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sapphism_no_gensou:7017

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[Narration] この後、ポーラースターの進路上にいた船を転覆させたりする大事故が幾度もあったのだが。

[Narration] そんなことはお構いなしに、杏里は誘われるまま、船内のほうぼうを遊び歩いた。

[Narration] 遊び疲れ、眠くなった杏里はいったん仲間たちと別れ、個室に戻ろうとしていた。

[Anri] ん……?

[Narration] ひょいと廊下を振り返った杏里。しかし、誰も人影はない。

[Narration] 杏里は不思議がりながらまた腕組みする。

[Narration] 思えば、はじめて船内で一人になった。

[Narration] 部屋までの案内を断り、何度も道順を聞かされて、出てきたけれど……違和感がつきまとって離れない。

[Narration] 初めて歩く船内は見知らぬ町のようで、それでもどこか懐かしかった。

[Narration] 廊下の途中で杏里は立ち止まり、船の中央を向く採光を兼ねた出窓に寄りかかった。

[Narration] 視界の左右の端まで、大廊下が続く。学生やメイドの姿が見え隠れする。

[Narration] ……なんだったろう。とても大切なことだ……

[Narration] 先ほどの、天京院との小さないさかいはにぶく胸の中にわだかまっていたが、それだけではない。

[Narration] 初めて会うのに、顔を見ただけで彼女たちの名前がわかった。

[Narration] 確かに、自分のなかにはぼんやりとした杏里・アンリエットの記憶がある。

[Narration] でも……

[Narration] 昨日までは、自分は京都の大路に立っていたのだ。

[Narration] それに……アンリエットなんて……そんな名前ではなかった……

[Narration] アンリエット……

[Narration] …………

[Anri] うーん……う───ん…………

[Anri] はっ……

[Niki] ……!

[Anri] …………ニ……キ?

[Narration] 振り返った杏里は、頭を抱えた。

[Anri] (せや……! ニキ……ニキや!)

[Anri] (あちゃあ……なんぎやわ……)

[Anri] (怒っとる…… これは、ごっつう怒っとるよ……!)

[Anri] (ボクが完全に忘れとったから…… 出番ゼロやったし……)

[Anri] (どないしよ、ああどないしょ!)

[Niki] …………ぅ。

[Anri] (な、なんて謝ろか……)

[Anri] (アハハハ、ど忘れしてたんや! かんにんえ!)

[Anri] (…………あかんやん)

[Anri] (やっぱここは いさぎよく土下座して……)

[Anri] …………ん?

[Anri] あ、ニキ! 待って!逃げんでええよ!

[Narration] 駆けだしたニキは、時々ころんだ。

[Narration] 追いかける杏里も全く同じ場所で仲良くころぶ。

[Eliza] ふふふふ〜ん♪

[Eliza] わーたーしーだぁってー♪泣こーうと思ーったらー♪

[Eliza] ふふふふふふふーふーん♪……あら、ニキ様?

[Eliza] 杏里様まで……?

[Eliza] きゃっ! 危な……!

[Narration] 夢中で走るニキはものの見事に正面からイライザにぶつかった。

[Narration] はずみで洗濯ものが高く、羽ばたく鳥のように舞いあがる。

[Anri] わっ! 前、見えへん!

[Narration] イライザとニキのいる場所にスピードをころしそこねた杏里も追突する。

[Narration] 最後のリネンが、尻餅をついたイライザの頭にふわりと乗った。

[Eliza] アイタタ……ふぅ……

[Eliza] お二人とも……お怪我はございませんか?

[Eliza] ニキ様? 大丈夫ですか?杏里様も……

[Narration] イライザは立ち上がって二人の具合をみた。

[Narration] 呆然とへたりこむニキ。その脇で、杏里は洗濯物にまみれぽつんと立っていた。

[Narration] からまった洗濯ものをほどいてやりながら具合をたずねる。

[Anri] ううん。どこも痛うないよ……

[Anri] …………どこも…………う……うわああん!

[Anri] うわあああんあんあーんあんあんあん……

[Narration] 杏里はせきを切り泣きだした。

[Narration] ニキも逃れようとしていたことを忘れ、けげんそうに杏里に見入る。

[Anri] ボク、おかしゅうなってしもうたんや……!頭がわやになって……

[Anri] みんなの顔はわかるのにでも、それだけなんや。

[Anri] この船のこともおぼえとらん。ニキのことも、一目見るまでずっと忘れててん!

