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sapphism_no_gensou:1251

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[Narration] 息せきながら追いついた杏里の鼻先で、恐ろしい音を立て扉が閉じられた。

[Narration] 同時にがっしりと錠前が降ろされる。

[Anri] ……ニキっ……!

[Narration] 室内からは、バンッバンッと、ヒステリックに、両手で家具を叩きつける音が届いた。

[Narration] やがて、家具を叩く音に代わって聞こえてきたのは、雷鳴のような鍵盤の和音だった。

[Narration] 壊れんばかりの、鍵盤の猛打は、まさしく嵐のようだった。厚い防音材を挟んで外にいる杏里さえ、その勢いにたじろいだ。

[Narration] 何事かと、周囲の部屋から次々とお嬢様たちが顔を出す。

[Anri] ……ニキ! ニキッ!!

[Narration] 扉にすがる杏里の願いも、今度ばかりは聞き届けられることも無いようだった。

[Narration] いったい何本の腕があったら、これだけの音の洪水を作り出せるのだろう。ピアノは、ニキ・バルトレッティの一部となり、全身で絶叫していた。

[Narration] 遠巻きに取り囲むお嬢様たちは、耳を聾する圧倒的な旋律に、恐怖の色を浮かべながら、またアンリエットが騒動を?と眉をしかめた。

[Young ladies] フォルテッシモ?(ごく強く)フォルテッシシモ?(できるだけ強く)

[Young ladies] ……違いますわ、みなさん。これは、アディラート(激怒して)。

[Narration] お嬢様はしたり顔で説明する。

[Narration] やがて例によってPSが顔を出す。

[Narration] 周辺住民から苦情が出ている。そう耳を押さえてがなりたてるPSに、杏里は逆に喰ってかかった。

[Anri] ボクだって、止めたいんだ!何とかしろって……どうすればいい!ボクに教えてくれよ!

[Anri] 船内機器にまで、不調が出ているだって!?そんなのボクが知るもんかっ!!

[Narration] 食器を下げる配膳車を押して前をとおりがかったイライザは、ニキの部屋の扉にもたれ、膝をかかえてうずくまっている杏里に気づいた。

[Narration] 何オクターブにも渡って吹き荒れた嵐はすでに去り、とびらの向こうからは、とつとつとむせび泣くような、メロディが聞こえていた。

[Narration] 杏里自身は、呼びかけ疲れたのか、寝入ってしまったようだ。その頬に、涙の跡を残したまま。

[Narration] ははぁ……と肩をすくめたイライザは、いったん姿を消すと、校章が入った毛布を手にしてまた現れた。

[Eliza] 自業自得ですわね……杏里さま……せめて、お風邪を召しませんように……

[Narration] 夜がふけ、毛布にくるまって座す杏里は、ピアノとは異なる物音に目を覚ました。

[Narration] 扉が内側に開いた。

[Narration] よろめいた杏里が手をつくと、そこにニキの革靴があった。

[Narration] 真っ赤に目を泣き腫らしたニキが、微妙に視線をはずしながら、こちらを見下ろしている。

[Anri] …………

[Narration] ニキが何を語るのか、杏里は床に腰をつけたまま、慎重に見守った。

[Narration] 灰色の髪の少女は、足下に目を落としたまま、握りしめたこぶしを開いて、手話のサインを形づくろうとした。

[Narration] だが、何かを伝え、表現しようとするそのたびに、唇を噛みしめて、また手をこぶしへと戻してしまう。

[Anri] ……まだ、怒っているのかい。

[Narration] ニキは小さくうなずく。

[Anri] ……ごめんよ……ニキ。

[Anri] ボクも、何て言ったらいいのか……許してなんて言えないけど……

[Anri] ここにいるだけで、じゅうぶんだから……ただ……そばに居させてもらえるだけで……

[Niki] …………

[Narration] ニキはゆっくり首を振りながら、指をバツの字にあわせる。

[Anri] ……そっか……ごめん……

[Anri] 本当にずうずうしいお願いだったね……悪い……ボク、部屋に戻るよ……

[Narration] 立ち上がった杏里のそでを、ニキがぐっと引いた。

[Narration] 不思議そうに杏里が振り返ると、今度はぶんぶんと思い切り首を振りながら、ニキはまた指でバツの字を作る。

[Anri] どうしたの……? 違う……?

[Anri] ボクのことは、もう怒っていないの? さっきは確かにそうだったけど、もう充分、怒ったって……?

[Anri] 腹を立てていたのは……自分自身に……?

[Niki] …………し……

[Niki] ………り………た……

[Anri] ニキ……

[Narration] 壮絶な努力を払い、ニキは言葉を口にのぼらせようとしている。

[Narration] 杏里はそれを、おのれが奮い立つ思いで見守った。

[Niki] ……た……し……

[Niki] ……わ…た……し…………杏里…に……なり……たい……

[Anri] ボク……に……?

[Narration] ニキは、マッチを擦ると、アロマキャンドルに火を灯した。

[Narration] ほの暗い明かりだけになった部屋で、二人は長い影をゆらめかせながら向かい合う。

[Anri] この香りの中だと……落ちつくんだね……

[Niki] イラン…イラン…………と……いう…香り……です……

[Anri] ……知っているよ……花々の中の花、という意味の、マレーの言葉が元なんだ。

[Niki] …知ら……なかっ…た……

[Anri] うん。ボクも、バスコロン以外で香りをかぐのは初めて。こんなに甘い香りだったんだね……

[Narration] 濃密な甘い香りが充満していく。二人は知らなかったが、それは催淫剤としても使われることのある、愛のエッセンスだった。

[Anri] ニキ……ボクになりたいって……?

