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sapphism_no_gensou:3491

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[Narration] 入り口の扉が開け放たれる音を聞いて、書架用の踏み台に腰をかけて本を開いていたクローエは眉をひそめた。

[Narration] 人気のまったくない図書室に、一人分の足音が響く。しばらくの間をおいて、クローエの予想通りの人物が姿を現した。

[Narration] その杏里は、クローエを見つけると歩み寄り、踏み台のわきに腰をおろした。

[Chloe] ……杏里、うるさいわよ。ここでは静かにしてと言ってるでしょ。

[Anri] ……何を読んでるんだい?

[Narration] クローエの咎めには応えずに、杏里は逆に問いかける。

[Chloe] 主と父の言葉、……聖書よ。

[Anri] ……なんだ。

[Chloe] あら、反抗的ね。

[Anri] ………………。

[Chloe] とにかく、うるさくしてわたしの邪魔をしないでね。ここで、静寂のうちに過ごす時間は、わたしにとって神への祈りにも等しいものなんだから。

[Anri] ……神様なんかいないよ。

[Chloe] ……杏里?

[Narration] 杏里のそのつぶやきは、いつものおどけたものではなかった。それ故に、クローエは聞きとめて、聖書に落としていた視線を杏里へと向ける。

[Anri] いやしないんだよ、きっと、そんなもの。

[Chloe] 杏里、あなた……?

[Narration] 本棚に並ぶ様々な本に背を預けて立つ杏里は、今までクローエが見たことのない表情を浮かべていた。

[Narration] 唇の先端を噛み、わずかに眉根をゆがめて、誰もいないところを見つめている。それは、そこにあるもの見ているのではなく、ただの視点の置き場所でしかない。

[Narration] 明らかに何かにとらわれて、そのために自分を表現する術を失っている。どう言っていいのか、何を訴えていいのか、決められずにいる。

[Narration] それは確かに、奔放で感じたままに言葉を投げかけ、相手の反応を楽しんでは自分の意を押し通す杏里しか知らないクローエにとって、未知の少女だった。

[Anri] 神様なんて、いない。

[Chloe] ………………。

[Narration] クローエは小さく息をついた。その友人のために。

[Chloe] 何を言ってるのよ、杏里。今さら……。

[Chloe] そんな、当たり前のことを。

[Narration] 杏里はゆるやかに視線をクローエへと向けた。漠然としたとまどいを浮かべて。

[Chloe] やっと気づいたのね。神様なんていないのよ、本当は。

[Anri] ……じゃあ、クローエは毎日、何にお祈りしてるのさ。

[Narration] チャペルにこそ足を運ばないものの、毎日聖書を開き祈りを捧げる、敬虔な信者と言われるクローエに尋ねる。

[Chloe] もちろん、我らが主によ。

[Anri] ……だって、いないって言ったじゃないか。

[Chloe] ええ。でも、わたしはいると信じているもの。

[Narration] クローエの言葉は淡々としている。杏里が矛盾としか思えないことを、さも当然のように言ってのける。

[Chloe] わたしがいると信じてるだけのことよ。見たことも、声を聞いたこともないわ。

[Chloe] たくさんの人が、そう思ってるだけなのよ。実際にはどこにもいないのよ、……きっと。

[Anri] 信じられるの、それで。

[Chloe] ええ、信じてないとやってられないわ。なぜ、かくもわたしは不幸なのでしょう、主よ、これもあなたの思し召しですかって。

[Anri] ………………。

[Chloe] それでいいのよ。

[Anri] クローエ……。

[Narration] 自らの信仰の対象をあっさりと否定するクローエを杏里は不思議な気持ちで見つめた。

[Narration] 自らの身を置く静寂を愛し、その中で本を読む。その時間が無法に破られる不幸を嘆き、時にはかかとを振り下ろす。

[Narration] 杏里は、クローエのそれだけしか知らなかった。たったそれだけだったという、心細さに襲われる。

[Narration] それは、アイーシャという、自分が愛情を注ぎ込んだ少女が、途方もない秘密を隠し持っていたという事実に突き当たろうとしている杏里をひどく揺さぶる。

