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sapphism_no_gensou:2191

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[Anri] う〜、眩しい……。

[Narration] 徹夜明けのくらくらする頭を振りながら、杏里は大きく伸びをした。

[Narration] 体力には自信のある方だったが、さすがに表情に疲労の色は濃い。

[Narration] それでも、いつもの陽気な調子だけは、いささかも損なわれてはいなかった。

[Anri] 若い娘がふたり一緒に夜を過ごしながら、一晩中博打に興じるなんて、実に不健康だと思わない?

[Nicolle] ……なに言ってんだい。

[Narration] 杏里に負けず劣らず疲れた顔のニコルが、ぶちぶちと不平を言う。

[Nicolle] 結局杏里のひとり勝ちだったじゃないか。

[Anri] えーと、ひのふの……ひと晩で、プラス200ニコルだね。

[Nicolle] 189だよ、サバ読むな。

[Narration] ニコルとの賭け勝負に使用している単位をざっと計算して、杏里は不敵に微笑んだ。

[Narration] 負け分を体で支払う、杏里とニコルの間にだけ成立している単位だ。

[Anri] 勝ち分の払い戻しはまた今度ってことにしよう。次はぜひ、あま〜い愛の言葉を囁いて欲しいなあ。

[Nicolle] ぶるるっ!そーいうの苦手なんだって、あたしは!

[Anri] だからいいんじゃないか。じゃあ、ね。お疲れさま、ニコル。

[Nicolle] ううう……なんであそこから、牡丹と紅葉がかえるかな。

[Anri] セ・ラ・ビ、だよ。これもまた運命だと思おうじゃないか。

[Nicolle] ……きっと杏里の背中にゃ、バクチの神様がとりついてるに違いない!

[Anri] だったら、きっとかわいい年下の女神様だろうね。

[Narration] 貯め込んだ「ニコル」と引き替えに何を要求しようかという楽しい想像でにやけながら、杏里はその場を後にした。

[Nicolle] 次は勝つからな!勝ち逃げすんなよっ!

[Anri] はいはーい。

[Anri] (さて、今日は日曜日か。どこで食事にしようかな?)

[Narration] 日曜の朝だけに、まだこの辺りにはひとけがない。

[Narration] 購買部通りのカフェやレストランが開くのにも、もう少し時間があった。

[Anri] (散歩でもして時間をつぶそうか)

[Narration] ──んっ、ともう一度背伸びをして、杏里は甲板上へつながる階段へ足を向けた。

[Narration] 散歩コースとして人気の高い遊歩道にも、まだ人の姿は見えなかった。

[Narration] 背の高い木々に囲まれた歩道は、潮の香りさえしなければ、とても船の上とは思えない趣を見せている。

[Narration] こうした大がかりな仕掛けにすっかりなれた杏里でも、時にそれを思い出すと、感嘆とも呆れともつかない気分がかすめる。

[Anri] ああ、今日もいい天気だ。

[Narration] 学園長の気まぐれから嵐に飛び込んだりもするが、基本的に船は晴れ間を縫って航海しているので、天気の悪さに悩まされることは少ない。

[Narration] 日差しは強い──いまの杏里にはちょっと強すぎた──が、気持ちのいい朝であることは間違いない。

[Anri] ……1時間ぐらいで、おばちゃんカフェのモーニングが始まるな。

[Narration] やや庶民的な──すなわち杏里好みの──味を提供することで知られる軽食コーナーは、人のいいマスターの様子から「おばちゃんカフェ」と呼ばれていた。

[Narration] 船内にある店の中では開店の早い方だが、さすがにまだ時間はある。

[Narration] それまで、しばらくぶらぶらして時間をつぶそうか……と踏み出したところへ、背後から涼やかな声がかけられた。

[Alma] ──杏里様?

[Alma] おはようございます。杏里様、お早いのですね。

[Narration] 丁寧の上にヘタをすれば馬鹿がつくいつもの調子で、アルマは優雅に一礼した。

[Anri] ボンジュール!ああ、太陽が黄色いね、アルマ。

[Alma] え?

[Anri] ううん、こっちの話さ。

[Narration] 首をひと振り。それで、睡眠不足の疲れた顔は吹き飛んだ。満面の笑みをたたえてアルマに向き直る。

[Anri] こんな天気のいい朝に、偶然キミとふたりきりになれるなんて……これもきっと、運命のなされることなんだろう。

[Narration] ついさっき博打の勝敗に使われた運命が、今度はキューピッドの役目である。

[Narration] そんなこと、杏里はちっとも気にしなかった。

[Anri] 不思議だねアルマ、キミのことを考えていただけで、こうして出会うことができる。神さまはどうして、ボクらをこうも近づけたがるのだろう?

[Narration] ついさっき考えていたのは、本当はアルマのことではなく、モーニングの卵を目玉焼きにするかスクランブルエッグにするかという重大な問題だったのだが──。

[Narration] 当然、杏里の口調にも態度にも、それを思わせるようなものは全くない。

[Anri] ……きっと、深い意味があるんだろうね?