[Niki] …………っ……

[Narration] つい手を動かしてしまいそうになるニキは、意を決し、おずおずと両手を杏里に差し出した。

[Narration] その仕草に杏里は見覚えがある。

[Narration] 杏里は頷き、その手を優しく包みこんだ。

[Narration] そうして深い安堵の息を吐くと、ニキは、またたどたどしき語りだした。

[Niki] 杏里が……誰か……と仲良くして……いる……だけで……それだけで……とても苦し……く……なるの……

[Anri] ……でもボクは、ニキだって……

[Narration] ニキはぶるぶると首を振った。

[Niki] ちがう……ちが……うの……

[Niki] そんなの……本当……は……いや……みんなを好き……に……なれ……たら……いいの……に……

[Niki] なのに……とて……も荒々し……い……気持……ちに……なってしま……うの……

[Niki] ……で……もっ……!杏里…が……杏里……でなかっ……たら………わた……し……は……杏里……と……出逢わ……なかっ……た……きっと……

[Niki] 杏里が……杏里でなか……ったら……杏里……は誰かの……もの……だった…………きっとッ!

[Niki] だか……ら……杏里は……杏里は誰……を……好きになって……も……いい…の…………

[Narration] ニキの顔は沈み、言葉はまた小さくなっていく。

[Niki] ……杏里…は……悪く……ない……悪いの…は……杏里…を許せ……ない…………わた…し……

[Anri] ニキ………………

[Anri] ニキ……それは、違うよ。

[Narration] 杏里の手の中で、ニキがこわばった。首をぎくしゃくさせながら、杏里をちらちらと盗み見る。

[Narration] また、おびえているのだ。

[Anri] そんなの……辛いだけだよ……

[Anri] ……たとえば……正義は人の数だけあるという。けれど、だからって、いちいち他の人の正義を認めていたら、自分の正義なんか、なくなってしまうんだ。

[Anri] ボクは、それは違うと思う。

[Niki] ……っ……

[Narration] ニキは自分が杏里に握らせた指をふりほどこうとした。

[Narration] しかし包み込んだその手は、鋼鉄のように固く閉じ、逃げることを許さない。

[Niki] ……っ…………っ……!!

[Anri] ニキ……キミはボクを独占したいんだ……ボクの子猫ちゃんたちに、嫉妬しているんだよ……

[Narration] ニキの顔はかああっと赤くなった。無我夢中で腕を振りまわし暴れるが、杏里はやはり離そうとはしない。

[Anri] でも、その気持ちを……迷惑どころかボクは嬉しくすら思うのさ……残酷かもしれないけれど……本当なんだ……それが、杏里・アンリエットなんだよ……そして……

[Anri] ニキ……きみはとびきり、わがままで、焼きモチ焼きな子なんだ……

[Anri] それは全然いけないことじゃない……キミの、自然な魅力なんだ……隠して、押しつぶそうとしたりしなくていいんだ……

[Anri] 逃げないで、その怒りをボクにぶつけて……ボクはね、もう、キミを絶対に逃がしたりなんかしないんだから……

[Niki] フッ! フーッ……フーッ……!!

[Narration] 猫のように髪を逆立て、食いしばった歯から威嚇の唸り声をあげるニキ。

[Narration] どうしても杏里が腕を離さないと知ると、今度は自分の額を、何度も何度も、杏里の胸や顎へとぶつけてきた。

[Narration] 杏里はそのつたない抗議を、じっと耐えながら受け止めていた。

[Niki] フっ……うっ……うううっ……!!

[Anri] ニ……キ?……痛っ……!

[Narration] 突き上げたニキの頭突きで、何か言いかけようとした杏里の唇が切れた。

[Narration] ぽつり、ぽつりと床に血がしたたっていく。制服にも血がにじんだ。

[Niki] あっ……あん……り……ッ……!

[Narration] たちまち蒼白になるニキに、杏里は安心させるように微笑んだ。

[Anri] 大丈夫だよ……このくらい……ちょっと血が出ただけ……

[Niki] あ……あっ…………

[Anri] あ……ニキ……

[Narration] ニキはそのまま、杏里にのしかかるように迫った。自然と二人の手はほどける。

[Narration] 杏里は抵抗せず、押し倒されるように、しりもちをついた。またがるようにして身を乗り出したニキは、ぺろぺろと杏里の唇を熱心になめあげた。

[Anri] ん……くすぐったいよ、ニキ…………もう、大丈夫だから……

[Niki] ん……っ……ん……んんっ……

[Anri] ありがと……本当に、もう大丈夫だから、ね?ほら……血も止まった……

[Narration] ニキは杏里の肩に手を置いて、不安そうに顔を近づけた。

[Niki] ごめん……な……さい……杏里……わた…し……こんなふうに…すぐ……

[Anri] いいんだって……

[Anri] でもね……ニキ……もしキミが、本当に心の底から変わりたいと願うなら……ボクは、キミをいつでも支えるからね?

[Narration] 揺るぎのない杏里の瞳に見据えられ、ニキは熱いものがこみあげてきた。

[Niki] わた…し……やっ…ぱり……杏里……みたいに……なりた……い……

[Anri] …………うん。

[Niki] 大変……だと……思う……けど……でも…毎日……すこしずつで……いいから……変わり……たいっ……!

[Niki] 明るい……自分に……誰とでも……おはなし……できる……自分……に……

[Anri] ……うん……なれるよニキ。きっとなれる。

[Anri] きみが望む自分になれる日が、きっと来るさ!

[Narration] 杏里もまた、ニキの肩にしっかりと手を置いて励ます。

[Narration] 歓喜が全身に満ちわたり、痺れたようになったニキは、恍惚の表情で杏里に唇を重ねた。

sapphism_no_gensou/1251.txt · Last modified: 2018/05/22 17:15 (external edit)