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sapphism_no_gensou:3271

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[Narration] 高級ブランドショップが共倒れを恐れもせずに軒を並べる購買部通り。

[Narration] 海もよく見え、天気が穏やかなら吹く風も心地よいこの通りを杏里が歩いていると、その袖をクイクイと引っ張るものがいた。

[Anri] ……やあ、ニキ。

[Narration] 杏里が振り返ると、そこには、小さな背をさらに丸めながら、おずおずと杏里の袖を握っているニキ・バルトレッティが立っていた。

[Anri] 今日はここまでお出かけかい?

[Niki] ……。

[Narration] 杏里の言葉に、ニキは小さくうなずく。

[Narration] ほとんどの学生は授業が入っている時間帯。この購買部通りも、昼食とティータイムの間に挟まれ、人影もほとんどない。

[Narration] 当然、ニキにもファーストクラスの必須授業が入っているはずだ。しかし、だからこそ、ニキもここまで一人で歩いてこれたのだろう。

[Narration] 他人と同じ場所にいることを極端に怖れるニキにとって、思い切った冒険だと言える。

[Narration] その果てに、彼女にとって地球上の誰よりも近しい人を見つけてすり寄ってきたニキを、杏里は優しい眼差しで見つめた。

[Anri] 少しでも、外を歩いてみるのはいいことだよね、ニキ。特にこんな天気のいい日はね。

[Narration] 杏里の声を、ニキは視線を伏せながら、黙って聞いている。しかし、杏里には、自分の言葉がニキに届いていることを確信できる。

[Anri] さ、勇気を出した姫君に、このボクからお茶とケーキをごちそうさせておくれ。あそこの、少し下がったところにあるカフェならきっと、落ち着いてお茶を楽しめるよ。

[Niki] ……。

[Narration] ニキが小さくうなずくのを見て、杏里はその手をひいたまま、ゆっくりと歩き出した。

[Anri] ニキ、今日の冒険の目的はなんだったんだい? 食事? 買い物? それとも……、授業に出ようとしたのかな?

[Narration] 両手でベイクドチーズケーキを持って口に運んでいるニキを眺めながら、杏里は尋ねた。

[Niki] ……。

[Narration] ふるふるとニキの頭が左右に振られる。

[Anri] じゃあ、図書室で読書かな?

[Niki] ……。

[Anri] ……ちがうって? ……んー、まあそうだね、目的のない散歩もいいもんだ。実際、ボクもそんなとこだったし。

[Niki] ………………!

[Anri] え、うわ、うわ!

[Narration] ニキが突然、手を振り回して、杏里になにかを伝えようとする。そのために手に持っていたチーズケーキの欠片があたりに飛び散る。

[Anri] ニキ、ニキ、とりあえず、チーズケーキをお皿に戻して、ね! ……うん、いい子だ。

[Niki] ………………。

[Narration] ケーキを戻した後、再びニキはジェスチャーを始める。

[Anri] うん、なに……? ボク? と……、はなしが、したかった……? へえ、それは光栄だ。ボクもニキと話がしたかったよ。いつだってね。

[Niki] ………………。

[Anri] ……えっと、服が濡れたら干さなくていい……? 低気圧に突入する予定は聞いてないよ? え、ちがう?

[Niki] ………………!

[Anri] ボクが……? 犯人でなくてよくなった……? 疑問形……? あ、ああ!

[Narration] ニキのジェスチャーを解したように思えて、杏里は手を打った。

[Anri] ボクが疑われていることを心配してくれたんだね?

[Niki] ……!

[Narration] ニキは大きく首を縦に振って答える。

[Anri] ありがとう。ニキの気持ちは嬉しいよ。……まあ、ボクへの疑いは消えてないんだけどね。

[Narration] ニキの動きが止まり、不安げな視線を向ける。

[Anri] あ、ああ、心配することないよ、ニキ。このまま退学、ニキとお別れなんて絶対にごめんだからね。

[Niki] ……!

[Narration] 退学という言葉にニキの体が震える。そして、猛然とジェスチャーで杏里に語りかける。

[Anri] ああ、ああ、わかってるよ、ニキ。ボクは退学なんてしない。きっと真犯人を見つけて、またニキのそばにいてあげるよ。

[Anri] ええと、あのね、もうちょっとゆっくり……。うんうん、いや、ボクもまだ会ったことないから誰だかはわからないんだけどね。

[Anri] あ、ごめん、今のもう一回……、あ、いや、別に今、こうやってお茶を飲んでる暇くらいはあるんじゃないかな? 真犯人もこういう時間の邪魔はしないだろうし……。

[Anri] ええと……。いや、痛いところもかゆいところもないよ? ちがう? ううん、砂糖は一つでよくて、今日の夕飯は8時頃に食べようかな? 蕎麦? いやどうだか。

[Anri] ああ、ニキ? あのね……、あの……。……ふぅ……。

[Narration] 杏里は必死にニキのジェスチャーを読み解こうとする。しかし、ニキの手、体の動きは止まらず、杏里はその全部の意味を理解することをため息とともにあきらめた。

[Anri] (しかし、実際のところ……)

