。

[Narration] 朝食をとる生徒はまだ誰もいなかった。購買部通りのカフェでは、自分が一番の客らしい。

[Narration] すこし気が引けたが、とにかく早くに目が覚めて、お腹が減ってしまったものはしかたがない。

[Narration] 雪を眺めながら、というのもそうだが、ゆったりとイングリッシュ・ブレックファーストを楽しめるなんて、本当にしばらくぶりだ。

[Narration] 片面をカリカリに焼いたクランペット(パンケーキに似た小型のパン)にジャムを塗り、ほうばろうとした時、二人目の客がカフェに現れた。

[Isolde] ……ほう。

[Narration] 朝の挨拶をしようと、席から立ち上がりかけたイライザは、手で制された。

[Narration] イゾルデ・メディチが、向かいの椅子にかけ、優美に足を組むと、待ちかまえていたように、彼女のための朝食が運ばれてきた。

[Eliza] おはようございます、メディチ様。いつもながら、お早いのですね。

[Narration] 手袋を脱ぎ、テーブルに置いたイゾルデは、スチームミルクを少なめにしたカプチーノをかきまぜつつ、私服のイライザを見た。

[Isolde] 久しぶりだな……というべきか。

[Eliza] お暇をいただいたのですわ。べつに、メイドをやめたわけではございません。

[Isolde] ……なら、すくなくともたった今は、使用人ではなく、私人イライザ・ランカスターだろう。

[Isolde] そのかしこまった言葉遣いをやめろ。

[Narration] ブロンドの少女は肩をすくめる。

[Eliza] 申し訳ございません。服を着替えても、身についた習慣までは、なかなか。

[Isolde] …………食えない女だ。

[Narration] と、鼻で笑う。

[Isolde] 確かに、メイドにあらざれば、ここで私の言葉に従う必要もないが。

[Eliza] いいえ、そんなつもりでは。

[Eliza] 朝食をいただきませんか? ニューファンドランド沖の風は、お寒かったでしょう?

[Isolde] ああ……移民たちの命を奪った風だ。

[Eliza] 4千メートルの海底に眠るタイタニック号ですね。

[Narration] あきらめたようにイゾルデは、焼きたてのブリオシュ(クロワッサン)をつまむ。

[Narration] やがて、ちらほらと、生徒たちがカフェに顔を見せはじめる。

[Narration] が、私服のイライザとイゾルデが、向かい合い、黙々と朝食をとるさまを目にすると、とたんに離れたテーブルへと逃げ出してしまう。

[Narration] 二人は外野にはいっこうに関せず、堂々としたもの。

[Eliza] まだ、お身体は優れないのですか?

[Isolde] ……ああ。

[Isolde] 別に体調が悪いわけじゃない。

[Isolde] ただ、眠れないだけだ。医者も別に問題無いと言っている。

[Eliza] ご自愛ください。

[Isolde] フッ……長生きしてなんになる。

[Isolde] ……ハッ、ハハッ。あのイライザに、そんな心配をされるとはな。

[Narration] イゾルデは、椅子に深くもたれ、不敵な笑みを浮かべながら、長い指を組んだ。

[Isolde] 解せない。理解に苦しむな。

[Isolde] お前には一目置いていた。ランカスター。

[Isolde] 入学早々、私に果敢に挑戦してきた時は、頼もしく思ったものだよ。

[Eliza] お恥ずかしい。身の程を知らずとは、このことでしたわね。

[Isolde] 茶化すな。

[Isolde] しかし私は、強い人間が好きだ。お互い、高めあうことができる。

[Isolde] それが……

[Isolde] 家の不幸が、お前を変えたんじゃない。原因は、はっきりしている。

[Eliza] あら……と、申されますと?

[Isolde] 言うまでもない。

[Narration] イライザは、微笑んだ。

[Eliza] ……私は、今の自分が好きです。きっと、以前よりずっと。

[Eliza] メディチ様には、私が無理をしているように見えますか? 歯を食いしばって、やせ我慢をしているように?

[Isolde] ……高みを忘れた堕落者は、往々にして、手近な光景で満足しようとするものだ。

[Isolde] いや……すまない。言い過ぎた。

[Eliza] いえ、お気になさらず。

[Isolde] お前が苦境にあるのは、理解しているつもりだ。

[Isolde] 忘れないでくれ。私はお前の有能さ、誇りの高さを買っている。

[Isolde] もって生まれた才を伸ばせる者の、いかに少ないことか。

[Isolde] お前さえその気なら、いつでも力を貸す。言ってくれ。

[Isolde] ありがとうございます、メディチ様。

[Narration] 始業時間も目前になって、カフェに飛び込んできたのは、ルネ・ロスチャイルドだった。

[Renee] イゾルデ! 雪、雪だよ!

[Isolde] それがなんだ。珍しくもない。

[Renee] でも雪だよ!?

[Eliza] おはようございます、ロスチャイルド様。そろそろ船の生活にも慣れましたか?

[Narration] 話しかけられたルネは、けげんそうに私服のイライザを睨む。

[Renee] …………だれ?

[Isolde] 気にするな。観光客だ。

[Renee] 観光客? 嘘っ、嘘だよ。

[Narration] 予鈴と共に、イゾルデは席を立った。

[Narration] そろって店員が頭をさげる出口へ向かいながら、イゾルデは片手をあげて言い置く。

[Isolde] 休暇を楽しめ、ランカスター。

[Eliza] はい。ありがとうございます。

[Narration] まだごはん食べてないよ! と、ごねるルネに、イゾルデは、カウンターからクッキーのアソートを放ってよこす。

[Narration] あわてて袋をキャッチしたものの、げんなり顔のルネ。

[Renee] えーっ、朝からお菓子ぃ?

[Isolde] なら、もっと早く起きろ。

[Narration] なんだか微笑ましい二人を見送る。

[Narration] 残されたイライザは、自由の身でありながら、授業に出ることもできないという、一抹の寂しさも新たにした。

[Narration] されども、少々気にかかる。

[Narration] 性格も相容れなさそうな、あの二人が、セットでいることが多いのは、不思議だ。

[Narration] イゾルデ・メディチが、下級生を囲うような噂も、また耳にしたことはない。

[Narration] ついでのおりにでも、ルネ担当のメイドから情報を仕入れてみようか、そんなことをふと思った。

[Eliza] (なにか……杏里様の、お役に立つかもしれませんしね?)

[Narration] ───正午。プロムナードデッキ。

[Narration] 授業は午前中でおわり、以降はそれぞれ課外活動の時間に割りあてられている。

[Narration] とくに示し合わせることもなく、はたと杏里とアンシャーリーは顔を合わせた。

[Narration] その日は、二人で昼食をとろうと決めた。

[Narration] いつもいつも同じ顔ぶれで、食事にするとは限らない。

[Narration] もちろん、杏里のいきあたりばったりな性格による部分もあるが───

[Narration] 授業に区切られ、単調になりがちな生活の中で、彼女たちは、日々の偶然を大切に育てていくことを学ぶ。

[Narration] とらわれの姫君たちの、ささやかな抵抗だ。

[Narration] 二人は鼻に突き抜けるような、猛烈に酸っぱいエスニックでランチを済ませたあと───いつだってアンは強い刺激を好む───何か甘いものを口にしたくなった。

[Narration] エレベーターは使わずに、吹き抜けのカリヨン広場を囲んでいる、幾重にも螺旋となった階段を昇る。

[Narration] こうすると、広場に面する各階の店の様子がよくわかる。なにより、食後の散歩には絶好の場所だ。

[Narration] かんこんかんこん、と木張りの階段で二人の靴音がかさなる。

[Narration] 眼下の茶褐色の石畳はすっかり雪におおわれ、いまやペルセウスの盾のように、まばゆく日光を跳ねかえしている。

[Narration] 吹きあげた寒風に、アンはぶるっと身をすくめ、スカートのすそを押さえた。

[Narration] 途中の踊り場で、アンは、じっと杏里を見つめた。

[Anne Shirley] ずるいわね。杏里。

[Anri] どうして? なにが?

[Anne Shirley] パンツって、あったかそうじゃない?

[Narration] 杏里は下を向いて、自分の特注のスラックスに目をやった。

[Anri] そりゃまあ、素足よりはね。

[Anri] だけどアン? キミの長靴下だって、とても暖かそうだよ?

[Anne Shirley] でも夏は暑いのよ?

[Anri] ボクだってそうだ。

[Anne Shirley] 杏里もスカートを履くといいのだわ。スコットランド人みたいに。

[Narration] 杏里の想像のなかで、タータンチェックのキルトを腰に巻いた恰幅よいヒゲの紳士が、高らかにバグパイプを吹き鳴らした。

[Anri] ……アン? もしや、お忘れかい?一応、ボクも女の子なんだけど。

[Narration] アンはしばらく天をあおいでいたかと思いきや、ずびしと広場の一点を指さした。

[Anne Shirley] ……きょうはドルチェにしましょ、杏里?イタリアのデザートは世界いち、借金も世界いち〜。

[Anri] 借金なら、今はどうせ日本がいちばんさ。───って、誤魔化したね、アン?

[Anne Shirley] ほうら、お店まで競争よ?捕まえてごらんなさい、杏里。

[Narration] と、けらけら笑いながら、階段をあがっていくアンシャーリーを、杏里は大まじめに追いかける。

[Narration] 二人は、こじんまりとした構えの、白しっくいの店の軒先へ足を運んだ。

[Narration] “〜le portate piu basse del fiume di Arno.〜(アルノ川の下流)”という、たいそうひねくれた名の看板がかかる。

[Narration] なるほどポーラースターの航行する七つの海は、大海に注ぎ込むすべての川の下流には違いない。

[Narration] 軒下の黒板には、今日のおすすめメニューと、日替わりのドルチェが、白墨で殴り書きしてある。

[Anri] いつもながら乱雑な字だ……えーと今日のドルチェは……と……

[Anri] へぇ、“焼き目壊し放題”のクレーム・ブリュレと、“淡雪ふう”ココナツムースか。

[Anri] なある。シャレてるね。

[Anne Shirley] あたしはチョコレートケーキでも、味見しようかしら? 参考までに。

[Anri] 何の参考だって?

[Anne Shirley] なんでもないわ?じゃ、杏里。女の子らしく注文してね。

[Anri] まかせて!

[Anri] えーとー…………あーでもない……こーでもない……

[Narration] 店先で杏里は頭をかかえている。そこへ───

[Nicolle] うわっ、たったったァ!!

[Narration] 曲がり角からあらわれた少女は、豪快に雪の上をドリフトしながら、二人の合間へ飛び込んでくる。

[Anri] ……いや、これじゃオカマになっちゃうから……

わっ! ニコル!? 危ないよ?

[Nicolle] やっほー、アン、杏里!

[Narration] ぼすん、と杏里に受けとめられながら、挨拶もそこそこ、ニコルは店の奥にむかって怒鳴りつける。

[Nicolle] ペン! できてる!?

[Narration] すると店内からも、面倒くさそうなあいづちが返ってきた。

[Anne Shirley] ハイ、ニコル。これからランチ?

[Anne Shirley] さっきはなんだか、すごい勢いで教室を出ていったわね。

[Nicolle] あー、うん。今も、我ながらすごい勢いで走ってきたよ。

[Nicolle] カルチョ、ああいや、サッカーの結果が知りたくて、もう授業中からウズウズしてたんだよ。

[Nicolle] あとちょっとで、ロスタイムに入りそうなもんだから、ひとっぱしり食料補給にね?

[Anri] 勝ち負けより、賭けの行方のほうが気になるんだ。

[Nicolle] まあねー。みなまで言うない。最近、調子いいんだぜ。

[Narration] 「ほうら、ニコル」

[Narration] 高い帽子をかぶった、女性シェフが顔を出し、下手で何かを投げてよこす。これまた乱暴だ。

[Nicolle] っと、熱っ、あつつっ! グラーツィエ!

[Narration] 受けとめたニコルの手の中で、新聞紙の包みが踊る。

[Anri] うわあ、いい匂いだね。なんだい、それ?タコス? いや、パニーノだっけ?

[Nicolle] ちょっとちがう。ピアディーナだよ。

[Nicolle] パリパリの生地に、青菜やら、鶏肉やら、豆の煮込みやら挟んであるんだ。観戦しながらお腹をふくらませるには最高でね。

[Anri] わあ、美味しそうだな。またお腹が減ってきたよ。

[Narration] 「腹をふくらませるより、もっぱらゲンかつぎなのだろう? それは」

[Narration] シェフは腰に手をおいて笑う。

[Narration] 「どうせだったら、中で観ていかないか、ニコル? なんなら、あなたたちも」

[Narration] また走り出そうとしたニコルを、シェフが呼びとめる。

[Nicolle] えっ、それじゃ悪いよ。

[Nicolle] だいたい、昼休み時間中に、こんな大通りの店で、堂々とスポーツ中継なんか観戦してたらさ───

[Anri] ああ。うん、確かにそれはマズいかもね。PSに怖い目でニラまれちゃう。

[Anri] もっと運が悪ければ、品格指導のジョアンナ女史に見つかって特別授業だ。

[Narration] 「厨房に隠れていればいい」

[Narration] 腕を組み、こともなげにシェフは言う。

[Narration] 店の奥から、わあっ、と遠慮のない歓声が聞こえてきた。

[Nicolle] あーっ、今の声なにさ。

[Anri] 厨房のみんなも、仕事そっちのけかあ。

[Anne Shirley] ニコル、どう一緒に?

[Nicolle] ああもうっ、時間が惜しい。なんだっていいや、この際。

[Anri] じゃ、決まり。

[Narration] 三人が入り口をくぐると、そこで意外な相手と鉢合わせた。

[Anri] あなたは……

[Narration] なにくわぬ顔で奥の席についていたのは、ちょうど昼食を終えたばかりの、イゾルデ・メディチ。

[Narration] 指先でつまんだレース模様のヴェネチアン・グラスには、どう見てもワインに思える液体がゆらめている。

[Narration] それを、ゆっくりと喉に流し込み、ようやく彼女は杏里たちに目をくれた。

[Narration] ───と、杏里が思わず叫ぶ。

[Anri] あ、あなたは……

[Anri] かつて、

天使

のように

らし

かった、

イゾルデ・メディチ!

