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sapphism_no_gensou:2192

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[Narration] アルマは杏里に背を向けるようにして立つと、樹の幹にそっと手をあてた。

[Alma] わたし、この学園に入学して、とてもショックなことがいくつもあったんです。

[Anri] ……ショックなこと?

[Alma] はい……。

[Anri] まあそりゃ……色んな意味で、ここは普通の学校じゃないからね。

[Alma] いいえ、そうじゃありません。

[Narration] 彼女にしては珍しく、どこかためらいがちな声だった。

[Narration] 先を続けたものかどうか──逡巡しながら話している。そんな感じだったのである。

[Alma] ここは、わたしにとって、初めての学校なんです。

[Anri] はじめて……?

[Alma] わたし、小さい頃は体が弱くて、学校にちゃんと通えなかったんです。

[Alma] そのために、父が家庭教師をつけてくださいました。だから勉強はいつも自分のお部屋で、先生とわたしのふたりだけ……。

[Alma] こうして、お友達と一緒に教室で勉強するというのに、すごく憧れていたんです。

[Anri] そうなの……?ボクなんか、わざわざ一ヶ所に集まって同じことしなくてもいいと思うけどな。

[Narration] 杏里はもとより集団行動に向かない。それに、ごく自然にそれを強要されてきた彼女には、それを羨ましがる気持ちが──理解はできても、共感はできなかった。

[Alma] でも……。

[Narration] だが、アルマの方も気分を害した様子はなかった。それより、もっと重大な何かを告白しようかどうか、じっと考えているように見える。

[Narration] 杏里も黙って待つ。しばらくしてアルマの口からこぼれたのは、予想外の言葉だった。

[Alma] 杏里様、わたし、ヘンな娘ですよね?

[Anri] 変わった個性を持っていてかわいい娘だな……とは思ってるよ。

[Anri] ヘンなんて言ったら、なんていうのかな、悪い意味みたいじゃない。

[Narration] アルマは悲しげに首を振った。

[Alma] わたし、行っていないのは学校だけじゃないんです。

[Alma] 生まれてから、家の外に出たことだって、数えるほどしかない……。

[Anri] ──えっ?

[Narration] さすがに今度はびっくりして、杏里も言葉を失った。先を促そうと押し黙る。

[Alma] それだけじゃありません。テレビやラジオは禁じられていたし、映画や本も父の許してくれたものしか、見せてもらえませんでした。

[Anri] ………………。

[Alma] わたし、この学校に来るまで同年代のお友達も居なかったし、雑誌だって読んだこともなかったんですよ。

[Alma] 本と同じように、勝手にお友達をつくることも禁じられていたんです……。

[Anri] それは……うん、ちょっと、普通じゃないかもしれないね……。

[Narration] 徹底的に情報から隔離された少女。その閉ざされた情報がいかに膨大であったかは、まさしくアルマをみていればわかる。

[Narration] つまり彼女は、そう生まれついたのではなく、そう育てられたのだ。

[Narration] さすがにそれは、杏里にも衝撃だった。

[Anri] それは、アルマのお父さんが?

[Alma] ……はい。

[Anri] どうして……そんなことをしたんだろう?

[Alma] 父は、よく言っていました。世の中には悪い知識がいっぱいあって、そうしたものに触れた人間は、生まれがどんなに清らかであっても黒く染まってしまうのだと……。

[Alma] だからわたしには、清く正しい知識しか与えたくないのだと……。

[Anri] それは……けど、いくらなんでも余計なお世話というものじゃないのかな?

[Narration] 杏里の脳裏を、言いたいことがいくつもかすめ……結局、ごく無難な言葉しか出てこなかった。

[Narration] 彼女は呆れてしまったのである。

[Anri] ボクはアルマのお父さんを知らないけど、そこまで他人を管理するなんて、さぞ立派な人なんだろうね?

[Narration] 嫌味ではなく、心底興味を感じて杏里は訊ねてみた。彼女がイメージしたのは、すべてを善と悪、黒と白にわけて厳しく正しい道を行く鋼のような頑固者だった。

[Narration] しかし、アルマは──。

[Alma] そう……だと、わたしも思っていました。

[Narration] しゅん、とうなだれてしまう。

[Anri] 違うの?