[Narration] この上、また誰が、ボクの知らない子に変わってしまうのだろう。

[Narration] 怖い、ひどく、怖い。

[Chloe] 杏里。

[Narration] 泣きそうな顔をして黙り込む杏里の横顔に、クローエは声をかける。癖のない杏里の黒髪を優しく指で梳く。

[Narration] 胸にまとわりつく逡巡をそのままにして、杏里はクローエへと顔をあげた。

[Chloe] 何があったのか、話してくれていいのよ。

[Anri] ………………。

[Narration] 返事をしない杏里に、クローエは髪を撫でる指を動かしたまま、言葉を続ける。

[Chloe] 聞いてあげるわ。告白なさい。それできっと、何一つ解決してあげられないだろうけど、聞いてあげるわ、あなたの言葉全部を最後まで、我慢して。

[Chloe] そんなに長くならないでしょう?

[Chloe] だから、話して、聞かせて。

[Anri] ……アイーシャっていう女の子がいるんだ。

[Narration] クローエの腰掛ける踏み台の脇に腰をおろしたまま、杏里は話し始めた。クローエは手にした聖書は開いたまま、視線を杏里へとおろす。

[Chloe] ええ。知ってるわ。

[Anri] 可愛い子なんだ。会って間もないころは、ちょっとおどおどしてたけど、一緒にいるうちに、どんどんきれいになっていくんだ。

[Chloe] 聞いてないわ、そんなことは。……続けなさい。

[Anri] その子が、襲われた。

[Anri] 連続レイプ犯の牙が、彼女に襲いかかったんだ。無惨に散らされた。ボクは目の前が真っ暗になった。

[Chloe] それで?

[Anri] なんとしても犯人を捕まえたかった。そのために、いろいろ調べた。でもさ。

[Anri] 手がかりが集まるたびに、どんどん不安が大きくなっていったんだ。何を不安に思っていたのかは、かなえさんが教えてくれた。

[Anri] かなえさんは、アイーシャこそがレイプ犯だって言い切ったんだ。

[Chloe] ……そう。

[Anri] かなえさんがボクをからかっているだけならいいんだけど……。

[Anri] でも、かなえさんの言うことは、直感的に正しいと信じられるんだ。

[Chloe] ……杏里がそう言うなら、そうなんでしょうね。

[Anri] ……でも、信じられないよ。かなえさんの言うことが、じゃなくて、アイーシャが犯人だということが……。

[Chloe] ……ふぅん、そう、ね……。

[Narration] 話を終えた杏里は、あごに指をあてて、考え込む仕草をするクローエを見上げる。クローエはその視線に気づいて、言った。

[Chloe] やっぱり、わたしにはどうもできないわね。

[Anri] あ……。

[Narration] 杏里は脱力して頭を垂れる。

[Chloe] 最初に断ったでしょ。何一つ解決してあげられないって。それにしても……、嫌な感じね。

[Anri] え?

[Chloe] あの子よ、アイーシャ。ああいう子が処女じゃないなんて、変な理由がありそうで嫌だわ。

[Anri] ……そうだね。ボクもキミからそのことを聞いて驚いたよ。

[Chloe] ……あんなもの、たいしたものじゃないけどね。

[Anri] ん、何が?

[Chloe] 処女膜よ。ただの物質に、純潔の証なんていう意味を付託するなんて、ばかげてるわ。

[Anri] ずいぶん、マテリアルな意見だね。

[Chloe] だって、あんなもの、あろうがなかろうが全然変わらないもの。

[Anri] ふぅん……ん?

[Narration] クローエの言葉の意味を噛み砕いてから、杏里は奇妙な違和感に気がつく。

[Anri] え? あれ、て、クローエ、もしかして……。

[Chloe] 杏里……、あなたいったい、何度わたしを抱いているのよ……。

[Anri] えええ!? も、もしかして……、ボクの指がやってしまった……?

