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sapphism_no_gensou:7025

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[Narration] ───その晩。

[Narration] ようやく準備を終え、自室に戻った天京院を、杏里は嬉々として迎え入れた。

[Narration] マンクス猫のヤーンは、一時ソヨンに面倒を見てもらっていた。

[Narration] 杏里はたった一人で、天京院の帰りを待っていた。

[Tenkyouin] ふぅ……

[Narration] ぼすっ、とソファに腰を落とすと、杏里は前にまわって、うちわで部屋の主人をパタパタとあおいだ。

[Anri] はばかりさん。

[Tenkyouin] ……はばかり?なんだ? 手洗いか?

[Anri] ごくろうさん、て言うてん。

[Tenkyouin] ああ……気がきくな。

[Anri] えへへ。この部屋、ミキサーあるけど扇風機ないし……なんでやろ。

[Tenkyouin] 扇風機はあたしの……

[Narration] 天京院はふと口をつぐんだ。

[Tenkyouin] ……扇風機は、あたしのナワバリじゃないんだ。侵犯したくない。

[Anri] へえ。

[Narration] 襟元に風を迎え入れながらほっと息をつく。

[Tenkyouin] ようやく過ごしやすくなってきたな……

[Tenkyouin] 発電機もさすがに無制限には使わせてくれなくてな。あとは明日の充電用に……

[Anri] かなえは脱がへんの?

[Tenkyouin] ……はあ?

[Anri] みんな、こんなちっこい布きれしかつけとらんよ?かなえも暑いやろ?

[Tenkyouin] ふん……これは異なことを聞く。

[Tenkyouin] 発明家を名乗る者として、白衣を欠くわけにはいかない。

[Tenkyouin] よい発明には必ずミキサーが付いている。つけあわせのようなものだ。

[Anri] ふーん……

[Narration] 杏里はわかってないながらも納得してみせた。

[Anri] ……そっか!北風と太陽や!

[Tenkyouin] ほう?

[Anri] 北風と太陽が旅人の服を脱がせようとするんや。

[Tenkyouin] その話なら知ってる。しかし、ポーラースターが暑さでせまる太陽とすると……

[Tenkyouin] 対するあたしは北風か?なんか悪者っぽいぞ?

[Anri] あ!

[Anri] え、えーとな、ちゃう、ちゃうねん、えーと───

[Tenkyouin] …………ふっ……

[Narration] あーでもない、こーでもないと見当違いのことで頭を捻る杏里を見守りながら、天京院は微笑む。

[Narration] ……そして、疲れで顔を伏せたふりをしながら、ひどく後悔した。

[Narration] うすうす懸念していたとおり、だんだんと自分は馴染んできている。

[Narration] 今の杏里との生活を楽しみはじめている。

[Narration] ───だめだ。あたしだけは、慣れてはいけない。

[Narration] 変わってしまった杏里を迎え入れてはいけなかった。だのに……

[Narration] そのまま、まるでここにはいない誰かに語りかけるかのごとく天京院はつぶやいた。

[Tenkyouin] ……悪いな、杏里。あとすこしだけ時間をくれ……

[Tenkyouin] あとちょっとなんだ……

[Tenkyouin] ふぅ……

[Tenkyouin] 人工知能の叛乱なんて、些細なことだ。

[Tenkyouin] すぐに片づけるさ───すぐ元に戻してやれる。

[Narration] そのつぶやきに杏里はうちわを握りしめ、真剣な顔つきで頷いた。

[Anri] う、うん。ボク、きばるから。

[Anri] ……どんくさいけど。がんばるから。

[Tenkyouin] ……ああ。

[Narration] そっけない返答も気にせず杏里は「よーし!」と気合いを入れまくった。

[Anri] あ、そや! かなえ!ちょっと横になって?

[Tenkyouin] ……どうしてだ?

[Narration] いぶかしげに目をすがめながら聞き返す。

[Anri] ええから! ここんとこ横になって?

[Anri] な!?

[Tenkyouin] まったく、何なんだ……

[Narration] ぶつくさこぼしながらも天京院はぱたん、とソファに体を倒す。

[Narration] 杏里も頭の方に腰かける。

[Anri] ………………動かんといてなー……

[Tenkyouin] ……ハイハイ…………

[Tenkyouin] …………ん?…………わあっ!!

[Narration] ガリガリガリガリガリガリ───!

[Anri] わっ! わっ!急に動いたら危ないやん!

[Tenkyouin] それは………?

[Narration] 杏里が手にしていたのは、天京院の発明の一つだった。

[Tenkyouin] 耳かき……?

[Tenkyouin] 確かに、そんなものも作ったが……どこから……

[Anri] かなえ……疲れてるやろ?ボクが耳あかとったるから。楽になるよ。

[Tenkyouin] 遠慮する。結構だ。間に合ってる。

[Anri] …………かなえのいけず。

[Tenkyouin] 自分で不器用だ、と言ったばかりだろう?恐ろしくて、とてもまかせられないな。

[Anri] これだけは、あんじょうやれるから!だいじょぶ。うん。だいじょぶ。

[Tenkyouin] ホントか?……何かいたずら考えてないか?