[Narration] イゾルデは吹き出し、胸を叩きながら咳き込んだ。

[Narration] なんとか、興味薄なポーズを取り戻して、椅子に居直る。

[Isolde] げほっ……げほっ……やはり、お前のどら声か。ニコル。

[Narration] テーブルに片手を置いて語るイゾルデに、ニコルは腕を組んで対峙する。

[Nicolle] ……どら声で悪かったね。

[Narration] ニコルの手の包みに目をやり、イゾルデは呆れ顔を見せた。

[Isolde] またそんなものを……もうすこしペネローペに、まともなものを作らせてやれ。腕がなまる。

[Narration] 遠慮ない苦言に、かなわない、とシェフは肩をすくませる。

[Narration] そんなシェフに向かって、ニコルは怒りの眼差しを向けた。

[Nicolle] どういうつもりだい、ペン。知ってて、あたしを店に入れたんだろ。

[Narration] 「私は、誰にでも自分の料理を食べてもらいたいと思っているよ」

[Narration] まったく立ち入ったことを…、そうつぶやき、ニコルは眉間にしわを寄せる。

[Anne Shirley] 何を飲んでいたの?

[Narration] 場に合わない、明るい調子でアンはイゾルデに尋ねる。

[Narration] イゾルデは空のグラスをすっと持ち上げてみせる。

[Isolde] ───いけないか?

[Isolde] ワインは食前にだけ飲むものじゃない。

[Narration] まるで悪びれた様子はない。

[Anne Shirley] それはそうね。

[Anne Shirley] ヘレナは食前も食後も認めないと思うけれど。

[Nicolle] ……あたしは失礼するよ。

[Narration] ニコルはきびすを返した。

[Anne Shirley] 観ていかないの? サッカー。

[Nicolle] イゾルデと一緒じゃ、息が詰まって仕方ないね。

[Anri] ……ニコル?

[Narration] ニコルは杏里の制止も聞かず、通りざまにシェフの肩へ一発パンチをくれて、店を出ていった。

[Anne Shirley] ニコルはどうしたの?

[Narration] アンが首をかしげる。杏里もまた気遣わしげな表情だ。

[Isolde] やれ……気ぜわしいことだ。

[Narration] ついとイゾルデも席を立つ。

[Isolde] 私が同室しているだけで、料理が不味くなるような言いざまをされては、たまらないな。

[Isolde] 躾がなっていないぞ、アンリエット。

[Narration] 杏里はイゾルデを真剣に見返した。

[Narration] 杏里自身は、まだイゾルデに対する態度を決めかねていた。

[Narration] イゾルデはべつに、ニコルに対して決定的な侮辱をおこなったわけではない。

[Narration] 船倉賭場でもそうだった。ただ、にぶい挑発のやりとりがあり、ニコルははっきりと彼女を“毛嫌い”している。それだけだ。

[Anri] 杏里でけっこうですよ、センパイ。

[Isolde] しかし私は、お前に気安くファーストネームで呼ばれたくはない。

[Anri] ……それなら、アンリエットでもけっこうですが。

[Anri] ボクは、ニコルの保護者ではありません。

[Anri] だけれど、彼女とは、いつだって苦楽を共にする関係でありたいとは、思っています。

[Anri] ボクは彼女を、心の底から愛していますから。

[Narration] イゾルデはわずかに眉をひそめる。しかし無言のままでいた。

[Narration] 杏里は続けて疑問をぶつける。

[Anri] どうして、貴女はニコルにあんなふうに当たるんです?

[Anri] ニコルも、なぜ貴女を避けようとしているんですか?

[Isolde] ………………

[Narration] イゾルデは値踏みするように、杏里を見つめる。

[Isolde] ……ニコルが、何も語らないと云うなら、私もお前に話すことはないな。

[Isolde] それは、フェアとは言えまい?

[Isolde] 失礼。

[Narration] そう言い捨てながら、イゾルデもまた店を出ていこうとする。

[Narration] 杏里はそんな彼女の腕を、はっしと掴んだ。

[Isolde] …………っ…

[Anri] イゾルデ……!

[Anri] そんな、フェアとか、フェアじゃないとか、世間体はどうでもいいんだ!

[Anri] ボクの大好きな、ニコルが……苦しんでる。

[Anri] ボクにはわかる。

[Anri] 貴女だって、そんなふうに意地を張っているけれど、とても……辛そうじゃないか!

[Narration] 二人はごく間近に視線を交わす。

[Narration] 拮抗するイゾルデの瞳に、かすかに震えがはしった。

[Narration] 杏里は思わず、つかんだ腕を放した。

[Isolde] ……わかるまい……

[Isolde] 貴様のような、暗愚で、他者の誇りを平気で踏みにじる侵略者などには、決してわかるまい……!

[Isolde] アンリエット、おまえは───

[Isolde] おまえは、誰でも、その安っぽい愛情とやらで惑わし、相手を自分と同じ水位にまで引き下げることで満足をおぼえる、卑劣な侵略者だ!

[Isolde] そのうえ……その人間にとって、もっとも貴重なものまで奪っていく!

[Narration] 烈火のごとく噴出するイゾルデの怒りに、杏里は強いショックを受けた。

[Narration] まったくこちらを無視しているかのように見えた彼女が、こんなにも強い感情を、その胸に押し隠していたことに驚いた。

[Narration] だが、そうまで言われては、杏里も黙っていない。拮抗した姿勢のまま、強く言い返す。

[Anri] じゃあ、貴女にとって、いちばん大切なものって何なんです!

[Anri] ニコルを、正々堂々といじめることだっていうんですか?

[Narration] わずかな沈黙ののちに、イゾルデは断言した。

[Isolde] …………復讐だ。

[Anri] 復……讐……? そんなことが、貴女の望みだって?

[Narration] 気が抜けたように、杏里が漏らすと、イゾルデはいっそう強く相手を睨んだ。

[Isolde] 私が、苦しんでいると言ったな……

[Isolde] そうとも……この苦しみは、私のものだ。お前になぞ、断じて渡しはしない……

[Narration] イゾルデはそう言い捨てながら、店から去っていった。

[Narration] シェフは帽子をおろして胸に抱き、深いため息をついた。

[Narration] ブルネットの髪は、帽子におさまるよう、かたく結い上げられている。

[Narration] 杏里はドルチェのことも忘れ、シェフに語りかける。

[Anri] あなたは何者なんです、シェフ?

[Anri] どうやら、イゾルデとニコルの共通の知り合いのように見えたけど?

[Narration] シェフは何をか言わんや、とすこし驚いた様子で、杏里を見た。

[Penelope] その様子では、本当に気づいてないんだな? やれやれ……

[Narration] 彼女は、テーブルにあったグラスをつかむと、目の高さに持ちあげて、独特の8の字の動きでシェイクしてみせる。

[Anne Shirley] カクテルシェーカーね?

[Anri] ……あっ! 船倉の……バーテン!?

[Narration] ぽんと手を打ち合わせる。

[Narration] さすがの杏里も、合点がいったようだ。

[Narration] 白いシェフのユニフォームを身につけてはいるが、確かに目の前にいるのは、あの船倉賭場のパブにいたバーテンダーだ。

[Penelope] こら。

[Narration] シェフが杏里をたしなめる。

[Penelope] 船倉の話題は、喫水線より上じゃ御法度だよ。

[Anri] あ、ごめん。でも、こんなところでアルバイトしてたなんて。

[Anne Shirley] どちらがバイトかしら。

[Narration] シェフはひとまず杏里たちをテーブルに座らせ、所望のドルチェを運んだ。

[Narration] ほかに店には誰もいない。ときどき、厨房から、ほかの調理師たちの歓声が聞こえてくるくらいだ。

[Narration] シェフは、名をペネローペといった。ニコルはペンと縮めて呼ぶ。

[Narration] 杏里は、これまで彼女にまともに気をくばるこがなかったことを謝った。

[Narration] ペネローペも、そんな杏里の性分はわかっていると言いたげに手を振る。

[Anri] フランス系? なのにイタリア料理のシェフなの?

[Penelope] いいじゃないか。性に合っていたんだ。

[Penelope] 日本にだって、イタリア料理のシェフはいるだろ?

[Narration] 彼女のくだけた語り口は、バーテンをしていた時と、変わらない。

[Penelope] 私は以前、ジラルド家の出している店で、調理師として働いていたんだよ。

[Penelope] だから、ニコルともずいぶん長い。この船じゃ、コローネのつぎに、あの子と親しいあいだがらってわけ。

[Penelope] その次が、き、み。

[Narration] とウインクするシェフ。杏里は口惜しそうに地団駄を踏んだ。

[Narration] その脇でアンシャーリーが、杏里のドルチェに何か細工している。

[Penelope] そのあと、メディチ家に移ってね。

[Anri] どうしてさ?

[Anri] 腕を買われて、引き抜かれたとか?

[Penelope] いや。私としては、店を続けたかったんだけど。

[Penelope] ……ちょっと不祥事が発覚してさ。ハハハ。

[Narration] 金庫を開いて、中から札束をつまみだす仕草をしながら、ペネローペはおどけて笑う。

[Penelope] どうせ、帳簿にも載ってない金だし、窃盗罪にはならないと思ったんだけど。そうは問屋がね。

[Anri] 悪党だなあ。

[Penelope] ま、そんなわけで、ちょいと身を隠す必要があって。隠れミノになりそうなメディチ家に、自分を売り込んだんだ。

[Penelope] シニョール・メディチは、さすが、たいそうなグルメでね。鍛えられたよ。

[Penelope] この船に出店するための口利きもしてもらった。

[Narration] 杏里は、じっとペネローペを見つめた。

[Anri] なんだろ……なんだか、初めて会った気がしないや。

[Anne Shirley] この店には何度も来たわ。

[Anri] いや、うん、もちろん。

[Narration] 船窓賭場でも、何度となく顔をあわせている(はずだ)。

[Anri] この船に乗った時から、顔は合わせてるはずんだけど、そうじゃなくて……

[Narration] ペネローペは、感心したように、唇を小さくあけて微笑んだ。

[Penelope] きみは本当にするどいね。

[Penelope] わたしは、べつにお金や名声を目当てにしてこの船に来たわけじゃない……

[Narration] ペネローペは手を伸ばし、すっと、アンシャーリーのえりくびに指をはわせる。

[Penelope] きみは実にいい趣味をしている、杏里。

[Narration] アンはきょとんとしながらペネローペを見た。

[Penelope] この私と、イゾルデとでは、だいぶ意見が異なるが。

[Penelope] ……楽天的で、無邪気で、憎めない。

[Penelope] 疎ましく思えても、いつのまにか心のなかに入ってきている。まったく得な性格だよ。

[Narration] ペネローペは、そう語りつつも、からめるようにアンの視線をとらえ、ゆっくり顔を近づけていく。

[Narration] 耳もとや盆のくぼをくすぐり、ひらめく指先を楽しむように、アンはくすくすと笑う。

[Narration] 杏里は本能的に危機を察知した。

[Narration] がたがたと立ち上がり、あわててアンの肩を引き戻した。

[Anne Shirley] あ。

[Anri] ちょ、ちょっと待ってよ。だめっ、だめだよ。

[Anri] ペン、貴女はもしや……

[Penelope] そう。いわば、きみの姉妹というわけだ。

[Narration] 杏里はすくなからず面くらった。

[Narration] ポーラースターに、自分のほかに同性愛者は皆無である、とは杏里も考えていなかった。

[Narration] しかし、こうもあっけらかん、と語る相手には、まだお目にかかったことが無い。

[Narration] 各国要人の、目に入れても痛くない箱入り娘をあずかるこの船では、クルーに対するチェックは、クリントン政権以前の米海軍より厳しい。

[Anne Shirley] 杏里、ねえドルチェは? 食べないの?

[Narration] 腕の中にアンシャーリーを囲い込んだまま、杏里はじりじりとペネローペの椅子から離れていく。

[Penelope] そうだなあ……

[Narration] 腕を組み、首を揺らしながら、ペネローペはひとりごつ。

[Penelope] きみらが、もうひとまわり齢をとっていれば、私も放ってはおかない……かな?

[Narration] と言われて、杏里は指折り数えて計算する。

[Anri] そ……それじゃ、ボクらは、たぶん貴女より年上になってしまいますよ?

[Narration] どうにも信じられない様子の杏里、その腕にぶらさがりながらアンが言った。

[Anne Shirley] ───年上の誰かさんに誘われて、この船に乗ったのね? いいえ、それとも貴女のほうから追ってきたのかしら?

[Penelope] ふふっ……ご想像におまかせしようか。

[Narration] やにわに、ひときわ大きい歓声と落胆の叫びが厨房からあがった。

[Narration] うあーっ、と頭をかかえて、厨房からクルー制服の女性が姿をあらわす。

[Narration] モールの中に、燦然と金の4本線が並ぶ肩章は、船にただ一人きりだ。

[Anri] 学園長!? いたの?

[Penelope] 負けたんですか。

[Narration] そうシェフがたずねると、けーこ学園長はがっくりと肩を落とし、テーブルの上に三つ編みを放り出した。

[Principal] ぐぐぐっ……フィオレンティーナは、これでセリエBに降格決定だっ! 畜生! チェッキ・ゴーリのバーカバーカバーカ!

[Principal] ……ん? なんだ、お前たち。

[Narration] 毒づく学園長は、二人に気づいてレンズの奥から、ぎろりとにらみつける。

[Principal] んな、あまったるいデザートばっか喰ってるとな! 将来イタリアの偉大な母みたいな、正三角体型になっちまうぞ!

[Anri] 八つ当たりしないでください、学園長。

[Anne Shirley] 営業妨害反対。

[Principal] うるさい! 杏里、お前も日本人なら、ぼた餅でも食べてりゃいいんだ。

[Anri] 無茶苦茶だ。

[Anri] 今どき、そんなのお彼岸でも食べませんよ。

[Principal] えーい、どいつもこいつも!

[Anne Shirley] 独逸も都々逸も!

