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sapphism_no_gensou:1123

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[Narration] ───十数分後、二人は馬上の人となっていた。

[Narration] 広葉樹の並木に囲まれた、牧場のただなかを二頭が行く。

[Narration] 小柄なソヨンは、杏里と一つの鞍を分け、手綱を握る腕の合間にすっぽりと収まっていた。

[Soyeon] わぁ……っ

[Anri] どう?

[Narration] 緊張と歓喜の入り交じった、なんともいえない表情で、ソヨンは馬上からの眺望を満喫した。

[Soyeon] もう、何ていったらいいんだろ!こんなに空が近いなんて……!

[Soyeon] すごい……感動ですよ。

[Narration] 最初、ぎごちなくバラバラに揺れていた二人は、すぐにリズムを掴みとり、馬体の大きな揺れにそろって合わせられるようになった。

[Narration] 牧場をゆっくりとまわる常足(なみあし)に馬も馴れ、片手で御せるようになると、杏里はもう一方の腕で、細い少女の体を支えた。

[Narration] 馬体のぬくもりよりもなお近く、ソヨンの吐息と鼓動が在る。

[Narration] これまでになく、ソヨンを間近に感じられる。杏里にとってもまた、感動と至福の時だった。

[Narration] 頬に心地よい風を受けながらソヨンが語りかけた。

[Soyeon] 鞍をお借りできて、よかったですね? 厩務員さん、ちょっと怒っていませんでしたか?

[Anri] そうかな? いつもあんな感じで、ぶっきらぼうだけど。別に、悪い人たちじゃないよ。

[Soyeon] でも、突然杏里さんがいなくなって、乗馬服で現れた時は、もう、びっくりしました。

[Anri] あはは。うん。ちょっとソヨンを驚かせたくなってさ。

[Soyeon] とってもお似合いですよ。いいなあ、憧れてしまいます。

[Anri] きみだってきっと似合うさ。

[Soyeon] だ、だめですよっ。あたしはこんな、小っちゃいから───

[Soyeon] 制服も、なんだかちんちんくりんで、恥ずかしいんです。

[Anri] (ははあ。授業以外を、ほとんどチョゴリで過ごしてるワケはそれか)

[Narration] しかし、チョゴリ姿をいたく気に入る杏里は、彼女を制服スタイルに目覚めさせるような事は、決して口には出さない。

[Soyeon] 杏里さん、ありがとうございます。

[Anri] なんだい?

[Soyeon] この子を一緒に連れてきてくれたじゃないですか。

[Narration] 脇を併走している、鞍を空にした馬へ二人は目を向けた。

[Anri] うん。きみが乗るはずだった馬だね。すごく気に入っていたみたいだからさ。

[Soyeon] 本当は杏里さんと並んで走れたら、最高だったろうなあ……

[Anri] とんでもない!

[Soyeon] えっ?

[Anri] いやまあ、乗馬なんてすぐ慣れるよ。要は愛情と信頼さ。

[Soyeon] そっか……この二頭も、とっても仲良しそうですよね? もしかしてカップルかな?

[Anri] うん。きっとそうだね。

[Anri] (この牧場には牝馬しかいないけど)

[Narration] もちろん口には出さない。

[Narration] たてがみに手を伸ばすソヨンを、杏里は愛おしげに見つめる。

[Narration] その姿もだんだんとかげりを帯び、見分けることが難しくなってくる。

[Anri] ああ……もう陽が見えないや。

[Narration] 丘のふちに、複雑な赤い光条が伸びていく。

[Anri] 最初から、ここで待ち合わせるようにしておけばよかったかな。

[Soyeon] ごめんなさい。あたしのせいで。できたら、カフェ以外の場所をお願いしようとしたんですけど……

[Anri] いいんだよ。ボクが強引に決めてしまったんだから。その時はすごくいいと思ってさ

[Anri] でも、ソヨン?カフェーはまだしも、すぐお隣の購買部通りにも近づけないんじゃ、いったいどうするんだい?

[Anri] 何も買い物をしないわけにもいかないだろう?

[Soyeon] それは、あの、防風シャッターの閉まった時を見はからって……

[Anri] ……閉店まぎわじゃないか。日本人とドイツ人以外の店主だったら、問答無用で追い出されるよ?

[Anri] 第一、それじゃ不便すぎる。

[Soyeon] つ、通信販売とか。

[Narration] 杏里は眉をよせた。

[Anri] 週に二便のはずが、しょっちゅう一便になったり0便になったりする配達を、待ってるって?

