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sapphism_no_gensou:7029

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[Narration] ───こうしてポーラースター号の、醜聞にもならぬお粗末な叛乱事件は終わりを告げ……

[Narration] 小さな訪問者は、なごり惜しまれながらも彼女たちの元から去っていった。

[Narration] DNAミキサーは天京院自身の手で粉砕され、マリアナ海溝の奥底へと沈められた。

[Narration] ミキサーに入って若返り、また元の姿に戻るまで───杏里はその間の時間経過を、まったく感じていなかった。

[Narration] 水風呂に浸かって、ちょっとウトウトした……その程度に思っていたようだ。

[Narration] 杏里の仲間たちも気を使い、ちび杏里の件についてはなるべく触れずに接した。

[Narration] だから、実際、杏里がどれだけ事件の詳細を憶えているのかは、はっきりとしない……

[Narration] ただ、その後しばらくのあいだ、杏里は時折、物思いにふけり、口数が少なくなることがあった。

[Narration] もちろん、またすぐにいつもの杏里・アンリエットを取り戻し、再び船のトラブルメーカーの座に帰ってきた。

[Narration] ───土曜の午後。天京院の部屋。

[Narration] いつものように、部屋を訪れ珈琲の芳香を楽しんでいる杏里に天京院はふと、訊ねてみた。

[Tenkyouin] ……杏里?

[Tenkyouin] きみは……以前からそんなコーヒー好きだったのか?

[Anri] ……え? ボクがかい?

[Tenkyouin] …………(コク)

[Anri] ……ああ、それはね……

[Anri] この船に入学して、右も左もわからないでいた頃───

[Anri] そこで出逢ったかなえさんが淹れてくれたコーヒーの味にもう感動!

[Anri] それ以来、杏里・アンリエットはコーヒーに病みつきになった……───というわけさ?

[Tenkyouin] ……嘘だ。

[Anri] バレたか。

[Tenkyouin] なにが「というわけさ」だ。

[Tenkyouin] あの時、きみはこんなまずいもの生まれて初めて口にした……って、大笑いしていただろう。

[Anri] それは本当。

[Anri] でもそのあとに、まずいんじゃなくすこぶる独特なんだと気づいたけれど──

[Anri] さて……いつからだったかなあ……

[Anri] ボクがコーヒーの苦みを心地よく感じるようになったのは……。

[Anri] キスの味を知るよりは……あとだったように思う。

[Tenkyouin] ……もういい。幾何級数的に興味が薄れてきた。

[Narration] 部屋には、杏里と、見送るイライザと、天京院の三人だけ。

[Narration] なるたけ前回と同じ状況にしておこう、という天京院の配慮だった。

[Narration] 部屋の中央には、改良され、調整しなおされたDNAミキサーが、待ちかまえるように鎮座している。

[Eliza] ……杏里様?お召しものを。

[Anri] うん……

[Narration] 液体の満ちたバルブの前で杏里はもじもじしている。

[Eliza] 恥ずかしがることはございませんよ?

[Anri] うん……なんやけど……その……

[Anri] なんや、もろた服がもったいのうて。

[Eliza] …………

[Tenkyouin] イライザを困らせるなよ、杏里。

[Anri] うん。

[Anri] なー、かなえ……?

[Tenkyouin] ん? なんだ?まだあるのか。

[Tenkyouin] 早くしろ。電力の優先割当時間は限られてるんだ。

[Tenkyouin] メインコンピューターは改修中でハッキングもできないし。

[Eliza] 懲りてらっしゃいませんねえ。

[Tenkyouin] あれはあたしのミスじゃない、レ……レー…………

[Eliza] はいはい。みなまで申さずとも……

[Anri] …………

[Anri] かなえ……な、あといっこだけ、いっこだけ、ええ?

[Narration] 天京院は無言で頷いた。

[Narration] 静かに微笑んでいる杏里にイライザも向き直る。

[Anri] また、思い出してん……

[Anri] あっ、イヤなことやないよ。安心してな?

[Anri] かなえがお母はんに似とるって……ずっと思っててんけど、ようやっとわかったわ。

[Anri] かなえ、ときどき、寂しそうな、悲しそうな目ぇでボクのこと見てたやろ?

[Anri] ……その顔がな、お母はんそっくりやってん。

[Tenkyouin] …………そうか……

[Tenkyouin] ……すまない。そのたびに、思いださせてしまったろう。

[Anri] あ、違うてん、違うんよ?

