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sapphism_no_gensou:1371

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[Narration] ほぼ一週間ぶりに、天京院の部屋に杏里が姿を現した。

[Tenkyouin] しばらく顔を見なかったね、杏里。

[Anri] ボクも久々にコーヒーの香りをかいだよ。

[Anri] かなえさんたら、ボクのことちっとも心配してくれなかったのかい?

[Tenkyouin] 落ち込んだのは、きみの勝手だ。だったら、立ち直るのも勝手にするだろうと思ってな。

[Anri] 信頼されるているのか、放置されているのか?

[Anri] もっとも、かなえさんが心配そうな顔をして、つきっきりで看病してくれたりなんかしたら、治るものも治らないような……

[Tenkyouin] なんだって……? フッ……少しは元の杏里に戻ってきたみたいだな。

[Anri] うん。いつまでも、イライザにご飯食べさせてもらっているわけにもいかないし。

[Tenkyouin] そんなことまでさせていたのか。

[Anri] かなえさん……ソヨン……は?

[Tenkyouin] 一度だけ、顔を出したな。

[Anri] えっ?

[Tenkyouin] 別に、あたしに会いに来たわけじゃない。ヤーンを見に来たのさ。

[Anri] ……ヤーン?

[Narration] 天京院はポケットで寝ていた子猫をひょいとつまみあげた。

[Narration] マーブル模様の子猫は、ここどこ……? とでも言わんばかりに目をしぱしぱさせている。

[Tenkyouin] そう、ヤーン。この子の名前だよ。ソヨンに名付け親になってもらった。

[Tenkyouin] い、言っておくが、まだヤーンをあたしが飼うことに賛成しているわけじゃないぞ。

[Tenkyouin] 適当な飼い主が見つかり次第、とっとと連れていってくれ。いいね?

[Anri] それじゃ、はじめようか。

[Tenkyouin] コラ、無視するな!

[Tenkyouin] ……まったく。

[Tenkyouin] それにだ。何を言ってるんだ、きみは。

[Tenkyouin] 今週は、きみはボーッとしてただけで何もしてやいないじゃないか。

[Anri] そう、それが問題なんだ。どうしたらいいと思う?

[Tenkyouin] どうしようも何も、過ぎ去った時間が戻るわけじゃあるまいに?

[Tenkyouin] しかしながらだ。きみはよい後輩を持った。

[Anri] え?

[Tenkyouin] ビジターズだよ。彼女たちなりに、この事件を解決するべく努力してみたんだ。

[Tenkyouin] 残念ながらというか、当然というか、たいした成果は得られなかったが……

[Anri] そんなっ……危険じゃないか?

[Anri] ……なんて……誰も護れなかったボクが言えた義理じゃないか……

[Tenkyouin] きみはあくまでソヨンを護るのが仕事だ。それも、まだ終わっていない。

[Anri] ……ボクは時々、かなえさんが怖くなるよ……

[Anri] ビジターズは何を……?

[Tenkyouin] レイチェルを追ってもらった。

[Tenkyouin] あの子たちなら、まずレイチェルに警戒されることはない。

[Tenkyouin] これまでの事件の傾向から言っても、間違って襲われることも無いと踏んだ。

[Tenkyouin] 適任だったんだよ。

[Anri] ……わかった。

[Anri] でも、かなえさん。レイチェル先生がやっぱり怪しいんだね?

[Tenkyouin] そうだ……おおっと!いきり立つんじゃ無い!

[Anri] レイチェル先生を?どうして?

[Tenkyouin] ……そりゃ……彼女が犯人だからだ。言わなかったっけ?

[Anri] き、聞いてないけど。

[Tenkyouin] ……………………

[Anri] ………………

[Tenkyouin] …………ご、ごめん、忘れてた。

[Anri] かなえさん!どうしてそんな重大なことを!

[Tenkyouin] いや、すまん。ホントすまん。

[Tenkyouin] そう確信するに至ったのは、ハッキングで得られたデータを解析してからなんだ。

[Tenkyouin] それにしても、今週に入ってからだったが。

[Anri] ボクらが子猫を押しつけたりしたせいだね……

[Tenkyouin] ……まあ、悔やんでも仕方ない。それに……

[Tenkyouin] ……実は、杏里とソヨンには、言いづらかった。

[Tenkyouin] もし、あたしの口から犯人だ、なんて言ったら、その足で飛んでいきそうだったからな。

[Anri] 今からでも遅くないよ!ボクは教員室に行く!

[Tenkyouin] ダメだ。これだけは許可するわけにいかない。明日まで待て!

[Anri] …………ッ!

[Tenkyouin] 杏里ッ!

[Narration] 杏里は歯がみしながらも、また居住まいを正した。

[Tenkyouin] まあ、安心したまえ。明日になれば。

[Anri] 明日? 日曜日かい?それって、もうボクの下船の前日だよ?

