User Tools

Site Tools


sapphism_no_gensou:7013

Place translations on the >s

[Narration] ちいさくなった杏里───通称“ちび杏里ちゃん”は、すぐに周囲にうちとけ、船内の人気者となった。

[Narration] ちび杏里ちゃんは船内のとんでもないスケールの光景を見せられるたび、大きな驚嘆の声をあげた。

[Narration] ───その晩、装置の改修に励む天京院の部屋に、マクラをかかえた小さな姿があった。

[Anri] かなえー、入ってもええ?

[Tenkyouin] ……どうした。自分の部屋を使っていいと言ったろ。

[Tenkyouin] 一日中、連れ回されて疲れたんじゃないのか。

[Anri] ううん。

[Narration] ぶんぶんと首をふる。

[Anri] えらい面白かった。せやけど、部屋が広すぎて、眠れへん。

[Tenkyouin] ふぅ、好きにしろ。

[Anri] ありがとうさん。

[Anri] 明日もまた知らんところに連れてってくれるんやて。楽しみやなあ。

[Narration] 室内を珍しそうに見わたす杏里は、天京院が仮眠ベッドにしている長椅子にぽすんと腰かけた。

[Narration] 黙々と作業を続ける天京院に気にせず杏里は語りかける。

[Anri] ここ、大きなお船やと思うてたら、実は学校なんやなあ?びっくりしたわ。

[Tenkyouin] そうか。

[Anri] ほんにええとこや。みんな優しいし、ごはんもおいしいし。

[Anri] デザートのブラ……ブラ……ブラなんとかかんとかいうんも、ほっぺたこぼれ落ちそうやった。

[Anri] かなえも甘いもん好きやろ? な?

[Tenkyouin] 好きじゃないな。コーヒももっぱら砂糖なしだ。それが一番美味しい。

[Anri] あ、そうなんか……ちょっと包んでもろうてきたのやけど……

[Tenkyouin] ……あー、まあ、好きではないが、嫌いと言うわけでもない。

[Tenkyouin] ふふっ……この船の食堂で、残り物を持ち帰ったのはきみが初めてだよ。

[Anri] そうなん?うわぁ、えらい恥ずかしいことしてもうた……

[Anri] かなえとな?一緒に食べようと思ってたんよ。かなえが部屋から出てきいひんから……、

[Tenkyouin] あたしはいいから、放っておけよ。

[Anri] かなえのいけず。

[Tenkyouin] いけずで結構。

[Anri] いつもなに食うてはるの?

[Anri] これ?コーヒーって? これのこと?こんなどす黒いもん、呑んではるの?猛毒とちゃうの? 体黒くならん?

[Tenkyouin] こら、子供が飲むものじゃ───……あーあ。

[Anri] に……っ

[Anri] にが……っ

[Anri] にがぁぁぁ……の……脳天に響くぅ……

[Tenkyouin] 言わんこっちゃない。

[Tenkyouin] きみにはまだミルクがお似合いだよ。

[Narration] 天京院はすこしためらいながらも、結局、杏里用のカップを手渡す。

[Anri] ハァ…………死ぬかと思たぁ……

[Tenkyouin] なんだろうと怖れず手を出すのは昔から変わってないな。

[Tenkyouin] なあ杏里……きみ、心配じゃないのか?

[Anri] なにが?

[Narration] ポットから暖かいミルクを注いでもらった杏里は、きょとんとしている。

[Anri] ごはんもあるし、寝るとこもあるし、お日さんもお月さんもまわっとるし、なんも心配あらへんよ。

[Tenkyouin] いや、そうじゃなくて───

[Anri] しばらくしたら、かなえがちゃんと戻してくれるて、みんな言うてはるし。

[Tenkyouin] ま……無論だ。天才だからな。

[Tenkyouin] (……杏里の意識は、完全に過去へと戻っているようだな)

[Narration] 仲間たちの名前や、信頼感こそ残っているものの、その他の現在の記憶は、かなり薄れてしまっている。

[Narration] 天京院はなんとなく杏里にさぐりを入れてみた。

[Tenkyouin] きみは……京都に住んでいるのか?

