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sapphism_no_gensou:1283

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[Narration] 夜のせせらぎに、杏里は一人立つ。

[Narration] 青い瞳の奥に、水鏡に反射した星の輝きがまたたく。

[Narration] 人気のないプールでは、いたる場所で水が噴出し、モザイク張りの床面や、扇形に広がる階段の上に、平坦な流れをつくりながら、ゆったりと循環している。

[Narration] 吸い込まれるような夜空は、空にも地の水鏡にも分け隔てなく広がり、古代の遺跡を、星の海のただなかへと浮かびあがらせていた。

[Narration] ぴょんと飛び石を渡って近道をした杏里は、プール中央のやや高くなった石壇の上にやって来ると、一息ついて腰をおろした。

[Anri] ……ここがいい。ここなら見晴らしもいいし、寝そべっていれば、逆に、他からは見つかりにくい。と思う。

[Narration] ころんとその場に横になった杏里は、腕まくらをして見上げた空の深さに、一時、心を奪われた。

[Anri] …………っ…………なんて……綺麗なんだろう……

[Anri] ソヨンと一緒に見られたら……もっと綺麗だったろう……

[Narration] むらむらと都合のいい妄想を働かせる杏里は、かぶりを振る。

[Anri] いや、いけない! まじめにやらなきゃ。ソヨンにもかなえさんにも申し訳が立たない!

[Anri] この場所を犯人が通るはずなんだ……今夜こそ、今夜こそ、終わりにするんだ!

[Narration] 時々場所を移しながら、プールのあちらこちらへ目を利かせる杏里だったが……

[Anri] ……あきた……

[Narration] まだ10分も経過していない。

[Anri] ……ヒマだなぁ……動かないでいると、ここもだんだん寒くなってきたし……

[Anri] ……だいたいボクには、張り込みなんて地道な仕事は向いてないんだよ……

[Narration] かといって満足な推理もできないのだが。

[Anri] ……はぁ……早く来ないかなぁ……レイプ犯の人……

[Narration] そしていつしかまた、杏里の想いは一人の少女へと戻っていった。

[Narration] みあげる夜空に、次々と少女の豊かな表情が浮かびあがる。

[Anri] はぁ……可愛かったなァ……パンツまるみえで……チョゴリの帯が脚の合間でゆらゆら揺れて……猫のしっぽみたいだった……

[Anri] ……はぁぁぁぁ…………あんまり焦らされると……こっちがどうにかなっちゃいそう……

[Soyeon] 杏里さ〜ん……

[Narration] 深いため息をつく杏里の耳に、かぼそい声が届いた。

[Soyeon] ……杏里さ〜ん……

[Anri] ……

[Soyeon] ……あ〜んり〜さ〜〜〜〜ん……

[Anri] ……はぁ……ソヨン……

[Anri] ……ついに幻聴まで……いよいよボクの恋わずらいも、本物になったかな……

[Soyeon] 杏里さ〜〜ん…………きゃっ!

[Narration] ───ごつっ!

[Soyeon] ううっ……痛いよぉ……

[Anri] …………

[Soyeon] うううっ……杏里さぁ〜〜ん………どこにおられるんですか〜〜…………

[Soyeon] あっ……!

[Narration] ごつっ!

[Narration] またもや鈍い音。

[Anri] ……え?

[Narration] 目をぱちくりさせながら、杏里はようやく自分の耳を信じる気になってきた。

[Narration] あくまでもかぼそいが、確かにその声は───

[Anri] ソヨン。

[Narration] 杏里はざっと立ち上がった。

[Soyeon] ……杏里さ〜〜ん……

[Soyeon] あ───ん───り───……さ…ん……

[Soyeon] ……ぐすっ……やっぱりいないのかな……でも、もう……どうやって戻ればいいか、わからなくなっちゃった……

[Soyeon] 杏里さん……お願い……返事をして……あたし……怖い……です…………きゃっ

[Narration] ばしゃっと、音がして、ソヨンの靴先は浅い水面に浸された。ひんやりとした感触が足の裏をなでていく。

[Narration] たちまち、がくがくと震えがかけあがり、ソヨンはその場にへたりこみそうになる。

[Soyeon] ……杏里さ……ん……あたし、あたし……ううっ……ぅぅぅ……

[Anri] ───ソヨン!

[Soyeon] ……杏里さん……!?

[Narration] かたく目をつぶったまま、ソヨンは杏里の声に敏感に反応した。

[Anri] ソヨン! ……どうして!

[Soyeon] ああッ……杏里さァん!

[Narration] ソヨンはやはり目を閉じたまま、ばしゃばしゃと水を蹴立て、杏里の声に向かって駆けだした。

[Anri] あっ……危ないよソヨン!

[Narration] 杏里は石の段差の上から、膝ほどの深さの水面へと飛び降り、転倒する寸前のソヨンをしっかりと抱きとめた。

[Soyeon] 杏里さん、杏里さんですねっ……!?杏里さんですよね!?

[Anri] そうだよ、ソヨン、杏里・アンリエットだ!

