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sapphism_no_gensou:2811

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[Narration] バスルームへと続いているドアが開いた。

[Narration] 二日ぶりのシャワーを終えた部屋の主が現れる。ゆっくりと部屋を横断していく。

[Narration] 控えめな表現で乱雑に散らかった室内を苦ともせずに、比較的スペースの空いているカウチに向かって歩いていく。

[Narration] どうやら、久しぶりに睡眠がとれそうだ……。そんなことを思いながら、カウチに片膝をかける。

[Narration] 上体をかがませると、長くのびた髪が、床に、カウチに落ちた。

[Narration] 厭うまい。その本来の目的通り、いつでも寝られるように、人一人分のスペースだけあけてあるカウチにぴったりとはまってしまえば、今なら5分とたたずに眠れるだろう。

[Narration] そう思って、身を投げ出そうとした瞬間、天京院鼎の動きがピタリと止まった。

[Tenkyouin] ……来たかな……?

[Narration] 頭を上げ、ドアの方を見やってつぶやく。

[Narration] 数秒のうちに、予感を確信に変えて、天京院はテーブルの上からリモコンを掘り出した。

[Narration] 細い手がスイッチを押すと、カラカラとミキサーがまわって、赤外線が発振される。かすかな音とともに、入り口のオートロックが外される。

[Narration] 天京院の予感の正体は、リモコンについたミキサーの音が消える前に、いつもと変わらず、ノックも無しにドアを開けて現れた。

[Anri] やっほー、かなえさん! ご機嫌はいかが?

[Tenkyouin] ……最悪だよ。あたしの睡眠を邪魔したくなかったら、すぐに帰ってくれ。

[Anri] あらら、つれないな。そっか、おやすみ前だったんだ。

[Tenkyouin] たった今、邪魔されたけどね。

[Narration] せいぜい大きく、せめてはっきりと聞こえるように、ため息をついて、天京院は部屋にしつらえられた、コーヒー専用のカウンターに向かっていく。

[Anri] まぁまぁ、夜はこれからだよ、かなえさん。

[Tenkyouin] それはきみの夜だ。あたしのじゃないんだけどね。

[Narration] 破砕音を立ててミキサーがまわり、二つのカップにコーヒーが落ちていく。

[Tenkyouin] ほら、飲みな。

[Anri] ………………。

[Tenkyouin] 杏里? どうした?

[Anri] ワォ! セクシーだね、かなえさん!

[Tenkyouin] セクシー……?

[Narration] 杏里の視線が向けられている先を目で追って、天京院は自分の今の格好を見下ろす。

[Narration] 白衣を引っかけているのはいつもと変わりない。その下も……。

[Narration] 風呂上がりで、そのまま寝てしまおうと考えていたさっきまでの自分なら……、当たり前の格好だ。

[Narration] つまり……、天京院は白衣の下は、下着しかつけてなかった。

[Tenkyouin] ああ……。

[Anri] 白衣のおかげで気づかなかったよ!初めて見る女の子みたいだ! トレビアン!

[Anri] まったく、去年までいた先輩達やかなえさんのクラスメートは何を考えてるんだろうね!こんな美少女をほったらかしにしてたなんて!

[Tenkyouin] ……何を言ってるんだ、きみは……。まったく、自分の尺度だけでものを考えるんじゃない。

[Anri] お肌もつるつるだし、しっとりとした髪は、いつもとちがう艶が出ていてとてもきれいだ! プロポーションだって言うことなし!

[Tenkyouin] そろそろ黙ってくれないか、頭が痛くなってきた。

[Narration] 本当に頭痛を感じているように、天京院が顔をしかめる。

[Anri] ほんとのことなのに。

[Tenkyouin] いいから黙ってくれ。

[Tenkyouin] 夜中に押し掛けてきたと思えば、人を見て勝手なことばかり……。なにか重要な手がかりを見つけたからここに来たんじゃないのかい?

[Anri] いや、ちょっとかなえさんのコーヒーが飲みたくなっただけ。捜査の方は、えーと、まあまあ?

[Tenkyouin] はぁ……。

[Narration] 今度こそ、聞こえるようにはっきりと、天京院はため息をつく。

[Anri] なにごとも、適度に休憩をはさむ方がいいんだよ。

[Tenkyouin] 同感だね。そう思ったから、今日はもう寝ようと思ったのに、誰かさんのおかげで……。

[Anri] あー! かなえさん! これなに!?