[Anri] きっとまだ忘れとることがぎょうさんある……

[Narration] イライザは杏里の前にしゃがんで肩にそっと手を置いた。

[Eliza] 大丈夫。大丈夫ですよ。

[Narration] しゃくりあげる杏里の背をさすりながら、すまなそうにしているニキに声をかけた。

[Eliza] ニキ様杏里様ですよ。

[Eliza] 小さくても、杏里様なんです。

[Eliza] ニキ様のことだってちゃんと憶えていました。……ね?

[Narration] ニキはぎごちなく頷く。

[Narration] ごめんなさい───舌をもつれさせながらそうニキはつぶやいた。

[Eliza] ……杏里様……

[Narration] 言いかけて、ふっとイライザは口をつぐんだ。

[Narration] いつのまにか杏里は、イライザの胸に首をあずけ寝入っていた。

[Narration] そっと抱き上げ、個室のベッドへと連れていく。

[Narration] ベッドの中の杏里は、本当に小さく見えた。

[Narration] ベッドの脇で膝をついているニキにイライザが言った。

[Eliza] ……そうですか。杏里様と一緒に?

[Niki] ……(こく)

[Eliza] わかりました。

[Eliza] ……では起きられたらおフロに入るとよろしいですよ。

[Eliza] とても汗をかいていらっしゃっいましたし。

[Eliza] ……そうですね。よろしかったら、大浴場に連れていっていただけませんか?

[Eliza] とても楽しみにされていたようですから……

[Eliza] お願いしますね?

[Niki] …………

[Eliza] ……お願いしますね?

[Niki] ……(こ、こくこくこく)

[Anri] ……さんじゅろーく

[Anri] さんじゅななー

[Anri] さんじゅはーち

[Anri] さんじゅ……

[Anri] なぁ……ニキ……?も、もうええから……な?

[Anri] みんなに見られとう……

[Anri] ……え?ひとりで湯の中に座ると、背が足らんでぶくぶくしよるって……?そらまあ、そうなんやけど……

[Anri] なー、やっぱりええって、ややこみたいで恥ずかしいわ。……な?

[Chloe] ……あきらめなさい。

[Chloe] ニキは一度こうと決めたら、テコでも動かないわよ。

[Anri] ……ふぇぇ…………はちじゅはーち

[Helena] 違うわ。三十九からでしょ。

[Anri] ……みんないけずやわ。

[Anri] ボク、なんも悪いことしてへんのにぃ。

[Chloe] ちょっとした復讐みたいなものかしらね。

[Anri] ……さんじゅくー

[Nicolle] おっ、やっぱいるじゃん。やっほー。

[Nicolle] アハハハハ!!なんだそりゃ杏里!

[Nicolle] 赤ちゃんみたいだな!アハッ、アハハハハハ!

[Narration] 杏里は、あんのじょうと言わんばかりに唇をとがらせる。

[Narration] それでもニキは澄まし顔だ。

[Chloe] ……おぎゃあ、おぎゃあ。

[Narration] 防水処理された書物に視線を落としつつ、クローエはつぶやいた。

[Nicolle] ……ッ!!

[Chloe] ぱいぱい、ぱいぱい。

[Nicolle] ………………ぅ……ぐ……

[Narration] ……どっと汗を垂らしたニコルは、下を向いて黙りこんでしまった。

[Helena] なあに? クローエ。何か言った?

[Chloe] 別に。

[Narration] ふと顔をあげたクローエの目に意外な人物の姿が入る。

[Chloe] あら……珍しい人がまた……今日は千客万来ね。

[Tenkyouin] …………

[Helena] え……だあれ……?

[Narration] ヘレナは眼鏡をタオルでぬぐった。

[Tenkyouin] …………あたしだ。

[Narration] ぽちゃん、と眼鏡を取り落とす。

[Helena] きゃっ……!

