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sapphism_no_gensou:3583

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[Anri] ん……。

[Narration] 柔らかく暖かな、朝というにはやや角度のきつい日射しを顔に受けて、杏里はそのまぶしさに声をあげ、手で顔をおおった。

[Narration] 眠りから回復しつつある聴覚に、規則正しく勤勉な足音が届いてくる。

[Anri] ん……。

[Narration] かすかに目を開いた杏里の視界に、メイド姿の少女が映った。

[Eliza] おはようございます、杏里様。

[Anri] イライザ……。

[Narration] 茫洋と返事をする。半身を起こし、周囲を見つめる。乱れたシーツの上、あるはずのぬくもりが失われていることに気づき、杏里の思考が急速に回復する。

[Anri] イライザ!

[Eliza] はい、なんでしょう、杏里様。

[Narration] 洗濯物袋を抱えたまま、イライザは返事をする。

[Anri] アイーシャは!?

[Eliza] ……私がこの部屋に参った時には、杏里様おひとりでしたよ。

[Anri] ……今、何時?

[Eliza] 十一時すぎでございます。ビジターズの皆様も船をお降りになったので、もうすぐにも出航されるはずですよ。

[Anri] ……なんだって!?

[Narration] 杏里はベッドから飛び起きると、一直線に出口へと走り出す。それを、イライザが遮る。

[Anri] どいてくれ、イライザ!

[Eliza] ……少し落ち着いてください、杏里様。そのままの姿で外へ出られるのは、いかがと思いますが。

[Anri] ……あ。

[Narration] イライザは、全裸の杏里に、ナイトテーブルを指し示す。きれいにたたまれた杏里の私服が置いてある。

[Eliza] 失礼かと思いましたが、お召し物をご用意させていただきました。お手伝いいたしますので、まずはあちらを。

[Anri] う、うん……。

[Narration] イライザの手伝いで、一分もかからずにブラウスをひっかけパンツに脚を通すと、杏里はすぐに部屋を飛び出した。

[Narration] 併走するイライザは杏里の襟を直し、ブラウスのボタンをとめ、上着を着せて、寝乱れた髪をブラシで整える。

[Narration] 杏里は全力疾走で通路を駆け抜けると、目指す個室の扉を勢いよく開け放つ。

[Anri] アイーシャ!

[Narration] 杏里の呼んだ名は、無人の部屋の壁と天井に吸い込まれる。

[Anri] ……アイーシャ!

[Helena] ヤンさんは船を降りたわよ。

[Anri] ヘレナ! どうしてさ!

[Helena] どうしてもなにも……、もともとその予定だったでしょう?

[Anri] ……くっ。

[Helena] 待ちなさい! どこに行くつもりなの、杏里!

[Narration] 身を翻した杏里に、ヘレナが声をあげる。

[Anri] 決まってるじゃないか! ボクも船を降りる!

[Helena] 何を言ってるのよ! もう、すぐにでも船は動き始めるのよ!?

[Anri] 岸から離れたら飛び込むまでだ!

[Chloe] そんなことしなくても平気よ。

[Chloe] ポーラースターは今、原因不明のトラブルでエンスト中だから。

[Eliza] お見事です、クローエ様。

[Chloe] ……別に、わたしは何もしてないわ。

[Chloe] ちょっと、部屋にある機能のよくわからないボタンを押しはしたけど。

[Helena] あなたって人は……。

[Chloe] ああ、それから杏里。あなたの退学処分は取り消しになったそうよ。

[Anri] ……は? 何だって?

[Chloe] 本当なら、今日、あなたは退学になるはずだったでしょう? 犯人は見つからなかったんだから。

[Anri] ……あ、そうだったっけ。

[Chloe] それが、今日、下船した人間の中から、自分が犯人であるという申し出が学園長にあったんですって。

[Anri] ……誰が申し出たって?