[Tenkyouin] 頼むから、あたしのいやみを聞いてくれ。……なんだい、それは。

[Narration] 杏里が隙間もないほど物で埋め尽くされたテーブルの上からかき出してきたそれに、天京院は目をやる。

[Narration] 杏里の指先にひっかけられた、小ぶりのバスケット。その中に、色鮮やかな液体を満たした小さな瓶が数個、転がっている。

[Anri] なにって……、ペディキュアのセットだよね、これ。

[Tenkyouin] それは知ってるが……、杏里が持ってきたんじゃ、ない、よな?

[Anri] ずいぶん深く埋まっていたけど? これ。

[Tenkyouin] 深く埋まっていた物を掘り出さないでくれ。

[Tenkyouin] ……あたしのじゃないな。生まれてこの方、足の爪に気をつかったことなんかないからね。

[Tenkyouin] ニコル・ジラルドかな? それとも、きみの友達のあのメイドか……。この部屋に入ってくるのは杏里を除いたら、そのくらいだからね。

[Anri] うーん……、イライザの好みとは、ちょっとちがう色かな? ブランドも、彼女がいつも使っているのとはちょっとちがうみたいだし。

[Anri] かと言って、ニコルというのも……。あ、でも待てよ……。

[Tenkyouin] やれやれ。

[Narration] 籠の中身とにらめっこしながら一人ごちる杏里を見下ろして、天京院はまた、ため息をつく。今度は少し、ニュアンスを変えて。

[Tenkyouin] 心当たりがあるなら、返してやってくれ。まったく、勝手に人の部屋に入ってきて忘れ物なんて……。

[Anri] ねぇ、かなえさん。

[Tenkyouin] なんだい?

[Narration] 声をかけてきた杏里の顔を見て、天京院は嫌な予感にとらわれる。そしてそれは……。

[Anri] これ、せっかくだからつけてあげるよ、かなえさん!

[Narration] これ以上ないくらい、正確に的中した。

[Tenkyouin] な、何を言ってるんだ!見たところ新品だぞ? それを勝手に……。

[Anri] ちがうよ、かなえさん、これはきっと、かなえさんのだよ!

[Tenkyouin] はぁ!? 冗談じゃない。あたしはそんなものを買った憶えは……。

[Anri] ちちちっ! わかんないのかな、かなえさん。これを買ったのは、たぶんニコル。彼女が気に入りそうなブランドのだからね。

[Anri] でも、ちょっと似合わない色だよね。ニコルもそれに気づいた。

[Anri] これは自分には似合わないって。ああ見えて、けっこう決める時はおしゃれに決めるからね、ニコルは。

[Anri] 買った化粧品が自分に似合わないと知った時ほど、腹立たしいものはないよ! ニコルもちょっと自分が許せなかった。

[Anri] だけど、もし、自分よりその化粧品が似合う友達が他にいたらどう? 押しつけてしまえば、少しは腹の虫もおさまるじゃないか!

[Anri] そう考えて、ニコルはこのかなえさんの部屋を訪れ、ひとしきり楽しい時をコーヒーとともに過ごした後、このかなえさんへのプレゼントを置いて……。

[Tenkyouin] 待て、ちょっと待てってば!

[Narration] そう止めながらも、杏里の言葉は、どこか天京院の記憶の中にひっかかる。それはつまり、そんなことをこの部屋でニコルが言った可能性が十分にあるということだ。

[Narration] だがしかし、そんなことは知ったことではない。断言していい、足の爪にエナメルをつけることが、天京院の私生活や研究になんの関係がある?

[Tenkyouin] ……たいした推理力じゃないか。なんであたしが杏里に知恵を貸してなきゃいけないんだ……?

[Anri] ねねね! この色だったらきっとかなえさんに似合うよ! ニコルの失敗を救うためにも、つけてみようよ、かなえさん!

[Tenkyouin] 彼女が忘れていったという可能性を否定せずに、推理を結ぶんじゃない!

[Tenkyouin] 第一、あたしはペディキュアなんてつけたことは……。

[Anri] 心配ないよ! ボクがかなえさんの足の爪を、この上なく美しく仕上げて見せるよ!

[Tenkyouin] な……。

[Anri] さ、場所を交代しよう! このカウチに座って座って!

[Narration] 目を輝かせている杏里を見て、天京院はもはや、止めようがないことを悟る。そして、今日一番のため息をつく。

[Tenkyouin] まったく……、人の言うことを聞きやしない……。

[Narration] 脱力したように、カウチに沈み込む。勢いがつきすぎて、カウチに積んであった本のいくつかが、床に散らばる。

[Narration] そのうちのひとつを拾い上げて、差し挟んであったしおりとは無関係のページを開く。

[Tenkyouin] わかった。あたしは本でも読んでるよ。その間、あたしの足の爪を好きにするがいい。

[Anri] まかせてよ!