[Narration] 荒れ狂う学園長を避けて、杏里たちが店を逃れ出る際に、ペネローペは告げた。

[Narration] ……イゾルデや、ニコル自身が沈黙しているのなら、そうそう差し出がましい真似をするわけにはいかない。

[Narration] 彼女たちにも守りたいプライバシーがあるし、じぶんは二人の過去を知りすぎている。

[Narration] それでも───

[Penelope] ……それでも、私の友人を、あの二人の仲を、また再び取り持つことができれば。

[Penelope] そう願ってやまないんだ。だから杏里。

[Penelope] ……だから杏里。ゆっくり、すこしずつでもいい。

[Penelope] あの子たちを、頼むよ。

[Narration] 杏里は、シェフのひたむきな眼差しをしっかりと受け止め、うなずいた。

[Narration] ようやく得たはずの浅い眠りから、イゾルデは引きはがされた。

[Narration] 全身がけだるく、濡れた頬をぬぐう気力すら湧かない。

[Narration] また毎夜、あの夢を見るようになった。

[Narration] 暗闇のなかで、凍え、震えている少年……

[Narration] 少年は、かぼそい声で救いを求め、イゾルデの名を呼ぶ。

[Narration] しかし、彼女が伸ばした指は、むなしく宙をつかむ。

[Narration] ぬくもりを少年につたえることは、もはや、決してかなわない。

[Narration] 二人は間近に居るように見えながらも、決して交わることのない、異なる世界に立たされている。

[Narration] なおも、少年が呼び続ける声が響いて、切なく、胸をしめつける。

[Narration] 歯を食いしばったイゾルデの頬に、また、冷たい涙がこぼれた。

[Narration] 感覚のない片腕を、ベッドの上の暗闇へと持ち上げ、強く伸ばす。

[Isolde] ……ジュリアーノ…………

[Narration] 指先を吐息がすりぬけ、冷ややかな空気だけが……

[Narration] …………残った。

[Narration] ファースト・クラスでは、船内のレストランから現役のシェフを招き、調理実習をおこなっている。

[Narration] ───本日の題目は「お菓子」。

[Narration] 明るく広々とした調理室は、いつもの授業風景とは異なる、なごやかな気分だ。

[Narration] えらべるテーマは幾つもあるのに、なぜかほとんどの生徒が、ボウルの中のチョコーレートをかきまぜている。

[Narration] 和洋中、その他もろもろ揃いぶみのシェフやパティシエたちも、少々手もちぶたさ気味だ。

[Soyeon] 愛情愛情〜あいじょ〜〜♪

[Anne Shirley] 劣情とトレードの隠し味……

[Soyeon] あれ、ニコルは?

[Anne Shirley] サボリ。

[Collone] ウォウ、ウォウウ〜

[Alma] まあ……。たしかに、調理実習中の居眠りは、難しいですものね。

[Niki] …………(ねりねりねりねりねりねり)

[Renee] わっ、びっくりだ。誰なの、この人?

[Alma] ルネさんは、初めてお会いになられるのですね。ニキ・バルトレッティさんですよ。

[Narration] ニキのボールでは、木べらがプロペラのような猛烈な勢いで旋回している。

[Soyeon] ニ、ニキ? そんなかきまぜたら───

[Alma] いけないのですか? 先生は、チョコレートを冷ましながら、よくかきまぜるようにと。

[Soyeon] でも、もうちょっと、ゆっくりじゃないとお……

[Anne Shirley] ツヤがなくなるんですって。シワシワ?

[Sophia] 失敬な。

[Soyeon] そ、ソフィア先生。

[Sophia] 通路まで、いい匂いがするものだから、つられてしまってね?

[Anne Shirley] ううう、イヤなヤツが……

[Sophia] 私はショコラにはうるさいわよ。

[Alma] チョコレートといえば、ベルギーは本場ですものね?

[Renee] ウィーンの次くらいにね。

[Anne Shirley] 本場はアフリカだァ!

[Soyeon] それは原材料のカカオ豆のほうでしょ。

[Principal] なんだッ、カカオの話かッ!?

[Sophia] あら、学園長。

[Alma] やっぱりみなさん、甘いものには目がないのですわ。

[Niki] ………………(ねりねりねりねりねりねりねりねりねりねりねりねりねりねりねりねりねり)

[Narration] タタタ タン タタン

[Narration] タン タタ タ タタン

[Narration] ───船首デッキ。階段脇の陽のあたる場所で、ひかえめに刻まれる靴音。

[Narration] 甲板に積もった雪を、どこからかひきずってきた船具入れの蓋でおしのけ、一人用の小さな舞台が作ってある。

[Narration] タップを踏む少女のステップは、まだまだ、何ともたどたどしいばかりだ。

[Narration] 時折、足を休めては、なにやら本から破りとったページを手にして、しげしげと読みふけっている。

[Narration] すると突然、階段の上から声がかかる。

[Girl] ちょっとばっかり飲み過ぎかしら?ジーン・ケリー氏?

[Narration] セカンドの女生徒が、手すりに寄りかかって、ニコルを見おろしている。

[Nicolle] ……よたよたしてて悪かったね。

[Narration] 少女は手ざわりの良さそうなブロンドをなびかせながら、階段をかつんかつんと降りてきた。

[Girl] ごめんごめん、怒らないでね。ムシュゥ……フレッド・アステア?

[Nicolle] ニコル・ジラルド!

[Girl] ニッコロ? ニコール?あー、じゃなくて、ニコル?

[Girl] ……ふうん。なんだか、男の子みたいな名前なのねえ。

[Nicolle] ほっとけ。どうせ見た目もだよ。

[Narration] ポケットにページを戻し、ニコルは少女を見た。

[Nicolle] で……なんだい、あんた?

[Narration] 少女は視線を空に向け、考え込んだ。

[Girl] …………天使

、とか。

[Nicolle] 天使だ? 羽根はどこへ置いてきたのさ?

[Girl] じゃ、堕天使ってことで。

[Narration] 少女は透明な羽と、頭の上の輪を取るジェスチャーをして、さらにそれを、よいしょと横へ置いてみせた。

[Narration] 聞きたかったのは彼女の名前なのだが、そんなことより、先にニコルには笑いがこみあげてきた。

[Nicolle] ふッ……ふふふッ、ヘンな奴。

[Girl] 今はダンスの時間なの?

[Nicolle] そんなとこかな。ちょっと、映画に影響されてさ。

[Girl] どんな映画?

[Nicolle] ミュージカル映画。けっこう最近に封切られたヤツだよ。

[Nicolle] 現代版のローマ史劇なんだけど、決闘も、ラブシーンも、合戦も、見せ場はぜんぶタップでね。いや、もう、これがカッコイイのなんのって!

[Narration] 少しはにかみながらニコルが告げると、プロンドの少女は、その場でニコルを真似て、かたかたと靴を鳴らしてみせる。

[Girl] いいじゃない、素敵だわ! 憧れるのって、とっても大切だもの。

[Girl] ね、私もやってみていい、ニコル?

[Nicolle] べつに、いいけど。……カネのかかることでもなし。

[Nicolle] こいつを貼りつけるんだよ。

[Narration] と言って、靴底に貼る鉄片と、その接着剤を少女に差しだした。

[Narration] 少女は自分も船具入れのフタを引きずってきて雪をのけると、ニコルの隣に立った。

[Girl] ………………えっと……

[Girl] ……ただ、ドタドタしてても、ダメだよね?

[Narration] 少女が笑いかけると、ニコルはまたポケットに手を入れた。

[Nicolle] このカンペの受け売りだけど……

[Narration] 教本と首っぴきになりつつも、ニコルが基本のステップを一つ一つ踏んでみせる。

[Narration] と、少女もニコルについてくる。

[Girl] 前、ななめ、横、うしろ、クロス前、ななめ、横、うしろ、クロス───

[Nicolle] うん、とりあえずそれを繰り返す。

[Narration] タタン タタン タタン……

[Nicolle] そうそう。

[Nicolle] じゃ、お次はウォーキングと、ランニングステップだね。

[Narration] タタン タタン タタン

[Narration] タタン タタタ タタタ タタタ……

[Narration] 即席のレッスンを、少女はみるみるうちに吸収していく。

[Narration] さらには、アドリブで、まだ教えられていないステップまで、繰り出してみせた。

[Narration] ニコルは、少女の脚の運びを感心しながら見つめた。

[Nicolle] へえ、キレイなステップだね! センス抜群だよ!

[Nicolle] なんだあ、素人のあたしが教えることなんて無いじゃん。

[Girl] ありがと。

[Nicolle] うらやましいなあ。あたし、不器用で、うまくバランスが取れなくってさ。

[Girl] あはっ、私も、映画の見よう真似だけどね。

[Girl] 思い出した。私も、その映画観たわ。冬期休暇中の、夜のシアターで。

[Nicolle] ……え? ヘンだな。

[Narration] どきんとニコルの胸が高鳴る。

[Nicolle] あの映画は、あの夜一回きりの上映で、あたしと、あ……杏里ってヤツの、貸し切りだったけど?

[Nicolle] 船内TVの話じゃなくて?

[Girl] ううん? ずっとうしろの席から観てたわ。ニコル、あなた何度もキッスをねだっていたでしょう?

[Nicolle] うわっ!

[Narration] ニコルは思わず顔を押さえた。少女の頬は、みるみる染まっていく。

[Girl] 私は見た。

[Nicolle] うわっ、うわわわ……っ

[Nicolle] み……みられた……

[Girl] 私も、あてられちゃって。映画に専念するのに、それはそれは苦労したわ。

[Girl] これはアレよ? もうすこしで、公衆ラブラブ陳列罪で逮捕されちゃうところよ。

[Nicolle] ご、ごめん……なさい……

[Girl] あはははは、可愛い。とっても可愛いので、今回は特別に許してあげましょう。

[Nicolle] なんだよそれ〜。嗚呼ぁ、格好悪ぃ、一生の不覚だぁ……

[Narration] 少女は、うつむいて真っ赤になってしまったニコルに、違う話題を振る。

[Girl] ところで、ニコル? 授業は?ファーストは調理実習じゃないの?

[Nicolle] そうだけど……ちがう学年のくせに、よく知ってるなあ。

[Nicolle] まあ、ご推察のとおり、フケたんだ。

[Nicolle] あたしは、お菓子は買って食べるからいいんだよ。べつに、作れなくったって。

[Nicolle] それよりも、アコーディオンが弾けたり、タップが踊れるようになったほうが、ずうっと素敵だろ?

[Girl] なるほど。

[Nicolle] だから、これはあたしのための、あたしだけの授業なんだよ。

[Girl] うんうん、そういうことっか。

[Girl] 芸術か! それとも甘〜いお菓子か……むむ、それが問題だ。

[Nicolle] あんたこそ、授業はどうしたのさ。

[Girl] 私?

[Girl] 私は、なんと申しましょうか。もろもろの事情で、授業とは無縁の世界と申しましょうか。

[Nicolle] はぁ? なんのことやら。要するにサボりだな。

[Narration] ニコルは、またポケットに手を入れ、今度は、青い星のちりばめられた銀紙のかたまりを取り出すと、その中身をぽいと口へ放り込んだ。

[Girl] なに? 今の。

[Nicolle] ふ? ひょほはへほ。

[Narration] ニコルは口をもごもごさせながら、手に残ったびっしりと小さな文字で埋まった半透明の紙に、目を通している。

[Girl] くんくん。あー、チョコの匂いがする!

[Nicolle] んごもご……わあったよ、あげりゃいいんだろ。

[Nicolle] …………あ。今ので最後……

[Girl] えーっ。ずるい。

[Narration]  「ミシェル!」

[Narration] 遠くから響いた、その神経質そうな声に、二人はそろって肩をびくつかせた。

[Narration] 「さがしたわよ!? ミシェル!」

[Narration] 「───それに、ニコルまで!?」

[Narration] 見ると、銀髪の少女が、雪を踏みしだいて迫ってくる。

[Narration] ミシェルと呼ばれた少女は、仕方なさそうに肩をすくめた。

[Michelle] じゃね、ニコル。

[Michelle] 楽しいレッスンをありがとう。次は、ギターを弾いてあげるわ。

[Nicolle] それじゃ、フラメンコだろ?

[Michelle] だからチョコもちょうだいね!

[Nicolle] はぁ? って、おい、ちょっと───

[Narration] 少女は、さっさと階段をのぼり、追っ手から姿を消してしまう。

[Narration] 入れ替わり、あきらめ顔のヘレナが現れた。

[Helena] また逃げられたわ……もう……部屋に居なさいって言ったのに……

[Helena] ニコル? 彼女と何を話していたの?

[Nicolle] べ、べつにいいじゃん。ふーん、あいつ、ミシェルっていうんだ。

[Nicolle] あまり見ない顔だね。

[Nicolle] でも、人なつっこい感じだったけど。クラスじゃ意外に引っ込み思案……とか?

[Helena] そ、そうね……そんなところ、か、かしら。

[Narration] ヘレナはニコルの様子をうかがいながら、ためらいがちに応ずる。

[Helena] ……それよりニコルっ?

[Helena] ファーストは、まだ授業中のはずでしょう?今からでも、教室に連れていくわよ?

[Nicolle] うわっ、やべっ。

[Narration] とっさに逃げようとするが、すでにニコルの足腰はくたびれきって、よたよたとしか甲板を進めない。

[Nicolle] ひぃ〜、こりゃ体力作りからやんなきゃ駄目だぁ〜

[Narration] そんな調子で、すぐにヘレナに追いつかれ、首根っこをつまみあげられる。

[Nicolle] あーあ。やっぱ雪の上じゃ、ロシア人にはかなわないや。

[Helena] 何言ってるの。珍しく運動でもしてたの?

[Helena] 毎日、コローネを散歩させてるわりには、だらしがないのねえ。

[Nicolle] そう、だらしないんだよ。ま、誰かさんの制服のボタンほどじゃないけどね?

[Helena] …………

[Helena] ……なんですってッ!?

[Anri]   ほんで

なぁー?

[Narration] スポーツの時間を終えたファーストの一団が、さざめきあいながら、銀世界となった空中庭園のセンターストリートを踏み分けてくる。

[Narration] すでに私服へと着替えた生徒も、幾人か。

[Narration] 昨夜は、また降雪があった。積もる雪は、夜ごと丈を伸ばしていくばかりだ。

[Narration] 屋外トラックを使うはずの授業も、アリーナ内の球技へと変更となった。

[Narration] といっても、アリーナ内もまた、日光を呼び込める開閉式ドームになっているので、運動する方にとっては、気分のちがいくらいだが。

[Soyeon] あっ、先輩〜!