[Tenkyouin] 失礼なリアクションだな。天才だって風呂くらい入る。

[Anri] ……かなえ……

[Narration] そもそも、あまり人前に姿を現すことのない天京院が、浴場で見かけられるのは初のことかもしれない。

[Narration] 衆目を一身に受け天京院は、ほのかに顔を赤らめた。

[Narration] 裸身にそって流れる濡れた髪は、まるで生き物のようにゆらめき輝く。

[Nicolle] ちょっと部屋に様子を見にいったらさ、ソファでガーガーいびきかいてんだよ。

[Tenkyouin] かいてない。

[Nicolle] 汗くっさいし、髪もぐしゃぐしゃだし、見せられたもんじゃなかったねえ、うん。

[Tenkyouin] …………作業に没頭して、一時朦朧としていたのは事実だが、そこまで人事不省にはなってない。

[Tenkyouin] 無理矢理こんなところに連れてこられて、こちらはいい迷惑だ。

[Nicolle] 何いってんだ、シャワールームから浴槽まで、ガラクタでいっぱいだったじゃないか。

[Tenkyouin] あれは微少機械の増殖槽が足りなくて───

[Nicolle] 発明家ってのは、みんなこーなのかね?

[Helena] 杏里、四十。

[Anri] えーと、よんじゅ

[Anri] よんじゅいち

[Anri] よんじゅに

[Anri] ……かなえ。

[Anri] さっきのことやけど、ほんま、かんにんえ。

[Anri] かなえと遊びたくてな……かなえはお仕事あるのに……

[Tenkyouin] …………

[Tenkyouin] ……あたしこそ、悪かった。うまく結果が出なくて、イライラしていたんだ。

[Tenkyouin] 当たり散らしてすまなかった。

[Nicolle] ははは、アレじゃなかったんだ。

[Tenkyouin] ……違う。馬鹿。

[Helena] 杏里、四十三。

[Anri] よんじゅさーん

[Anri] よんじゅしー……

[Narration] 数えあげる杏里の声は陽気さを取り戻していた。

[Chloe] うまくないの?

[Tenkyouin] あと一歩なんだが……こちらを立てれば、あちらが立たず、という奴だ。

[Chloe] するともうしばらく、夏休みは伸びそうね。

[Nicolle] ハハ、夏休みね。どっちにしろ杏里にとっちゃ毎日が夏休みみたいなもんだ。

[Anri] ごじゅいーち……

[Helena] 学園長の話では、船のほうも調子が今一つだそうだけど……

[Helena] ───いわく「いつもより舵輪が重く感じた」そうよ。それと関係があるのかしら?

[Nicolle] そりゃ、あんな無茶苦茶な曲芸航行をしたんだ。当然だろ?

[Nicolle] あたしゃあ、頭の両側にタンコブ作っちまったぜ。

[Helena] いったい、どこにいたのよ。

[Nicolle] 内緒。

[Chloe] そのていどの被害で済んで幸運だったわよ。

[Anri] ごじゅなーな……

[Chloe] わたしの知る範囲では許容範囲のトラブルしかないけどでも……。

[Chloe] 以前みたいに、船のパワーやリソースを着服してるんだったら……

[Tenkyouin] もちろん、多岐にわたって活用させてもらっている。

[Chloe] あ。そうですか。

[Chloe] だったら、この不調と関係が……?

[Tenkyouin] ポーラースターの動力は強力無比だし、都市船として、多様な事態に耐えうるだけの複雑さと柔軟さを持ちあわせている。

[Tenkyouin] あたしの些細な趣味のためにおこぼれに預かるくらいは、雀の涙さ。

[Helena] しっかり停電が起きてたじゃない……

[Anri] ななじゅなな……

[Anri] もう、かんにんしてえ。ユデダコになってまう。

[Helena] すこしぬるいくらいよ?あとちょっとなんだから、頑張りなさい。

[Anri] はあー……

[Helena] いつもの杏里なら、ふやけるまで漬かってるのにね……

[Helena] ところでバルトレッティさん?、あの……そろそろ疲れてこない……?

[Niki] ……(ぷるぷる)

[Helena] よかったら私と交代……

[Niki] ……(ぷるぷるぷる)

[Helena] ちょっとでいいから……

[Niki] ……(ぷるぷるぷるぷる)

[Helena] …………しゅん……

[Anri] ふぇああ……ヘレナぁ……次、幾つからだったっけ……

[Helena] ……じゅ、十五よ。

[Nicolle] 嘘つけ!七十八だろ?

[Helena] ……ごめんなさい。

[Chloe] 子供にはあまり長湯させないほうがいいわよ。

[Narration] ヘレナはすっかりしょげきって、岩の上にのの字を書いている。

[Anri] ……なー、かなえー

[Narration] 肩まで湯に浸かった天京院に杏里が語りかけた。

[Tenkyouin] ……なんだ?