[Chloe] バカね、そんなわけないじゃない。あなたに会う前よ。ここに入る前。

[Chloe] 杏里、私ね、好きな人がいたの。

[Anri] は?

[Narration] クローエの言葉が唐突な話題の転換に思えて、杏里は面食らう。

[Chloe] 今はもう、どこにいるかわからないんだけど、いつもそばにいてくれたわ。頭がよくて、優しくて。

[Chloe] それはたぶん、憧憬ではあったけど、確かに私は愛してたわ。

[Anri] クローエ……。それは……、男の人?

[Chloe] ええ。

[Chloe] その人もね、わたしをかわいがってくれたわ。まだ、幼くさえあった私を、ね。つまり、純粋な思慕の交換というとこかしら。

[Anri] ……難しいよ、クローエの言葉。

[Chloe] ……でもね、ある日、ふとしたはずみで崩れてしまったのよ。彼はわたしに、強引に身体を求めてきたの。

[Chloe] 怖かったわ。本気で抵抗した。それでも、やめてもらえなかった。

[Chloe] 確かに、わたしは彼を愛していたわ。でも、その時の彼の行為は、私の身体を犯す以外のなにものでもなかったわ。

[Chloe] 処女を奪われたのよ。呆然と、為す術もなく。

[Anri] ひどいな……。許せないよ、そいつが。

[Narration] 眉をしかめる杏里を見て、クローエはわずかに笑う。

[Chloe] ……そんなことないわ。だって、わたしは何一つ失っていなかったのよ。

[Anri] え……?

[Chloe] 激しく傷つけられても、今なお、彼を愛してるわ。少しづつ、おぼろげで不鮮明になっていくけれど。

[Chloe] 変わらないでいることはできないけど、なくさずにいられたわ。

[Chloe] だから、気づくわよ、誰だって。なくしたり奪われたりするのは、身体じゃなくて、心だって。

[Anri] ………………。

[Narration] 考える。クローエがその結論を出すまで、どれほど泣いたのだろう、苦しんだのだろう。

[Narration] 今、彼女が語った口調のような、淡々とした課程ではなかったはずだ。杏里の心の中に苛立ちが芽生える。

[Narration] クローエの変化の場にいられなかっただろうか。いれたのなら、何ができただろうか。

[Narration] 杏里はクローエの横顔を見上げる。その杏里に、クローエは視線を向けた。

[Chloe] ねぇ、杏里。

[Chloe] 今、わたしを抱ける?

[Narration] いつものように、どこか物憂げなままの目で杏里を見つめたまま、クローエは尋ねる。

[Chloe] 杏里に抱いてほしいのよ、今すごく。

[Narration] 言葉のままに、クローエは杏里を求めていた。たった今、自分の過去を告げた口から、求めの言葉を発していた。

[Narration] 確信できる、クローエは杏里だけを求めていた。しかし、杏里に求められていたのは、クローエを抱くことだけじゃない。そんなふうに思えた。

[Narration] それが、独りよがりな結論なのかもしれないけれど、杏里は、自分の中でそう決めた。

[Narration] 返事をしない杏里に、クローエが声をかける。わずかの焦りも苛立ちもなく。

[Chloe] ねぇ、杏里?

[Anri] ……いいよ。

[Anri] いいよ、クローエ。キミを今、抱きたいよ、ものすごく。でも……。

[Chloe] なあに?

[Anri] 少し、乱暴になってしまうかもしれない。

[Narration] その言葉に、クローエは微かに笑った。

[Chloe] なにそれ、嫉妬?

[Anri] ううん、違うと思う。ただ、もしかすると急いでしまいそうなんだ、クローエを愛することに。

[Chloe] ふふ……、急ぐ必要なんてないわ。ゆっくりでいいのよ。私は、別に。

sapphism_no_gensou/3491.txt · Last modified: 2018/05/22 17:15 (external edit)