[Narration] めざとく見つけたソヨンが声をあげる。

[Narration] 広場へと向かう道の脇に、いくらか待ちかねた様子でクローエがたたずんでいた。

[Narration] 腕組みしたまま、苦みばしった顔でソヨンを見返す。

[Narration] 先にクローエの前を通りすぎようとしていた少女たちは、寒さのためばかりでない紅色で頬を染め、小走りに会釈していく。

[Narration] クローエは、組んだ腕の中から指先を立て、なんとも言いがたい、ぎごちない様子で下級生に応じていた。

[Narration] すこし遅れ、ソヨンやアルマたちがやってくる。

[Alma] クローエ様は、お知り合いが大勢いらっしゃるのですね。

[Narration] アルマが尊敬に満ちたまなざしを、クローエへと向ける。

[Chloe] そうね。

[Chloe] 先週までは、一度も口を交わしたことの無い子たちだったけれど───

[Soyeon] へええ……あっ!

[Narration] ───こつん、とソヨンの広いおでこが小突かれた。

[Chloe] いったい、あの子たちに何を吹き込んだのかしら、ソヨン。

[Narration] ───こつ、こつ。

[Soyeon] いたた、イタいですよ。

[Chloe] あなたは一日に10回以上、チョコレートの味見をしたことがある?

[Chloe] 「甘い」以外に、チョコを評する単語をいくつ知ってるかしら?

[Narration] ───こつ、こつ、こつん。

[Soyeon] きゃあっ、ごめんなさい、ごめんなさいっ。そんなご迷惑をおかけしてたなんて。

[Narration] ソヨンはたじたじと、あとずさる。

[Narration] 調理実習の成果を、好意を持つ先輩や教師に味見してもらう、という習慣は以前から、まことしやかにポーラースターに伝わっている。

[Narration] ……が、立て続けにチョコレートばかりを持ち寄られては、クローエもうんざりした模様だ。

[Soyeon] はぁ〜、ご迷惑おかけしました……されども、ウン、さすがは先輩です。大人気!

[Soyeon] でもなァ……まだ日が早すぎるのになァ……もっときっちり教えてあげないと……

[Anne Shirley] ぜんぜん懲りてないのだわ。

[Chloe] ふゥ……だんだん手に負えなくなってくるわ。

[Chloe] ……誰に似たのかしら。

[Anne Shirley] 知ってるくせにィ。

[Narration] クローエはアンを横目でねめつけながら、ハァと息をついた。

[Soyeon] あ、そうでした、クローエ先輩。新しいクラスメートを紹介します!

[Chloe] 転入生の話は聞いているわ。

[Chloe] 私も、その子にちょっと用事があって……もう、近づきになったの?

[Alma] ソヨンさんや、ニコルさんのおかげですわ?

[Chloe] どこ?

[Alma] ほら、あちらでコローネさんも交えて雪遊びをしていらっしゃるのが───

[Narration] ヒュン───と、アルマが顔を向けた方向から、いきなり雪玉が飛んでくる。

[Narration] それは目前で、パシンと粉雪となり舞い散った。

[Narration] 一見なにげない仕草に思えたクローエのジャブが、すかさず雪玉を叩き落としていた。

[Chloe] あのアーリア系の子?

[Soyeon] はい。でも、生まれも育ちもウィーンなんだそうです。

[Chloe] あれが、失われた5本の矢の末裔……サロモンのウィーン分家再興の噂は、本当だったのね。

[Chloe] しかしハーフとは……

[Soyeon] 先輩、あまり本人の前で、そういった話は……

[Chloe] わかっているわ。感動していたのよ、これでも。生ける歴史を垣間見られて。

[Narration] 平然と会話を交わすうちにも、次々と雪玉が飛んでくる。

[Narration] ───ぱしっ、ぱし、ぱし、ぱしっ。

[Narration] かわるがわる二人の拳が閃き、見事なコンビネーションで雪玉を散らしていく。

[Alma] ……? ……?

[Narration] 豆鉄砲をくらったように、キョトンとしているアルマ。

[Soyeon] こらあっ、ニコルっ! ルネぇ!?いいかげんにしなさい!

[Nicolle] そっちこそ、いいかげん当たれぇッ!

[Renee] 敵メカはァ、シールド使っちゃいけないんだよォ!

[Anne Shirley] ……ハッ、その通りだわ。シールド解除?

[Narration] ──────ズバン!

[Narration] 命中。直撃。大破!

[Narration] アルマの顔面が文字どおり、真っ白になった。

[Soyeon] あっ……次、あたしの番でした……?

[Narration] クローエはきまり悪そうに肩をすくめる。

[Narration] 離れた場所では、ニコルが頭をかく。

[Nicolle] あちゃ……やりすぎたか。

[Renee] あたしじゃないもん。ニ……ニコルの投げた玉だったよ?

[Nicolle] ……なにおうっ!?

[Narration] ニコルは、ソヨンとルネの二人に板挟みになって睨まれた。

[Nicolle] うあーっ、もーっ……

[Nicolle] へいへい、わかりましたようっ。つまんない奴らだなあ!

[Narration] クローエの用件は、図書委員会の一員として、ルネに大図書室のガイダンスを行うというものだった。

[Narration] 説明しはじめた時は、まだ興味薄そうにしていたルネだが、図書室が最新のネットワーク機器が整う知識の城であると聞くや、喜んでクローエにしたがった。

[Narration] ソヨンとアンシャーリーも、ルネに同行し、ニコルとアルマがその場に残った。

[Narration] しかも、コローネまでもが彼女たちについていったので、本当にふたりきりだ。

[Nicolle] わりぃ、ふざけすぎた。大丈夫か?

[Narration] セーターにまとわりついた雪を払い落としてやりながら、ニコルは頭を下げた。

[Nicolle] ぼーっと、つっ立ってるからさ、つい、いいマトに───

[Nicolle] ああいや、そんな言い方はないか。ごめんよ? アル───

[Nicolle] ……アルマ?

[Narration] ニコルは、はずした自分のスカーフで拭ってやったアルマの顔を見て、ぎょっとなる。

[Narration] 伏せられたアルマの瞼からは、涙がぽろぽろとこぼれ落ちていた。

[Narration] ニコルは申し訳なさそうに、アルマの背を抱く。

[Nicolle] ほんと、ごめんな、アルマ。あたしが一番にふざけはじめたんだ。

[Nicolle] もうしないから……元気出してくれよ。

[Alma] …………え?

[Alma] い、いえ、違うのです、ニコルさん。

[Narration] アルマは涙を手の甲でぬぐいながら、必死に訂正した。

[Alma] わたし、嬉しくて、胸がいっぱいになってしまって……つい……

[Nicolle] はぁ?

[Alma] ちょっと、子供のころのことを思い出したものですから……

[Narration] 二人は、鐘楼の周囲の一変した景色のなかで、午後の散策を楽しむ。

[Alma] 子供のころ、わたしも庭で雪玉合戦に興じていました。

[Alma] 年上のメイドや、召使いの子供たちと……

[Alma] でも、私に投げられる雪玉は、足もとに落ちるばかりで、誰も決して本気で、私にぶつけてくれる方は、いらっしゃらなかったのです。

[Nicolle] まあ、そんなもんかね。

[Alma] ……ところがただ、一度だけ。

[Alma] ふざけて、わたしに泥の団子を投げてきた子がいたんです。

[Alma] 私は服を泥だらけにして……泣いたと思います……

[Alma] その子と私は歳も近く、とても仲よくしていたんです。

[Alma] ですが、それ以来、屋敷で姿を見かけても、一緒に遊んでくれることはなくなってしまいました……

[Alma] その後は、何かの事情で、親御さまが別の屋敷へと移られて……それきりです……

[Alma] 今、考えると……私の知らない場所で、あの子はきつく叱られていたに違いありません。

[Nicolle] だろーね。

[Alma] ふと、そのことが思い起こされ、そしてまた今の私は、なんて幸福なのだろうかと……

[Alma] あのっ……わたしのお伝えしたいこと、おわかりに……?

[Nicolle] ピアーノ、ピアーノ、わかったって、みなまで云うない。

[Nicolle] つまり、泥団子を思い切りぶつけあえる相手が欲しかったんだろ?

[Narration] アルマはニコルの手を握りしめ、帽子を落とすほど強くうなずいた。

[Alma] はい、はい、そうです!

[Alma] 服が汚れたって、洗えばいいのです。

[Alma] 泥だらけにされたって、笑えば、きっと忘れてしまいますわ。

[Alma] 親しいお友だちを失うことに比べたら……そんなのは、ほんとうに些細なことです。

[Narration] アルマはいっそう真剣に、ニコルを見つめた。

[Alma] ニコルさん……!

[Nicolle] おっ、な、なーにかなあ?

[Alma] 自意識過剰かと思われるかもしれません。

[Alma] それでもお願いです、ニコルさん。どうか正直におっしゃっていただきたいのです。

[Alma] 皆さんは、わたしに遠慮をなさっていませんか?

[Nicolle] ───え?

[Alma] どこか、腫れ物に触るように、わたしに接してはおられませんでしょうか?

[Nicolle] …………んー……

[Narration] ニコルは2秒ほど目を閉じ、そして言った。

[Nicolle] まあ、そうかな。

[Nicolle] わかってると思うけど、アルマ。あんたはとびきりの箱入り娘だし、ちょっと気を遣う時はあるよ。

[Alma] そう……ですか。やはり……

[Nicolle] しっかし、雪玉くらって、嬉し泣きするほど、気にしてたとはねえ……

[Narration] ニコルはこめかみを、人差し指でこりこりと掻いた。

[Nicolle] そうさねえ、あたしの場合はアレかぁ。

[Nicolle] なるべくスラングがアルマの耳に入らないように避けてる、ってところかねェ。

[Nicolle] 素のあたしは、もっと下品なヤツだ。

[Alma] では、わたしは、これまで本当のニコルさんを知らなかったのですね?

[Nicolle] そうなるかもね。別に隠してたわけでもないけど。

[Nicolle] ……遠慮されるのが嫌なのかい?大切にされてるってことでも、あるんだぜ?

[Alma] ……ニコルさんのおっしゃる通りと思います。

[Alma] ですが……無垢で愚かなままの自分でいることには、もう耐えられないのです。

[Nicolle] 知らなくていい事もあるけど……

[Narration] ぼそりとニコルのつぶやいた言葉はアルマの耳には届かなかったようだ。

[Alma] ───それに。

[Alma] わたしにとって、本当に自由に過ごせるのは……この船で、この海原の風を受けている間だけかもしれないのです。

[Alma] そんな大切な時間を、本当の友達と呼びあえる相手もいないまま、むなしく過ごしてしまうなんて……

[Nicolle] ふむ……杏里じゃだめかい?

[Alma] ええ。もちろん、杏里様はすばらしい方です!

[Nicolle] でもそれだけじゃ何か足りない。

[Alma] 杏里様は、わたしにきっかけを与えてくれた方なのです。

[Alma] 杏里様がわたしの心の扉を開いてくれました。

[Alma] ですから、こんどは、わたし自身が自分から外へ出ていく努力をしなければ───

[Alma] でないと、わたしは、杏里様のご好意を、海の泡へと帰してしまうかもしれません。

[Nicolle] ふーん、意外に考えてるんだね。

[Nicolle] ちょっと見直したよ。あ、なんか偉そうだ、ハハハ。

[Alma] 私も、ホッとしました。

[Alma] ずっと、もやもやとしていた想いを、なんとか言葉にできて……

[Alma] どうしてでしょう? これはきっと……

[Alma] あ、あの……あのあのあの……

[Narration] アルマは高鳴る胸を押さえ、勇気を振り絞った。

[Alma] えいっ。もう勢いのつくまま、伝えてしまいます。

[Nicolle] な、なんだ? あらたまりまくってさ。

[Alma] ニコルさんっ!

[Nicolle] へい。

[Alma] よろしかったら、わたしの親友になっていただけませんか?

[Nicolle] い?

[Alma] よろしければわたしの親友に───

[Nicolle] ま、ままま待て待て、待てーい!

[Nicolle] や……やぶからぼうだなあ。

[Alma] はい……我ながら唐突でしたね……

[Nicolle] 児童文学じゃあるまいし、そんなこと口に出して言うやつ、はじめて見たよ。

[Nicolle] あたしゃ、そのう「親友同士、隠し事はなしにしましょう」とか、逆に堅苦しくなってきちゃうのって苦手だ。

[Nicolle] だいたい、どうしてあたしさ?なんか買いかぶってないか?

[Nicolle] しとくなら、ソヨンやヘレナの方が絶対いいって。手もかからないし、将来おトクだよ?

[Alma] 私がニコルさんを親友にしたいと願っては変でしょうか?

[Narration] アルマは優しく顔をほころばせた。

[Narration] ニコルもおもわず照れ笑いする。

[Nicolle] へ、ヘンってこたーないけど……ハハ……

[Alma] こうして、自分から言葉にしていくことで、私たちは互いに尊敬しあい、変わっていけると思うのです。

[Alma] 私、気がついたんです。ニコルさんのとっても素敵なところ。

[Nicolle] す、素敵ィ? ひぃぃ〜〜

[Narration] ニコルは、のわぁ〜と雪の上でのたうちまわって悶えている。

[Alma] ニコルさんには、人をうちとけさせる雰囲気があるんです。

[Alma] それは、表面的な人づきあいの良さと、似ているようで、実は異なるんです。

[Alma] 今の私は人を緊張させることはあっても、リラックスさせることは、とても───

[Nicolle] うひーっ、ひーっ……

[Nicolle] ……そ、それはさ、私がちゃらんぽらーんな奴だってことだよ。

[Alma] ところがそこには、他人を不快にさせない、思いやりが隠されているのです。

[Nicolle] はぁ。

[Alma] それこそが、何より貴重なものなのではないでしょうか? 私はニコルさんからそれを見習っていきたい……のです。

[Alma] 尊敬するニコルさんと、生涯友情をつちかうことが出来るのでしたら、こんな……

[Nicolle] こんな、勇気づけられることはありません!

[Nicolle] うわあ……マジだ。

[Nicolle] ……あたしゃ、こーゆーハナシしてるだけで、もー、一生ぶん疲れた。

[Alma] では今日から、ニコルさんとわたしは親友ですわね?

[Nicolle] だから待てッつーの!思ったより強敵だよこりゃあ。

[Narration] ニコルは腕を組み、その場をぐるぐると回った。

[Nicolle] うーん、安直すぎる。

[Nicolle] このまま素直に、あんたの親友になっちまうんじゃつまんないね。あたしにも反撃させてもらわないと。

[Nicolle] あたしもむげに断ろうってんじゃない。それなりに理由があるんだ。

[Nicolle] ひとつ───

[Nicolle] 友達、特に“親友”だなんて、作ろうと思って作るもんじゃない。

[Alma] いいえ。

[Alma] 偶然のきっかけを待つばかりで、自分から道を開いていけないような人生は、その楽しみも半分ですわ。

[Nicolle] ……ちっ。いいこと言うなあ。

[Nicolle] ……あー、ふたつ。

[Nicolle] あたしたちの向かう先には、ばかでっかい暗雲がある。

[Nicolle] わかってるとは思うけど、杏里のことだよ。

[Nicolle] これは絶対、将来いさかいのタネになる。誓ってもいいね。

[Alma] 女同士の友情に、ヒビ一つ入りません!