[Narration] 眉をひそめる天京院を、杏里は必死に否定した。

[Anri] そんなん、しいひん〜ボク、また思い出してん。

[Tenkyouin] ……もう寝たほうがいいんじゃないか?

[Tenkyouin] 疲れただろ。

[Anri] ちょこっと寝とったもん。平気や!そいでな───

[Narration] 天京院はもはやあきらめ気味にソファ上であぐらをかく。

[Anri] お母はんがな?くたびれてうちでゴロゴロしとった時、

[Anri] 杏里、耳そーじしてぇ、ってよう言わはってん。

[Tenkyouin] ……ふーん。

[Anri] そーじしたら、おかえしにボクもしてくれるって。

[Tenkyouin] ……やっぱり下心ありじゃないか。なおさらお断りだ、

[Tenkyouin] あたしはしないぞ。そんな恥ずかしいこと。

[Anri] えー……ほんまいけずやわ……

[Narration] がっくりする杏里は、それでもすぐに笑みを取り戻す。

[Anri] まあ、ええよ。お母はんも、そーじしてくれたんは最初の一回だけやったもん。

[Anri] あとは、疲れて眠うなってん、こんどな、いうて……

[Anri] ……あ!……もしかしてボク、騙されとる?

[Tenkyouin] 知らん。

[Narration] 天京院は、またソファを杏里にゆずり、自分は発明品の山の下からサマーチェアを発掘して横になった。

[Narration] ベッドは最近の乱読が祟って使用不能だ。

[Narration] 杏里に背を向けて寝ころんだまま、おやすみを交わす。

[Narration] 部屋はかすかな星明かりの作るシルエットだけとなった。

[Narration] しばらくたって、今夜こそおとなしく眠っただろうとソファを振り返る。

[Narration] 見開かれた二つの瞳がじっとこちらを見つめていた。

[Tenkyouin] 寝ろよ。

[Narration] 再び背を向け、つぶやき捨てた胸が、ひどく痛む。

[Anri] あ、あのな?ボクいっこだけ気になっとることあって……

[Tenkyouin] …………

[Narration] 天京院は背を向けたまま杏里の言葉に耳を傾けている。

[Anri] 元のボクに戻ったら……いまのボク、どうなってまうの?

[Anri] ……消えてまうの?かなえやみんなのこと忘れてまうの?

[Narration] 杏里の声は震え不安に揺れていた。

[Narration] ふぅ、と息を吐いて天井を向いた天京院は。頭のうしろで腕を組んだ、

[Narration] 目を閉じたまま、ぽつぽつとつぶやく。

[Tenkyouin] ……消えたりはしない。

[Tenkyouin] ……いまのきみは現在と過去が、入れ替わってしまっただけだ。

[Tenkyouin] ここ数日のことは、記憶の隙間に織り込まれ、過去のおぼろげな出来事となるだろうな。

[Anri] ……じゃ、やっぱり忘れてまうの?

[Tenkyouin] …………

[Tenkyouin] 杏里のことだから。すっかり忘れてしまうかもしれないな……

[Tenkyouin] ……だが厳密にはそうじゃない。決して失くなってしまうわけじゃない。

[Tenkyouin] 人間、一度見聞きしたことは必ずどこかで憶えているものさ。

[Tenkyouin] ときどき、何かの拍子に、記憶の引き出しの奥深くにしまいこんでいた思い出を見つけることはよくある。

[Anri] ほんなら……怖がらんでも……ええの……?

[Tenkyouin] 心配ない。大丈夫だ。

[Anri] ……よかった。

[Narration] やがて部屋に、くぅくぅと安堵した杏里の寝息が聞こえはじめた。

[Narration] 寝つけぬまま天京院は胸に問いかける。

[Narration] 本当にそうなのか。自分はどうなんだ。

[Narration] 過去のことをいつまでも記憶に留めていたい、そんな風に思っているだろうか?

[Narration] 違う。決してそんな事はなかった。

[Narration] 恥ずかしさと、後悔にまみれた、あの頃など、一刻も早く忘れてしまいたかった。

[Narration] 振り返ることなど一つもない。ただ未来を見ていればいいんだ。

[Narration] そんな重いもの、どうやって抱えて歩いていけるっていうんだ。

[Narration] 早朝───

[Narration] 天京院は肩を激しくゆすられ起こされた。

[Anri] ……ぇ…!……かなえ……!…………!