[Anri] それに、あしたはビジターズを送り出す、ガラパーティが行われる日じゃないか。

[Tenkyouin] あたしも出席する。

[Anri] かなえさんが? そんな場所に?珍しい……

[Anri] 何か考えがあるんだね?

[Tenkyouin] ああ。別にドレスを着たりはしない。

[Anri] ううん、そんな天変地異は期待してないよ。

[Tenkyouin] …………

[Anri] ただ……ソヨンは、パーティに来るだろうか?

[Tenkyouin] どうだろう……。顔も合わせづらかろうが、それよりけじめを重んじるのも彼女の性分だ。

[Tenkyouin] ヤーンの件でもそれが分かる。

[Tenkyouin] ビジターズに別れを告げるためにもパーティには現れると思うよ。

[Tenkyouin] 彼女の心中までは、あたしも、はかりかねる。

[Anri] …………

[Narration] ───その晩。杏里は大好きな風呂にも1時間しか浸からず、大いに苦悩していた。

[Narration] 天京院が太鼓判を押してはくれたものの、本当に自分の嫌疑が晴らせるのかどうか、不安は尽きない。

[Narration] 結局、すべてが無駄に終わり、船を降りることになったら……

[Narration] 胸にのぼるのは、もちろんソヨンへの想いだった。

[Narration] 明日、パーティの席で会えなければ、もはや一生の別れとなるだろう。

[Narration] このまま顔を会わさぬまま、船を降りてしまっていいのだろうか?

[Anri] (こんな形でサヨナラだなんて…… いいわけない!)

[Anri] (いつまでも、過ぎたことを後悔し ながら、うじうじしているなんて、 杏里・アンリエットらしくないぞ!)

[Anri] (杏里・アンリエットは、くよくよしない!)

[Anri] (たとえ地獄に堕ちようとも、 自分の心に嘘をついたりはしない!)

[Narration] 杏里は決心した。

[Narration] スラックスに皮のベルトを通し、一番きつい位置でバックルを止める。上着をさっと回転させ、制服に袖を通す。

[Narration] もうこの制服を着るのも、今日明日限りかもしれないと思うと、急に愛着が湧いてきた。

[Narration] 扉を開けて廊下に出ると、暗い廊下に人影があった。

[Anri] レイチェル先生……っ?

[Rachel] ちょっといいかしら?

[Narration] 自分はカヤの外にあって、ほとんど気づかなかったが、この一週間というもの、船の中はガラパーティの準備で、色々とあわただしかったようだ。

[Narration] ビジターを送り出すガラパーティは、最初こそおごそかな雰囲気で始まるものの、最後は必ず、羽目をはずしまくった馬鹿騒ぎとなって幕が引かれる。

[Narration] ビジターも学生も、教師も船員も、PSたちですら、わけへだてなくパーティに加わって、開放的な一夜を過ごす。

[Narration] 船内には、それを見越して準備された、仮装の衣装や、出し物の大道具や、横断幕があちらこちらに見かけられた。

[Narration] それらのすべてが明日のパーティを夢見て眠りについている。

[Anri] お話しって、なんですか?

[Narration] 海の見える温室へと、レイチェルは杏里を誘った。

[Narration] 用心しようにも、あからさまな誘い過ぎて無理がある。なにか武器でも?───それも変だ。

[Narration] 見たところレイチェルは───いつものように不要な荷物を抱えていたが───害を成そうというようには、とても見えない。

[Narration] 元々、対面したいと考えていたこともあって、杏里はレイチェルに従った。

[Narration] 天京院に釘を刺された、とにかく明日を待て、という言葉を胸にとどめて───

[Narration] 杏里には、目の前のレイチェルの意図が予想すらつかない。

[Narration] 単刀直入に切り出すほかない。

[Narration] レイチェルはいつものように、親しみのある、ともすると馴れ馴れしいくらいの調子で杏里に語りかけた。

[Rachel] あのね、あなたに謝らないといけないと思って。

[Anri] ……先生がボクに謝られる理由がわかりませんが。

[Rachel] あなたをかばいきれなかったことを、担任の教師として謝りたいの。

[Anri] なんだ、そんなことですか。大丈夫ですよ。

[Anri] ボクはこの船を降りたりしません。

[Narration] これが他の者であったら、相手に挑戦として伝わったのだろうが、杏里が口にすると、あまりに堂々として事実を述べているようにしか聞こえない。

[Rachel] まあ……じゃあ婦女暴行犯を───真犯人を見つけることが?