[Nicolle] 杏里も一応女なんだけど。

[Nicolle] 最後に。これを一番言っておきたい。

[Nicolle] どうせ、こんな非日常的な場所で生まれた関係は、長持ちしやしない。

[Nicolle] 悪いこた言わない。あたしに深入りするのはよしときな。

[Nicolle] あんたとあたしじゃ、生まれも育ちも性格も見た目も、何もかもが違いすぎる。

[Nicolle] ……それに、聞き捨てならないな。

[Nicolle] 自由に過ごせるのは、ポーラースターにいる間だけ?

[Nicolle] バッカだな。なに言ってんだい、アルマ。これからだよ!

[Nicolle] こんな小船の中で、世界を知ったつもりになるなんて! 自分をなんだと思ってるんだい?

[Nicolle] あたしたちゃ、中世のお姫様じゃないんだよ? いくらでも、外の世界に出ていって直に触れることができるんだから。

[Nicolle] いったいさ、何に気兼ねしてるんだか知らないけど、これからだよ! これから!

[Nicolle] だか……ら……?

[Narration] 少し怒りを買うつもりで、きつい言葉を選んだニコルだったが、当のアルマは感動に胸を震わせている。

[Alma] さすが、ニコルさんですわ……

[Nicolle] ……あー……逆効果?

[Narration] ニコルは掌に顔を落として嘆いた。

[Nicolle] ええい、ラチがあかない。親友の話は保留だ!

[Alma] はい、それでは持久戦ということで。

[Narration] 微笑んでアルマが応じる。

[Nicolle] うっ……忘れてもくれないってか。

[Narration] ニコルは背のびして、頭のうしろで手を組んだ。

[Nicolle] なあ、アルマ。

[Alma] はい。

[Nicolle] たとえばだけど……

[Nicolle] とりあえず、学園生活をエンジョイして、友達の実感も欲しいっつーんなら、パーティでもしてみたら?

[Alma] パーティですか? 晩餐会でしたら、学園の主催で月に一度……

[Nicolle] あれは、政治家が金集めのためにやる社交パーティと、ぜんぜん変わんないだろ?

[Nicolle] むしろその予行演習だもの。それじゃダメ。

[Nicolle] 少し羽目をはずす機会を作ってみたら、ってことだよ。

[Nicolle] 校則なんて! むしろ違反してるくらいのが丁度いい。

[Narration] ニコルは、アルマに顔を寄せ、そっと耳打ちした。

[Narration] アルマの顔が驚きから、忍び笑いに変わってくる。

[Alma] まあ、それは……とても面白そう……

[Nicolle] だろ?

[Alma] わかりました。うまく出来るかどうかわかりませんけれど、わたし、挑戦してみます。

[Alma] その時は、ぜひ、ニコルさんも。

[Nicolle] ま、気が向いたらね。

[Nicolle] 決めごとや準備なんかは、一切しないのが、こいつのイイところなんだからさ。

[Narration] 消灯時間も近いころ───

[Narration] 図書室から戻るさなか、イゾルデは、ほぼサードのみが利用する通路で、ファーストの制服を目にした。

[Narration] 一瞬、ルネと見まごう。

[Narration] しかし、あれが、おどおど周囲を眺め渡し、壁をこするようにしのび歩いてくるとは、ちょっと思えない。

[Isolde] ───おい。

[Narration] その生徒がT字路へさしかかった時、裏の壁に寄りかかりながらイゾルデは声をかけた。

[Isolde] なにをしている。

[Narration] 突然声をかけられ、少女ニキ・バルトレッティは、芯からおののいて体をすくめた。

[Niki] ………………

[Isolde] ……どういうつもりか? もう廊下をうろつく時分ではない。

[Isolde] 誰かに用なのか?

[Isolde] それとも、上級生に、恒例のイタズラでもしにきたか?

[Niki] ……………………

[Narration] 頭から告げるイゾルデに、ニキはますます萎縮していく。

[Isolde] 黙っていては……わからないだろう。

[Narration] びくつく少女の様子は、ひどく嗜虐心をそそられた。

[Narration] イゾルデは、そんな無用ないらだちを押さえ、なるべく声を荒げぬよう腐心した。

[Isolde] まさか……道に迷ったのか?

[Isolde] この船では、まあ、あり得ないことではないが……

[Narration] しかし新入生でも、区画表示にさえ目を向けていれば、そんなはずも無いのだが。

[Narration] 現にそうなってしまったものは、まあ、仕方がない。

[Narration] イゾルデは、ふっと息を抜き、ニキのこわばった指をとった。

[Narration] 手袋越しにでもわかる、細長く、腱の張りつめた、繊細なつくりの指だ。

[Narration] 自分は、よく似た指の持ち主を……知っている……知って……いた……

[Narration] イゾルデはそんな心の動きを押し隠しながら、ニキをうながした。

[Isolde] 来い。

[Isolde] ……むっ。

[Narration] しかし、少女はその手を振りほどいて、かたわらの通路の奥へと逃げ込んでしまう。

[Isolde] …………ふぅ。

[Narration] その背に向けて、イゾルデは淡々と呼ばわる。

[Isolde] ───そちらは、行き止まりだ。

[Narration] 逃げ場もなく、また、おずおずとT字路に戻ってきたニキの手を、イゾルデは、強引に掴んだ。

[Narration] はかない抵抗を試みて、がくり、がくりと、体勢を崩しながらも、イゾルデは手を離さぬまま、有無を言わさず少女を引き連れていく。

[Narration] どこまでもつづく薄暗い廊下を、二人は無言のまま、ぎくしゃくしながら歩いていく。

[Narration] やがて、ニキにとっても、馴染みのある区画へと戻ってきた。

[Isolde] ここから先は、ファーストの部屋だ。さすがに、もう迷わないはずだ。

[Niki] …………

[Isolde] なんだ……こんどは。

[Isolde] ……わからない。手話にはうといのだが。

[Niki] …………

[Narration] 必死に、何かを伝えようとするニキを、イゾルデは苦い表情で見つめていた。

[Isolde] ……あの場所で、なにか捜し物をしていたのか?

[Niki] …………!

[Isolde] ああ……わかったわかった……

[Isolde] わかったから、もうその手旗信号はやめにしてくれ。

[Narration] イゾルデは辟易し、腰に手を置いた。

[Isolde] 何か変わったものがあれば、メイドに届けさせる。それでいいか。

[Isolde] ……ローマではあるまいし、何か放っておいたからといって、すぐに消えて無くなる場所じゃない。

[Niki] …………

[Isolde] いいから、もう行け───

[Isolde] PSにエスコートされるなぞ、あまり面白いものではないぞ。

[Narration] 返事を待たず、イゾルデはまた通路を引き返した。

[Narration] 少女が、通路に立ちつくしたまま、こちらの背に視線を注いでいるのが感じられる。

[Narration] 大またの足どりで、通路の果てまできてから振り返る。ようやく少女の姿は消えていた。

[Narration] イゾルデは小さく安堵の息をついた。

[Isolde] (そういえば……ファーストに一人、出席拒否の生徒がいると聞いたが……あれか……)

[Isolde] (どうやら、どの学年でも一人はいるらしい……ふぅ…………)

[Narration] 途中、イゾルデは別の道に入った。

[Narration] べつだん、急いで部屋に戻る必要があるわけでもない。

[Narration] 先刻の件は、あとで遅番のメイドに告げれば十分だ。

[Narration] どうせ眠りに着くのは、いつも明け方近くになってからだ。

[Narration] それも、うつうつと体を休ませるだけで終わってしまうことも、しばしば。

[Narration] そんな事情を知ってか、夜歩きするイゾルデをとがめるPSはいなかった。

[Narration] ……コーン……コーン……

[Narration] 寒々とした大廊下を、腕を組んだまま、片足ずつ振り出すように歩く。

[Narration] 天窓には、久々に雲間から顔を出した月がかかっていた。

[Narration] 船上では、すばらしい勢いで雲が流れ、風が星々をまたたかせる。

[Narration] 北極星が高い位置にある。イゾルデには、見慣れた星座のならびだ。

[Narration] 故郷とおなじ緯度を、いま船が航行している、そのあかしだった。

[Narration] 星が見えるのなら、夜の温室にでも足を向けてみようか───そう彼女が思いたった時だった。

[Narration] ヒュゥ〜〜ン……

[Narration] 大理石の柱の影から、申しわけなさそうに、大型の長毛犬が鼻先を出した。

[Isolde] ……………

[Narration] イゾルデはゆっくりと、周囲を見渡した。

[Isolde] ……コローネ、おまえだけか?

[Narration] 近寄ったイゾルデの脚に、コローネは長い首をすりよせた。

[Narration] その首からは、革のひもが垂れ下がっている。

[Narration] ひもの先端の輪は、通路脇の鉄柵へ、奇妙な形にからまっていた。

[Narration] 何者かが結びつけた、というよりは、まったく偶然にそうなったらしい。

[Narration] 奮闘のため、結び目はきつく締まってしまっている。

[Narration] もう、それをほどくのはあきらめ、イゾルデは膝をついて、小型のナイフでからんだ革ひもを切り取った。

[Isolde] ……おまえに、こんなものは要らないだろ?

[Isolde] 誰か、散歩でもさせていたのか?

[Narration] 彼女は、言外に、ニコルとコローネの間には、束縛するものは必要無いと言っているのだった。

[Isolde] ……口元にミートパイのかけらがついているが。

[Collone] ワゥ!?

[Narration] ふいにイゾルデは合点がいった。

[Isolde] なるほど。

[Isolde] よもや、さきほどのファーストの捜し物というのは……おまえか……?

[Narration] イゾルデは静かに息をぬく。

[Isolde] ふぅ……仕方のない奴だ。

[Isolde] おおかた、メイドのワゴンにでも気をとられて、急に走り出したのだろう。

[Collone] ワゥ……

[Isolde] 女とみればついていき、美味いものとみれば走り出す。やはりおまえも、イタリアの男だな。

[Narration] 暖かなコローネの背に手をすべらせながら、イゾルデは、ふっと笑みをもらす。

[Collone] ウオゥ〜〜〜……

[Narration] その場から立つと、彼女は背中ごしにコローネに言い放った。

[Isolde] もう、戻れ。

[Isolde] おまえには、帰るべき部屋があるだろ。

[Narration] そう言って、振り返らずに歩き出す。

[Narration] しかしコローネは、居住区画とは逆方向へ向かうイゾルデのあとを、トコトコと、いつまでも、ついてくる。

[Isolde] (…………しようがないな)

[Narration] 彼女は、コローネを脇に寄り添って歩かせるにまかせた。

[Narration] ひと気のない夜の船内を、二つのシルエットがついたり離れたりしながら、流れていく。

[Isolde] ときにおまえ、ルネにいじめられてはいないか?

[Collone] ……!

[Collone] ウォウ、ウオウォウウ!

[Isolde] ……ははっ、そう憤慨するな。無邪気なんだ、あれは。

[Collone] ウォウッ、ウォウウ、ウォウゥゥゥッ!

[Isolde] 頭からチョコ?それは少々……いや……かなり行き過ぎているな。

[Collone] ウォン。

[Isolde] 今度、きつくお仕置きしておこう。

[Collone] ウォ……ウォウッ?

[Narration] やがて、イゾルデとコローネは、巨大な温室の玄関に立った。

[Narration] どこか無機質な潮風とはちがう、生気に満ちた、すがすがしい匂いだ。

[Narration] 彼女はまた、昼と夜ではその匂いがまるで違っていることも、よく知っていた。

[Narration] かすかに揺れる南国の樹々の合間から、月明かりが漏れる。

[Narration] コローネの瞳も、月の光を集めて青く輝いていた。

[Narration] イゾルデは背伸びして、頭のうしろでゆるく手を組んだ。

[Isolde] Quante bella……giovinezza……

[Narration] 気ままに足を運びながら、イゾルデは低い声で口ずさみだす。

[Narration] それは、彼女の母国で歌い継がれる歌。

[Narration] 謝肉祭の日を迎えたなら、町のいたる場所で口をそろえ歌われる。

[Narration] 陽気で、そしてどこか、もの悲しい旋律───

[Isolde] che sia fugge tuttavia…… Chi vuol essere lieto, sia……

[Isolde] ……di doman non ce certezza……

[Narration] 歌声に耳をすませていたコローネが、ぴくんと耳を起こす。

[Narration] 重なってくるように届いたハミングは、コローネには、よく聞き慣れた人物のものだった。

[Narration] 暗闇から、長身痩躯の生徒が姿を現す。

[Anri] ……ボンジョールノ、プリンチペッサ?

[Narration] 月の光を受けながら、杏里は片手を前にしてかがみこみ、時代がかった挨拶を送った。

[Isolde] ……夜の挨拶は、ブォナセラだ。

[Anri] おっと……

[Anri] いや、森の妖精の歌声に誘われて、つい。

[Narration] イゾルデは、どうして貴様がここにいるんだ、と目つきで問いただしている。

[Anri] ちょっと、お風呂にのぼせちゃって、涼みにきたんですよ。

[Anri] 貴女がこんな場所にいるなんて、思わなかったな。

[Anri] すみません。散歩の邪魔をする気は───

[Narration] イゾルデは、そんな杏里を制す。

[Isolde] 別にとがめてはいない。すこし驚いただけだ。

[Isolde] こちらこそ、邪魔をしたかな。

[Narration] イゾルデは苦笑いしながら、杏里の脇をすれちがう。

[Narration] コローネの背を、杏里に預けるように押し出す。

[Isolde] なりに合わぬことをするものではないな。忘れてくれ。

[Narration] 静かに歩き去っていくイゾルデを、杏里の脇に座ったコローネは寂しげに見つめた。

[Narration] 杏里はコローネにもたれるようにかがみこみながら、言った。

[Anri] ……気にくわない客がいるからって、店を出ていくのは、不作法ですよ?