[Anri] 楽にしてていいからね。あ、でも、足は動かさないでほしいな。

[Tenkyouin] はいはい。

[Narration] カウチの側、カーペットの上に直に座り込んだ杏里が、やけくそ気味に投げ出した天京院の足を手に取る。

[Narration] 足首の裏側をすくいあげた杏里の指先の冷たさが、一瞬、天京院の背をかける。

[Tenkyouin] (足首と指先、体温の差だ……。個人差もある)

[Anri] ちょっとくすぐったいかもしれないけど、がまんしてね。

[Tenkyouin] 難しいことを言うな。……ひわっ!? な、なにをした?

[Narration] 本を下げて、杏里と足下を見る。足の指と指をいきなり開かれたからだ。

[Anri] セパレーターをつけてるんだよ。指と指がくっつかないように広げておくんだ。足の指をずっと、パーのままにしておくのってたいへんでしょ?

[Narration] 足の指と指の間を、適度に広げて固定するための、硬いスポンジ製の器具。

[Narration] なるほど、さっき杏里に見せられた時は、なんのための道具かわからなかったが、謎がひとつ解けた。

[Anri] ワオ、適度にのびててきれいな爪だね。

[Tenkyouin] 嫌味か?

[Anri] この場合はほめてるんだよ。

[Narration] 弾くような爪切りの音が響く。爪をカットして、エメリーボードで形を整える。

[Tenkyouin] ……手慣れてるな。

[Anri] そう?

[Narration] つま先に集中していた杏里が顔を上げたので、天京院は慌てて、持っていた本で顔を隠す。

[Tenkyouin] 自分でもするのか?

[Anri] してあげるんだよ!

[Narration] 本越しに、ひどく無邪気な杏里の言葉が返ってくる。

[Tenkyouin] ……ああ、そうか。

[Anri] してもらうこともあるよ! 前にニコルと遊んだ時は、ネールアートもやってみた!

[Anri] その時は、ニコルの親指に、パパの顔を描いてあげた瞬間に、塗りつぶされちゃった。

[Narration] アルコールで爪を拭きながら、杏里の楽しげな言葉は続いていく。

[Anri] ニキには時々、してあげるな。ペディキュアしてるあいだはずっと、お人形さんみたいに動かないんだ。それがとてもかわいい!

[Anri] 時々、わざとくすぐってあげると、ピクってして、もっとかわいい!

[Anri] ネールアートといえば、アンシャーリーのが芸術的だよ! すっごい幾何学的な模様がびっしりと入っていて、なにがどうとか、さっぱりわからないんだ!

[Narration] 時々、ああ、とか、そうか、という天京院のあいづちをはさんで、杏里の話は続いていく。

[Anri] イライザはねー、よくやってもらうことはあるんだけど、させてくれることはないんだ。なんかうまくかわされちゃって。

[Anri] 一度聞いてみたんだ、どうしてって。そしたら……。

[Anri] 『杏里様に足をとってもらうなんて……』って言って、恥ずかしがるんだ。気にしなくていいのにって言ったらね……。

[Anri] 『昔を思い出して、踏んづけてしまったらどうしましょう』って、小声で! 気にしなくていいのにって言ってあげたんだけどね!

[Narration] 杏里のとめどもないおしゃべりのあいだにも、天京院の足の爪にベースコートが塗られる。わずかにはみだし、皮膚に触れると感じる鈍い揮発の感触。

[Tenkyouin] ん……。

[Anri] あ、ちょっとはみ出たかな? ごめん。

[Tenkyouin] いや、気にしなくていい。

[Anri] すぐとれるよ。それでね……。

[Narration] 天京院と話しながらも、左手の指にはさんでいた綿棒やスティックを器用に入れ替えて、杏里は天京院のつま先を変えていく。

[Anri] はい、下ごしらえ、おわり!

[Tenkyouin] けっこう手順があるものなんだな。

[Anri] 直接、爪にペディキュアを塗っちゃうと、でこぼこになったり、色がついたりしちゃうんだって。

[Tenkyouin] ふーん。……誰から教わったんだい?

[Anri] ニコルと、クローエかな?