[Anri] うん。京都の祇園や。お母はんと二人で住んどる。

[Narration] 父親は……と口にしかけ、天京院は言いよどんだ。

[Narration] 杏里の父親は今も存命中だが、杏里自身、一度しか顔を合わせたことが無い、と聞いていた。

[Narration] ほんとうに母親と二人きりの、つつましい暮らしだったのだろう。

[Narration] 杏里は天京院の隣りにきてちょこんと座り込んだ。

[Tenkyouin] 椅子に寝てていいんだぞ?

[Anri] なんやすっごい目え冴えてもうた。

[Tenkyouin] カフェインの覚醒作用だ。

[Anri] かふぇ……?

[Anri] なあ、かなえのお仕事、見ててもええやろ?邪魔せえへんから。

[Narration] 天京院は肩をすくめ、自分のカップを手にとった。

[Narration] 杏里も真似してミルクに口につける。

[Narration] クーラーが効きすぎているせいか、天京院のレンズが湯気でくもる。

[Narration] さも面倒そうに、白衣の裾でレンズをぬぐう天京院を、杏里はくすくす笑いながら見つめている。

[Anri] …………うん、やっぱり。

[Anri] かなえ……お母はんに似とるなあ。

[Tenkyouin] ぶぅっ

[Tenkyouin] ……なんだって?

[Anri] 髪もまっすぐやし、うんと長いし、肌も瀬戸物みたいに白くてすべすべや。

[Anri] メガネはずしてると、そっくり。

[Tenkyouin] そうか? それは……初耳だな。

[Anri] ボクも、大きゅうなったらお母はんみたいに綺麗になれるかな?

[Tenkyouin] …………うーん。きみの方向性は「綺麗」とはすこし違うような……

[Anri] あははっ、無理やな。木登りして、すぐ落っこちて傷だらけになって叱られとる子は。

[Tenkyouin] おてんばだな。

[Narration] 天京院はにやりと笑いかける。

[Anri] えへ。ザリガニも捕るよー?自転車借りてな、下鴨神社のほうまで河あがってくと、よう捕れるとこあって。

[Tenkyouin] 河遊びなんてしたことない。食べるのか? ザリガニ。

[Anri] 食わへん食わへん。

[Anri] 河原でベタベタしとるアベックの背に入れたりは……するけど。

[Tenkyouin] ふっ、ははは。友達がいっぱいいるんだな。

[Anri] おるよ!

[Anri] 番頭さんやろ、手打ち蕎麦のお兄さんやろ、風鈴屋のおっちゃんやろ、神社の袴のおねえさんやろ、饅頭屋のシロやろ、

[Anri] ええと、そいからな、そいから───

[Tenkyouin] ……それって、大人ばっかりじゃないか?同じ年頃の友達は?

[Anri] あー、うん……

[Anri] ……そーゆー人はおらんなあ。

[Narration] 天京院は不思議そうに杏里を見る。

[Tenkyouin] ……そうなのか?学校の友達がいるだろう。

[Tenkyouin] まあ、あたしはろくに学校なんて行かなかったが。

[Anri] うーん、それがなあ、ボクは全然かまわんのやけど……

[Anri] ホラ、ボク、ちょっと目ぇの色がめずらしいやんか?それが男子はきしょい言うんよ、……ようわかれへんけど。

[Tenkyouin] ……そうか。女子もそうなのか?

[Anri] そんなことないけど。でも、女子と遊んどっても退屈してもうてなあ。

[Tenkyouin] ……ほぉ。

[Narration] すこし沈んだ調子でつぶやきながら、天京院はハッとした。

[Tenkyouin] ……そうか。なるほど。まだ、目覚める前の杏里……!

[Tenkyouin] 待てよ、ということは……

[Tenkyouin] 今のうちに杏里を年下好きから年上好きに矯正してしまえば……

[Tenkyouin] そうか。あながちこの失敗も無駄というわけでは……!