[Anri] くやしゅうて、ボク。

[Eliza] ……口惜しい?

[Anri] うん……

[Anri] お母はん、おおざっぱに見えてんけど気にしてたんやろなぁ……

[Anri] ててなしご、とかばいたの子はばいた、とか、よういちびられとったから。

[Anri] ……でもボク、そんなんさらさら気にしてへんかった。

[Anri] 嘘やないよ?

[Anri] せやから、お母はんがそんな顔するたんびに───

[Anri] ボク、ニコニコ笑うててん。

[Anri] お母はんの子で悪うおもたことなんてボク、一度もなかったもん。

[Anri] お母はんの子に生まれてきてほんまよかったわ。

[Anri] それをな、お母はんにわかってほしかってん……うん。

[Eliza] …………

[Eliza] ええ……きっと……きっと伝わりました……

[Eliza] ね……? 天京院様?

[Tenkyouin] …………

[Narration] 天京院は杏里のかぶる帽子をぽんと叩き、つばを下に降ろした。

[Tenkyouin] …………ガキのくせに……

[Tenkyouin] ……親を気づかうなんて、十年早い。

[Eliza] ……天京院様………

[Narration] そんな天京院の乱暴な言葉よりも、イライザは、突然笑い出した杏里の様子に驚いた。

[Anri] あははははは……っ!

[Narration] 小さな杏里は、帽子で顔を隠しながら、けたけたと笑った。

[Anri] おんなじこと言われてもうた……!

[Anri] あはは……っ……いまわに言われたんと……おんなじや……

[Anri] ……かなえには、ほんま、かなんなあ……

[Anri] おんなじや…………あははは……

[Eliza] …………杏里様……

[Narration] 衣服を脱いで裸になった杏里は、イライザから別れの抱擁を受け、巨大ミキサーの中へと沈んだ。

[Narration] 部屋は再び震動と轟音に包まれる。

[Narration] 杏里はぶ厚いガラスの向こうから天京院をじっと見つめていた。

[Narration] プロセスが進行し、開閉弁が閉じていく合間も、両手をガラスについて見つめつづける。

[Narration] 天京院は躊躇しながらも、杏里のそれと重なり合うようにガラスに手を置いた。

[Narration] とても、小さな手だった。

[Narration] 杏里の唇がなにかを伝えようと動く───

[Narration]      マ、

タ、

ア、

エ、

ル?

[Narration] 手を合わせ見つめ合ったきり、天京院はその答えを、ついに口にのぼらせることができなかった。

[Narration] 天京院にはよくわかっていた。杏里の望む答えは、自分の胸の中にないと───

[Narration] そんな天京院に、杏里は小さく微笑み、また唇を動かした。

[Narration]      ア、

リ、

ガ、

ト、

ウ 

[Narration]      サ、

ヨ、

ウ、

ナ、

[Tenkyouin] ……っ……

[Narration] 思わず天京院は叫んでいた。

[Tenkyouin] …………杏里……っ!

[Tenkyouin] 戻れっ……杏里!もういいから……っ!……もう……無理しなくていいから……!

[Narration] 天京院の頬に何粒も何粒も熱いしずくがこぼれ落ちた。

[Narration] 杏里はクスクスと天京院の泣き顔に笑いかけた。

[Narration] まだ何か口を動かしている───

[Tenkyouin] だがもう、天京院のにじむ目には杏里が何と言っているのかわからなかった。

[Narration] バルブの液体は泡立ち、無情にせりあがっていく。

[Narration] 見る間に杏里の姿は、不透明な泡の中にかき消された。

[Tenkyouin] …………

[Tenkyouin] ………さよなら……

[Tenkyouin] ………………杏里………

[Anri] かなえさん……?……かなえさん!?

[Narration] その声に天京院は、はっとした。

[Tenkyouin] ……あ、ああ……すまん。

[Tenkyouin] ぼんやりしていた。

[Anri] フフ……そういえば、かなえさん、さっきの話だけど───

[Tenkyouin] ……ん?