[Narration] 杏里は、バスケットに手を伸ばし、緋色の液体を満たした小瓶をつまみ上げる。

[Anri] クローエは速いよ、塗るの。さささってやっちゃうんだ。

[Narration] 蓋にくっついた小さな刷毛に、色鮮やかな重い液体がからまる。杏里はそれを、天京院の爪に、慎重に狙いを定める。

[Tenkyouin] きみが遅いんじゃないのか?

[Narration] 集中しているようなので、意地悪のつもりで、声をかけてみる。

[Anri] だって、はみ出したらいやじゃないかな?なんとなくもったいないし。

[Anri] クローエは、おかまいなしみたいだけどさ。

[Narration] 感心したことに、集中をとかずに杏里は答えた。ひたりと、小指の爪に刷毛があてられ、すっとペディキュアがひかれる。

[Narration] まずは爪の中央に、そして、その右側、左側。爪一つ分、塗りおえて、杏里は息をついた。

[Tenkyouin] 人それぞれってことか。

[Anri] そうだね! ヘレナなんかね、前に寝てる時にこっそりやってあけたら、起きて気づいた時に大パニックでね!

[Anri] もう、これどうやってとるのって大慌て!マニキュアと一緒だって教えてあげるまで、気づかなかったみたいで。

[Anri] それ以降は、ペディキュアのぺの字を出すだけで、いけませんって。勉学に必要のない物を学園に持ち込むんじゃダメってさ。

[Tenkyouin] ……半分だけ同意するよ。そんなもの、研究には必要ないね。

[Anri] ……できたーっ!

[Narration] 声と同時に、杏里が両手を高く突き上げた。杏里の指先からスティックや綿棒がはね飛び、周囲に落下する。

[Tenkyouin] やれやれ、やっと終わったか。

[Narration] 安堵の息をもらし、天京院はほとんど読み進めることのなかった本を閉じる。

[Tenkyouin] これでようやく、コーヒーのお代わりが……。

[Anri] あーっと、ダメダメ!

[Narration] 立ち上がりかけた天京院を、杏里が制止する。

[Anri] ペディキュアが乾くまで、セパレーターは外しちゃダメだよ、かなえさん。指が重なると、くっついちゃうからね。

[Tenkyouin] な、おい……。

[Anri] 心配しなくても、そんなに時間はかからないけどさ。でも、もうちょっとだけ待ってね。

[Anri] でも、うん、せっかくだから、しばらく落とさないでほしいな。

[Anri] なんていうか、今まででいちばん、うまく塗れた気がするよ。さすがはかなえさんのおみ足だね!

[Anri] しろくて、細くて、すべすべで……。今までボクがさわってきた中で、5本の指に入るほどのアキレス腱だったよ!

[Anri] 指もつま先ももちろん、文句なし! でも、足の指の場合、白魚に例えるのもどうだろう?

[Anri] ともかく、今日はかなえさんの足の優美なることとその感触を思い出しながら寝ることにするよ。うん、たまには親友のことを思いながら眠りにつくのも悪くないよね!

[Anri] ……帰り際に、ヘレナに会ったりしなかったら、だけど。

[Anri] じゃあね、おやすみ! かなえさん!

[Narration] ……よほど、その出来映えが気に入ったのか、有頂天でまくし立てると、杏里は来た時同様、疾風のように部屋から消えていった。

[Narration] なかばから呆然と杏里の言葉を聞いていた天京院は、ドアが閉じた音と同時に、カウチの中にへたり込み、沈み込む。

[Tenkyouin] ……やれやれ、なんてやつだ……。

[Narration] かろうじて、そうつぶやくと……。

[Narration] ゆっくりと眠りの中に落ちていった。

[Narration] 翌朝、天京院は、昨夜、杏里が微妙にアシストした部屋の散らかり具合に困惑を強いられることになる。

[Narration] 眠気の中で曖昧になった前夜の記憶をたどりつつ、つま先を鮮やかに彩ったペディキュアの除光液を探す。

[Narration] およそ、2時間ほどの格闘の末、目当てのものはきっと、前夜の闖入者が持ち帰ったにちがいないと結論した。

[Tenkyouin] まぁ、除光液くらい、つくるのはわけないが……。

[Narration] 寝椅子に座り込み、ぼんやりとつま先を眺めやる。頭の中で仕上げられつつあった除光液の組成式が、昨夜の記憶に駆逐されていく。

[Tenkyouin] まぁ、いいか。しばらくはこのままで……。

sapphism_no_gensou/2811.txt · Last modified: 2013/06/01 22:49 (external edit)