[Narration] ニキのジェスチャーに適当に相づちをうちながら、杏里は頭の中で、これまでのことを思い返していた。

[Anri] かなえさんには、犯人のある程度の絞り込みができてるみたいだったな。ただ、それをボクに教えると、情報に振り回されるって言いたかったんだ。

[Anri] まあ、否定はしないけどさ。

[Anri] しかし、ボクにはさっぱり、欠片も真犯人の正体が浮かんでこないや。捜査がうまく進んでいるのかもよくわからないし。

[Anri] 不安だな……。こんなんでみんなをまもれるのかな……? 現に、ソヨンをまもることはできなかったんだ……。

[Anri] ……イライザが言ってたな。犯人は学生がほとんど知らない、職員通路か教員通路を使っただろうって。

[Anri] ボクも、船内の通路はよく把握してるつもりだったけど、こないだイライザに教わったやつまでは知らなかった。まったく、この船はむやみに奥が深いったら。

[Anri] しかし、そんな通路を利用されたんじゃ、真犯人から子猫ちゃん達やアイーシャをまもるのは至難のわざだぞ。……あれ? ニキ? どうしたの?

[Narration] 杏里は、自分をじっと見つめているニキに気づいた。杏里と目があうと、ニキはパタパタとジェスチャーを始める。

[Anri] え……? 通路を調べる……ってニキ、なにを……?

[Narration] 杏里は、途中から自分が、小声で考えていることを言葉にしていたことに気づいていない。

[Anri] ボクのために頑張るって……。そっか、ありがとう、嬉しいよ、ニキがそう言ってくれるのがね。でも、くれぐれも、危ないことをしちゃダメだよ。

[Narration] 杏里の言葉に、ニキは何度もうなずく。

[Unknown] 杏里、おめでとう。そっと後ろを振り向いてご覧なさい。祝福をくれるあなたの守護霊がきっと見えるはずよ。

[Anri] ……その声と言葉はアンシャーリーだね。

[Narration] 背後からかけられた声に、杏里は振り返る。

[Anri] あれ? いない。

[Narration] 杏里が再びテーブルに向き直ると、いつの間にかアンシャーリー・バンクロフトがティーカップを片手に、テーブルについていた。

[Narration] 不意に現れたアンシャーリーにニキが警戒と怯えを顔に浮かべている。

[Anri] やあ、こっちか、アンシャーリー。

[Anne Shirley] こんにちわ、杏里。人の前でキョロキョロするのは行儀が悪くってよ。

[Anri] ……以後、気をつけるよ。ところでアンシャーリー、授業の方はいいのかい?

[Narration] 何事もないようにお茶を飲んでいる杏里とニキだが、大半の学生にとっては今が授業中であることには変わりない。

[Anne Shirley] 心配ご無用よ。ちゃんとあたしのかわりにボゲードンが聞いていてくれるから。

[Anne Shirley] なんでしたらここでボゲードンの聞いている授業を再現しましょうか? どれにする?ファシアの中亜情勢? ロレッタのインド哲学?レイチェルの環太平洋史?

[Anne Shirley] ボゲードンは24チャンネルまでいけるわよ。ちなみに、今夜のソフィアの授業はお休み。星の巡りが悪いそうよ。

[Anri] それは残念だね。ソフィア先生の授業は大好きなんだけどな。それにあそこなら謹慎中に潜り込んでも怒られずにすみそうだ。

[Anne Shirley] どうだか。それより杏里、あたしもあなたに協力してあげる。今週はとても効きがいいのよ。

[Anri] ……なんの?

[Anne Shirley] おくすりの。おかげで、どんなことだってわかる気がするわ。杏里、あなたに必要な17の情報と不必要な26の情報を与えることを約束するわ。

[Anri] 不必要な方は別にいいんだけど。

[Anne Shirley] そう言わないで。では早速、調査に入りましょう。行くわよ、ボゲードン。では、杏里、あたしが呼んだらすぐ来てね。

[Narration] アンシャーリーはそう言って一方的に会話を打ち切ると、立ち上がって振り返りもせずにカフェを後にした。

[Anri] ……ふぅ、相変わらずだな、アンシャーリーも。

[Narration] そうは言っても、杏里にはアンシャーリーに対する不快感は微塵も生まれない。

[Narration] どんな薬の影響か、言動がとかく整合性に欠けると言われるアンシャーリーの不思議さも、杏里にとっては確かな彼女の魅力だった。

[Narration] 杏里がアンシャーリーの去った方向を見つめていると、かた肘をついたその手の裾をニキがつまんだ。

[Niki] あ……んり……。

[Anri] ああ、ごめんよ、ニキ。キミのことを忘れてたわけじゃないよ。

[Narration] 杏里はそう言って笑いかけると、ニキの頬に手を差しのべ、そのまま髪を指で梳く。ニキはほっとした表情でそれを受け入れた。

[Narration] やがて、ニキは胸の前で手を動かし、短い別れの挨拶を杏里に送る。

[Anri] 大丈夫? 一人で帰れる? 部屋まで送ろうか?

[Niki] へ……いき……。かえ……れる……。

[Narration] たどたどしくもそう告げると、ニキは立ち上がって杏里のいるテーブルを後にした。

[Narration] 時折、ニキが振り返るたびに、杏里は笑って手を振る。それを見たニキも、ほほえみを返して、また進んでいく。

[Narration] やがて、ニキの姿が完全に杏里の視界から消えた後、杏里は一人、つぶやいた。

[Anri] さ、ボクも頑張らなきゃな。でないと、あの二人に笑われちゃうもの。

sapphism_no_gensou/3271.txt · Last modified: 2013/06/01 22:49 (external edit)