[Narration] 杏里がぐいぐいと額を押しつけると、少女は、いっそう小さくちぢこまった。

[Anri] ふぅ……隠したりしないで言ってくれればよかったのに。

[Anri] ボクはそんなこと全然気にしないし、むしろ喜んで協力するのに?

[Soyeon] でもあたし……杏里さんに、おかしな子だって思われたくなくて……

[Narration] ソヨンの背にまわされた腕に、ぐっと力がこもる。

[Anri] そんな事を言うソヨンこそ変だ。

[Soyeon] すみません……

[Anri] すぐ謝るのも、よくないよ。他の、箱入りに育ったお嬢様たちに比べたら、きみはちっとも変なんかじゃない。いきいきとした魅力に輝いてるよ。

[Soyeon] …………

[Anri] きみがいつも背を正して、きちんとしよう、努力家でいようとしてることは、とっても偉いと思うよ。

[Anri] けれど、いったいきみ自身は何に向かって努力しているんだい?

[Anri] ……そう。きみの夢を聞かせておくれよ。未来のファン・ソヨンの姿を。

[Anri] それがどんなに荒唐無稽なことでも、ボクは絶対に笑わないから。

[Narration] だが杏里の真剣な眼差しを避けるかのように、ソヨンはうつむいた。

[Anri] さ、ソヨン。きみの夢は?

[Soyeon] あ、あたしは……

[Soyeon] あたしは、何も、ないんです。夢なんて、ありません。

[Anri] 夢が無い?

[Soyeon] ただ、父様や、母様や、兄様たちから、家族の誇りと思われるような、立派な女性になりたいんです。

[Anri] ……よくわからないな。それは、いいお嫁さんってことかな?

[Soyeon] たぶん母は、そう願っていると思います。けど……

[Anri] 違うんだね? きみ自身はそうでは無いと。ソヨン、きみのやりたいことは他にあるんだ……

[Anri] そうだな……きみは体を動かすことが、とても好きだと言ったね。スポーツ選手に憧れたりはしないのかい?

[Soyeon] いえ……憧れるというか、格好いいとは思いますけど、自分がなりたいのとは、違います。

[Soyeon] 確かに、以前からテニスとか、ラクロスとか、スカッシュとか、あと、テコンドー……は格闘技だけど、色々なスポーツをやりました。

[Soyeon] けど……

[Anri] ……けど?

[Soyeon] あたし、いつだって、必ず二番なんです。どんなに頑張っても、一番になったことがないんです。

[Soyeon] 父様は、次はきっと一番になれるって言ってくださったのに……あたしは……一度だってその期待に、応えられたことが無いんです!

[Soyeon] 勉強なんて、もっと駄目で、もう全然っ。

[Anri] そっか……

[Anri] (万年補講のボクに比べたら全然マシだけど……そういっても安心する彼女じゃない……)

[Anri] ……自分に何ができるのか、わからないで迷っているんだね。

[Anri] でも、何か一つに定まらない、そんな自分がふがいない、とも思っている。

[Soyeon] ……はい。あたしはきっと頑張りが足りないんです。

[Anri] じゃあ、何でもいいから一番になりたい?いつまでも二番に甘んじている自分が口惜しい?

[Soyeon] ……

[Anri] それも、きっとちがう。きみは別に、人の上に立ちたいなんて欲しちゃいないんだろ?

[Anri] ただ、そうしないと、家族に認めてもらえない。それが口惜しいんだ。

[Anri] ふうん……ひどい父親だな。きみを見えない糸で、がんじがらめにしているんだ。

[Narration] すると杏里と出会って初めて、ソヨンの瞳に怒りの色が浮かんだ。

[Soyeon] いえ、父様は本当に立派な方です! あたしには、好きなことをしていい、と言ってくれました!

[Soyeon] 尊敬しています。あたしは父様の期待に応えたいんです! だから、もっとしっかりしなくちゃ駄目なんです!

[Anri] でも、そこにはきみ自身がいないじゃないか!?どうしてそんなに焦らなきゃならないんだ?

[Narration] ソヨンは燃えるような瞳で杏里を見据え、杏里もたじろぐことなく、それを受け止めた。

[Anri] はっきりした目標も無く、どうしてそんなに頑張れる? ボクにはどうしてもそこがわからないよ。

[Anri] ボクはこう思う。いつも二番だったのは、きみに才能が無かったからじゃない。

[Anri] そうして優越感を感じることに、どこか罪悪感があるからだ。違うかい?