[Anri] ホラ。いつからコーヒ好きになったのかって話。

[Tenkyouin] あ、ああ。どうかしたか。

[Anri] うん。……いつのことだったか、よく憶えてはいないんだけど。

[Anri] ボクにコーヒーの味を教えてくれた人がいたよ。

[Tenkyouin] ……ほう。

[Anri] なんだかさ、その人があんまり美味しそうにしてたものだから手を出してみたんだけど……

[Anri] のめるわけないよね? とっても。子供だったんだもの、ボクは───

[Anri] ……その人が、どんな人だったのか。もう思い出すことは出来ないんだけど……

[Anri] でも、ただあの時の苦さだけは、よく憶えてるんだ。

[Anri] …………アハハ、なんか、ヘンな話だったね。

[Anri] 楽しかったことよりも、苦みに苦しんだことの方が、よく憶えてるなんて。

[Tenkyouin] …………そうだな。

[Anri] ところでさ、いつの間にみんなあんなに日焼けしちゃったの?

[Anri] カリビアン・パーティでもする気なのかな?ボクに内緒で。ずるい!

[Anri] ボクだって明日からどんどん焼くぞー!

[Narration] そんな杏里のお喋りに、適当に相づちをうちながら、天京院は机の中をごそごそやっている。

[Narration] そして、唐突に肘掛け椅子から、ソファへと座りかえた。

[Tenkyouin] 杏里。

[Anri] なに。いきなり。

[Anri] まあ座れ。

[Anri] ……え?どうしたの?

[Tenkyouin] まあいいから、座れ。

[Anri] ヘンなかなえさん。

[Narration] ───ぽす。

[Anri] はい。座ったよ?

[Tenkyouin] 目をとじろ。

[Anri] え? や、やだ。

[Anri] またボクを、なにか発明品のモルモットにする気じゃ───

[Tenkyouin] いいから目をとじろ。

[Anri] はーい。

[Narration] 杏里は椅子の上で素直に目をとじた。

[Tenkyouin] 薄目あけるなよ。それじゃ、体を左に倒せ。

[Anri] え? それって……かなえさん、ボクに膝まくらでもしてくれるの?アハハハハ!

[Tenkyouin] ……そうだ。

[Anri] まさかねえアハハハハ………ええっ!?

[Anri] アイタタタタタ!耳引っ張らないでよ!

[Narration] 杏里は観念して天京院の脚の上に、そっと頭を垂れた。

[Tenkyouin] ……オホン。

[Tenkyouin] ……今から耳そうじをする。

[Anri] 耳そうじ……へえ……ボクの知ってる耳そうじと同じ耳そうじだといいんだけど。

[Tenkyouin] 目は開けてもいいが、動くんじゃないぞ。

[Anri] ………へえ………どういう風の吹き流し?

[Tenkyouin] 馬鹿。吹き回しだ。

[Tenkyouin] ……人の話をぜんぜん聞かないきみの耳の通りを、すべらかにしてやろうと思ってな。

[Tenkyouin] ……それと……まあ…………

[Tenkyouin] ……とある友人との、ちょっとした約束のようなものだ。

[Anri] ふぅーん……

[Anri] こんど……お礼言っとくねえ……

[Tenkyouin] そうしてくれ。

[Anri] ……

[Tenkyouin] ……

[Anri] ………

[Tenkyouin] ………

[Anri] …………

[Tenkyouin] …………

[Anri] かなえさん……

[Tenkyouin] ……

[Anri] 下手だねかなえさん。

[Tenkyouin] ……はじめてする。痛かったら許せ。

[Anri] ……そう……それじゃ仕方ないな。

[Anri] じゃあ、終わったらボクがお手本を教えてあげよっか?

[Tenkyouin] 動くな!

[Anri] ゴメン。

[Tenkyouin] ……遠慮する。結構だ。間に合ってる。

[Anri] ちぇー……。かなえさんの、いけず。

[Tenkyouin] いけずで結構。

[Anri] ……ふぁ……ボク……なんだか…………眠く……

[Anri] ごめん、かなえさん……ボク……すこし眠らせてもらうね……

[Tenkyouin] ……ああ。今日だけだぞ。

[Anri] …………優しいね……

[Anri] いつも……こんな風に…………優しければ………いいのに…………

[Anri] …………………………

[Anri] ……………………

[Anri] ………………

[Tenkyouin] …………

[Narration] 寝息を立てはじめた杏里の頭を、天京院はしずかになぜた。

[Tenkyouin] …………杏里……

[Tenkyouin] ……………おかえり……

[Narration]       『ひと夏の蜃気楼』           ──おわり──

sapphism_no_gensou/7029.txt · Last modified: 2018/05/22 17:15 (external edit)