[Narration] イタズラっぽい声が、ひっそりと息づく樹葉を揺らし、イゾルデの後ろ髪を引っぱる。

[Narration] 自分が口にのぼらせた言葉を引き合いに出されては、彼女も背を向けるわけにはいかなかった。

[Narration] 振り返り、道ひとつをはさみながら、杏里と向かい合う。

[Narration] 淡い銀色のあかるみのなかで、杏里はうれしそうに微笑んでいる。

[Anri] うん、やっぱりボクは、貴女が好きだな。

[Anri] このあいだは、さんざんに言われて、正直、腹が立ったけれど……

[Anri] どうせ、ボクの怒りは、そう長持ちはしないんだ。

[Anri] 貴女の美しさは、誰も持ち得ない。

[Anri] 気高く、麗しい。

[Anri] そのたたずまいは、まるで精緻な肖像画のようだ。一晩中見つめていても、飽きはしないな。

[Narration] イゾルデはあきれ顔で言う。

[Isolde] ……光栄だが、しかし。

[Isolde] 貴様はどちらの味方か。ニコルの側についているものと、思っていたが。

[Isolde] 知っておくことだな。

[Isolde] 私がもっとも嫌悪する相手は、寄せられた信頼を、裏切ろうとする者だ。

[Isolde] 貴様は裏切り者か、杏里?

[Anri] ……いいえ。敵味方のどちらでも。

[Anri] 損得や利害で結ぶ関係では、ないつもりです。

[Anri] ボクが貴女の友人ではいけませんか? イゾルデ。

[Narration] 杏里は同じく彼女を見つめるコローネに目をやる。

[Anri] 彼もまた、貴女を敵とは思っていないようですよ───彼は裏切り者ですか?

[Isolde] …………

[Collone] ウォウ……

[Narration] イゾルデは沈黙し、下生えの奥の暗がりへと目をそらした。

[Isolde] ……私の思惑を曲げんとしているなら、これ以上、聞く耳は持たない。

[Isolde] アンリエット、貴様にも辛い想いをさせるだろうが……私はそれを、気の毒に感じたりはしない。

[Isolde] ……いや、この時とばかりに、嗤笑させてもらうよ。

[Isolde] あれが受ける、当然の報いだ。

[Anri] ……そんなの、させませんよ。何を考えているんです?

[Anri] イゾルデ、あなたは、過去ニコルのよき友人だったのでしょう? そんな───

[Isolde] 今は違う。

[Narration] はっきりとしたイゾルデの口調に、杏里は胸を刺された。

[Isolde] もう、私とニコルが、アルノの同じ岸に立つことはない。決して───

[Isolde] 私は、自分のするべきことをする。

[Isolde] 時間は……戻らない。

[Isolde] どれほど夢見がちな楽天家にも、取り返すことのできないものがあると、知るがいい、アンリエット。

[Narration] 冷酷なイゾルデの声に、杏里は身をふるわせた。

[Narration] その場を去るイゾルデを、心配気なコローネがひょこひょこと追いかける。

[Isolde] 来るなッ!

[Narration] コローネはその場で肩をすくめ、立ち止まった。

[Collone] ヒュウゥ……ン

[Anri] …………イゾルデ……

[Narration] 一人と一匹が見つめるなかで、イゾルデは悠然と去っていった。

[Narration] 不安をわかちあうように、杏里はかがみこみ、コローネの背を抱いた。

[Narration] ふくふくと暖かい。

[Narration] うらはらに、彼女の心は、凍てつく氷原のようだ……

[Narration] ニコルへの復讐など忘れさせ、春の陽光を呼びこむことが……自分に出来るのだろうか……?

[Narration] しばらくの間、コローネとそうやって体温を分け合っていた杏里は、ハッと体をこわばらせた。

[Anri] …………ん?

[Narration] くんくんと鼻をならす。

[Anri] ねえ……コ、コローネ……?なな、何だか、あ、甘い香りがしない?

[Collone] ……ワォ? ウォウゥ〜?

[Narration] くんくんと自分の匂いをかぐコローネから、杏里はじりじりと後ずさっていく。

[Collone] ウォン?

[Anri] チョ……チョコだ……

[Anri] わぁ、こ、こないでよ! やだあっ!

[Collone] ウォウゥ〜? ウォン。

[Anri] わあっ、いやだよ!やめて! 来るなったらぁ!

[Anri] いやだぁ〜〜ッ

[Collone] ウォンッ!? ウォンウォンッ!

[Narration] 杏里は身を縮こまらせ、その場から逃げだす。

[Narration] コローネは、不思議そうに吠えたてながら、杏里のあとを追いかけていった。

[Anne Sher] こんばんは。

[Anne Sher] 誰がいったか知らないが、いわれてみればたしかに聞こえる、アンシャー・リーよ。

[Anne Sher] 『アンシャー・リーに聞いてみて!』のお時間がやってまいりました。

[Anne Sher] 今夜もいっぱいお手紙が来てます。

[Anne Sher] ……世の中には、同じ名前の人がいっぱいいるみたいだけど、気にしちゃだめっ。強く生きるのよ!

[Anne Sher] それでは早速、最初のおハガキです。

どのハガキ?

【雨男】

【カナエー号】【雨男】

【カナエー号】

[Narration] 『音声付と思い込んでの質問です。 アンシャー・リーさんに、「一週間」を歌ってください。

[Narration] 『SS−BBSにてruin様が書かれた「平和の一コマ」バージョンでお願いいたします』

[Narration] 『質問ではないですねこれ……すいません         ペンネーム【雨男】』

[Anne Sher] 残念ね? でも、そのまま音声付きと思いこんで聞くとよいのだわ。

[Anne Sher] せっかくだから、このあいだおクスリ屋さんでガンガン鳴らしてたヤツを歌ってあげましょう。わんつーさんしー♪

[Anne Sher] 『くすりくすりくすり〜♪ 薬〜を〜食べ〜ると〜♪』

[Anne Sher] 『きもちきもちきもち〜♪ 気持ち〜が〜良くなる〜♪』

[Anne Sher] 『くすりくすりくすり〜♪ 薬〜を〜食べ〜ると〜♪』

[Anne Sher] 『こびとこびとこびと〜♪ 小人を〜見る〜のさ〜♪』

[Anne Sher] 『さあさあ、みんなで〜   薬を食べ〜よう〜♪』

[Anne Sher] 『薬がボク〜らを〜〜  呼んで〜い〜る〜〜♪』

[Anne Sher] 『  yes!  』

[Anne Sher] ……『おくすり天国』でした。シマダヤ長持ち麺にも匹敵するイカレソングね。CDも出てる。

[Narration] 『結局のところ、みんないくつなんでしょう。サイズ公開歳非公開?           【カナエー号】』

[Narration] 『アンシャー・リーさんこんにちは。 お伺いします。ビジターズの年齢わー          ペンネーム【雨男】』

[Anne Sher] …………

[Anne Sher] 誰だったかしらね……

[Anne Sher] あたしに、ていうかこれ書いてる人に「メーテルって何歳なんですか?」って聞いた人がいたっけ……

[Anne Sher] 「いいか! 俺の前で、二度とそんなセリフを吐くな!」

[Anne Sher] 「……幻影だよ! 少年の日の心の中にいた、青春の幻影なんだよ!!」

[Anne Sher] ……良くわかりましたね?青春の幻影。青春の幻影ですよ?

[Narration] 『ライアーソフト様。 バレンタイン、ウハウハでしたか?   【カナエー号】(私だけだったら           すみません…)』

[Anne Sher] カナエー号さんだけでした…………ウハウハハー(泣)。

[Anne Sher] なーに質より量!

[Anne Sher] いやいや量より質!というわけでカナエー号さん、コーのイラスト付きチョコありがとー。

[Anne Sher] でもこれ書いてる人が一個つまもうとしたら、もうとっくに、ぜんぶ消えてたのガッデム。

[Anne Sher] と思っていたら、桜瑞さんからも頂きました。日本酒ボンボン?

[Anne Sher] 桜瑞さーん、いつもお酒とかお酒とかお酒とかありがウィ〜。

[Anne Sher] ハイ、それでは次のお手紙。

[Anne Sher] どーれーにーしーよーおーかーなー♪ひーとーりーじょーずーとーよーばーなーいーでー♪

どのハガキ?

【居眠り】

【ジル】

【はまうてな】

【それでも信じてる】

[Narration] 『アンシャー・リーさん、僕の疑問を聞いてください。最近空を飛ぶ夢を見るんです。この間なんか3回連続で見ました』

[Narration] 『1つ目は自転車で空を飛んだんです(E.Tみたく)。2つ目は赤い竜に乗って洞窟から地上へ飛んでいくという夢』

[Narration] 『そして3つ目はなぜかテーブルに乗って空を飛んでいるんです。しかも乗る前にそれで後頭部を打ったんです』

[Narration] 『正確に言うとテーブルが勝手に頭に向かって飛んできたんです。しかも最後には墜落しました、雲の上から』

[Narration] 『確かに、「空を飛びたいなー」とか「タケ●プターが欲しいなー」ということを1日に2、3回ほど考えてるのは事実です』

[Narration] 『気になって気になって仕方がありません、夢判断をお願いします。いつかは何も使わずに空を飛びたい……        ペンネーム【居眠り】』

[Anne Sher] パラレルシリアル ハイレゾピクセル〜夢は〜立派な〜賭博の女王〜♪

[Anne Sher] 空を飛びたいなら、このクスリ!ライトフライヤーI号〜〜(例の効果音)

[Anne Sher] あのイカロスや、リリエンタールも、こいつでキメてたって言うぜ!

[Anne Sher] ……墜ちたけどな。

[Anne Sher] 結論からいうと、あなたは性的なコンプレックスか、欲求不満、でなけりゃ変態異常性欲者ですね。

[Anne Sher] そんなあなたに提案するフライトは、ずばり、大阪伊丹〜那覇間!

[Anne Sher] 九州上空にさしかかったあたりで席を立ち、トイレをノックするふりをして、気密扉をどかどか殴りつけましょう。

[Anne Sher] 美人のスッチーさんがやって来て、優しくはがいじめにしてくれます。その時すかさず、こう叫んでください。

[Anne Sher] 「翼よ、あれがパリの灯ですか?  おじいちゃん、逃げて!」

[Anne Sher] 空港警察の取り調べ室では「その時はいいアイデアだと思ったんです……」と意気消沈しながら呟くのも忘れずに。

[Anne Sher] いま、私が言えることはそれだけだ!

[Narration] 『リー先生へ。 最近ふと疑問に思った事があるのですが───』

[Narration] 『ライアーさんのゲームは途中(ぶるまー)からパッケージが小さくなってるのは、何か深い意味があるのですか?』

[Narration] 『小さい事にどんな意味があるんですか? 小さい事は武器ですか? 教えてください。  P.N【ジル】』

[Anne Sher] 正確にいうとライアー作品では『行殺☆新選組』だけ、なぜか箱が大きいの。

[Anne Sher] 一番売れてるのも行殺。ということは、箱の大きい方が、売れるってことなのだわ。今こそ巨大パッケの復権!? ドッギャーン!

[Anne Sher] いっそ店頭を占拠するくらいの、そう、コンテナくらいのパッケにすれば、宣伝効果も抜群! 持って帰れないけど。

[Anne Sher] なーに、店頭に住みこむ覚悟で!

[Anne Sher] ……でもねマジメな話、大きい箱は傷みやすくて、流通さんからの返品も多くって。

[Anne Sher] あと、ライアーはもう、売場で目立ってユーザーを引きつけようっていう時期は過ぎちゃったかもねー。かもねー、かもねー、かもねーー……(エコー)

[Anne Sher] そんなわけで、ユーザーさんとお店の人が扱いやすい、今の大きさになっているのですなー。たぶん。

[Narration] 『あの、杏里・アンリエットさんは、実は「ネコ」だったという話があるんですが、それは本当なんでしょうか? 教えてください。  【はまうてな】』

[Anne Sher] 誰のどこの話だ。ま、それはそれとして、直接、杏里に聞いてみましょう。

[Anne Sher] ぴぽぱぽぴ。ハイ、杏里。番組は聴いてたかしら?

[Anri] 『もちろん聴いてたよ、アンシャーリー。こんばんは!』

[Anne Sher] アンシャー・リーよ。テレコンワールド的な応答を有り難う。

[Anne Sher] それで杏里、貴女は一体なんなのさ?ネコ? タチ?

[Anne Sher] バイ? ウケ? リバ? バリタチ?ノンケ? ヅカ? ユリ? ロリロリ?ダイク? デブ専? フケ専? ガイ専?ミニモニ? プチモニ? ハーマイオニー?

[Anri] 『……今の、何語?うん、でも聞かれるまでもないよ!』

[Anri] 『もちろん、ボクはボクさ!』

[Anne Sher] ふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ、そう云うと思ったのだわ。がちゃん。

[Anri] 『ちょっとアンシャ───』

[Anne Sher] つーつーつー。

[Anne Sher] はい、次はコロンビアと国旗の配色がおんなじの、ルーマニアからのお便り。

[Narration] 『アンシャーさん、こんにちは。国籍は絶対秘密でお願いします』

[Anne Sher] あ、もう手遅れ。えーと。ちゃい。

[Narration] 『最近、あの人が冷たいのです』

[Narration] 『私たちは、いわゆる遠距離恋愛ですが、心は寄り添っているつもりでした。はなればなれになっても、こまめに連絡しようと約束もしたのです』

[Narration] 『昨年の夏になりますが、私たちは旅行先で落ち合い、自分で言うのもなんですが、甘くとろけるような一時を過ごしたのです』

[Narration] 『しかし、それ以前も兆候はあったのですけど、夏以降はさらに私を避けているかのような様子が濃くなってきました』

[Narration] 『もしやあの人は、私のカラダに飽きてしまったのでしょうか。というより、最初からカラダが目当てだったんじゃないかと疑っています』

[Narration] 『せっかくプレゼントした携帯電話も電源が切られていたり、ずっと話し中だったりすることがあるのです』

[Narration] 『たまに繋がっても、誰と話していたのか教えてくれず、誤魔化してしまいます』

[Narration] 『チャウシェスク大統領が生きていれば、こんな裏切りは許さないはずです』

[Anne Sher] おいおい。

[Narration] 『だいたい連中は、私たちがダキア王国とローマ人の末裔だと主張しているのに、それをてんで認めず、自分たちの属国だと言い張るのです。許せません』

[Narration] 『春休みになったら、強引にでも押しかけて真相をあばいてやるつもりです』

[Narration] 『ただ……本当に私があの人の心の中にいないのだとしたら……そう思うと、胸が切なくなって、毎晩ベッドの中で泣いてしまいます』

[Narration] 『アンシャーさん、どうか勇気をください。     P.N【それでも信じてる】』

[Anne Sher] おお! やっとそれらしい、手紙が来たわ!