[Tenkyouin] …………ン……

[Tenkyouin] ……ん……なんだよ……まだ早いじゃないか……

[Narration] まぶしそうに目をすがめ手元の時計を見るとその脇には、蒼白になった杏里の顔があった。

[Narration] すがるように、こちらをじっと見つめている。

[Anri] よかったあ……かなえ、このまま起きひんかと思うてん……

[Narration] 杏里は安堵の息を吐く。

[Tenkyouin] なに言ってる……

[Tenkyouin] 変な夢でも見たんじゃないのか……バカだな……

[Narration] 天京院はまた寝具をかき寄せまどろみの中に戻ろうとした。

[Anri] ……あっ……かなえ……かなえ?聞いて!? な?

[Anri] お母はん、なんか体の具合が悪いみたいなんや。

[Anri] 顔色、真っ青で……夜中じゅう、ずっと咳しとるんよ……

[Anri] もしかして、病気なんやないやろか?な……なあ! 起きてよ、かなえ!

[Narration] 天京院は胸の奥を、殴られたような衝撃を受けた。

[Narration] そのことに気づいてからは自分から杏里の家族の話題を振るような真似は、極力避けていたのだ。

[Narration] 急げば最悪の事態は避けられる…………そう、たかをくくってもいた。

[Narration] だが杏里の過去は、あまりにも色濃く母親の面影で占められていた。

[Narration] ましてや目前の少女の主観では、それが現在だった。

[Narration] 記憶を損なうことなく、肉体だけを若返らせる。

[Narration] 天京院の発明品は、遅ればせながらも着実にその本来の機能を発揮しようとしていた。

[Narration] 混乱する思い出をたぐり、繋ぎ合わせ、水切り石のように、記憶の水面を飛び飛びにジャンプしながら、現在へと向かっていく。

[Narration] 他の場所に居たのならいざ知らず、ポーラースターは、本来の杏里にとっての現在そのものだ。

[Narration] 少なからぬその影響を受ける───記憶の回復は、早まって当然だった。それを、むしろ都合がいいとすら、自分は思い違えていた。

[Narration] 心臓がばくばくと高鳴った。だが天京院は、まだ眠たげなふりを続けた。

[Narration] ただそれしか、彼女に出来ることはなかったからだ。

[Anri] 起きてよ、かなえ!なあ……っ……

[Tenkyouin] …………うるさい……寝かせろ……

[Anri] ボク、お医者さん呼んだほうがええ?おクスリ飲めば治るわな?

[Anri] かなえ、な、一緒についてきて……

[Anri] ……なあ……

[Narration] すがる杏里の手が強く払いのけられた。

[Tenkyouin] ……うるさいっ!……そんなのは、一時的な記憶の混乱だ!

[Tenkyouin] いいから勝手に───どこへでも行けばいいだろ!

[Narration] 頭から寝具をかぶり、天京院は叫んだ。

[Anri] …………っ……

[Narration] 小さく息をのむ音が、また鋭く天京院の胸へと突き刺さる。

[Anri] ……………

[Anri] …………かんにんな……

[Narration] ぱたん───と静かに扉を閉める音がして部屋に再び朝の静寂が戻った。

[Narration] サマーチェアの上で天京院は歯がみし汗ばむ手をみぞおちに当てて、握りしめた。

[Narration] そう──これは一時的な記憶の混乱に過ぎない。それは嘘じゃない。すぐに安定する。

[Narration] すぐに心を落ち着けて杏里は戻ってくる……

[Narration] 天京院はただ闇雲にそう自分に言い聞かせた。

[Narration] 始業の鐘が鳴っても、杏里が姿を見せることはなかった。

[Chloe] 杏里───!

[Soyeon] 杏里ちゃーん

[Helena] 杏里──────お願い、返事をして───っ

[Nicolle] 杏里い〜〜〜

[Collone] ウォォォーン……

[Alma] 杏里様〜〜〜どこにいらっしゃるんですか〜〜〜

[Eliza] 杏里様───!もうお夕食の時間ですよ───!

[Clare] 杏里ちゃーん!どこ──!

[Mirriela] 杏里せんぱ───い!

[Coe] あーんーりーちゃ──ん!

[Niki] ………………

[Aisha] …………

[Aisha] いないわ。どこにも。

[Niki] …………

[Narration] 少女たちは一日中───日差しの照りつける甲板を、蒸し風呂同然となった船内を、汗だくになって探しまわった。

[Narration] ポーラースター本来の警備網を使えば簡単なことだったろう。

[Narration] だがいまや邪淫の先駆となった船は杏里を交えた彼女らの企みを薄々勘づいていた。

[Narration] 以来、それまで誇示するように映しだしていた映像を、ぴたりと止めてしまっていたのだ。

[Narration] すでにポーラースターに転覆させられた船舶は、大小合わせ十隻を越えた。

[Narration] 航路の変更をせまられた船ならば、もはや数え切れないほど……

[Narration] 実際のところ、この程度の経済的な損失や賠償金は、ポーラースターにとっては痛手のうちには入らない。

[Narration] ただ……船に対する風評が、海の女王から、海の魔王へと化してしまった。

[Narration] ただそれだけである─────

sapphism_no_gensou/7025.txt · Last modified: 2013/06/01 22:49 (external edit)