[Alma] ええ杏里様、めずらしい偶然ですわね。

[Narration] 身も蓋もなく断言され、杏里はにっりしたまま頭を垂れた。

[Anri] ロマンを解してくれないなあ……。

[Narration] 杏里は不満だったが、アルマの方は、同じ船にいる友人と出会うことに運命を感じるいわれはなかろう。

[Anri] まあ、こうしてアルマと会えたんだから、偶然でも何でもいいや。それに──。

[Anri] お邪魔虫は本当にいないみたいだね。ウェルズさんはどうしたんだろう、海にでも落ちたかい?

[Narration] 杏里にとって天敵である頑固婦人の姿は、明らかに見えない。

[Anri] まさか、ここぞというタイミングを計らって、茂みにでも隠れているんじゃあるまいね。

[Alma] いえ、ひとりですよ。

[Alma] ウェルズさん、日曜日はいつもお昼過ぎまでお休みなんです。

[Alma] 仕事熱心な方ですから、疲れていらっしゃるのでしょうね。

[Anri] ……あぁ、そう。

[Narration] そういえば、週末は深夜まで船倉賭博が盛んである。よくやる──とは、ニコル相手に徹夜した杏里に言えたものではない。

[Anri] ……すると正真正銘のふたりっきりということじゃないか!

[Alma] 何かいいことがありましたの?

[Anri] もちろん。誰にも邪魔されないで、キミとおしゃべりできるんだもの!

[Alma] ──まあ、そうですね。

[Narration] 杏里につられてアルマも微笑み返したが、言外の下心について理解しているとは思えなかった。

[Narration] 杏里は、アルマの歩く速さにあわせて隣りに並んだ。

[Anri] よくここを使うの?

[Alma] はい。海もいいですけれど、やっぱりわたし、樹が好きなんです。

[Alma] ここだと、あまり森の匂い……というわけにはいきませんけど。

[Anri] 海の上だからね。

[Narration] アルマの故郷は、森と湖の国だ。

[Narration] それを思い出して、杏里は彼女の顔をのぞき込んだ。

[Anri] ひょっとして、ホームシックとか感じているのかい? もしそうなら、ボクが全身全霊を込めて慰めてあげるけど?

[Alma] あっ、いえ、そんなんじゃありません。ただわたし、ほとんど家から出ないで生活していたから……。

[Alma] わたしの家って森の中に建っているんです。だから、樹に囲まれていると落ち着く気がして。

[Anri] ……森の中?

[Alma] 小さな山の上なんですよ。

[Narration] アルマは思い出すように目を閉じた。

[Alma] 周りを森に囲まれていて、広いお庭にも、植木がたくさん並んでいるんです。

[Anri] そっか、本当に森の中に住まうお姫様だったわけだ。

[Anri] じゃあ、住んでるのはお城だね。

[Alma] まあ、杏里様ったら。普通のおうちですよ。

[Narration] ふたりは声をたてて笑ったが、実のところ杏里の言葉は比喩でもなんでもなく、アルマの台詞は謙遜もいいところだった。

[Narration] ようするに庶民的な少女時代を過ごしてきた杏里と、本物のお嬢様生活をしていたアルマには、それぞれの認識に天と地ほどの差があったのである。

[Alma] 杏里様のおうちって、どんなところですの?

[Anri] うち? うちは、普通だよ。

[Narration] 彼女には珍しく、苦笑いしながら杏里は答えた。

[Anri] ボクはもともと金持ち──というか、そんなすごい家に生まれ育ったわけじゃないからね。

[Anri] こんな学園に来られるようになったのも、居ると聞かされてただけで、会ったこともなかった父親のおかげだし。

[Alma] ……え?

[Anri] ボクは母親に、女手ひとつで育てられたのさ。

[Alma] まあ、そうなのですか。

[Alma] ……わたしは、母が居ないんです。

[Anri] あ……、そうなの。

[Narration] 杏里の笑顔が気まずく曇ったが、アルマは静かに首を振った。

[Alma] いえ、別にいいんです。物心ついた時にはもう居ませんでしたから。

[Alma] ただ、お父様も忙しい人だったので、小さい頃は寂しい思いもしましたけど。

[Anri] そうか……ボクの母もあまり家に居る人ではなかったけど、ボクは活発な子供だったからねぇ。

[Narration] 杏里は自分の少女時代を、かなり控えめに評して言った。

[Alma] お友達も多かったんでしょうね。

[Anri] 普通じゃないかな?いや、むしろ友達は少なかったかも……。

[Narration] 自宅や廃工場の秘密基地で何をしていたか思い返すと、アレはあまり友達づきあいと呼べるものではない気がした。

[Anri] うん、まあ、若気の至りというか……青春の甘酸っぱい思い出というか……。

[Alma] ……わたしは……。

[Narration] ふと、アルマは歩みを止めて、杏里に背を向ける格好になった。

[Anri] ……?

sapphism_no_gensou/2191.txt · Last modified: 2018/05/22 17:15 (external edit)