[Anne Sher] あたしもこれで、ピーコさんや、モンタ・ミノの仲間入りね!

[Anne Sher] さて【それでも信じてる】さん? あなたに足りないのは、ずばり演技力と辛抱です。

[Anne Sher] 察するに、相手はあなたにメロメロです。でも、直接好意をあらわにして、効果的なのは最初のうちだけです。

[Anne Sher] 人間はだれでも、単調なものには飽きてしまうんですよ。

[Anne Sher] といっても、相手もSEXに飽きたわけではありません。むしろしたい───なのに、遠ざけてしまうのは、愛情をうまく表現できずイラ立っているのでしょう。

[Anne Sher] 二人の関係が、一段階、成長しつつある証拠です。

[Anne Sher] 求めるばかりではダメ。あなたも自分を磨き、もったいぶって、相手を惹きつけ振り回すくらいの勢いが必要です。

[Anne Sher] それから、なにより相手は、一緒にいられる時間を求めているはずです。が、電話や手紙では、逆に不満が募ってしまうのです。

[Anne Sher] 辛くても、しばらく連絡するのは控えてください。相手自身に、あなたへの好意をはっきり確認させるのが大切です。

[Anne Sher] 刹那的な喜びを求めるのではなく、あなたの言うような、心のつながりを深めるようにしましょう。

[Anne Sher] できれば、休みを使って、二人が行ったことの無い場所へ旅行したりするのもオススメです。がんばれ。

[Anne Sher] さあ、次は誰かしら。どんどんいきましょう。

[Anne Sher] ……え、もう次の収録の人来てる? ていうか、たった5分枠なのに、次の番組の半分まで食い込んでる?

[Anne Sher] あらあら、生放送らしいハプニングです。みんなも生には気をつけてね? 生は怖いわよ〜、色々と。

[Anne Sher] それじゃあいさぎよく、最後の一枚。

どのハガキ?

【ドド】

【nem】

【ドド】

[Narration] 『アンシャーさん、いつも楽しく拝見しております。さて、今回お聞きしたいのは、イライザさんについてのことです。』

[Narration] 『この前このコーナーで、イライザさんが杏里さんというご主人様がありながら、元クラスメートのシルビィさん、クリミアさんとたまに逢瀬を重ねている───』

[Narration] 『───という情報がありましたが、その浮気が杏里さんにばれてしまい、イライザさんがお仕置きを受けていると思うと夜も寝られません』

[Narration] 『そこで、どんなお仕置きを受けているのか、アンシャーさんのよく効く良いお薬を使って直接イライザさん、杏里さん本人に問いただ……』

[Narration] 『いえ、よくあたる占いで教えて頂きたいのです。アンシャーさん、黒くてふわふわしたものさん、どうぞ宜しくお願いします。   P.N【真ん中堂在住「ドド」】』

[Anne Sher] なるほどー、じゃあ、早速よくあたる占いに電話してみましょう。最初はイライザかしら?

[Narration] とぅるるる、とぅるるる───がちゃ。

[Anne Sher] ハイ、イライザ?

[Unknown] 『は、はいぃ……どちらさま……です……』

[Unknown] 『イ、イライザ様は、いま、お、お忙しくって……アアンッ!』

[Anne Sher] おや、その声はシルビィさんにそっくりですね。

[Unknown] 『ち、ちがいますっ……いえ、そ、そんなっ……アンリエットにわざと告げ口したりなんてっ……ひいっ……』

[Anne Sher] シルビィさん、シルビィさん? なんだかヘンですよ?

[Unknown] 『ご、ごめんなさい、イライザ様っ……! ……きゃあっ……』

[Narration] がちゃん───つー、つー、つー。

[Anne Sher] ……ほう?

[Anne Sher] なにやら、よくわかりませんでしたね。では、お次は杏里にいってみましょう。

[Anne Sher] でも、いつもいつも杏里に聞くのもつまらないので、なんとなくアイーシャに電話してみましょう。のんとなく。

[Anne Sher] ぴぽぱぽぴ。

[Anne Sher] ハイ、アイーシャ。寝てた? ううん、今起きたところ。

[Aisha] 『…………』

[Anne Sher] アイーシャ? アイーシャ?

[Aisha] 『……………起きてます。』

[Anne Sher] OK。番組は聴いててくれたわね?アイーシャはこの問題について、どう思うかしら?

[Aisha] 『……出番が……ないんです…………』

[Anne Sher] ……ぅ…………

[Aisha] 『………………』

[Anne Sher] ………………

[Aisha] 『………………死にたい…』

[Anne Sher] ま、ままま、待ってね、アイーシャ?あなたが死んだら、全国の決して多くも少なくもない褐色少女愛好者たちが悲しむわ!

[Anne Sher] 舞井武依センセーとか、貞本義行センセーとか、えーとえーとえーとそれから…………赤松健センセーとか!

[Aisha] 『……さよなら』

[Anne Sher] ストーップ! あらら、ツーツーだって。

[Anne Sher] ボゲードン? あとはまかせたのだわ!

[Narration] あわただしい扉の音。そして通路からは「アイーシャちゃん変身よぉぉぉぉ……」と遠ざかっていくアンの声。

[Narration] 「…………」

[Narration] 「………………」

[Narration] 「…………ゲふ……」

[Narration] 「…………」

[Narration] 「…………ボゲ……」

[Narration] 『アン・シャーリーが主人公の、ドラッグ系サイバーパンクで、サイコなストーリーの追加シナリオは、何時できるのですか?             【nem】』

[Anne Sher] もっともだァ!

[Anne Sher] ええい、いつだ! いつできる!今日!? 明日!? 1秒後!?

[Anne Sher] 今、ちょっと脳内会議中! 判明!

[Anne Sher] ライアー次々々回作中CDにこっそり忍ばせロゴ表示中あたしの長ったらしいフルネームを激しくタイピンタイピンでLSDでハートフルな幻想モードに直結GO!?

[Anne Sher] リアリイ───!?

[Narration] 突然、スタジオのドアを開けて黒い三角帽の男たちがなだれ込み「NOoooo!」と叫びながら、手斧と高枝切りバサミで全殺し。

[Anne Sher] 今度はちょっと長いお手紙。

[Narration] 『いきなり本題に入りますが、 杏里×ヘレナカップリング推奨派のべ 1100人を代表しまして、』

[Narration] 『ズバリ、杏里さんに対するヘレナさん の本音の調査をお願いしたいのです』

[Narration] 『どうもヘレナさんの理性というか、心の最後の枷が邪魔をして、本当の気持ちを、表現してくださらないようなのです。お酒を飲んだときもダメでしたし』

[Narration] 『というわけで、アンシャー先生の良く効くよいおくすり───もとい』

[Narration] 『よく当たる占いで、ヘレナさんの杏里に対する、本当の本当のほんとーの気持ちを、どうか我々にこっそり教えてくださいませ』

[Narration] 『確かに無粋なことかもしれませんが、もうパーと言っちゃった方が、ヘレナさんも楽になれるのではないかと思うのです』

[Narration] 『これはヘレナさんのためなのです。決してデバガメ根性からする訳ではありません。ホントデスヨ?』

[Narration] 『アンシャーさん、黒くてふわふわしたものさん、どうぞ宜しくお願いします。  ポーラースター煙突内在住【ドド】』

[Anne Sher] ていうおハガキが来たのよ?

[Anne Sher] そんなわけですので、特別ゲストのヘレナさん、さあ!

[Helena] ……ここは私の部屋で、私はぐっすり寝ていたのですけど。

[Anne Sher] さあ!

[Helena] さあ……って、いったい何を話せば?

[Anne Sher] ……なんか、どうしようもなくエッチで卑猥なこととか。エリツィン元大統領ですら顔を赤らめるような!

[Helena] あの人は、いつだって赤い顔をしてたでしょう。

[Anne Sher] や、しまった。そう言わずに頼みますよう。大変なんすからもう。

[Helena] しようのないわね。えっと……こほん……

[Helena] ……あ、杏里のことは、本当に迷惑な人とは思っているけど、嫌いと言ってしまったら嘘になるわね。

[Anne Sher] …………

[Helena] 将来も友情を育んでいきたいと思っているわ。たとえ、遠く離れたとしても、お互いに支え合っていけたら素敵でしょうね……

[Helena] ええ……その……す、好きよ……? 

[Anne Sher] …………

[Helena] ……ああ……恥ずかしい。こんなところで許してもらえないかしら?

[Anne Sher] …………

[Anne Sher] ………………好きよ……?

[Anne Sher] ……どがあッ!

[Anne Sher] 深夜ノリをなめんなァ! 犯す!

[Anne Sher] しらばっくれてるのは、この口かァ! それとも、この口かーッ!

[Anne Sher] あーれー、いけないわ、おやめになってー

[Anne Sher] ちっちっち、あんたがいけないんだぜ、子鹿ちゃん。

[Anne Sher] こんなイヤラシいカラダを見せつけられたら、お釈迦さまでも黙っちゃいねえぜ。なあ、子熊ちゃん。

[Anne Sher] だ、だめです、私にはもう、一生愛奴として尽くすと誓った相手がいるのです。

[Helena] …………どうしたの、一人で喋って。変よ、アン?

[Anne Sher] ひひひ、あんたも変になっちまいな。子象ちゃん。

[Anne Sher] いくら叫んでも、どうせ誰も聞いてやしないぜ。子馬ちゃん。

[Helena] ……生放送じゃなかったの?

[Anne Sher] ええい、ガタガタいうねい!ブルネイ・ダルサラーム王国!

[Narration] その時、ヘレナの部屋の扉が、背後からのフラッシュつきで、ズバババーンと開かれる。

[Anri] ヘレナーッ! 無事かーいッ、ヘレナ!

[Helena] きゃっ!

[Narration] とっさにヘレナを抱きすくめる杏里。

[Narration] いつのまにやら床に這い、顔をボコボコに腫れあがらせたアンが、弱々しく声をかける。

[Anne Sher] 悪漢は去ったわ、杏里……ええ、あたしなら大丈夫……でも……ああ、なんということでしょう……

[Anri] ……ええっ、そんなご無体な!

[Anne Sher] そう……ヘレナはもう、あなたのテクニックでは、決して満足できない肉体に改造されてしまったの……

[Anne Sher] いわば───そう! ピザーラのピザは、どれを食べても実はみんな同じ味だという事実に気づいてしまった心境に等しいわ!

[Anri] が、ガガガ、ガーンッ!

[Anri] いつも、新メニューを楽しみにしていたのに!

[Anri] じゃなくて! ボクの愛しい子猫ちゃんに、な、なんてことを───

[Anri] くうっ、こうなったら! ボクがボク自身を超えてやるまでだ!

[Helena] ちょ……杏里? どこまで本気なの?

[Helena] これも番組の脚本のうち? だったら、ちょっと悪ふざけが───

[Narration] ヘレナはそれ以上は言葉を口にできず、大興奮状態の杏里に、ベッドに引きずりこまれてしまう。

[Anne Sher] おー、おー、おー

[Anne Sher] うっひゃぁ〜……そんなことまで?あ、いけないいけない。生放送だものね。

[Anne Sher] えー、二人の服や下着が、ベッドの周囲へ脱ぎ散らかされるさまは、まるでアリジゴクの巣のようです。

[Anne Sher] 早くも大変な盛り上がり。この死闘から生還するのは、いったいどちらになるのでしょう?

[Anne Sher] それでは『アンシャー・リーに聞いてみて』を終了いたしまして、ここから番組は『オールナイト・シッポリ』に。

[Anne Sher] 中継はわたし、アンシャーリー・バンクロフト、解説はボゲードンさんです。

[Anne Sher] ボゲードンさん、よろしくお願いします。

[Buggane] ボゲ。

[Anri] やあ、こんばんは。

[Anri] 貴方でしたか。しばらくぶりですね、パパ・ジラルド。

[Narration] 『そんな言い回しは、こっちには無い』

[Anri] じゃあ、パパー?それともバッボ?

[Narration] 『うおおっ、鳥肌立ったぁ!』

[Narration] 『なんで貴様にパパと呼ばれにゃならんのだ!』

[Anri] まあまあ、お父さん、気を静めてください。

[Anri] ボクみたいに、お風呂にゆったりつかってみたりするのもオススメです。

[Narration] 『フロ?』

[Narration] 『杏里、お前いまフロに入っとるのか?』

[Anri] ええ。オレンジの香りのいいお湯ですよ。

[Narration] 『なんだ、呆れたやつだな。フロに入るときはフロに入る。電話をする時は電話をするんだ』

[Anri] うわあ、なんだか人生訓みたいに聞こえますね。

[Anri] でもボクの電話は、ちょっとくらい湯船に落としても、壊れたりしない特別製なんです。

[Anri] おまけにジュースも作れます。ほら───

[Narration] ガガガガガガガガガ───ッ!

[Narration] 『やかましいっ!』

[Anri] し、失礼……これはちょっとボクもこたえた。

[Anri] ニコルのことだったら大丈夫。コローネともども、元気です。

[Anri] 近況なら、ご自分で聞いたらいいのに。

[Narration] 『それができたら、貴様につないだりはしない』

[Anri] ……それもそうだ。どうしてです?

[Narration] 『何度も言っとるだろ。若いくせに、物忘れのはげしい奴だ』

[Narration] 『そもそも、その船は、家族か卒業生のほかには、電話も手紙も絶対に取り継いだりはせんのだ』

[Anri] なるほど。

[Narration] 手の中の電話は、そのあたりの境界線についても特別製と云うことらしい。

[Narration] おかげで時折、思い出したように、それはジラルド家からのホットラインとなる。

[Anri] じゃあ、当のニコルが貴方からの電話を取ってくれないんですね。

[Narration] 『ああ……うむ』

[Narration] 『あいつめ、受話器は取るが、わしとわかると、切りもせず冷蔵庫に電話を放り込みおる』

[Narration] 『頭を冷やせ、などと抜かして──────こらっ、杏里! ガボボボ───』

[Anri] あ、すいません。あんまりおかしくって、受話器がボチャンって。ね、いいお湯でしょ? アハハハハ───

[Narration] 『…………で、どうなんだ、あいつは。健康なのは当たり前だ』

[Anri] そうですね。残念ながらホームシックにかかっている様子はないかな。学園生活を謳歌していますよ。

[Narration] 『そうか。波乱が無いのもつまらんが』

[Anri] 恋人にも恵まれている。

[Narration] 『なんだと?』

[Anri] アハハ、罪のない真実ですよ。

[Anri] こないだの冬期休暇のあいだも、ほとんどずっと一緒にいました。

[Anri] もう、可愛くって可愛くって。

[Narration] 『けしからんッ、家にも戻ってこないで!』

[Anri] あなたから家を追い出したのでは?

