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sapphism_no_gensou:3441

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[Narration] 一夜が明け、朝の光が射し込んできている。

[Narration] 大きくとられた窓からの陽射しは、室内の照明を無用のものとしている。

[Narration] 日中を活動時間、夜を睡眠時間とするものにとっては、今日一日のすべてがよいものであると確信したくなるような陽光だった。

[Narration] しかし、この部屋の主は、その確信を微塵も抱いていないようだった。

[Narration] ベッドの上にある毛布の塊が、モゾモゾと動き出したかと思うと、それは塊のまま床に落ち、そのままバスルームへと這って消えていく。

[Narration] しばらく響いていた水音がやむ。そして、バスルームの入り口から、杏里が現れた。

[Anri] ………………。

[Narration] 部屋の中にあふれる陽光に、目を細める。口元をわずかに歪めたまま、窓際まで歩む。空を見上げると、よく暖かな陽射しを含んだよく晴れた空が広がっている。

[Anri] ……なんだって言うんだ。

[Anri] こんなによく晴れて……、全然、面白くないよ……!

[Narration] 杏里の心は、怒りと悔恨によって等分されていた。そんな心境では、とてもこの休日の好天を喜ぶ気にはなれない。なにより、自分の心が晴れていないのだから。

[Anri] アイーシャ……。

[Narration] その少女の名前と一緒に、昨夜の記憶がよみがえる。

[Narration] 部屋の中で、力無く横たわっていた少女。無惨な陵辱の痕を残したまま。

[Anri] ……!

[Narration] 自分の手を強く握りしめる。どこかに拳を叩きつけたくなる。

[Anri] (とんだ愚か者だ、このボクは! 何が彼女を守る、だ! 真犯人を見つける、だ!)

[Narration] 昨夜、アイーシャの部屋の前に戻った杏里を、PSは有無を言わさずに拘束しようとした。

[Narration] その場にヘレナとイライザがいなかったら、自分の部屋に帰ることもできずに取り調べを受けていただろう。

[Narration] 今回に限っては、ヘレナとクローエの証言によって、杏里のアリバイは確実だった。

[Anri] (だけど、それが何だって言うんだ!)

[Narration] アイーシャは、クローエに付き添われて医務室へ向かったはずだ。杏里としてはすぐにでも駆けつけたかったが、ヘレナに止められた。

[Narration] その直後、アリバイが確かであってもなお、杏里を敵視するPSとのやりとりもあって、時間を無駄にし、結局、自室に戻るしかなかった。

[Narration] 時間も時間なので、寝るしかなかった。風呂に入る気力も奪われていた。ベッドに潜り込み、寝つけないと文句を言いながら、眠りについた。

[Narration] そして朝、起き出したところで、なんら気分に変化はなかった。

[Anri] (今日は、デートのはずだったのに……)

[Narration] ほんの数日前にした約束だった。

[Anri] (楽しみにしてたんだけどな……。さすがに無理かな……)

[Anri] (い、いや! こういう時こそ、元気づけてあげなきゃ!)

[Narration] そんなことができる自信など、さらさらなかったが。

[Narration] それでも杏里は電話の前まで歩き、受話器をあげて、アイーシャの番号を呼び出した。

[Narration] 耳にあてた受話器から呼び出しの電子音が繰り返される。しかし、その音が途切れ、杏里が今、他の誰よりも聞きたい声が出ることはなかった。

[Anri] ……出ないや。

[Narration] 唇を噛んで、受話器を置く。舌打ちしたくなるのをこらえる。そしてまた、番号を押す。受話器からは呼び出し音が続くばかりだった。

[Narration] 三度、同じことを繰り返してから、杏里は受話器を置いた。深く、大きなため息が出る。

[Narration] アイーシャが電話に出ないのは、きっと理由があるのだろう。まさか、自分が嫌われたとは考えられないが。

[Narration] 無駄な思考と自己嫌悪をブレンドした倦怠感を体にまとわりつかせながら、杏里はベッドの上に身を投げ出した。

[Anri] 今日は……、どうしよっかな……。

[Narration] そう杏里がつぶやいた時だった。

[Narration] 鳴り響いたベルに、杏里は気怠げな視線を投げた。誰かの誘いにのって、どこかに遊びにいく気はない。

[Narration] そして、今日、スケジュール表に書き込んであった少女には、会うことはかなわないだろう。

[Narration] もしかしたら、このまま、二度と。

[Anri] ……そんなの、いやだ。

[Narration] そうは言っても、杏里には為す術はなかった。杏里には、その少女を救う力がなかったのだから。

[Narration] 変わらず電話のベルは鳴り続けている。

[Anri] 誰だろう……?

[Narration] ひどく気乗りのしないまま、杏里は電話へと歩み寄り、受話器をあげた。

[Anri] アロゥ?