[Anri] ええ。ボクだけの力ではありませんけれど。

[Rachel] よかったら、教えてくれるかしら?犯人の名前を。

[Anri] それは───

[Narration] 喉元にまで「あなたです」という言葉がのぼってきたが、とっさに脳裏に天京院の顔がよぎった。

[Anri] い、言えないんです。

[Rachel] あら、秘密?先生にだけ教えてくれないかしら?

[Anri] ごめんなさい。それだけは、出来ないんです。約束ですから。

[Anri] 明日お話しいたします。学園長が言った猶予期間は、明日のパーティまでですしね。

[Rachel] ……そうなの? 先生、悲しいわ。

[Anri] 先生。

[Rachel] でもいいの!

[Anri] わっ!

[Rachel] うん。先生、明日を楽しみにしておくわね?

[Anri] は、はい……

[Anri] (ああ、びっくりした…… ……犯されるかと思った)

[Anri] お、お話はそれだけですか?

[Rachel] うん。本題は。

[Rachel] でも、よければもうちょっとお話しない?

[Anri] ……いいですよ?

[Rachel] 杏里さんは、お父様の申し出があって入学されたのよね?

[Anri] ええ。ボクの身上話ですか……

[Anri] 母が亡くなって、しばらくは独りで暮らしていましたが、学校の卒業も近づいて、さて行き場所も無くなった、どうしようと思っていたところへ……

[Anri] ボクの父だと話す男性から連絡があって、ポーラースターに行けと。

[Anri] 父と会うのは初めてで、それも港で5分くらい話しただけです。あとは連絡船を乗り継いで、この学園に。

[Anri] 最初はびっくりしましたよ。

[Anri] 金持ちの美女がいっぱいいる、という噂だけは聞いていましたが、まさか海の上に浮かぶ学園だったなんて。

[Rachel] お父様をどう思ってらっしゃるの?

[Anri] もちろん、学費を出してくれていることには感謝していますよ。

[Anri] ずっと母とボクを放っておいた償いのつもりなのかと思うこともあります。けれど、どうなんだろ?

[Anri] その後、父について聞きかじった噂をまとめると、どうやら気まぐれの産物だったんじゃないかと……

[Rachel] 愛情をかけられなかったことを、怒ってらっしゃる?

[Anri] いいえ? ぜんぜん。この学園の水とボクはよく合いましたから、それについても感謝してます。

[Anri] ボクの身上話ばかりじゃないですか。先生のことも教えてくださいよ。

[Rachel] あら……嬉しいわ。

[Anri] え?

[Rachel] 杏里さんが、ほんの些細なことでも私に興味を持ってくださったのって、初めてなのよ?

[Anri] そうでしたっけ?

[Rachel] そうなのっ! いー、だ。

[Anri] アハハっ、子供みたいだ。

[Rachel] ……フフ。

[Rachel] 先生はね、この船に乗るのが夢だったのよ。

[Narration] レイチェルは、自分が学園教師になるまでの経緯を、杏里に語った。

[Narration] レイチェルがポーラースターに登用されたのは、まさしく幸運が重なったためだった。

[Narration] ポーラスターは、学園船というその特殊すぎる環境もあって、なにかと海にゆかりのある学科が充実していた。

[Narration] レイチェルの専門である『環太平洋史』なども、世界的に見ても、非常にマイナーな教科であった。

[Narration] 教科だけは設立当時から用意されておきながら、それを教えるはずの教員がいなかった。

[Narration] かててくわえて、ポーラースターは女性のみが乗船を許される船だ。

[Narration] ソフィアのように、学園長の縁故で乗船しているほとんどお飾りの教師もいるが、地位も名誉も無い者にとっては、教師としての高い実能力を持つことが要求された。

[Narration] そういった事情の中で、たまたま、教員試験をクリアして学園に赴任したのが、レイチェル・フォックスだった。

[Rachel] 先生はね、この学園の教師では一番歳が若いんですよ? 最年少教師なのです。えっへん。

[Narration] レイチェルは鼻高々に話すが、杏里はすでに話に飽きはじめて、葉っぱで遊んだりしている。

[Anri] へぇー、全然知りませんでした(棒読み)。

[Anri] ……それって、ボクら、セカンドの担任をされているのとも関係が?

[Rachel] 大事なお嬢様たちを預かる仕事でしょ?担任って、とっても大変なのよ?

[Rachel] ……でも、それも今年かぎりなの。

[Anri] え?

[Rachel] セカンドはね、どちらかといえば閑職なの。

[Rachel] いきなりポーラースターに入学させられて、不慣れな皆さんを導くファーストクラスや───

[Rachel] 社交界に通用するように皆様方を送り出さなくちゃならないサードに比べたら、重要さはずっと下がるから……

[Anri] 確かにみんなダラけてますね。

[Rachel] 若い先生をつけて、適当に人気を取ろうとする、指導部の戦略なの。

[Anri] ははぁ、なんとなくわかりました。

[Rachel] でも、わたし、学生の親御さんにいっつも怒られてばかりで……うううう……

[Anri] 若いから信用が無いとか。

[Rachel] それもあるけど……杏里さん、あなたのせいもあるのよ?