[Tenkyouin] むしろ他の子猫ちゃんどもを排除できて好都合!

[Tenkyouin] まさに塞翁が馬!虎穴に入らずんば杏里を得ず!

[Tenkyouin] いやしかしこれはあくまで杏里の断片的な過去の観測行為に過ぎず、外挿された異物の存在が現在に戻った際の人格上で、深刻な心理衝突を起こすこともありうるわけで

[Tenkyouin] いやしかし待てよ待てよ待てよ─────

[Anri] どないしたん? かなえ。

[Tenkyouin] ……はっ。

[Anri] かなえ、いま悪い人の目ぇになっとったよ。

[Tenkyouin] いや、すまん。ちょっとバカなことを考えた。

[Tenkyouin] ふぅ……ああ、そりゃまあ……木登りにザリガニじゃ、親に何を言われるか。

[Tenkyouin] だったら普段は一人でいることが多いんだな。

[Anri] うん、でも別にええんよ。時々遊びにきてくれる人もおるし。お母はんがおるし。

[Anri] 寂しゅうないよ。

[Tenkyouin] …………

[Anri] でもな、ここにおると、なんやほっこりするなあ。

[Tenkyouin] ほっこりする?

[Anri] うん……ほっと、する。

[Anri] 目の色くらいでとやかく言う人もおらんし。

[Tenkyouin] この船は人種の博覧会みたいなものだからな。

[Narration] 少女はうつらうつらとするまで、天京院の知らなかった杏里を熱心に聞かせてくれた。

[Narration] やがて小さく寝息を立てはじめた少女を、天京院はかかえあげてソファに寝かせた。

[Narration] タオルケットを口元にかきよせる、そのあどけない寝顔は、確かに杏里・アンリエットそのものだった。

[Narration] ───翌日。

[Narration] 大教室の窓際に、ちいさな杏里の姿があった。

[Narration] 日頃、その奇行ぶりにあえて無視されている椅子のあるじが、今ではまた新鮮な好奇の視線を集めていた。

[Narration] 小さくなっても、登録上、杏里が学校の一員であることに代わりはない。

[Narration] 始業前に、天京院の部屋をおとずれたヘレナは、徹夜明けでフラフラの天京院の横で、これまた寝ぼけてぼんやりしている杏里をせきたて、無理矢理出席させた。

[Rachel] ……このマニュエル・ロハスは、後にフィリピン共和国の初代大統領となった人物です。

[Rachel] しかし就任後2年とたたぬうちに、心臓発作でお亡くなりになってしまいました。

[Anri] ……うわぁ……

[Rachel] まさに英雄だったんですね?

[Rachel] その5年前の1942年。

[Rachel] 日本軍はフィリピンに進撃し、このロハスも日本軍の捕虜となっていました。

[Anri] …………うわぁ……

[Anri] どないしよ……難しすぎて、ちいともわからん。

[Anri] ノート書くフリだけでもせなあかんやろか……

[Anri] えっと……書くもの書くもの……

[Anri] これ……かな? なななっ!

[Narration] ガガガガガガガガガガ!!

[Narration] 鉛筆にとりつけられた小型ミキサーがみるみる鉛筆を削りクズの山へと変えてしまう。

[Helena] ───杏里!?

[Anri] な……なくなってもうた……かなえから借ってきた物やったのに。

[Anri] しかもみんなこっち、ちらちら見とるし……恥ずかしぃなあ。

[Narration] 目の前にすっと鉛筆が差しだされる。

[Chloe] ……

[Anri] わあ、おーきに、クローエ!

[Chloe] 授業中は静かに。

[Anri] か、かんにんえ……

[Rachel] ……えっとそれでね?捕虜のロハスの死刑が実行される直前、とある人物と出会います。

[Rachel] それが日本陸軍の、神保信彦中佐です。

[Rachel] 神保中佐は軍の指令に逆らい───

[Anri] わあっ!

[Chloe] 今度はなに?

[Anri] 窓のすぐ外に、でっかいカモメが!