[Unknown] ………………。

[Narration] 沈黙が帰ってきた。誰かが受話器の向こうにいることは、かすかに伝わる息づかいでわかる。

[Anri] どなた?

[Unknown] ………………。

[Narration] やはり、返事はない。杏里は大きなため息をついた。

[Anri] (どうしてこう、気の滅入ることばかりなんだろう。こういうくだらないことをする手合いを逆にからかい倒す気力もないっていう時に)

[Anri] 誰だか知らないけど、切らせてもらうよ。悪いけど、こういうイタズラに今日は付き合うつもりはさらさら……。

[Unknown] …………杏里…………。

[Narration] かすかな声だった。消え入りそうな声。そして、泣き出しそうな声だった。

[Narration] 杏里には、声の持ち主が、この電話の向こうにいる人間がすぐにわかった。だからその名を叫んだ。

[Anri] アイーシャ!

[Aisha] 杏里……。

[Anri] アイーシャ! どこにいるんだい? どこからかけているんだい!?

[Anri] もしかして、部屋にいるのかい? さっき電話したんだよ! あ、その時はちょっとはずしていたんだね、そうだろ?

[Aisha] ……違う。

[Anri] ……もしかして、電話に出たくなかったのかい?……だとしても、悪いなんて思わなくていいんだよ。そりゃ、ちょっとボクは残念だったけど、今、こうして……。

[Aisha] ……違うの、部屋からじゃないの。

[Anri] ……じゃあ、医務室かい? そうだよね、夕べはそっちに泊まったとしても不思議じゃない。ああ、ボクはなんて早とちりなんだ!

[Aisha] 杏里……、今は医務室じゃないの……。

[Anri] そうなんだ。……あ、だめだよ! 抜けだしたりなんかしちゃ! ちゃんと体を休めなきゃ!

[Anri] さあ、電話を終えたら、ベッドに戻りなよ。そうだ! 午後になったらお見舞いに……、あ、遊びにいくよ!

[Anri] ちょっと訳あり謹慎中の身だから、医務室には近寄りがたいんだけどね。なぁに、うまく忍び込んでみせるよ!

[Aisha] ……杏里……。

[Anri] なんだい!?

[Narration] あまりにもか細い受話器越しのアイーシャの声が、このまま消え入ってしまいそうに思えて、杏里は即座に、大きな声で答えた。

[Aisha] 杏里……。

[Aisha] ……会いたい……。

[Anri] 会えるよ。会いに行く。キミがいるとこにすぐ飛んでゆくよ。

[Aisha] ……でも、でも……。

[Aisha] 私、あなたに会えない、……会えない。

[Anri] そんなことはないよ!

[Narration] はっきりと、彼女の嗚咽が聞こえた。泣いている。その声は涙をおびているから、か細く不鮮明なんだ。杏里はそう悟った。だから強く呼びかけた。

[Anri] さあ、キミのいるとこを教えて。すぐに行く。決して待たせたりしないから!

[Aisha] ……杏里、私……。

[Anri] 心細い思いはさせないから、もう……!そばに行く、すぐにだ!

[Aisha] ……ごめんなさい……。

[Anri] 謝らなくていいよ!どこにいるんだ、アイーシャ! 答えて!

[Narration] 無情にも電話は切れ、電子音が受話器から響く。

[Anri] ああ、ちくしょう!

[Narration] 電話という便利を象徴するような文明の利器は無情にも杏里からアイーシャを奪った。

[Narration] 昨夜から続けての、この二度目の喪失感。杏里にそれは耐えられないものだった。

[Narration] まっすぐにドアへと突き進む。勢いよく開け放ち、通路へと飛び出す。ドアが閉まるのに続き、杏里の短い間隔で鳴る靴音が、響いていった。

[Narration] 通路を走りながら、杏里は必死に頭を働かせる。タームごとの考査の時とは比べものにならないほどに。

[Anri] (アイーシャは泣いていた! ああ、それだけで頭がいっぱいになりそうだ!)

[Anri] (そうだ、だから会いたいんだ。今、泣いているアイーシャに会わなければ、きっと、一生後悔する。ちがいない!)

[Anri] (さあ、考えろ、杏里・アンリエット!アイーシャはどこにいる?どこで泣いている? ボクはどうしたら彼女のいる場所をつかめるんだ?)

[Anri] (かなえさんに尋ねてみようか? 推理してもらおうか? なんか、ふざけるなって言われそうな気がする!)

[Anri] (……たまには自分で考えるんだ! 彼女のいそうな場所はどこだ? どこに……)

[Aisha] ……よく、ここには来るんです。樹やお花の世話も手伝わせてもらったり……。

[Aisha] 私……、お友達が、少ないから……、ここなら、一人でいても寂しくないですし……。

[Anri] あそこだ……!

[Anri] 待ってて、アイーシャ!ボクがすぐに行くから!

[Anri] はぁ、はぁ……!