[Chloe] さあ? そこまでは教職員会議では出なかったわ。ともかく、それを受けて、あなたの退学処分を学園長が取り消したわけ。

[Helena] あなた、また、会議の盗み聞きなんか……。

[Chloe] 聞こえてきただけよ。だから杏里。

[Chloe] あなたが、船をおりなきゃならない理由なんてないはずだけど?

[Helena] ……そうね。杏里、あなた、何を慌てているの?

[Eliza] 喜ばしいですよね、退学が取り消しになったんですから。

[Narration] 三組の視線が、杏里に向かう。

[Anri] ………………。

[Chloe] ……そろそろ船が動きそうね。

[Anri] ごめん、みんな。ボクは船を降りるよ。

[Helena] もう少し迷いなさいよ、あなたって人は!

[Narration] ヘレナは声をあげてから、大きく息をつく。イライザとクローエも、それぞれに。

[Helena] まったく、仕様のない……。いい? 落ち着いたら、それに何か困ったことがあったら、必ず連絡するのよ、いいわね?

[Anri] ウィ。ヘレナと会えなくなるのは寂しいな。お小言も身体も、三日とあけずだったからね。

[Helena] そういうことは言わなくていいのよ!

[Eliza] とりあえず、こちらに身の回りのものだけまとめておきましたよ、杏里様。お部屋に残った荷物の方は、ご実家の方にお届けすることになると思いますが。

[Anri] わかったよ、ありがとう、イライザ。キミがメイクしたベッドはいつもふわふわでとても心地よかったよ。またいつか、キミと一緒に味わいたいな。

[Eliza] ……お戯れを。

[Anri] じゃあね、クローエ。本を読んでても時々はボクのことを思い出してほしいな。

[Chloe] ……無理な相談ね。いいから早く行きなさい。いつまでも船を足止めしておくことなんてできないんだから。

[Anri] そっか。じゃ、後はかなえさんのところにちょっとだけでも顔を出して……。

[Eliza] 天京院様でしたら、ご伝言を預かっております。

[Anri] かなえさんの?

[Eliza] あたしのことは気にしなくていいから、とっとと行きな、とのことです。

[Anri] ……あはは。つれないけど、なんだかとってもかなえさんらしいや。

[Anri] ああ、ニキにもニコルにも、アンシャーリーにも挨拶したかったけど時間がない! 彼女達にもよろしく伝えておいておくれ!

[Anri] それじゃ、みんな、もう行くね! きっとまた必ず会えるから、寂しがらないでおくれ!じゃあね!

[Narration] 杏里はイライザから荷物を受け取ると、軽快に駆けだしていく。通路の角で一度三人を振り返り、大きく手を振ってから、姿を消した。

[Chloe] ……あきれた言い草ね、まったく。

[Eliza] でも、非常に杏里様らしいかと。寝過ごしそうになってしまったところも

[Chloe] あなたも、わざわざ起こしにいかなければよかったのよ。

[Eliza] ……起こしにいったわけではないのですが……。仕事がありましたものですから。

[Chloe] ……ふん、いいわ。さ、こんなとこでウロウロしててもしょうがないわ。行きましょ。

[Eliza] 私も、仕事に戻ります。

[Helena] ………………。

[Chloe] ヘレナ?

[Helena] ………………。

[Chloe] ……今夜あたり、お酒でも飲みましょ、その方がいいわ、ね?