[Alma] 杏里様……これからするお話は、誰にもしないと約束していただけませんか?

[Anri] 誰にも? かなえさんや、ソヨンにも?

[Alma] はい……。

[Narration] 何を話すつもりかはわからなかったが、少なくともアルマにとっては重大な告白らしい。

[Narration] 杏里はアルマの背を見つめ、彼女から見えていないのを知りながらも、力強く頷いた。

[Anri] いいよ、わかった。ボクは結構おしゃべりな方だけど、約束なら絶対に守るさ。

[Anri] いまここで聞く事は誰にも言わないと、誇りにかけて誓う。

[Alma] ……ありがとうございます。

[Narration] いくぶん緊張をやわらげて、アルマは先を続けた。

[Alma] ここは、これまでのわたしの生活に比べたら、信じられないほど自由でした。

[Alma] 本も、映画も、自由に見られます。お友達とだって、好きなようにおしゃべりが出来ます……。

[Alma] だから

……

わかってしまったんです。

[Narration] 肩を落とした後ろ姿が、いよいよ大切な部分であることを予想させた。

[Narration] 杏里は先を続けさせるため、勇気づけるように優しく言う。

[Anri] わかった……?いったい、どんなことが?

[Alma] わたしは……。

[Alma] わたしは、お父様に騙されていたんです!

[Narration] 叫ぶような苦しげな告白に、杏里は眉根を寄せて考え込んだ。

[Narration] アルマの方はその言葉に自分自身傷ついたらしく、すぐには言葉を続ける気力も出てこないようだ。

[Anri] 騙されてた……うーん……。

[Narration] 沈黙の緊迫感に耐えられず、杏里は口を開いた。

[Anri] 本当のお父さんじゃなかった……とか?

[Narration] 言ってから内容に後悔したが、アルマは力無く首を振った。

[Alma] いいえ……もっと、ずっと色々なことを。

[Anri] 色々なこと……。よくわからないんだけど具体的に、どんな風に騙されていたの?

[Narration] ヘタに元気づけるより、言いたいことを全部言わせてすっきりさせた方がいい──と直感的に判断して、杏里はあくまで先を促した。

[Narration] ……しかし、アルマから返ってきた答えは杏里を本当に混乱させた。

[Alma] 杏里様、農薬って人体に有害なのを知っておられましたか?

[Anri] ──え? 農薬……?うん、そりゃ、体に悪いだろうねぇ。

[Alma] 環境保護団体が、ネオナチスの手先なんかではないことは?

[Anri] ……環境保護とナチスに何の関係が?

[Alma] 日本では木の箸が足らなくて、毎年たくさんの子供がごはんを食べられず飢えているというのも……やっぱり嘘ですよね?

[Anri] 箸がなくたっていくらでも他のもので──いやアルマ、なんなんだ、その話は?

[Anri] まさか、それがキミの、騙されていたっていう……?

[Alma] ……はい……そうです。

[Narration] アルマは、ぽかんと間抜けな顔をする杏里には気づかなかった。

[Alma] 家を出て、はじめて知りました。お父様は本当は、金の亡者というものらしいのです。

[Alma] お金を儲けるために、人に恨まれるようなこともたくさんしていて……。

[Alma] でも、わたしにそれを知られたくなかったのですね。

[Alma] お父様は、自分のしていることを正しいことだとわたしに思いこませようとして、わたしに嘘をついていたのです。

[Anri] ……それが、さっきの話?

[Alma] はい。

[Narration] 天京院あたりが聞いていたなら、親も馬鹿なら子も馬鹿だ、と断言したことだろう。

[Narration] そんな無茶な嘘を通して、信じさせるため娘を軟禁同様に育てたアルマの父親の精神構造が杏里にはまったく理解不能だったし──。

[Narration] それに騙されつづけてきたアルマの迂闊さも、本人のショックとは裏腹に冗談にしか聞こえない。

[Narration] もっとも周囲がいくら笑い話と思っても、そんな理由で一度しかない人生を歪められた本人にしてみれば、これは悲劇としか言いようがないだろう。

[Anri] じゃあ、アルマはお父さんの仕事が正しいことだと思うような嘘をたくさん教えられていた……と、いうこと?