[Anri] ……思い出してん。

[Anri] やっぱりかなえって……お母はんに似とるなあ。

[Narration] 天京院は眉をひそめる。

[Tenkyouin] …………そうか。

[Anri] こないだなーお母はんと銭湯行ったんや。

[Anri] お母はん、いっつも昼過ぎまで寝とるやろ?

[Anri] ボクが学校から戻っても、家におらんか、すぐお仕事に出てまうし。

[Anri] せやなくとも、疲れてるんやな。ろくにご飯も食わへんで、いつもごろごろ寝てはるんよ。

[Chloe] ………

[Helena] …………

[Anri] でもこないだは、ちごうてん。

[Anri] お母はん、なんや偉い人とケンカしよってな。しばらく顔見せんでもよろしいよって座敷の人に言われて───

[Anri] せいせいしとったよ、お母はん。

[Anri] それで、なんでも、杏里の好きなもん買うてくれるいうたんや。

[Anri] でもな、べつにボク、欲しいもんなんてないし。

[Anri] それで、うちは風呂がないやんか?いつも番頭はんとこで、もらい湯させてもろとるから───

[Anri] ほんで、一緒にお風呂入りたい言うたら、そんなんでええのんって笑うて、銭湯連れてってくれたんや。

[Niki] ………(かなりのぼせてきた)

[Nicolle] …………銭湯?

[Anri] そや! 銭湯ってすっごく大きいんや!けばけばしい歌舞伎役者の絵があって、ボクびっくしたわ!

[Nicolle] ああ、公衆浴場。

[Anri] そ。

[Anri] しかも湯船が広くて泳げるんや!で、ほんまに泳いだら、ブルドックみたいな顔したおばはんに叱られてな。

[Tenkyouin] …………おてんばだな。

[Anri] アハハハっでもな、お母はんはもっとすごいんや!

[Anri] 自分もな、ざぶーんって湯船に飛び込んだんや!

[Anri] おばはん、目ぇシロクロさせて、それきり黙ってしもうたわ。

[Anri] それから、髪洗ってくれたんや。自分で洗える言うたんやけど、お母はん、聞かへんで。

[Anri] わしわし、わしわしって……

[Anri] ……おもろかったなー。また行きたいなー。

[Nicolle] ……いい母ちゃんだね。

[Nicolle] あたしの国じゃ、マンマミーヤって言うんだぜ。

[Chloe] ……で、かなえさんとは、どこが似てたのかしら。

[Anri] あ……そや……なんでやろ……あれ……なんでやろな……?

[Nicolle] いつもゴロゴロ寝てるとこじゃないか?

[Tenkyouin] ……お先に失礼させてもらう。

[Narration] 天京院はそう言うと、髪を押さえながら立ち上がった。

[Nicolle] あ、おい、カナエーもうちょっとゆっくりしてけって。

[Narration] しかし、天京院は振り向きもせずにその場を立ち去ってしまった。

[Anri] かなえ……また怒らせてしもたんやろか……

[Chloe] そうは見えなかったけど。天京院さんも、忙しいのよ。

[Nicolle] 恥ずかしかったんだよ。母ちゃんに似てるなんて云われて───

[Anri] …………そうなん?

[Helena] ……バルトレッティさん…………あの、そろそろ……

[Niki] ……………

[Helena] やっぱりね、こういうことは公平に決定すべきと思うの。

[Helena] そ、そう……!ジャンケンで決めるのはどうかしら?

[Helena] いくわよ?じゃーんけーん……

[Niki] ……………………(返事がない)

[Helena] ……バルト……レッティさん?

[Nicolle] ……ニキ? おいニキ!?

[Narration] 長い話の合間に、ニキはいつのまにかくたりと首を折って、のびてしまっている。

[Anri] た、たいへんや……!ニキが死んでもうた!湯けむり殺人事件や!

[Nicolle] 死んでない。殺してない。

[Chloe] 慣れないのに、無理させるからよ。

[Nicolle] ひどいな、ヘレナーなんで早く代わってやんなかったんだよ。

[Helena] わ、私だってっ(ぽちゃん)

[Helena] きゃっ、眼鏡が……

[Narration] クローエは頁の合間にしおりを挟むとやれやれと立ち上がった。

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