[Eliza] お夜食をお持ちしますね。

[Helena] ……学園内での飲酒は厳禁よ。

[Chloe] 飲んだ方がすっきりと眠れるわ。あなたに一晩中泣かれるなんてかなわないもの。

[Helena] ……眠れそうにないわ。

[Eliza] お薬をお持ちしましょうか? アンシャーリー様からいただいたものが……。

[Helena] それもごめんよ。

[Narration] 汽笛を鳴らしながらゆっくりと浮き桟橋を離れようとする船を、アイーシャは物言わず見送っていた。

[Narration] 結局、また逃げ出してきてしまった。

[Narration] 夜が明けるまで、自分を抱きしめ離そうとしなかった少女の腕の中からも、抜け出してきてしまった。

[Narration] 杏里の言葉は嬉しかった。その腕の中はとても心地よかった。

[Narration] その寝顔を見つめていると、安らぎとともに不安と怖れもわき起こる。

[Narration] キミとともにいる、杏里はそう言ってくれた。しかし、その言葉は真実だろうか。

[Narration] もし、杏里が自分から離れていったら。その悲しみに自分は絶対に耐えられない。その想像を恐れ、そして。杏里の言葉を信じられない自分を嫌悪する。

[Narration] 杏里が寝ついたのを見て、部屋を抜け出した。朝になって、ビジターズとは別に、誰からも見送られることなく、荷物をまとめて船を降りた。

[Narration] 学園長宛の手紙に、自分が犯人であることを告げ、杏里が無実であることを訴えた。

[Narration] ただ、自首し、裁きを受ける決意はできなかった。どこまで自分は中途半端なのだろう。それでも。

[Narration] 安易に消え去ってしまおうという気になれないのは、進歩と言えるのだろうか、それとも、やはりただ勇気が持てないでいるだけなのだろうか。

[Narration] H・B・ポーラースターは徐々に陸から離れていく。このまま、あの船を見送る資格さえも自分にはないだろう。そう思い背を向けようとしたその時。

[Unknown] アイーシャ!

[Narration] 確かに、声が聞こえた。埠頭を蹴る足音が近づいてくる。

[Aisha] ぁ……。

[Narration] アイーシャはその姿を認めて、口元をおさえる。それは、他の誰でもなかった。アイーシャのすべての感情を支配している人間だった。

[Narration] 心の底から求め、そして怖れをかき立てる人間だった。

[Narration] その彼女が、今、自分の名を呼んで、駆け寄ってくる。

[Narration] 自分はどうすればいいのだろう、そう逡巡したのもわずかに、アイーシャは駆け出し、その胸に飛び込んでいっていた。

[Anri] アイーシャ!

[Aisha] 杏里、杏里!

[Narration] 涙で杏里の胸元を濡らしながら、アイーシャは何度もその名を呼んだ。どうあっても、求める心は抑えようのないことを今、知った。

[Aisha] 杏里、杏里……! ごめんなさい、私……!ごめんなさい、ごめんなさい……。

[Narration] 泣きながら何度も何度も謝るアイーシャの頭を、杏里は優しく抱え髪をなでる。

[Narration] その手の中にあるものの、儚さ、脆さを知りながら。

[Narration] ポーラースターはすでに遠く、その巨大な船体ももうすぐ、水平線の彼方に消えようとしている。

[Narration] その去りゆく母校を、杏里とアイーシャは埠頭から眺めていた。

[Anri] ああ、さらば、我らが学舎、H・B・ポーラースター。

[Aisha] 杏里、私ね……。

[Narration] おどけたように船を見送る杏里に、アイーシャが声をかける。杏里は振り返る。

[Aisha] 強くなれたら……、少しづつ強くなれたら、もう一度、自分に向き合えるようになれたら、あの罪を告白しようと思うの、償いたいの。

[Anri] うん……。

[Aisha] それができる日がくるまで……、私のそばにいてくれますか……?

[Narration] 杏里をまっすぐに見つめて、アイーシャは問いかける。

[Narration] この先、何度もつまづき、転びながらも、そのたびに、この少女はちゃんと立ち上がれる。そう、杏里には信じられるまなざしだった。

[Narration] だから誓った。その誓いを糧に、アイーシャと歩いてゆける。それを胸に抱いて。

[Anri] うん、誓うよ。きっと側にいる。

[Narration] やがて、船は小さな点となって水平線に消える。二人の少女は寄り添って、埠頭を去っていった。

sapphism_no_gensou/3583.txt · Last modified: 2018/05/22 17:15 (external edit)