[Narration] クローエはやれやれとため息をつく。

[Chloe] あれはアホウドリ。

[Anri] アホウドリ!?畳くらいあるよ?

[Chloe] ポーラースターには、あちこちに海鳥の巣があるから。

[Chloe] 他にもたくさんいるわよ。

[Anri] へえ〜!すごいなあ。かっこええなあ!

[Anri] あ、向こうにお船が走っとる!帆船や! 初めて見た!おーい! おーい!

[Rachel] あの……えっと……杏里さん……?

[Helena] 杏里! 授業中よ!

[Narration] たまらずヘレナが立ち上がってたしなめた。

[Anri] わ、出た!

[Chloe] 仕方ないわよ、ヘレナ。相手は子供よ。

[Chloe] 元々、子供みたいな人だけど。

[Helena] 子供なら、なおさら真面目に……

[Nicolle] うおーい、ちび杏里!ミニ杏里! 杏里1/2!

[Collone] ウォン!

[Anri] あ、ニコルとコローネ!ちっこいちっこい言わんといてや、……あんま変われへんやん……

[Narration] ファーストクラスの授業を終えたニコルたちが、扉からひょっこりと覗き込んでいる。

[Soyeon] ニ、ニコル……っ!だめだよ、大声出しちゃ……

[Nicolle] なんだよ、迎えに来ようって言ったのソヨンだろー?

[Narration] 憮然とするヘレナの横でクローエは苦笑する。

[Chloe] なんだか、とたんに小学校になったみたいね。

[Helena] だめだったら!

授業が終わるまで───

[Narration] ベルが授業の終わりを告げると、いっせいに生徒たちは立ち上がり、教師に向かって一礼した。

[Narration] 人の合間を縫って、小さな杏里は教室の外へと飛び出した。

[Narration] 待っていたソヨンに、飛びついて手を合わせる。

[Helena] ───杏里ッ! もうっ……

[Narration] ソヨンに軽く頭をこづかれた杏里は、思い出したように教室をふりかえる。

[Anri] せんせ、ほな!またあした!

[Rachel] はい、ごきげんよう……

しくしく……

[Narration] 教壇でうなだれるレイチェルに、ヘレナは深々と頭をさげた。

[Helena] 申し訳ありません、フォックス先生。

[Rachel] あら、ヘレナさん。そんな……いいのよ?

[Chloe] ヘレナが謝ることは別にないんじゃない?でしょ?

[Helena] そ、そうだけど……先生にご迷惑が……

[Rachel] でも杏里さんね、やっぱり。

[Rachel] 好奇心旺盛で、落ち着かないところは子供のころも同じね。

[Chloe] ……意外にすんなりと受け入れられてるようですね。

[Rachel] ここはポーラースターだし。なにしろ、あの杏里さんだもの。もう何があっても。

[Chloe] なるほど。

[Rachel] それに、はぁぁ〜子供の頃からキュートだったのねぇ〜

[Chloe] は?

[Rachel] ううん、何でもないの。

[Rachel] ところで、ずっとこのままなんて事は……?

[Helena] いえ、ご心配なさらないでください。

[Helena] 朝がた、天京院さんにお聞きした話ではあと一晩もあれば、機械を再調整できるとか───

[Chloe] そんなに頑張らなくても。ゆっくりでいいわ。

[Helena] え?あなたが一番迷惑しているかと思っていたのに。

[Chloe] 同じうるさいなら子供のほうが許せるし、御しやすいでしょ。

[Helena] そ、そうね。

[Helena] 素直なのは、私も感動したわ。子供はみんな天使ね。

[Helena] あんな素直に起きてくれた杏里、初めて見たわ。

[Chloe] いつから悪魔に魅入られたのやら……

[Narration] レイチェルは微笑をたたえたまま二人の会話に耳を傾けていた。

[Rachel] ふ〜ん……あと一晩…………そうなの……ふ〜ん……

[Rachel] …………

sapphism_no_gensou/7013.txt · Last modified: 2018/05/22 17:15 (external edit)