[Narration] 全力疾走に息を切らせながらも、杏里は温室の前へとたどり着く。ためらうことなくドアを開け放つ。

[Anri] アイーシャ……!

[Narration] さすがに、息が切れて大声は出ない。そのまま、中へ分け入り、目指す少女の姿を捜し求める。

[Anri] アイーシャ、アイーシャ……!

[Anri] どこにいるんだい、アイーシャ……!

[Narration] 右に左に視線を飛ばしながら、遊歩道を駆け抜ける。温室は、日本の半端な公園以上の広さを持つ。そこを、アイーシャを見つけたい一心で駆け巡る。

[Narration] 遊歩道をおおかた一周した後は、いよいよ密林とも言える植物の中へと踏み入っていく。

[Narration] 足で踏んだ落ちた枝が音を立てる。汗がこめかみから頬、あごへとつたう。

[Narration] 辺りをよく見渡そうと足を止めるたび、速く大きくなっている自分の鼓動を自覚し、たまらない焦燥感に襲われる。奮って脚を動かす。

[Narration] それでも、自分はアイーシャを見つけることができないでいる。もしかして、ここにはいないのかもしれない。見当違いだったのかもしれない。

[Narration] そんな疑念が頭をかすめた時、杏里はようやく、少女の姿を探し当てることができた。

[Anri] あ、アイーシャ……。

[Narration] 声をあげ、飛びつこうとした杏里の行動は未発に終わった。

[Narration] アイーシャは温室の木立の中に立っていた。葉の隙間からこぼれ落ちてくる、折りしもの快晴がつくる木漏れ日を浴びながら。

[Narration] あわく緑をまとったその姿は見とれるほど美しいはずだった。

[Narration] しかし、杏里の言葉を途切れさせたのは、それではなかった。

[Anri] アイーシャ……。

[Narration] 届かないつぶやきで名を呼ぶ。

[Narration] 杏里のよく知っている少女がそこに立っていた。うつむいたその顔は、杏里と知り合ったばかりのころのアイーシャだった。

[Narration] 杏里は唇を噛む。誰が、彼女を戻してしまったのだろう。変わろうとしていたアイーシャを、誰が奪ったのだろう。一体誰が。

[Narration] ふつふつと、まだ突き止め得ぬ犯人に対する怒りが、杏里の心の底から湧いてくる。

[Narration] 同時に、その凶行を防げなかった、アイーシャを守れなかった自分自身に対する怒りも。

[Narration] かなうものなら、時計の針を戻して、もう一度チャンスを与えてくれと言いたい。しかし、それはかなわぬことだ。

[Narration] ならば、杏里のすることは一つだ。

[Narration] 今、目の前にいる傷ついた少女を、世界でもっとも愛する者になることだ。

[Narration] 彼女から奪われたものすべてを補って埋め尽くす。

[Narration] 今この場で、彼女こそがもっとも美しく、かけがえのない者であるということを、杏里自身の命をもって証だて、誓う。

[Narration] そうしなければならない。そうしなければ、アイーシャはすぐさま、この世界から消え去ってしまうだろう。救えるのは杏里・アンリエット、自分だけなのだ。

[Narration] それは、傲慢な思い上がりであったとしても、揺るぎない杏里の決意であることは確かだった。

[Anri] アイーシャ……。

[Narration] 杏里の言葉に、アイーシャは顔をあげる。その瞳が杏里の姿を認めて見開かれる。そして、涙に濡れていく。

[Aisha] 杏里……

[Narration] そう名前を呼んでから、アイーシャは口元を両手で押さえる。喉から漏れたかすかな嗚咽が、指の隙間からこぼれる。

[Aisha] 来て……、来てくれたのね……。

[Anri] 当たり前だよ。言っただろ。すぐに行くって。

[Aisha] うん、うん……。嬉しい……。でも……。

[Anri] アイーシャ……。

[Narration] 名前を呼んで、杏里はアイーシャに向かって歩みだす。

[Aisha] 私、私……、もう……。

[Aisha] 私は、私は……。

[Narration] 何かを告げようと、必死に言葉を紡ぎだそうとするアイーシャに、杏里は一歩づつしっかりと近づいていく。

[Narration] 杏里には、すでに決意があった。杏里を支配するそれが、アイーシャに言葉を続けさせるのを認めなかった。今、彼女に否定の言葉を言わせてはいけない。

[Aisha] 杏里……。

[Narration] 手を伸ばし、アイーシャの腕をつかむ。強く引き寄せ、抱きしめる。身じろぎも許さぬほどに。そして、名を呼んだ。

[Anri] アイーシャ……!

[Aisha] 杏里……、杏里、杏里……! う……、う、うああああっ……!

[Narration] その腕の中で、アイーシャが声をあげて泣いた。

sapphism_no_gensou/3441.txt · Last modified: 2013/06/01 22:49 (external edit)