[Alma] わたしも、まだ勉強不足で、何が本当で何が嘘か、よくわからないのですけど……。

[Narration] アルマは、この数ヶ月、図書館に通って得た知識を思い起こした。

[Alma] やはり、木を伐採しないと世界の森林化が進んで人の住める場所がなくなるというのは、嘘じゃないかと思いますし……。

[Alma] だから、環境保護を推奨する人が、世界の森林化をもくろむテロリストだというのも間違っているのではないかと……。

[Anri] あー、うん。そうだねぇ……。

[Narration] さすがに何処から説明したものか判断つきかねて、杏里はあいまいに答えた。

[Anri] でも、そんなお父さんが、よくキミをここに入学させてくれたね。

[Alma] はい、わたしもちょっと不思議なんです。

[Alma] もう何年も前から普通の学校へ行きたいと頼んでおりましたけれど、ずっとまだ早いと反対されていましたのに……。

[Anri] ふぅ〜ん……。

[Narration] ──それで、あんなお目付役がついたのか。

[Narration] 杏里は、ウェルズのやりすぎとしか思えない干渉を思い出した。あれは、アルマの父親の命令なのだろう。

[Narration] だとすれば、アルマの父親はこれまでの行動を悔い改め、彼女を自由にしようとしているわけではないのだ。

[Narration] この学園に入学を許した理由が、やはりわからなかった。

[Narration] なにしろここは絶海に隔離された学園とはいえ、多国籍の年頃の少女が異性の目もなく集められているとあって、

[Narration] 正直、モラルにおいてはあまり厳しくない──というのが、ここの学生たちの共通認識だったのである。

[Anri] でも、おかげでボクはアルマと出会えたわけだし……。

[Anri] アルマが学校に来られたのだって良いことなんだから、別に勘繰る必要はないか。

[Narration] あるいは、ここが本当はどういうところなのか、アルマの父親はまったく知らなかったのかもしれない。

[Alma] はい、わたしもこの学園に入学できたのは本当に嬉しく思います。

[Alma] 初めての学校、初めてのお友達、初めての自由……。

[Narration] 感極まったように呟く。

[Alma] 本当に

……なんて素晴らしい……。

[Narration] そんなアルマの様子を見て、杏里は以前、自分が彼女を「囚われのお姫様」と呼んだことがあるのを思い出していた。

[Narration] あれはすると、比喩ではなかったわけだ。

[Alma] わたし、父のことは愛していますし、騙されていたと知っても、嫌いにはなれないんです。

[Narration] アルマの口振りは、いくぶん気が楽になったように思えた。

[Alma] ただ、なんだかショックで……でも、誰かに聞いてもらうのも恥ずかしくて……。

[Alma] どうしてかしら、杏里様なら、笑わないで聞いてくださるんじゃないかと思ったんです。

[Anri] 光栄だよ、アルマ。

[Narration] 確かにこんな話を噂好きの多いこの船で誰かに流したら、アルマは笑い話の主役として一躍有名人になるに違いない。

[Narration] だが、杏里はこの話を──多少は呆れたが──笑う気にはならなかったし、アルマを可愛いと思う気持ちはむしろ強まっていた。

[Anri] うん……やっぱりボクは、これは運命だと思う。

[Alma] え……、杏里様?

[Narration] 杏里は、すべるようにアルマの背後へ近寄っていた。

[Anri] ボクがアルマと出会ったのは、偶然なんかじゃない。

[Anri] きっと、アルマに新しい世界を開くために遣わされたんだ……。

[Alma] 新しい……世界……?

[Narration] 杏里の瞳はアルマへの愛おしさと、よこしまな茶目っ気に輝いていたが、幸いにと言うべきか、アルマには見えなかった。

[Anri] 新世界はいつだって輝きと怖れに満ちているけれど、心配ないよ、ボクがついてる。さあアルマ、愛について存分に語り合おう。

[Narration] 杏里がそっとアルマの肩を押そうとした、その時──。

sapphism_no_gensou/2192.txt · Last modified: 2018/05/22 17:15 (external edit)