[Anri] え、ボクの?

[Narration] よもや自分とレイチェルの評価に接点があろうなどとは、杏里は露とも思っていなかった。

[Rachel] でも……いいの!

[Anri] わあッ!

[Anri] (だ、だから心臓に悪いって……)

[Rachel] 可愛い女の子たちといっぱいお話ししたり、慕われたり、とっても楽しい一年間でしたもの!

[Anri] 先生はなんでもプラス志向なんですね。

[Rachel] そうよ?

[Narration] ───レイチェルと杏里はその後、何事もなく別れ、温室を後にした。

[Rachel] おやすみなさい、杏里さん。明日のパーティが楽しみね?

[Narration] レイチェルはにこやかに手を振って去っていった。

[Narration] 担任教師であるレイチェルと、こんなに話し込んだのはもちろん初めのことだった。

[Narration] 決して悪い教師には思えなかった。むしろ好感が持てる。

[Narration] その彼女を、明日、告発しなければならないのかと思うと杏里は胸が痛んだ。

[Anri] ずいぶん話し込んでしまった……

[Narration] 杏里は、ソヨンの部屋の前まで来てぴたりと止まった。

[Narration] いつでも、なんの抵抗もなくしていたノックに、今はひどく勇気がいる。

[Narration] それでも杏里は、ノッカーを掴んだ。

[Narration] 程なくして扉が開く。

[Anri] ソ……

[Chloe] あら、杏里。何か用?

[Narration] クローエは廊下に出てくると、後ろ手に扉をしめてしまった。

[Anri] あっ……ああっ……閉まっちゃった。

[Anri] えっと……なんだか久しぶりだね、クローエ。

[Chloe] ふぬけた杏里なんて見たくもないもの。

[Chloe] でも……その様子だと、すこしは立ち直れたようね。

[Anri] みんなの愛の力で復活できたのさ。これこそまさに愛の奇跡だ。

[Chloe] 奇跡なんてないわ。原因と結果があるだけ。

[Anri] 信徒たるきみとは思えない言葉だね。ボクらがこうして出逢ったことこそ既に奇跡だと思うのだけれど……

[Chloe] 偶然よ。

[Chloe] ……ソヨンだったら会わないわよ。

[Anri] そこを何とか。

[Chloe] 駄目よ。

[Narration] クローエは冷たく言い放った。

[Anri] それは、ソヨンが決める。

[Chloe] ソヨンがそう言っているの。

[Anri] ……クローエ。

[Narration] 杏里は黒髪の少女の瞳をじっと見据えた。しかし、クローエは唇をきつく結んで首を振った。

[Chloe] 杏里。あなたの気持ちがわからないわたしだと思う?

[Chloe] あなたがソヨンを渇望しているのは百も承知よ。

[Chloe] でも今、あの子には静寂が必要なのよ。そっとしておいてあげなさい。

[Chloe] 例え、あなたが明日を最後に船を降りる身だとしてもよ。

[Anri] …………わかったよ。

[Anri] ソヨンは、ガラパーティには……?

[Chloe] 出ると言っているわ。あなたも当然出席するのだから、ソヨンも覚悟を決めたということでしょう。

[Chloe] どうしても話をしたければ、その時にしなさい。

[Chloe] あたしだってアルマ・ハミルトンのことではショックを受けているの。

[Chloe] 今のわたしはその償いでここにいるの。だらしない誰かさんに代わって、ソヨンを守らなければいけないから。

[Anri] …………ごめん、クローエ。ボクは本当に、この一週間、どうかしていたよ。

[Anri] ボクですらなかったと思う。

[Narration] クローエはようやくきつい表情をゆるめ、ため息をついた。

[Chloe] ……安心なさい。今晩は、私もここに泊まるから。

[Anri] そっか、それなら……

[Anri] ありがとうクローエ。心から感謝しているよ。くれぐれも、気をつけて。

[Chloe] ええ。

[Chloe] 案の定、杏里だったわ。

[Narration] ベットに腰かけていたソヨンが、クローエを見上げる。

[Chloe] もう行ったけど。これでよかったの?

[Soyeon] …………はい。

[Narration] 煮え切らないソヨンに、クローエは腰に手をおいて息をついた。

[Chloe] ふぅ……意地を張るのもいいけれど、悔いが残らないようにしなさい。

[Chloe] もし杏里に伝えたいことがあるなら、明日が最後のチャンスよ。

[Soyeon] …………。

sapphism_no_gensou/1371.txt · Last modified: 2018/05/22 17:15 (external edit)