[Soyeon] ……ああ、よかったぁ……

[Narration] ソヨンは杏里の胸に顔をうずめた。杏里はその体の冷たさにはっとする。

[Anri] ソヨン……こんなにずぶぬれに……それに、あちこち体をぶつけてるじゃないか……まさか……ここまで目をつぶって?

[Narration] 固く瞼を閉ざしたまま、ソヨンは頷いた。

[Soyeon] はいっ……杏里さんに逢いたくて……

[Narration] そんな少女の無謀をとがめるより、ずっとずっと強い感情の奔流が、杏里の胸中にあふれ出していた。

[Narration] この広大なプールの敷地を、目を閉じたまま抜けきる自信も、勇気も、杏里には無い。

[Narration] 深みにはまり、溺れる恐怖に負け、引き返す以前に、絶対に目を開いてしまっただろう。

[Narration] あれほど水面を恐怖していたソヨンなら、なおさらのことだ。

[Narration] 杏里の胸の奥はじんと熱くなった。

[Anri] ……冷たかったろう……

[Soyeon] ……無我夢中だったんです……天京院先輩の部屋にいたら、急に、胸がしめつけられるみたいに、心細くなって……

[Soyeon] 気がついたら、部屋を飛び出していました……このまま杏里さんがいなくなってしまいそうな、そんな気がして……

[Anri] 大丈夫。ボクはここにいる。星の海の下で、ソヨンを抱きしめてる。心配することなんて何もないさ。

[Soyeon] はい……よかった……あとで……天京院先輩に謝らないと……

[Anri] かなえさんは、ちゃんと解ってくれるよ……

[Narration] 緊張がとぎれたのか、今になってソヨンはようやく体をふるわせはじめた。

[Narration] 杏里はそんなソヨンの頭に手を置き、さっと上着を脱いで少女の肩へと羽織らせた。

[Narration] 白い制服がふわりとうきあがり、天使の羽のように少女の背に舞い降りた。

[Anri] どう……もう寒くない……?

[Soyeon] はい……あったかい……。杏里さんに包まれているみたいです……

[Anri] くすっ……みたい、じゃないさ?もう本当に平気だから、目を開けてごらんよ。ソヨン。

[Soyeon] は……はい……

[Narration] ソヨンの睫毛の先がふるえる。ほんのうっすらと開きかけていたのに、またすぐに固くつむり直してしまう、少女の瞼。

[Soyeon] ……ご……ごめんなさい……やっぱり……あたし……

[Anri] うん……いいさ……こうして、いつまでもボクの腕の中においで。

[Soyeon] ……ごめんなさい……杏里さん。とても自分が足でまといになっているって、わかります。でも……

[Anri] いいよ、ソヨン。きみのしていることはちっとも間違ってなんかいない……

[Anri] キミとこの場にいられるだけで、ボクがどれだけ勇気づけられているか知れない。

[Soyeon] ……はい……

[Narration] 杏里はソヨンと同じように目を閉じた。

[Narration] 抱き合う二人を、静かなせせらぎの音が包んだ。

[Anri] ……ソヨン、あの時、牧場で聞きそびれてしまったことを、もう一度聞かせてほしいんだ……

[Soyeon] …………ハイ……

[Anri] ボクはキミを愛している。だから、キミを抱きたい。───キミは?

[Soyeon] …………っ……!

[Narration] ぴくっとソヨンが震える。

[Anri] 無粋な制服ごしにじゃなく、じかにキミと肌を触れ合わせて、一つになりたい。キミが嫌なら、決して無理強いはしない。

[Soyeon] ……でも杏里さん。あたしたち女同士です……

[Anri] ……うん。確かに、大概の人からみたら、おかしな事かもしれない。でもボクは……ソヨン、キミの本当の気持ちを知りたいんだ……

[Anri] 絶対に近寄ることのなかったこの場所へ、きみが来てくれた。それを、このボクがどんなに嬉しく思っているか……暗闇の中を、あちこち体をぶつけてまで……

[Anri] そうさ、ソヨン……時には盲目になることも必要なんだ。

[Anri] 人の良かれという言葉に従っているだけじゃ、一歩も進めなくなってしまう時があるんだよ?

[Anri] ボクらは自由なんだ。この世の中に、しちゃいけない事なんて、本当は何もない。

[Anri] 神も、法も、正義も、道徳も、この世のはじまりから在ったわけじゃない、誰かがそう望んで作っただけさ。

[Anri] ボクはこう、信じている。この世にしてはいけないことが在るとしたら、たった一つだけ───

[Anri] それは自分の愛に裏切りをはたらくこと……

[Anri] おのれの愛を裏切るのは、生まれてこなかったも同じさ。生きながら死んでいるも同じなんだ。

[Anri] キミを愛している。キミを抱きたい。キミの体中に、くまなくキスの花束を送りたい。

[Anri] 自分の本当の心を見つめて……聞かせてソヨン……

[Narration] ソヨンは杏里を傷つけないよう、ごくゆっくりと、体を離しその場に立った……

sapphism_no_gensou/1283.txt · Last modified: 2018/05/22 17:15 (external edit)