[Narration] 『それについては、もう撤回した。素直に負けを認めたんだ。いいか、このわしがだぞ───?』

[Anri] なんですよねえ。ニコルも意地っぱりだからなあ。

[Narration] 『頼む杏里、男同士のよしみだ』

[Anri] お父さん。何度もいいますが、ボクは女です。

[Narration] 『何度もいうが、わしはお前のバッボじゃない』

[Anri] わかりました。請け合いましょう。あなたの意地や、寂しい気持ちも、はんぶんくらいはわかるつもりです。

[Anri] 今度、ボクからも頼んで、ニコルから実家へ連絡させますよ。

[Anri] できれば、休暇には家に戻るようにもね。

[Narration] 『ほ、本当か!』

[Anri] ええ、なにしろこの船は、ジェノバへ向かってるんですからね。

[Narration] 『ほう……!』

[Anri] ただその代わり……

[Narration] 『なんだ? わしと取引する気か』

[Anri] いやいや、ちょっと教えてほしいことがあるんです。パパ・ジラルド。

[Narration] 『パパはやめろ』

[Narration] 杏里は目下懸念の問題を、ジラルドに率直に告げた。

[Narration] 『……メディチだと?』

[Anri] ええ、そうです。この船に、メディチ家の御息女イゾルデが乗船しているのは、ご存知ですね?

[Narration] 『ああ』

[Anri] そしてニコルとイゾルデの二人は、どうやら因縁浅からぬ仲のようだ。

[Anri] けれど、両者とも、なぜかボクにはそれを語ってくれない。

[Anri] あなたなら、何か知っているんじゃないですか?

[Anri] いや、きっと知っているはずだ。

[Anri] 教えて……くださいますね?

[Narration] 語りかける杏里の声音には、挑むような不思議な艶がのってくる。

[Narration] 男であれ、女であれ、そんな杏里のささやきかけを無視し続けることは、とても難しい。

[Anri] ふっ…………

[Anri] なんてったってボクは、自慢じゃないけど、考えるのが苦手なんです。

[Narration] 『それは……まったく自慢にならん』

[Chloe]  それでッ!

[Narration] 再び、船倉賭場───

[Narration] 複雑な基準で選ばれた、ハイローラーだけが入室を許される、緋色のベルベットカーテンの向こう。

[Narration] この部屋へ足を踏み入れたということは、ついに、本当のギャンブルが始まったということだ。

[Narration] そう、これまでのギャンブルは、ただの遊びだった。これから、本当のギャンブルが始まる。

[Narration] 賭け金は、自分自身───

[Narration] 華やかなホールとはうってかわった、低い天井、極限まで落とされた照明。

[Narration] じゅうぶんな間隔を置いて配置されたテーブルの上には、ぼつぼつとごくまばらに人影がある。

[Narration] 船窓賭場の実体、それは、ゲームの見かけを借りた、心優しき悪女たちの戦場だ。

[Narration] それは、船内での私闘を禁じられた女性船員たちが、互いの降船を賭けて起こしたゲームが、そのルーツであると云う。

[Narration] やがて、賭けの対象は、多岐に渡るようになった。

[Narration] それは、上限解除された、自己を破滅させるにふさわしいだけの多額の掛け金に留まらない。

[Narration] 彼女たちが将来手にするはずの、政治的権力、経済的な特権、コネクションリスト、その他のさまざまなヘゲモニー。

[Narration] 恋愛の契約すらも、賭けの対象に含まれる。

[Narration] つまりは、その人間の運命そのものだ。

[Narration] テーブルで交わされるのは、ただの口約束でしかない。

[Narration] しかしながら、賭けが果たされなかったことは、ただの一度も無い。

[Narration] なぜなら、ポーラースターの船底には、“御大”がいるからだ───

[Narration] 古めかしい長方形のテーブルに、4人のプレイヤーと、配り手であるディーラーが1人ついている。

[Narration] 手元のカードから視線をあげ、ニコルは目前にちょこんと腰かけるプレイヤーをにらみつけた。

[Nicolle] ……ちぇっ。すっかり騙された。

[Nicolle] あんたとイゾルデが、よりによってグルだったなんてね。

[Narration] ニコルの厳しい視線を受けながらも、ルネはそしらぬ顔だ。

[Narration] よほどいい手が入っているのか、うきうきとカードをのぞきこんでいる。

[Renee] あたし、べつに悪くないよ。

[Narration] ニコルは叩きつけるようにカードを捨て、ディーラーに交換を求めた。

[Nicolle] 騙されたほうが悪いって云うのか?ソヨンの気持ちを考えろよ!

[Renee] なんで怒ってるの? ソヨンは可哀想じゃないもん。

[Nicolle] ……ああそうかい、気づかなけりゃ、それでいいってんだな?

[Nicolle] ふん……案内をせがまれて、賭場に来てみれば……

[Narration] ニコルの視線の先には、冷ややかにカードを見つめるイゾルデ・メディチがいた。

[Isolde] 1枚交換だ。

[Narration] ディーラーの手から、すっとカードが差し戻される。

[Narration] 手に戻しても、イゾルデの表情は微動だにしない、文字通りのポーカーフェースだ。

[Isolde] ……私が、差し向けたわけじゃない。

[Isolde] 親同士のつきあいで、お守りをことづかっただけだ。

[Renee] また子供扱いする!

[Narration] カードが開かれた。

[Narration] またルネが勝った。

[Narration] ここまで、イゾルデとニコルの勝負は大きく傾くことなく拮抗している。

[Narration] その場ではルネの圧勝。

[Narration] 残る一席で、脂汗を垂らしながら、どつぼにはまり込んでいるのは……

[Nicolle] そろそろやめといた方がいいんじゃないの? ウェルズ。

[Renee] そうだよ、おばさん。流れってのがあるんだから。見切りが肝心なんじゃない?

[Wells] お黙り! このマセガキどもが!

[Nicolle] 休暇中、金策に走り回ってたってホント?

[Wells] やかましいといっているのです! ゲームに集中できないでしょう!

[Narration] いよいよ旗色の悪くなったウェルズが、手洗いへと逃げたところで、ゲームを中断した。

[Narration] やはりニコルとイゾルデの差はほとんど無い。

[Narration] 大金の動く、強い手札の場では、ルネの一人勝ちとなることが多かったせいだ。

[Narration] 無為に意地を張っては自滅を繰り返すウェルズの存在も、二人の勝負を難しくしていた。

[Narration] ワインを傾けながら、イゾルデが告げる。

[Isolde] 普通に賭けているだけでは、つまらなくなってきたな。

[Nicolle] そりゃあ、同感だね。

[Narration] ニコルの視界の外で、ルネはにやりとほくそえむ。

[Isolde] 昔ながらのルール、というのはどうだ。

[Narration] ニコルはごくりと唾を飲んだ。

[Nicolle] ……本気かい……?

[Isolde] いくら剣を交えども、いつまでも一進一退で、立ち往生しているのは、不愉快なものだな。

[Isolde] 勝利の美酒を味わうには、スリルを経験する必要がある。

[Renee] 昔ながらのルールって?

[Narration] ルネが無邪気にたずねる。

[Nicolle] ……負けた方が船から降りんだよ。

[Renee] それだけ?

[Isolde] ……それだけだが、同時に負け犬の烙印を押されるということでもある。

[Isolde] もし、陸(おか)で両者が出会ったなら、負け犬は即刻、その場より去る。

[Isolde] そうだったな?

[Renee] ふぅん……

[Renee] 死人は死人らしくしないといけないんだねえ。

[Nicolle] 海賊と同じさ。

[Nicolle] 本当なら、はね板から海に飛び降りるんだ。それでも生きてるのは、そりゃ死人ってことだよ。

[Narration] イゾルデは、またみずからワインを継いだ。

[Narration] いつになくそのペースは早かった。

[Narration] 真剣勝負の時には、ニコルは決してアルコールは口にしない。

[Narration] 二人の運勢が拮抗している今、それは、一つの勝機と思えた。

[Narration] それに、勝負の途中は、どんな理由があろうとも席を立てば、それは当人の敗北とみなされるのだ。

[Isolde] どうする、ニコル。

[Isolde] 勝負を受けるか? それとも……

[Narration] また、あの薄笑いを浮かべている。

[Narration] ニコルは逡巡した。

[Narration] くだらない、とも思う。

[Narration] だけれども、何年ものあいだ、胸の奥底にわだかまってきたものに、ようやく決着をつけられる潮時かもしれない。

[Narration] イゾルデはサード、ニコルはファーストだ。

[Narration] 次の機会はもはや無い。

[Narration] 噛みしめた唇をひらき、ニコルが返答しようとした時だ。

[Narration] 「───いけません」

[Narration] テーブルと合わさった一個の調度品のように、なりをひそめていたディーラーが口を挟んだ。

[Narration] 「降船を賭けての勝負は、現役の学生には、禁じられています」

[Nicolle] え? そんなの聞いてないぞ?

[Narration] 「それは“先代”までの典範です」

[Isolde] ……“御大”というのは、代替わりしているのか?

[Narration] 「ええ。これもまた一つのルールです」

[Narration] 「今の御大になってからは、まだ一度もそういった勝負は無かった。あなたがたが、聞き及んでいないのも無理はない」

[Narration] 「実際に、両者の合意で賭けるのは構いませんが───」

[Narration] 「ですが、御大はその勝負を、この賭場のカーテンの内側で行われたものとは、決してお認めにならないことを、お忘れなきよう」

[Narration] イゾルデがふっと、息をはく。

[Isolde] 勝負ではなく、遊びとみなされるわけか。それでは、スリルも無い。

[Narration] せせら笑って、イゾルデは腕を組む。そして、やおら切り出した。

[Isolde] それでは……

[Isolde] こういう条件であればどうなる?

[Narration] イゾルデは、ルネとニコルの前で、思いついた条件をそらんじてみせた。

[Narration] ディーラーは熟考し、やがて静かに頷いた。

[Narration] 「……可能です」

[Narration] ふと、ルネはニコルの横顔を見やる。

[Narration] その唇は青ざめ、細かくわなないていた……

[Narration] ───明け方に、勝負はついた。

[Narration] イゾルデは、いっときディーラーにあずけられていた一枚の画稿を、再びその手に取り戻した。

[Narration] 誰知らず、少女は、その無造作に紐で結ばれた紙筒にむかって、まるで忌まわしき物のように、疎んじる目をくれた。

[Narration] イゾルデとルネの二人が去ったあとも、呆然とうちひしがれるニコルは、椅子を立つ気力を、まったく持てないでいた。

[Anri] ニコル!

[Narration] 自分の名を呼ぶ声に、少女は総毛だった。

[Anri] やっぱり、ここだったのかい、ニコル!

[Nicolle] …………

[Narration] 苦しい……吐息すらおぼつかない。

[Narration] 自分の行為の愚かさに、ほぞを噛む。

[Narration] 果てしない後悔が、出口もなく、ニコルの胸中をぐるぐるとかけめぐった。

[Narration] 声から逃れるように席を立ち、思わず膝から姿勢を崩したニコルへ、暖かい手がさしのべられる。

[Anri] 大丈夫かい……ニコル? 休んだほうが……

[Narration] 狼狽し、その手を見つめるニコルの顔は、みるみる歪んだ。

[Narration] ぎりぎりと歯を食いしばり、こぼれんとする涙を、もはやこらえきれない。

[Narration] 何も言わず、ニコルは杏里に背を向けて、駆けだした。目も耳も、心も、すべてをふさいで、一人になれる場所へと、逃げ出した。

[Narration] 今度は、杏里が呆然として、その場に残される番だった。

[Isolde] ───それでは、こうしよう。

[Isolde] この勝負に賭けられるのは、誇りと、愛だ。

[Isolde] 私は、この書筒の中にある、一枚の絵を賭ける。

[Isolde] これは、メディチの証───

[Isolde] わが故郷フィレンツェが、その胸に私を迎え入れる、唯一の拠り所となるものだ。

[Isolde] これ無くしては、私は帰る場所を持たない。

[Isolde] 故郷、一族の誇り、そして同時に、自分という者を失い、生ける屍となるだろう。

[Isolde] ───そしてニコル。お前が賭けるのは、杏里・アンリエットの愛だ。

[Isolde] ただ……

[Isolde] この勝敗のみで、全てを決してしまっては、面白みがない。だから……こうしよう。

[Isolde] おまえがゲームに負けても、それは保留としよう。しかし……

[Isolde] 勝負翌日より二週間───

[Isolde] 一言でも、奴の愛の言葉が、おまえの耳に届くことがあれば、おまえの負けが決定する。

[Isolde] また、奴本人に、賭けの内容が知られてもいけない。

[Isolde] あれが、そんな事を知りながら、黙っていられる性分でないのは、周知の通りだ。

[Isolde] いの一番に、私の元へ怒鳴り込んでくるだろうからな。

[Isolde] ……無論、お前が、奴から逃げまわるのも勝手だが。さて、アンリエットはそうやすやすと、お前を自由にさせてくれるかな。

[Isolde] 奴の愛とは、どれほどのものなのか、興味があると思わないか?

[Isolde] この試練が果たされなかったその時は、お前は、私の故郷と同様、抱かれる胸を失う。

[Isolde] 二度と、奴の前に、姿を現すな!

[Isolde] その結果、お前がこの船から降りようが、奴の方から去っていこうが、知ったことではない。

[Isolde] ……さながら、ここは冥府だ。

[Isolde] おまえは、オルフェウスの背を追う、言葉持たぬエウリディケというわけだ……

[Renee] うっわぁ……

[Renee] 負けちゃったら大変だねェ。……でも、挑戦するんだよね?

[Renee] がんばってね、ニコル! イヒヒッ。

[Narration]              ─────つづく。

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