[Soyeon] それはっ……

[Narration] ソヨンは言葉を続けられず、鞍の上に視線を落とした。

[Anri] そう……それに、まだわからないことがある。

[Anri] ソヨンはこんなに馬が好きなのに、どうして乗馬のレッスンを取らなかったの? ファーストには、その授業があるはずだ。

[Anri] 単位は取れるだけ取ったって、言っていたよね?

[Soyeon] そ、それは、伝統礼法の時間と重なっていたから……だから……っ

[Anri] 乗馬よりも、礼法の授業の方が、自分に向いていると思ったの?

[Anri] まさか。ボクの知っているソヨンは、そんなことを願ったりしない。誰にも、気さくで、気取ったりなんか絶対にしない。

[Anri] 今日出会った時のきみの横顔も、そんなことは願ってはいなかった。今では後悔している、違うかい?

[Soyeon] いいえっ、後悔なんて…………っ

[Narration] ソヨンはぎゅっと唇を噛んだ。怒りに声が詰まった。だがそれ以上に、杏里の言葉に心がゆらぎ、彼女自身、胸にうずまくものを現す言葉を失ってしまっていた。

[Anri] …………ふぅ……

[Narration] 杏里はゆっくりと息を吐くと、瞼を伏せ、もういちど今度はとても優しく、自分の額とソヨンの広いおでこを触れさせた。

[Soyeon] ……杏里さん……

[Anri] きみを責めたりするなんて……辛いよ……

[Anri] でも……きみが何か見えないもののために、自分を苦しめる様を見るのは、もっともっと辛いんだ……

[Anri] ……ごめんよ。きみの家族を悪くいうつもりは全然なかったんだ。

[Soyeon] あたしこそ……ごめんなさい。

[Soyeon] すぐカッとなって……駄目ですね……短気で……

[Anri] …………ううん、素敵だよ。

[Anri] 怒り顔は、露ほどもキミの魅力を曇らせやしない。

[Anri] 勇ましい小さなソヨン……

[Narration] しばらくの沈黙のあと、そっと額を離して、杏里が口を開いた。

[Anri] 忘れてた。きみに、お礼を言いたかったんだ

[Anri] 昨夜は……どうもありがとう、ソヨン。

[Soyeon] え?

[Narration] 両手のふさがっている杏里の前髪を直してやりながら、ソヨンはキョトンと目を丸くした。

[Anri] ほら? アルマ・ハミルトンの部屋で、付き人のオバさんから、ボクをかばってくれたろう?

[Soyeon] み、

見てらしたんですか!?

[Anri] うん。ボクも、キミと同じようにアルマに会いに行ったんだ。

[Soyeon] そうだったんですか。もう……

[Soyeon] 杏里さんには、恥ずかしいところばかり見られてます……

[Anri] あはは。ボクにも予想外だったよ。水が苦手だったり、しょっちゅうたんこぶを作ったり、こんなにそそっかしいなんて。

[Soyeon] はぁ〜……

[Narration] かあっと火照る頬を抑えたソヨンに、杏里はわなわなと全身を震わせた。

[Anri] (駄目だよソヨン。そんな顔をしたら、ボクは、ボクは───ッ)

[Anri] ソヨンッ!

[Narration] 杏里は両手でソヨンを抱きしめると、隣の馬の上に押し倒した。

[Soyeon] きゃああッ、

杏里さん!落ちますっ!

 手綱、手綱っ!

[Anri] わったたたっ!

[Narration] 夢中でキスの雨を降らせんとしていた杏里は、落馬寸前、なんとか思いとどまる。

[Narration] そんな二人のもとに、厩舎から口笛が聞こえた。

[Soyeon] あ……厩務員さんが……

[Anri] 呼んでるみたいだね。もう時間か……でも、もうすこしだけ。いい?

[Soyeon] 実はあたしも。乗馬がこんなに楽しいなんて、知りませんでした。

[Anri] くすっ、じゃ決まり───ハイヤッ!

[Narration] 併走していた馬の手綱を放すと、二人を乗せた馬は駆け足で走り出した。

sapphism_no_gensou/1123.txt · Last modified: 2013/06/01 22:49 (external edit)